散っていく花。

咲いた花。

――そして、綻ぶ花。


12.Dear fool girl(1)


「……」
 静かな、保健室。汗をかいた身体にクーラーの風は少し肌寒い。だけど、ここを動く気にはなれなかった。
 ベッド脇に置いた椅子を、静かに動かす。起こさないよう、注意を払いながらスルリと柳の髪に指を通した。サラサラしてる。半ば感動を覚えながら、無意識に、その結ばれた髪に窮屈さを覚え。ためらいながらもゴムを引き下げ、ほどいた。
「ん、」
「っ……」
「んー……っ」

 不意に漏れた声に、起こしてしまったかと焦る。だけど軽く寝返りを打った彼女は、そのまままだ眠りの世界にいるようだった。
 風に吹かれ、カーテンが少し揺れる。真っ白い柳の肌とその色は被って、妙な感慨を感じた。

「……」
 静かな部屋。眠る好きな女。それを眺めてる、俺。無防備な寝顔に、まぁ、若干欲を覚えない訳ではないけれど。今は、正直それよりずっと心を占める感情があるから。不意に、思い出してしまって眉を寄せた。目の前の柳を、睨むように見つめる。もう一度、手を伸ばして、その前髪を撫でた。
「……馬鹿」
 
―――本当に、馬鹿だよ、お前。

「柳!?っ、おい、柳っ!!」
「や、山元先輩、揺らさないでっ、」

 柳が倒れた瞬間、一瞬、目の前が真っ暗になった。渡辺にいいように柳のことでからかわれ、必死に反論しつつ背後を伺ったら、柳がゆるりと椅子から落ちかけていた。条件反射のように手を伸ばし、何とか腕の中に抱え込んだものの、柳は目を覚まさない。焦ってその肩を揺すると渡辺が慌てて俺を止めた。
「……っ、」
 
情けない。バスケってスポーツはきついせいか、中学の時から新入部員なんかはよく倒れてた。それを介抱した経験もあるのに、こんな、倒れたのが彼女だからって。猛烈に焦ってる自分が、情けないっつーか、馬鹿みたいで。それでも、心配で仕様がない。眉間に皺を寄せたまま、唇を噛み締める。柳は未だ、目覚めない。白いその顔は、今日はむしろ、青白ささえ感じさせる。眉を寄せ、苦しげに、息を吐き出す。その姿に、俺まで苦しくなった。思わずぐっと彼女を抱く手に力をこめると、渡辺は黙ったまま柳の前髪を払った。
「とりあえず、山元先輩は瑞希先輩を保健室に連れて行ってあげてください。今日はあいてると思いますから」
「……ん」
「もう、山元先輩がそれでどうするんですかッ!!ほら、早く!!」

 真っ直ぐな視線で、的確な指示をする渡辺。心配そうに柳を見つめながらも、冷静なその姿は俺なんかよりよっぽど頼りになる。それがまた情けなくて、だけどとりあえず頷き返した。すっかり意気消沈した俺を見て、渡辺は疲れたようにため息を吐くと喝を入れるように叫び、手を叩く。それを合図に、のっそりと柳を抱きかかえ、立ち上がった。その身体は意識を失っているためか、ぐったりとしていて、少し重い。だけど、それ以上に俺の心は鉛がついたように重くて。足取りは、お世辞にも軽いとはいえないスピードだった。
 ――もっと、早く気付けたかもしれない。さっきまで、一緒に話してたんだ。むしろ何で俺、気付けなかったんだよ。気付こうと、しなかったんだよ。
 馬鹿みてぇ。「好きだ」とか言って、そんな変化一つ、見分けつかないなんて。情けなくて、ただ、腕の中にいる小さな身体をぎゅっと抱きしめた。


 保健室に着くと、渡辺の予測したとおり、そのドアはしっかりと開いていた。冷房の効く室内に入っても、汗をかいたTシャツでは寒気しか覚えない。ただ、腕の中の温もりが、暖かくて。こんな時でも柳に守られてる気がする、って口にしたら、どんな顔するだろう?
 先生の指示通り、ベッドまで運び込み、シーツの上に慎重におろした。そりゃあもう、先生に、「別にそこまで気をつけなくてもいいわよ」って苦笑されるくらい。その後は診察するから少し出るよう頼まれ、カーテンの外に追い出され、近場にあった椅子に座った。
 それでも、安心なんて出来ない。
分かっているのに。大した病気とかじゃなくて、単に、貧血とかそんなものだって。
 ――それでも、俺は。大事な人間を、目の前から失いたくない。彼女が苦しい思いをするくらいなら、俺が替わりたいと、本気で思った。
 カーテンが開く音がして、ハッとして振り向くと、四十代半ばだろう先生は小さく肩をすくめて苦笑して見せた。

