過去の出来事ひとつひとつと、

今の出来事ひとつひとつ。

それは全て、ひとつの線で繋がれている。


15.line and dot


 ――伸ばされる、手。
 頬を掠めた、微かな体温が気持ち悪くて。
 
吐き気をこらえようと、塞いだ掌は、自分の首を締め上げた。
 
耳元にかかる、妙に湿った吐息が、嫌で。
 
首を振って拒否しても、近付いて来る。

 ……
近付いて、来る。




「っ、」

 暗闇の中、荒い息と共に、跳ね起きる身体。小柄な少女は小さな肩を震わせ、頬から流れ落ちる汗を拭いもせず、ただパジャマの胸元を握り締めた。数分そうした後、呼吸は少しづつ平常通りにゆっくりしたものになり、身体の震えも、止まる。
 けれど少女はもう一度、布団に身を横たえようともせず、大きく息を吐き、カーテン越しの月を見つめた。

「駄目、だよね……まだ……、」
 ――小さな囁きは月に含まれ、夜はまた静かに更けていく。


 二学期が始まり、夏休みの空気も冷めやらぬ、この時期。気付けば大量に出来ていたカップルに驚きつつ、夏休み中のイメチェンに驚愕しつつ。
 そんな変化の九月、第二週の土日。うちの学校では、文化祭が行われます!!今日は、その出し物を詳しく話し合う日な訳で。

「あー、楽しみーっ!!」
 
身体を一杯に伸ばして、心から言う。カーテン越しに感じる午後の日差しは暑く、その風も生温かったけど、それすら気にならない位、気持ちは高揚していた。私の叫びを聞いて、前の席のきゆと田口くんが、くるりと振り返る。
「そんなに楽しみなの?瑞希。うちのクラス、迷路じゃない」
「えーっすっごい楽しみだよっ?なんかお祭ってワクワクする!!」
「あはは、柳っちらしいねぇ」

 面倒臭そうに眉をひそめるきゆと、私の言葉を聞いて笑みを深くする、田口くん。何だかどうでもいいことだけど、きゆはこの暑い中でも汗も掻かず涼しげだし。田口くんは田口くんで、頬に流れる汗すら爽やかだ。なんだか二人ともキャラを裏切らないなぁ、なんて思っても、顔がニヤける。
 昔から、お祭事は好きだった。私がこの学校決めたのも、文化祭が楽しかったからだし。去年はお化け屋敷をやったんだけど、それも楽しかった。今年は第一希望の食品系は抽選で外れて迷路になっちゃったけど、それでも楽しみ。だけど作りが難しそうな迷路には、ちょっときゆは憂鬱みたいだった。

「きゆは彼氏さん来るの?」
「え?ええ、まぁ、一応。というか瑞希、彼は彼氏じゃないの。許婚、なのよ」
「どっちも変わらないじゃない?」
「え?ていうか御子柴さん、彼氏いるの?」
「うんっ。すっごく格好良くて優しそうな人だったよねー!!」
「だから彼氏じゃ無いって言ってるでしょう……、それにあの人は、」
 
頑なに、彼氏を否定するきゆ。でも、許婚と大して変わらないんじゃないかなぁ?納得したように頷く田口くんは、ニヤリと笑い、「へぇ、」とだけ呟いた。それを笑い混じりに見つめていると、不意に田口くんが、こっちを見る。
「柳っち、宿題終わらなかったの?」
「え?」
「クマ、出来てるからさ」
「っ、」

 いきなりの言葉に、一瞬反応が遅れ、間の抜けた声になる。だけど田口くんの返事に、慌てて目元を覆って小さく笑った。
「ん?宿題、は、ちゃんと終わったよ?最近、面白い本があってさ。徹夜しちゃって……」
 
我ながら、白々しい嘘だと思う。こんな引きつった笑いで言われた言葉、誰が信じるんだろう。だけど真実は決して言えないから、私はただ、嘘を吐いた。不思議そうな、だけど真剣な瞳を向ける、田口くんときゆ。その視線から逃れようと、身体を起こして、距離を取った。
 ――それなのに。

「柳っち?」
「……っ!!」

 躊躇なく、頬に、田口くんの手が、伸ばされたから。
 ……反射的にそれを、避けてしまった。驚いたような顔をしたきゆと、静かに目を細めた田口くん。ハッとして、頭を下げた。
「ご、ごめ、田口くんっ」
「……いや、平気。気分悪いとかじゃないんでしょ?」
「ん、うん、大丈夫!!ちょっと、ボーッとして、て……」
 
ニコリと笑みを浮かべながら優しい言葉をかけてくれる田口くんに、首を振った。
 ――いけない。あの夢を久々に見たからって、少し、過敏になり過ぎている。何だか、妙にリアルな感覚がしたからって、別に現実じゃ、無いのに……。

『……ねぇ?』

「――っ!!」
 不意に囁かれた声を思い出し、震えそうになった身体を叱咤して、私はただ微笑むだけだった。

* * *

「じゃあ、明日から部活休みになるけど、各自ちゃんと身体動かしとくように。以上、お疲れ様でした!!」
「「「「したっ!!」」」」

 山元の掛け声と、続く部員の声に耳を傾けながら、体育館のドアを開け、外の水道場に向かう。日は沈んでいたけど、外はそんなに暗くなかった。
 今日で、文化祭まであと二日。明日から、体育館はステージ用意とかで、使えなくなる。そんな訳で明日明後日の部活はお休み。後夜祭は出れないけど、まぁ、一日目が自由に回れるだけでもめっけもんて奴だ。神奈と約束してるし、そう思って口の端を緩めた、時。

