側にいて、微笑んで、見つめていた。

溢れる程の優しさを、いつだってあなたに与えていた。


10.「幸せ」定義(1)


「あー」
 ――だるい。思わず声に出しかけて、慌てて口をふさいだ。意外に大きい声だったらしく、周りの二・三年にじろりと睨まれる。ペコペコ小さく頭を下げて、教科書に視線を落とした。
 七月。大会も終わってひと段落した最近、学校生活には欠かせないもの……定期テストがやってきた。一年生の内は問題も簡単だ、なんて先生みんな言っていたけれど。けれど一年生には一年生で、色々苦しみもあるのだ。今はテスト期間で部活が休みとは言え、最初のころは練習に体力がついていけなくて宿題すら出来なかったし。分からないままで来たら、いつの間にやら、意味不明の化学式。頭を抱えてもう一度、ため息を吐いた。
 つーか何?モル質量とか、確実に俺の人生に必要ないだろ。ムカついて来て、八つ当たり気味に教科書をシャーペンでつつく。ここまで分かんないのは、まぁ授業中寝てた俺のせいだってのも自覚してるけどさぁ。唇を尖らせて、視線をもう一度図書室内に巡らせた、ら。
「……っ、」
 ヤバい。俺、今日ついてるかも。視線の先には、少し離れた席で必死に勉強してる、柳先輩の姿。お団子にしてる。可愛い。部活がテスト期間になっちゃってから、しばらく会えなかったから。
 ――ふられたりもしたけれど、そう簡単に諦められる気持ちなら、最初から告白なんてしない。俺の諦めない宣言に先輩は呆れていたけれど、そんなこと、もう気にしない。他の男に取られる位なら、俺は攻めて攻めて攻めまくりたい。プレイ・私生活共にオフェンスタイプの俺には、待つなんてまだるっこしいこと出来ないから。 ふと、手元の科学の教科書に視線を落とし、もう一回、先輩を見た。
 ……確か先輩、理数系だった、よね?未だに俺の視線に気付く様子も無く、一心不乱にノートに何か書き込んでいる。
左隣は埋まってるけど、右隣は、空いてる。それに内心、ガッツポーズを決めて、バッグに荷物をまとめた。椅子を立ち、先輩の元へと近付く。
 
そうだよ!!先輩に化学教えてもらえばいいじゃん!!ナイス自分!! 我ながら名案、なんて自画自賛しながら、先輩の真後ろに立つ。その肩に手を伸ばし、
 ―ガシッ
……
触れる直前、俺の腕は、大きな手に掴まれた。どうしようもなく嫌な予感がして、恐る恐る顔を上げれば。
「……久しぶりだな、青竹?」
憎き魔王、永遠のライバル、――山元先輩が、いた。

「やー奇遇ですねー、まさか山元先輩と図書室で会うとは」
「俺だって、テスト期間くらいは勉強するわ!!」
「……山元、静かにしなさい」

 あの後、振り返った柳先輩に挨拶すれば、驚いたような視線と共に、送られた、呆れた視線。それは俺をすり抜け、背後で強い視線を周りに光らせる、山元先輩に向いていて。掴まれた腕の意味にもほどなく気付いたのだと思う。小さく手を離すように指示をした。眉間に皺を寄せながら、素直に手を離したけど、視線は俺を睨んだまま。『何の用事だ』と言わんばかりの先輩はある意味分かりやすすぎて、面白い。苦笑を小さく零した。
 ――独占欲、強すぎ。もしかしたら、それだけじゃないのかもしれない。こないだ言ったみたいに、俺が彼女のこと、傷付けるか心配なのかもしれない。けれど俺だって、先輩の心を無理矢理手にしたい訳じゃない。安心させるために笑いながら柳先輩を振り返ると、先輩も何となく、山元先輩の不機嫌の理由に気付いたのだろう。少しだけ苦笑していた。それに小さく嫉妬しながらも、目が合うと、小さく微笑まれて。何だか、それだけで幸せになれる自分が、少しおかしい。

「久々、だね?青竹くん」
「お久しぶりっす。……会いたかった」
 
素直に本音を零せば、微かに染まる頬。可愛くて、ニヤニヤしてしまう。 だが、邪魔者は背後に。 いきなり大きな手で、後頭部を鷲掴みにされ、後ろを向かされ、ゆっくり振り向けば。
「図書室で女口説くな」
 ……
だから、独占欲、強すぎだってば。図書室じゃなきゃいいんですか、と思わず反抗しそうになった時。小さなため息が聞こえたと思ったら、手首に、細い指先が絡み付く。思わず目を見開き、振り返ると、柳先輩が、俺の手首を掴んでて。真直ぐな視線に、今度はこっちの顔が熱くなった。様子が変わった俺を訝しげに見ていた山元先輩も、ちらりと視線を落とし、柳先輩の手に気付いて、目を見開く。
「山元、手、離しなさい。ったく本当にあんたは……」
「っ、な、なにお前青竹に触ってんだよ!?」
「うるさい。後輩苛めて……。全くもう」
「離せ!!とにかくその手を離せ!!」
「山元が手、離したら。ついでに、もう青竹くん苛めないって約束するなら」
「苛めてねぇ!!」
「はいはい、いいから。どうするの?」
「……っ、」

