16.弾けた心(3) ひっそりとした教室で、自分の身体を抱きしめながら、あの時を思い、首筋を掻きむしる。 嫌嫌嫌嫌嫌、気色悪い、汚れた。 ……今でも背中が寒くなる、あの視線。ゾッとするほど、冷たい色。私を女として、人間としてなんて捉えていなかった昏い、色。 暑い教室で、冷や汗を一人流した私の寄りかかっていたドアが、突如開いて。 「っ、?」 「……ここにいたんですね、柳先輩」 ホッとしたように笑い、汗だくで私を見下ろすその人は、――青竹、くん。 あの日と違う。ここは埃っぽくて、外は晴れていて、人気はないけど叫べば誰かは絶対駆けつける。彼は凶器も持ってないし、信頼できる、後輩で。 けれど。 探しました、そう笑って手を差し延べる。 「さ、行きましょう?デート権、まだ有効ですよね?」 「っ、」 ……けれど、手首を握る、その手に、身震いした。尻餅をつきながらその手を思い切り振り払って、後ずさりする。 「柳先輩?」そう訝しげに眉を顰めるのは青竹くんで、あの男じゃないのに、アイツはここにはいないのに。どうしたって、あの時私に触れた、あの『男』の手に、私は今でも怯えている。力づくで『女』をねじ伏せ、意のままにしようとする。 私は、それに抗えなくて。勝てなくて。 「や、いやぁぁぁっ!!」 「ちょ、柳先輩、」 「あ、青竹先輩、やだ、助けて、やだよっ!!」 「っ、」 息を呑む青竹くんには気付いているけど、口からはひっきりなしに拒否の言葉が溢れていた。青竹先輩の名前が、彼を傷付けてるのは分かってる。それでも思わず、叫んでしまう。怖い夜、泣きたい夜、いつだって縋ったあの人の名前を。 私は自分の震える身体を抱き締めて、青竹くんの手を必死に避けた。だけど苛立ったように荒々しく、彼が私の腕を掴む。 「っや、いやぁ、触らないで……!!」 「柳先輩、俺です、悠です、大丈夫ですから、」 「やだ、やだやだやだ、青竹せんぱっ、」 「った、!!」 だから反射的に、その腕を噛んだ。顔を歪めて、青竹くんは私から手を離す。その隙に、ずりずりと窓際まで下がった。涙でぼやける視界は明るいのに、あの時と同じように見えて。手を伸ばす青竹くんに、アイツの影が、ぶれながらゆっくり、ゆっくり重なった。 「……柳先輩……」 『……名前、教えてよ……』 助けて。助けて。いつまで、私の中で、私を脅かすの。早く消えてよ。アンタなんか、いらないのに。私をそんなに、苦しめたいの? 泣きながら、心の中で何度も何度も、叫んだあの日。今日も私は、助けを叫びきれない。 目の前に揺れる手を見つけながら、私はぼろぼろ涙を零した。 助けて。 助けて、早く、早く、早く。 私をこの暗闇から、掬い上げて。 その大きな手で、私を包んで。 叩いちゃったけどね、本当は違う。 私は本当は、怯えてたんじゃない。 変わる未来が怖くて、私の中のあんたの立ち位置が、変わっていくのに気付いてしまって。 強くなってる。 大きくなっている。 青竹先輩の名前を呼びながら、本当に心を占めているのは。 熱っぽい瞳、大きな手、意地悪な声音。 『――柳?』 助けてよ、早く来てよ、あんたじゃなくちゃ――っ!! ……その時、大きな影が、ドアから覗いた。青竹くんが来たときと同じように息を乱し、髪をグシャグシャにしたそいつを振り返って、青竹くんは泣きそうに顔を歪ませる。 私の姿を目に留めてすぐに、そいつ――山元は、状況を理解したようだった。唇を引き結んだ後、室内に入り込んで、――私に、手を伸ばす。 「柳、」 「っやぁぁ、!!」 一瞬の後、大きく山元の手を避ける私を見て大きくため息を吐いた後、無理矢理、私をその腕の中に閉じこめた。 「あ、や、いやぁぁ!!」 「落ち着け、柳。大丈夫、っ、」 「ひぁ、ひゃあ、う、う゛う゛う゛〜!!」 「大丈夫、だ。もう大丈夫。ちゃんと、助けに来たから。安心しろ、もう怖いことは何もねぇから。俺は、絶対お前を傷付けねぇから。……大丈夫」 「ふ、うぅ、うぐう……!!」 片手でしっかり私の肩を掴み、固定して。もう片方の手で、何度も何度も背中をさする。安心するのに、気持ち悪い。求めてたのに、鳥肌が立って、怖くて仕方なくて。私は必死にその肩に噛み付くけど、山元は一瞬声を詰まらせただけで解放はしてくれなかった。そしてその声で、優しく、囁く。大丈夫だって、何度も、何度も。あの日の青竹先輩と同じ、だけど、違う温もり。 なのに、安心できる。想像と、妙にフィットするその感触に、私の脳は少しづつ、冷えていき。歯の力を緩めたとき、山元が私を抱きしめたまま、私の顔を覗き込んで。 「柳、……大丈夫、だからな」 そして柔らかく苦笑して、私の名前を呼んだ。 その瞳には、アノ男と同じ色は、灯ってない。ただただ、私を大事だと叫び、甘やかす、優しい色。 ああ、そう。そうだよ山元。私ね、……その笑顔を、その声を、山元を、ずっと待ってた。それさえここにあれば救われるって、まるでその存在が、光みたいに思えたんだ。 昔なら、そのポジションは青竹先輩だった。私の心を、慰めてくれる。 けれど今、山元の笑顔が私の中に蘇る度、少しだけ、気持ちが落ち着いた自分がいた。あんたが、底なしの暗闇の中、確かな光になって――、 「……、」 「っ、柳!!」 「先輩、!!」 ――だけど、それを告げるより早く私の意識は、闇の中へと埋もれていった。 いつしか、誰より安心できるようになったその温もりに、溶け込むように。 |