10.「幸せ」定義(2)  


「んー、じゃあこんなもので、大丈夫?かな」
「はい、ありがとうございます」

 それから一時間ほど勉強を続けて、とりあえずテスト範囲が一段落した。大きく伸びをして、明るく微笑む先輩。意外にも(と言ったら失礼?)、先輩は教え方が上手い。お陰でこの後真面目に勉強すれば、平均点は取れる気がしてきた。礼を言って、荷物を片づける。閉館時間が迫っていた。と、不意に、黙っていた山元先輩が、口を開く。
「柳。この辞書返してこい」
「へ?」
「ほら、早く」
「って、ちょっ、なんで私が!?」
「これ持ってきたのお前だろ?場所分かんねぇし」
「使ったのは山元でしょうがっ!!」
「いいから。ほら、早く」

 英和辞典を、柳先輩の手の上に強引に乗せて、その肩をぐいぐいと押す。不満げに声を上げる先輩に対して、あくまで山元先輩は無表情で。その考えは、全くと言っていいほど読めなかった。 柳先輩は顔をしかめ、ぶちぶち文句を零しながら、奥の棚へと向かう。その小さな背中を見届けて、ちらりと山元先輩に視線を戻した。片付ける気がないのか、先輩は椅子にどっかりと座り込んだままだった。それに、予感は募る。
「で?」
「あ?」
「俺に、なんか話あるんじゃないんですか?」

 荷物を一通りバッグに詰め終えて、山元先輩に視線を送った。やや不思議そうに首を傾げた先輩は、しばらくそのまま固まった、後。
「っ、ぷっ……」
「……?」
「あ、はははっ、何だよその、真剣な顔……っはは!!」
「な、なっ!?何ですかそれ!!」
「っ、ば、ばぁか……っ」
 
――先輩は、吹き出した。一瞬、唖然としてしまう。そんな固まった俺を指さしたまま、また爆笑する先輩。な、なんだよ!!話がなんかあるんじゃないのか!?だから柳先輩行かせたんじゃ……っ!!
 ……だけど、爆笑し続ける山元先輩からはそんな様子、微塵も感じられず。深読みした俺が馬鹿みたいで、なんか無性に恥ずかしくなった。

「っ、あ、青竹っていつも思うけど、意外に真面目っつか……先輩とは全然似てねぇよなあ」
「っ、」

 「あの人は、真面目な顔して馬鹿なことばっかするから」なんて微笑む。けれど俺の耳に、その言葉は素通りして。
『先輩』
 具体的な名前なんて出てないのに、すぐに誰を言っているか分かった。馬鹿みたいだ。もう平気だって思ったのに、もう気にしないって思ったのに、ただ一言で、こんなに揺れる。クスクス笑う山元先輩を、ぎろりと睨んだ。

「なんか、悪いですか?」
「……あ?」
「兄貴と俺を、いちいち比べる権利が山元先輩にあるんですか?」

 淡々と言いながらも、俺がキレてることに気付いたのだろう、先輩は目を見開いた。分かってる、相手は、先輩だ。……だけど、言ったのが山元先輩じゃなかったら。俺だって、こんなに気にしなかった。山元先輩だけは、ありのままの俺で、先輩の、ライバルを名乗りたかったから。
「先輩は、勝手です。柳先輩を好きだって言いながら、俺には牽制するだけで、柳先輩に直接思いをぶつけたりしないじゃないですか」
「……」
「俺はちゃんと柳先輩に気持ちをぶつけてます。ひどくするかもしれないけれど、ちゃんとその倍優しくします。先輩は、いつも柳先輩をからかってるみたいだ」
 
話しながら、どんどん話が柳先輩に移っていく。分かっている。これは、八つ当たり。柳先輩は、現時点で俺よりずっとずっと、この人を頼りにしている。この間だって、山元先輩が現れてあからさまにホッとした顔をしていた。それが、どんなに俺を傷付けたことか。けれどそれで柳先輩に詰め寄ることは出来ないから、山元先輩にぶつける。情けない、けれど、止められない。
「っ、俺の方が、あの人を真剣に思ってる、大事にしている、幸せに出来るっ!!」
「……」
 息を荒くしたまま、黙り込む俺と、何の反応も返さない先輩。夕焼けが、カーテンの隙間から、差し込む。
ちらりと視線をあげたら、山元先輩は、小さく笑ってた。
「悪かったな」
「っ、えっ?」
「だから、ごめん、て。……そうだよな。お前と青竹先輩が似てようが似てなかろうが俺には関係ないし。いちいち他の奴と比べられたら、そりゃムカつくよな」

 だから、ごめん。先輩は、顎肘をついて柔らかく微笑んだ。まるで裏の無い、綺麗な笑い方で。呆然とする俺を見て、先輩はもう一度笑い、瞳の色を強めた。
「でもな、青竹。柳を好きかどうかとか、俺が本気かとか、それもお前には関係ない。俺はお前みたいにあいつに強引に迫るつもりはないし、させるつもりもない。お前の物差しで、俺の気持ちの伝え方を否定するな」
「……っ、」
「それに、な」