 小さな舌打ちと同時に、手首と後頭部から消える、温もり。助かった。あのまま掴まれてたら、心臓破裂してたかも。額に滲んだ汗を拭い、柳先輩を見ると、小さく小首を傾げ、「ん?」笑ってくれた。
 ……ヤバい、やっぱ今日は俺、ついてる。そんな素直な笑い方、昔は見せてくれなかったのに。最近は少しづつ、周りの先輩も、俺と兄貴を比較したりしなくなった。俺個人として、扱うようになってくれている。でも、今はそんな気にならないんだけど。
 だって、柳先輩が、「俺」を見ていてくれるから。
ただ一人、あなたが俺を認めてくれるなら。それだけで十分、つーか最高の幸せ者です。そんな思いをこめ、笑い返した。――きっと先輩は、気付いていないけれど。
「あの、良ければ、柳先輩?」
「なに?」
「化学、教えてもらえませんか?」

 しばらく微妙な空気に包まれながら、本題を口にする。不思議そうに眉を寄せながら、小さく頷く柳先輩。「私でいいなら?」優しくそう言ってくれるから、素直に左隣の席に着く。山元先輩は眉をしかめて、柳先輩の右隣に座った。それを見て、今度は俺が眉を寄せる。
「……山元先輩?」
「あ?」
「もしかして、柳先輩と勉強してたんですか?」

 口に出すと改めて不快な気持ちに襲われ、やっぱりムカついて来る。そんな俺を見て、山元先輩はペンを回しながら余裕の笑みを浮かべる。
「そうだけど?同じクラスの特権、て奴?」
「……っ、」
「まぁ後輩にゃ無理な話だな。諦めろ」

 ニヤニヤ、勝ち誇った笑顔が本当に、ムカつく。そりゃ、二人は同じクラスで、同じ部活で、仲もいいし?俺が知らない一年を、一緒に過ごして来た訳だから。今更それにどうこう言っても、仕様が無い。だけど。もう一年早く生まれていたら、って、切に願ってしまう。そうしたら、もっと、仲良く出来たかもしれない。側にいれたかもしれない。今更ながら、俺は山元先輩より全然柳先輩を知らなくて。多分、山元先輩は俺の知らない柳先輩を一杯知ってて、これからも、どんどん知って行くんだろう。
 ……だけどそれが許せないって言うより、悔しくて、寂しい。
――やっぱり俺も、十分独占欲、強いかも。 何となく疲れて、小さくため息を零した。
「モル質量ねぇ。ここ私も苦手だったぁ」
「そうなんすか?」
「うん。理数系とは言っても、私数学専門で化学は全然だったからさ」
「……や、大丈夫ですよ先輩なら。お願いしますっ」

 教科書を捲って、小さく苦笑した柳先輩に問い掛けると、冒頭の言葉が返って来た。少し話の流れが「教えない」方向に行ってしまい、焦る。慌てて首を振って返事を返せば、「そう?」なんて微笑みながら一度、下を向いた。 やっぱり、可愛いな。 高い位置でお団子にしてる、その後れ毛が意外に色っぽい。真っ白なうなじや、伏せた時の睫毛も、男の欲を煽る。
 入部したてのころは、三年マネの山元美祢先輩(なんでも山元先輩の従姉妹だとか)は美人だし、一年マネの渡辺もなかなかお目にかかれないくらい綺麗という、バスケ部マネ最強説が持ち上がった。
ただ二人とも、容姿端麗すぎて恋愛対象にするには自分が分不相応だとみんな思ったらしい。
 そこで、柳先輩。確かに可愛いが、目を見張るような可愛さではない。顔と言うより、ちょっとした仕草や声、笑顔なんかが可愛らしくて。性格も明るく気さく、天然で小動物系という、ある意味大体の男の好みドストライクな人なんだが。まぁ、何だかんだ大事にされまくりな柳先輩に、例えば後輩である俺らが下手にアタックしようとすると、先輩方から忠告(と、鉄拳)が飛ぶ。なんでも、「娘みたいで変な男に引っ掛からないか心配」「ほっとけない」そうで。その意見には若干賛成だが。とにかくそんな訳で、先輩に手を出そうと勇気のある奴は誰もいない。……俺と、山元先輩以外。
 なんでこんなハマっちゃったんだろう、自分、とはよく思う。だけど、もう目が離せないんだ。あの雨の日に、再会したその時から。……まぁ、先輩は全然覚えてないと思うし、俺自身気付いたのは後になってからだから、仕方ないか。
 小さく頷きながら顔を上げると、「っ!?」ドアップの、柳先輩。思わず目を白黒させて、身体を引いてしまう。だけど先輩は、不満そうに唇を尖らせて首を傾げただけだった。可愛いとか思っちゃう俺、危ない人じゃない?
「青竹くん、ちゃんと話聞いてた?」
「ぇ、あ、っすみません……」
「全くもう。じゃあもう一回言うから、次はちゃんと聞いてね?」