「――柳」
「、へ、え、山元?」

 いきなり呼び掛けられて、慌てて振り向いた。そこには汗だくの山元がいて、首を傾げる。何か用か、って聞いても何も言わなかった。少しだけ、離れた距離に立ちすくんだまま、こっちに来ない山元を不思議に思う。
 ……もしかして、どこか痛めた?
 でもそれなら、すぐに言うはずだ。まるで口を開くのをためらうかのような、その複雑な表情を見ながら、私の頭は疑問で一杯だった。徐々に暗くなる空で、山元の顔はぼやける。仕方ないからこちらから行くか、そう思った時、小さな声がした。

「――来るって」
「……え?」
 
来る?何が?主語が無い山元の言葉に眉を顰めると、彼は少し苛立たしそうに地面を睨んだ後、私に近付いて。目の前に、立った。いきなり縮まった距離に、嫌な汗が流れる。
 どうしよう。ここで引いたら、ばれちゃう。まだあの日を思うのかって、心配されちゃう。だから私は逃げられず、少し身を揺らしただけだった。山元はそんな私を見て目を細めた後、もう一度、口を開いた。

「文化祭。先輩、来るってよ」
 ――予想だにしなかった言葉に、息を呑む。

 「先輩」なんて、何人でもいる。でも、今、山元が言うなら、それは間違いなく。
 なんで。
 どうして。
 
まるで全てを知っているかのように、『今』やって来ると言う青竹、先輩。その笑顔を思い出して、涙が零れそうになり。静かに、俯いた。


 フラッシュバックする光景は、いつだって、おんなじ。

 暗い暗い闇の中、伸ばされた長い腕と、頬を伝う気持ち悪い滴と、口の中に広がる、鉄錆の味。
 
背中に当たるコンクリートの感触は硬く、痛くて。
 頬にはいくつも引っ掻き傷が出来た。
 止めて、嫌、乞う声は弱く、小さく、届くことも無く。
 熱く荒い息は首筋を、滑り落ちた。

『……ねぇ?君は何を、考えている?』

 愉しげな声はいつまでも、反響して――。


「……ぎ?柳っ!!」
「……ぁ、」
「大丈夫か?」
「っ!!」

 目の前で眩んだ光景に、意識が飛んでいたらしい。耳元で言われた自分の名前にハッとして目を開いた瞬間、―――気付いてしまう。
 
焦った山元の顔の近さと、 頬に当てられた、温もりに。 ゴツゴツした指は、女子のものでは無く、紛れも無い、男の人のもの、で。…… 悲鳴を噛み殺した後、その手を、はたき落とした。
「……やな、ぎ?」
「〜〜〜〜〜!!」

 呆然と私の名前を呼ぶ山元に、一瞬遅れて首を大きく振った。
 違う、ごめん、違うの。山元が嫌な訳じゃなくて、そうじゃなくて、目の前にアノ男が、ちらつくから。

 しばらく固まった山元は、その後ハッとして、表情を怒りの色に染めた。
「また、か……?まだ、夢に出て来るのかよ、あの野郎は……っ、」
「……ち、が、違うの……!!」
「違くねぇだろっ!!じゃなきゃお前がこんなことになる訳ねぇしっ、お前、腕も細くなってるじゃねぇか!!」
「、!!」

 ……分かっていたのに。迂闊だった。山元を心配させるのが、分かっていたはずなのに。どうしても、最近悩まされる夢に食欲が沸かなくて、しばらくほとんど食べていない。親には、必死で夏バテ、と誤魔化して。
 青竹先輩を思えば、必ず付属する当然の記憶。私と先輩を繋ぐ、大きな糸。最近は大分、緩んでいたから。だから、気付かなかった。……近付く、オトコノヒトの、気配に。
 カタカタと、奥歯が鳴った。震える私の肩に気付いたのか、山元はまだ何か言っていたけど、それを止めて、黙って、私を見つめた。だけどその視線に真っ向から向かうのすら、今の私じゃ苦しくて。目を逸らして俯くと、頭上で大きなため息。

「悪かった。迂闊、だったな。最近は平気だったから、つい」
「……ううん、山元のせいじゃ、ないから」

 申し訳なさそうに響く声に、震えた声音を返す。心配かけちゃ駄目って思う程、全身が冷たくなった。だけど動かない身体を無理に動かし、顔を上げる。
「っていう、か!!戻ろうかっ体育館!!」
「……ああ」
「ほら、早くっ……早く、」
 
引きつった作り笑い、どうかこの暗さに紛れて見えませんように。そんな願いをしたところで、外灯が点っているから意味は無い。
 でもそんな私を見ても、山元は何にも言わなかった。無言で私を見つめた後、軽く頷いて、背を向け、歩き始めた。

 ――これ以上、この空気に、いたくない。
 そしたらまた、山元を傷付けてしまうだろうから。手を降り払った直後、驚きの後、彼の表情に浮かんだのは、……確かな哀しみ。きっと山元は、問い詰めたかったはずだ。私は、山元だけは大丈夫だったから。けれど現に、山元も例外なく、駄目になっている。言い逃れは、出来ない。症状は、悪化。違う、戻っている。――あの時に。
山元の後を歩きながら、すっかり暗くなった空に浮かぶ、月を見た。その柔らかい眩しさに、青竹先輩を思い出す。
 目の前を歩く背中を見つめながら、口の中で一言二言呟いた。





助けて、ください。
どうか、どうか。
私の望みを、どうかその手で叶えてください。
もしもそれが叶うのならば、私はきっと――。


  

inserted by FC2 system