 微笑んだままだけど、山元先輩は、――悲しんでいた。だけど、理由は俺には分からなくて、その言葉に耳を傾けるのに、必死で。
「あいつに対して、俺はどうやっても必要以上に、自分の思いを正直には、伝えられないんだ」
「……」
「お前が、羨ましいよ」

  夕日の中、そう言って笑う先輩は、儚くて。ぽつりと零した先輩の声は、消えてしまうみたいに小さい。どうして、いつも自信満々な先輩が、俺を?けれど、その疑問は届かない。
「、山元、先、……」
「山元ー?青竹くーん?閉館時間だよ、帰ろう?」
「!!」

 突然、背後から聞こえた柳先輩の声に、俺はびくりと肩を揺らした。だけど山元先輩は、さっきまでの儚い笑みと違う、柔らかく、だけど少し意地悪な笑みを浮かべて机に肘をついた。
「遅かったな?まさか迷ってた、とか?」
「!!ゃ、山元馬鹿にしすぎでしょ!!私だって二年通ってる学校の図書室で迷ったりしませんー!!そりゃあ、ちょっと置いてある場所分かんなかったんだけど……」
「迷ったんじゃん」
「ちょっ、ちょっとだけだもんっ」
「ふーん?」
「そ、そんなこといいから。もうっ、帰ろう?ほら、早く支度してっ」
「あ?……めんどい」
「ちょっとー!!全然支度してないじゃない。ほら、手伝うから」

 からかう山元先輩に、柳先輩は頬を赤く染め、ムッと口を尖らせて反論をした。そこにいる二人は、とても、自然体で。――なぜか急に、気付いてしまった。
 山元先輩は、決して柳先輩をからかっている訳じゃない。からかいながらも、その瞳はいつだって、気持ちを雄弁に語っている。
『大事だ』
『好きだ』
『愛してる』
 ……そんな愛の言葉を。
傍から見て分かりやすいそれに、柳先輩が気付かないはずがない。少なくとも。ひどく優しいその瞳に、気持ちが和らがないはず、ないのだ。

 二人は、俺がいなかった一年を通して、『二人の』形を作り上げてきた。不器用で、素直に言葉を返せないけどいつも柳先輩の側にいた、山元先輩。そんな山元先輩の優しさを自覚して、いつも向き合おうとする、柳先輩。それは、多分、大きな信頼関係の上に成り立っていて。
 仕方ない。俺の入学前からの付き合いだ。当然だとも、思う。だけど、……俺の入る隙は、無いのか?って話だ。
絶対譲らないって誓ったはずなのに。なのに、揺れてしまう。こんな風な、確かな二人を見せつけられてしまうと。
  柳先輩の幸せは、どうやったって分からない。何があの人が一番幸せを感じて、どうすればもっと喜ばせられるか。だから俺は、自分に出来る形を先輩に与えるしかできない。だけど、知ってしまった、恋敵の伝える『想い』の形。それは、俺なんかでは想像もつかないような、……優しいものだった。
「……敵わない、かもな……」
「青竹くん?」
「っ、あ、はいっ」

 不意に呼びかけられて、慌てて先輩を見る。柔らかく笑う柳先輩は、やっぱり可愛くて。抱きしめたい気持ちをこらえるので、必死だった。
「ね、もう帰ろう?急がないと閉められちゃうっ」
「……あ、はい。分かりました」

 鞄を掴んで、慌てて柳先輩の後を追う。山元先輩は、もう入り口で待っていた。俺たちを見ると、ただ一言。
「遅ぇよ」
 呆れたようにため息を吐きながら、苦笑した。そのまま、三人で廊下へと、歩み出る。
 ……本当は、ずっと前から、気付いていたのかもしれない。山元先輩は決して、柳先輩をいい加減に扱ってなんていない、って。だけど、認めたくなかった。それを認めたら、負けを認めてしまっているような、そんな気がしたから。
 一人考えながら歩いていると、気付けば話し声が、聞こえなくなった。慌てて振り返れば、笑顔で話す、二人の姿。
 
――胸が、ずきりと痛んだ。 山元先輩は、足が長いから、歩くときいっつも一番早い、のに。柳先輩と歩くときだけ、妙に遅くて。先輩の少し後ろを、ゆっくりと歩む。その理由は、……柳先輩に、歩調を合わせているから。決して離れないよう。だけど、近づきすぎないよう。いつだって、見守り続けている。
 柳先輩がゆっくり、視線を前に向けて、俺を見る。徐々に柔らかく綻ぶその笑顔を、泣きたいような気分で見つめた。




あなたにとって何が一番幸せなのか、もしかしたらその正解は俺ではないかもしれない。
けれど俺は貴方を、諦められないし、手放せない。
だってもう、遅いんだ。
こんなにも、この胸は、こみあげる愛おしさで痛むから。
……だから、貴方が選ぶその時まで。
貴方の幸せを、探す日まで。
俺も、側にいていいですか――?


  

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