「うん、大丈夫。ちょっとした脱水症状と貧血よ」
「……脱水?」
「ええ。この子、何部?」
「バスケ部、の、マネージャーです」
「あぁ、だからね。マネージャーって、水分補給選手の分必死になりすぎて自分は取らないってことあるのよ。特に、高校生だとねー」
 わざとらしく重くため息を吐き、不満げに鼻を鳴らす先生。
 『脱水症状』
 その言葉を聞き、俺は思わず手を拳の形に握りしめ、唇を噛み締めてしまった。あの、馬鹿は……!!毎年同じことしないと気がすまねぇのかよ……!!
去年、倒れるまではいかなかったけれど、青白い顔で部活後にフラフラしてる姿は何度かみかけた。その度、美祢に叱られてた癖して、今年もあいつはこりなかったらしい。今までの心配は吹っ飛び、ふつふつと怒りが沸いてくる。……後で、徹底的に叱る。泣いても、叱る。そんな決意を新たにしながら。
「でも、君、山元くん、だっけ?」
「え、あ、はい」

 いきなり、悪戯っぽく笑ってこちらを見る先生に、一瞬固まる。何で、俺の名前?確か保健室、今まで来たことなかったはずなんだけど。そんな俺の疑問も見越したように、先生はニコリと皺だらけの顔を綺麗に歪めた。
「君関係の恋愛相談多くてねー。よく写真見せられたりしたのよ昔は。……あ、これ内緒ね?」
「……あ、はい」

……納得。一年前の俺は、正直人にはとても素面で話せないような女関係ひっどい人間だった自覚はある。その中の何人かが、ここに訪れたとしても不思議じゃない。そういや、保健室ってのはカウンセリングも兼ねているんだった。少し肩身が狭くなったような気がして、居心地の悪さを感じながら椅子に遠慮がちに座る。それを見て、先生は大きな笑い声を上げた。
「別に責めてるわけでもないし、気にすることじゃないわよ。若気の至り、ってよくあるしね?」
「……はぁ、あ、の、先生。もうすこし、静かに」
 
ぱちりと片目を綺麗に瞑るウインクに半ば感動しながらも、その声に眉間に皺が寄る。訝しげな顔をした先生は、俺の視線の先――ベッドに目をやって、合点が行ったように微笑んだ。その顔は、先程までの悪戯な笑顔でなく、俺よりずっと年上の、女性の表情。まるで『母』のようなその顔に、ぎくりと身を強張らせた。
「でも君は、噂とは随分違うみたいね」
「は?」
「山元くん、あのマネージャーの子が好きなんでしょ?いいわねー若いって」
「っ、はぁ」

 柔らかい眼差しに躊躇いを覚えながらも、その言葉にうまく返事が返せない。確かに、その通り。全く図星であるし、否定する理由もないので肯定したが。こう真っ正面から言われると、無性に恥ずかしいというか、心許ないというか。とにかくにも少し、困ってしまった。そんな俺を見ながら、先生は立ち上がり、ティーポットの前に立つ。
「コーヒーでも淹れようかしら。飲める?」
「あ、は、はい。大丈夫です」
「じゃあ、少し待っていて」

 手慣れた仕草と言動に慌てて返事を返しながら、やっぱり視線は気がつけば柳のいるベッドに向かっていて。少し、夢中な自分が情けなくも思えた。先生が淹れてくれたコーヒーを、礼を言いながら啜る。少し熱いそれは、冷えた体には心地よかった。黙ったまま飲み込む俺を、先生はニコニコしながら見ていて、やはり居心地が悪い。今、俺の耳に響くのは、時計のカチコチという音と、クーラーの機動音くらいだった。しばらく黙っていたが、沈黙に耐えきれず、おずおずと口を開く。
「あの、先生?」
「ん?なぁに?」
「飲まないんですか?」

 それ、とピンクのカップを指さしてみせると、先生は笑って「猫舌だから、」と言った。……どうしよう。会話、全然繋がらない。無表情で焦る俺を見て、先生はクスクスと笑いを零す。
「山元くん、疲れてるでしょう?別に、帰ってもいいのよ?」
「え、」
「あの子。柳さんなら私が看ておくし、明日の練習に差し支えても大変だし。ね?」

 そう、首を傾げる先生に戸惑いながらも、俺の答えは決まり切っていた。そりゃ、身体冷やしてる今の状況がいいとはとても言えないし、別に俺がこの場に留まり続ける理由もないのだけれど。

「……や、ここに、います」
 ――出来れば、柳が目覚めた時。側にいるのは、一番最初に視界に入るのは、俺で在りたいから。まるで刷り込みを期待するような自分に、苦笑いが漏れるけれど。
 真っ直ぐに先生の目を見て言うと、彼女は一瞬驚いたように目を見開いた後、またゆるりと笑った。そして、マグカップを両手で握りしめ、口を、開く。

「……本当に、好きなのねぇ。あの子のこと」
 
そうでしょ、そう言って悪戯に目を光らせる。だから俺はわざと、微笑んで首を振った。
「好きどころじゃ、ないですよ。あいつがいなくちゃ、俺は何も手につかない自信、あります」
 
ハッキリと言ってみせると、先生は、先程よりもずっと驚いて見えて。そして、心底可笑しそうに笑った。「若いわねぇ」そんな風に言いながら、コーヒーに口を付けて。それからしばらく、会話はなかったけど、何故か沈黙は気にならなかった。


  

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