 頬を膨らませ、先輩は俺の腕をつついた。その瞬間、そこから身体中に熱が回る。顔だけは何としても赤くするまい、と誓っても。もう一度「ね?」なんて笑われたら、心臓がありえないスピードで動いて。不思議そうに俺を見てる先輩に、見せたくない。でも、もう無理――っ。

「……こら」
「、ふぇっ?」

 柳先輩の目を覆う、大きな手。驚いた先輩は、変な叫びと一緒に身体が後ろに仰け反る。不機嫌そうな声と共に伸ばされた手は、山元先輩のものだった。
「お前なぁ。無防備にそういうことすんな、って何度言えば分かるんだよ」
「はぁ?無防備って何よ意味分かんないっ。青竹くん苛めないでって言ったでしょっ」
「俺は苛めてねぇよ。苛めてんのはお前だろ」
「何それーっ!!」

 すっかり意識を山元先輩に飛ばしたらしい柳先輩を見て、大きく息を吐いた。俯いて、口元を手で覆う。……熱い、そりゃもう、クーラーの効いたこの図書室の中でも汗かくほど。むかつくけど、今回は山元先輩に感謝だ。むかつくけど!!ちらりと山元先輩に視線を送ると、先輩は目を見開いた後、――緩やかに目を細めて、優しく微笑んだ。
 悔しいけど、山元先輩は本当に綺麗な顔立ちをしてる。それが部活になると、途端に真面目にプレイするから、文句無しに格好いいし。
 神様は、不公平だ。いつも意地の悪い笑顔しか浮かべない山元先輩が一度こんな風に笑えば、……天使みたいにすら見えるんだから。もう一度、ニコニコ笑ったまま、先輩は口を開いた。

「ん?青竹どうしたんだ?顔が赤いじゃないか。体調でも崩したのか?はっはっはっ」
 ……前・言・撤・回!!爽やかに笑う先輩を睨むと、先程までの表情を一転させ、綺麗な顔を、悪魔のように――いや、魔王のように意地悪く歪めた。山元先輩なんてもう一生信じねぇ!!一瞬であろうと、この人を天使だなんて思ってしまった自分が情けなく恥ずかしい。顔に赤みが残るまま、どうすればいいのかぼんやり思っている内に、振り返ってしまった。……柳先輩が。目が合うと、驚いたらしく目を見開く。慌てて身体をこちらに向けて、焦ったように話しかけてきた。
「えっ、あ、青竹くん大丈夫!?やだ真っ赤じゃないっ」
「っ、だ、大丈夫です、気にしないでくださいっ」
「無理しない方がいいよ?テスト近いんだしさ」
「そうだぞ青竹、……今日は帰ったら?」

 ニヤリと唇の端を小さく上げて微笑む山元先輩が、憎たらしくて仕様が無い。ああそうですか、あんた俺が邪魔だから帰したいだけかよっ!!そりゃあ柳先輩との二人っきりの勉強に割り込んできた俺が邪魔なのは分かるけどさ。だからって後輩そこまで邪険に扱うなよ!!……と叫べない自分が、悔しい。柳先輩の心配そうな視線が、俺のと絡み合うたび、また恥ずかしくなる。
 何でこんなに、俺、柳先輩にばっかこうなんだろう。今までだって、好きな子も彼女もいたのに、先輩だけは、何でか特別。
それはきっと、先輩は俺をとにかく底なしに受け入れてくれようとするからで。俺にバスケが楽しいって、思い出させてくれた人で。
 ――だから、山元先輩に譲る気も、さらさら無いんだ。
「大丈夫、ですよ?ちょっと暑かっただけですから。勉強、続けましょう」
「……本当に、大丈夫?」
「はい。じゃ、柳先輩、ここ、いいですか?」
「……無理しちゃ、怒るからね?」

 ニッコリ微笑んで応じれば、心は段々落ち着いてきて、頬の赤みは引いてきた。未だ疑わしげに、心配そうに俺を覗き込む
柳先輩に答えれば、彼女は不満げに頬を膨らませた。思わず、顔がにやける。ああ、心配してくれてるんだなぁって。

「……しませんよ、分かってます。柳先輩といられるのに、体調なんて崩してられませんし」
「っ、そ、そういうのはいらないっ!!」

 素直に本音を言えば、顔を真っ赤にして怒る先輩。そのまま教科書で顔を隠してしまった。残念。可愛かったのに。

 ふと、柳先輩の頭越しに山元先輩と目が、あう。ニヤリと笑って見せたら、ただ先輩は、肩を竦めただけだった。


  

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