16.弾けた心(4)


 睨むように、携帯の画面を見つめる。けれど時間は自分が思うほどには早く動いておらず、たった一分しか経っていなかった。また一度大きくため息を吐いて、彼女――柳の青白い頬を、撫でる。ほんの一ヶ月前も似たような行動をした、とまた頭が痛くなった。
 現在時刻、午後六時半。

『すみません山元先輩、柳先輩見かけませんでしたか!?』
 
ひどく焦った声が携帯から響いたのは、確か一時半ちょっと過ぎ。校内を隼人と二人で回っていたら、青竹から電話が入った。まず奴の口から柳の名前が飛び出すことが気に入らず、思わずムッとするが、その切羽詰まった声にひとまず落ち着く。
「いや、見てねぇけど。どうかしたのか?」
『……先輩と、一緒に回ってたんですけど』
 
おい待て、どういうことだソレは。なんで俺が知らないとこでお前、勝手に柳と仲良く文化祭デートなんかしてるんだよ。俄然むかついてきて電話を切ってやろうかと思った、が、その次の瞬間。
『兄貴と、外で会ったんです。そしたら柳先輩、いきなりどっかに走って行っちゃって……!!』
 
俺は隼人に事情を話し、謝って、柳を探しに行くことになる。素直に頭を下げたら、苦笑混じりに隼人は『気持ち悪い』と言った。失礼な!!
 しかし、俺が怒る前に隼人は真剣な顔をして。
「柳っち、ここんとこ変だったから。心配だし、早く行ってあげて?」
「……おう、」
 
本当に、コイツの勘の良さと観察力の深さには、参る。意地が悪いが根と察しは良い奴だ、本当に。もう一度頭を下げて走り出し振り返ると、ニコニコ笑って手を振られた。

 柳を見つけたのは、特別教科棟の、奥まったところにある社会科準備室。叫び声が聞こえたので部屋に踏み込むと、汗だくの青竹と、……泣きながら自分の身体を抱きしめる、柳がいた。
「……くしょ、」
 
二人には聞こえないように声を押し殺して、柳に近づく。その瞳には、恐怖しか映っていない。最近またアイツの夢を見てたみたいだし、大方、青竹先輩を見つけて、ありありと前の記憶が蘇ったんだと思う。
 ――本当に、ふざけんじゃねぇ。

 あの時、たまたま先輩と俺は学校近くのラーメン屋で食事をしていた。その帰り道、近道としてあそこを通り、男に襲われている柳を見つけたのだ。
 ……そう、本当に偶然だった。
 見つけてすぐ、その男を二人がかりで殴り飛ばして、柳を助け起こした、のに。
『柳さん、大丈夫?』
『…………っ、や、いやぁ!!』
『、』
 
最初はまるで人形のようだった柳は、先輩に腕を捕まれた瞬間。それを振り払い、柳は泣き叫んで、自分の身体を抱きしめて震えてた。男を適当にそこら辺にあった縄で縛った俺は、青竹先輩を拒否する柳を目に止め、その怯えように驚いた。そのまま名前を呼んでも、泣くだけの柳。
 よくよく見て、暗がりでも分かるその被害に、心底ゾッとした。
Yシャツのボタンは第三まで切り取られ、はだけて。その白い首筋には、無数の赤い痕。頬は殴られたのだろうか、真っ赤に腫れて。唇の端は切れ、髪は砂と土がまみれてグシャグシャになっていた。
 
一瞬、絶句する俺を置いて、青竹先輩は柳に近付いた。そんな先輩と一緒に、俺も柳の顔を覗き込む。
 ……だけどそれが恐ろしかったのだろうか、柳は顔を引きつらせながら、舌を出して。
 ――俺が見る限り、柳はその舌を、噛み切ろうとしたのだ。
 その時は本当に慌ててその口内に自分の指を突っ込んだ。正直、かなり痛かった、と思う。だけど俺の指だと認識していないらしく、躊躇もなく、噛み切ってやろう。そういう気持ちが読めて。あれだけ強く自分の舌を噛んだら、どうなるか。分からないほど馬鹿でも無い。パニックになる脳で、例え噛み切られたとしても、ここで退いたらこいつが危ない、そう心底思った。そんな俺に反して、青竹先輩は。
『……恍、このままじゃ指が切れる。手を、引いて』
 
あくまで穏やかに、俺に指示した。もちろん反対したけど、優しく言うその口調には逆らえないもんがあって。息を呑んだ後、――指を、引き抜く。
 柳を見ると、再び大きく口を開き、そこに青竹先輩は、自分の二の腕をねじ込んだ。
『む、ぅう、ぐっ!?』
『……大丈夫だよ、柳さん。大丈夫、もう、君を傷付けるものは、無いから。だから自分を、傷付けなくていいんだよ』
『ぅや、む、うう〜!!』
『大丈夫、俺達は君を、傷付けないから。大丈夫だよ、安心して……』
 
指よりずっと太いもんがいきなり口内に押し込まれたせいか、驚いて柳が身体を引いた。だけど先輩は両腕で柳をしっかり抱きしめ、背中を優しくさすっている。嫌がり、怯え、逃げようとする柳を強い力で引き留めながら、耳元で優しく大丈夫、と囁き続けた。……痛いはずなのに、いたって平然とした、優しい微笑みで。
 何十分かと思われる時間を経て。
――ようやく、その口から青竹先輩の腕は、解放された。慌てて先輩の腕を見やると、袖は引きちぎれ、くっきりと歯形が残り、血が滲む。あまりに痛々しい、その傷口。俺の指の傷も結構深くて、血が止まらなかったけど。焦った俺の顔に、青竹先輩は大丈夫、と笑って、柳の頬を撫でた。
 一瞬、びくりと肩を揺らした柳。怯えながらも、目は合うし、ちゃんと俺達を、認識してる。
『ぁお、たけしぇん、ぱ……?……ひゃま、ぉと……』
 
ずっと歯に力を込めていたせいか、上手く話せないらしい柳の頭を、先輩は優しく叩いてやり。鞄からジャージを取り出し、それを着せて、警察に連絡をした。

 あの時みたいに自傷には走っていないからマシだけど。それでも、刑務所に入ってなお、こいつを苦しめるアノ男が、むかつく。言葉にすれば、頬を殴られ、キスマークをつけられ、服を切り裂かれただけだ、と人は言う。実質的被害は、そんなに大きくない、と。
 けれど、受けた心の傷は、決して癒えない。小さくなっても、いつまでもいつまでも、柳の心は引き裂かれたままだ。実際、事件後しばらくカウンセリングに通っていたし、今でも時々、夢を見た後など男に近付かれると身体が固まる。町で見知らぬ男に声をかけられたりぶつかられたりすると、吐き気も覚えるらしい。
 何だってあんな奴のために、こうやって傷付かなくちゃならない?どうして、どうして――。
 脳内をグルグル回る思考を宥めながら、……あの時と、同じ。俺の手を避ける柳を、青竹先輩のように、強く、強く、抱きしめた。激しく抵抗して俺の肩に噛み付くけど。指と違って食いちぎられる心配は無いし、痛みもそこまで長引かない。だから青竹先輩はあの日、俺に退くよう指示したのか、と思う。万が一にでも、あの時柳が俺の指を噛みちぎってたら、一生消えない傷をこいつに残してたから。ごめんな、そういう意味を込めながら、背中をさする。
 
小さな、身体。
 
一年以上もの間、一人でこんな恐怖と戦ってたんだな、そう思う。
 だけど、俺は側にいるから。お前のこと、今度はちゃんと守るから。そういう意味を込めて「大丈夫」そう囁いた。あの日の青竹先輩は、この言葉をどんな気持ちで言ったんだろう。分からないけど、俺は俺なりの大丈夫をこいつに贈ればいいと、思った。
 そうする内に、柳の力は徐々に緩み。顔を覗き込むとすぐに、意識を失って、俺の胸元に倒れ込んだ。

 その後、落ち込んだ青竹と一緒に保健室に柳を運び。とりあえず文化祭が終わるまで教室待機して(神奈には柳をどこにやったかと怒鳴りつけられた)、今に至る。
「山元先輩、」
「あ?……ああ、青竹」
 
青竹もどうやら柳が心配で、すぐに飛んできたらしい。息を乱したままの青竹に苦笑し、カーテンの内側に招き入れる。柳の顔を見る青竹は、今にも死にそうで。おまえの方が休んだ方がいいんじゃねぇの、なんて軽口は言えなかった。お互い黙り込んだ後、おずおずと、青竹が口を開く。
「柳先輩がこんな風になったの、俺のせい、ですよね……」
「あ?……いや」
 
そういう訳では、決して無い。むしろ、青竹に落ち度は全く無いのだ。しいていうなら、タイミング、くらい。
「……お前のせいじゃ、ねぇよ。……こいつな、昔、帰り道に男に襲われたことあるんだ」
「……え」
「まぁ、たまたま俺と青竹先輩が通りすがって、未遂にはなったけど。……でも、今でもそん時の記憶がたまに蘇るみたいでな。男っつのーが、全部怖くて仕方なくなるらしい」
「……」
「多分、それについでその記憶の中心の先輩を久々に見て、パニックになったんだよ。お前は、悪くない」
 
だから、気にすんな。俺がそう言うのと、背後で「ん……」と声がしたのは同時だった。振り返ると、柳がうっすらと目を開けている。何処か焦点の合わないその瞳を覗き込み、「柳?」と声をかける。何秒か黙って俺の顔を見た柳は、弱々しく笑った。
「やまもと」
「大丈夫か?気分とかは?」
「……へーき……。ごめん、山元がここに、運んでくれたんだよね……?」
「ん、俺と、青竹」
 
身体を起こす柳の手伝いをしながら、最後の質問には後ろの青竹を指で示す。すると、柳は目を見開いた後、「あ」と、声を上げた。青竹は、顔を上げない。
「……」
 
気にくわないが、俺はどうやら、邪魔者らしい。そんな空気を読み取って、頭を掻きながらおもむろに立ち上がる。俺の行動を目で追う柳に苦笑して、額を軽く弾いた。
「青竹に、事情は話しといた。ちょっと俺、外出てるな」
「……ん、」
「んじゃ青竹、襲うなよー」
 
気怠げに捨て台詞を吐いて、振り返りもせずに、カーテンの外へ出る。――途端、肩が、ズキリと痛んだ。
「……っ、」
 
保険医の先生は、俺と入れ違いに、職員会議で出て行ったな、と思う。そんなことをぼんやり考えながら廊下に出て、Tシャツの裾を捲った。そこには、はっきり歯形が残り、赤くなってる。血は出てたらしいが、今は乾いていた。
「……ったく、あの馬鹿。容赦ねぇんだっつの」
 ぼやきながら、どうしたって愛しく感じる傷を柔らかく撫でた。別に好きな女に痛いくらい噛み付かれて興奮する訳でもないし、決してMでは無い、俺は。
 
――だけど、これは彼女が俺に甘えた証拠だと、そう思うから。
 
俺は知っている。
 柳が、俺だけは恋愛対象に見ないだろうことを。
 あの日、いた、二人の男。青竹先輩に関しては、恩人として完全に信頼を預け、それは後に恋愛へと発展した。
 けれど、俺は違う。同じ現場にいたことで『特別』扱いはされているものの、それは、完全に男として見られていない。それで、青竹先輩とは別の意味で、俺はあいつに触れることを許されている。
 ……俺の気持ちが、そんなあいつを怯えさせていることは分かっている。告白したせいか、何のせいか知らないけれど、俺ももう、拒絶の対象になっている。だからきっと、もうあいつを、以前みたいに守れない。……自信もない。側にいればいる程、気持ちが募って、膨れ上がる。滅茶苦茶にして、俺以外見せたくなくなる。
「それが、ばれてんのかな」
 男の、剥き出しの欲望。あいつが怖がるそれが、俺の中にあるのを、知ってしまったから。
 本当は、俺は多分、一番不利な男。今、柳の一番側にいるけれど、それ故に距離は縮められない。壊れた柳を知っているだけに、必要以上に強引にも、正直にもなれなくて。
 ……けれども、離さない。最初から、無茶は承知で、あいつの隣を選んだ。どうやったって、あいつ以上に甘やかしたくて、優しくしたくて、大事にしたい存在がなかったから。
 
だから今日。俺の言葉で戻って来たあいつを見て、嬉しかった。頼りにされてる、そう思ったから。
「あー……振り回されてんな、俺」
 
苦笑して窓の外の月を眺めながら、肩の傷を撫でた。


  

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