16.弾けた心(5)


 山元が出て行った方向を私が無意識で追っていると、青竹くんが遠慮がちに隣の椅子に座った。慌てて青竹くんの方を向く。
 ……どうしよう、何から謝ればいいのかな。約束破っちゃったこと?噛み付いたこと?青竹先輩の名前を連呼したこと?ああ、数え切れない。私はどれだけ青竹くんに失礼千万を働いてるのか!!我ながら情けない上に申し訳なくて、頭を抱えてのたうち回りたい衝動に襲われる。
 けれど視界に、青竹くんのぎゅっと握った拳が入ってきて。怒ってるのか、やっぱり。納得してしまい、とりあえず謝ろうと思って、口を開いた。
「あの、」
「柳先輩、すみませんでした!!」
「……は?」
 ――
けれどその瞬間、被さるように言われた台詞に、瞳を瞬く。呆然と青竹くんを見ても、彼が俯いたままの状態では頼りなさげなつむじしか見えない。紅茶色のそれがツヤツヤしてることに妙な感動を覚えながら、私は首を傾げた。
「えと、謝るのは、私だよ、ね?」
「…………へ?」
 
とにかくそれは最優先で伝えなくちゃ、そう思って口を開くけど。今度は、青竹くんが首を傾げる番だった。私が言った後、一瞬反応がなかった彼は、数秒して、ぽかんとこっちを見つめている。……ああ、話が進まない!!
「だって、約束破ったり噛んじゃったり……、私、青竹くんに色々しちゃったじゃない」
「それは、俺が悪かったんですよ。先輩の状態に気づけなかったし」
「でも、青竹くんはそういうの知らなかったわけだしさ?やっぱり、私が悪いよ」
「いや、あれは不可抗力じゃないですか、どっちみち。俺のは自業自得ですし」
「痛かったでしょ?噛み跡。私ね、歯、強いの。だから被害の度で言ったら青竹くんのが深刻なのよ」
「いや、そういう問題じゃないですし……」
 
このままじゃ埒があかない、そう思って話し始めた。彼もそう思ったのか、すぐに話に乗ってくれる。だけど、話は平行線を辿った。――お互い、自分が悪いって譲らないから。子供の喧嘩じゃないか、話していてそう思う。小学生の時、よくこんなことをした。『私が悪いの!!』『私だよっ!!』みたいな。なんだか、そう思うと無性に面白くて。
「……ふふ、」
 
青竹くんの言葉を遮るように、クスクスと笑みが零れた。びっくりしたように青竹くんが、私の顔を見つめる。その真剣に丸まった瞳が可愛くて、ますます笑ってしまう。
 そうだ、彼のこういうところは、青竹先輩とは違う。純粋なのだ、この子は。色んな意味で。そして、ひどく自分を責めやすい子でもある。
 困ったように視線を彷徨わせる彼に軽く微笑みかけて、肩を竦める。
「あのね、心配してくれなくても、私はもう大分復活してるから、平気。私、今日の自分が青竹くんにひどすぎて、ちょっと嫌になったんです、」
「な、」
「ごめんね。最初に、注意しとくかどうにかしとけば良かったね。……青竹先輩に関しても、来ること知ってた訳だし」
 
――不思議だ。こんなに早く笑える、自分が。こんなに楽に、青竹先輩の名前を出せる、自分が。こうして、今さっきのことを嘘みたいに、笑って青竹くんと接している自分に、吃驚する。そして同時に、ひどく安堵する。ああ、私まだ、大丈夫だなって。
 とにかく青竹くんへの謝罪がしたかったから、言い終わって、ペコリと頭を下げた。「ごめんなさい」の言葉付きで。頭を下げていた私に彼の反応は伺えなかったけど、数秒後、大きなため息を吐かれて。「……頭、上げてください」と小さな声で言われた。素直に頭を上げると、俯いたまま、どこかまだ暗い顔の青竹くん。どうしたの、と尋ねる前に、彼は席を立って。
「……本当に、すみません。俺、今日はもう帰りますね。お大事にしてください」
「え、あ、……うん、」
 
有無を言わさぬ口調に返事も返せずにいる内、彼は足早にカーテンを抜け、ドアを閉める音が聞こえた。私は何となく、青竹くんが、心配で。いつも余裕で、だけど柔らかく微笑む青竹くんに反し。出て行く時の彼は、余裕の無い、まるで貼り付けたような笑顔だったから。
 だけどそんな考え事も、再び開いたドアの音に遮られる。迷わずこちらに向かう、大股の足音。声を聞いた訳でも、顔を見た訳でもないのに。分かって、しまう。
「――山元っ」
「お、元気そうだな」
 
カーテンが微かに開いた瞬間、焦れたように私は、山元の名前を呼ぶ。すぐさま顔を覗かせた、端正な顔は私を見て緩やかにほぐれた。
 山元は、すぐにベッドの上に乱暴に座り込んで、私の頭をグシャグシャに撫で回す。その手に、一瞬肩を浮かしたけど。だけど気にする訳でもなく、私の髪に指を通すそのマメだらけの固い掌が、むしろ愛おしくも、あった。抵抗しない私を変に思ったのか、山元が手を一旦止める。気持ち良いその掌が感じられないのが、少し、口惜しくて。自然と言葉が口から出る。
「や、」
「……ん?」
 ――
自分が言っている言葉が、少しじゃなく、かなり恥ずかしい。頬が赤く染まっていくのが分かったから、俯きがちだったけど。その瞳を、しっかり捉えながら。

「……やだ、……止めないで?」
 今は、あの優しい掌を。どうか、離さないでと、願わずにはいられなかった。

 言ってしばらくしても、山元の掌は、動かない。どうしたんだろう、そう思って、もう少し顔を上げる。すると呆けた顔をしていた山元は、途端にばっと手を離して。あ、と思ってる内に、その両手を立てた膝に乗せ、よく分からない呻き声を上げている。
「山元?」
「……」
「どうか、した?」
 いつもと様子が違うその姿に、そう言うと。たっぷり十秒は開けた後、顔も上げずに「……天然も、ここまで来ると犯罪だと思う」なんて、よく分からない台詞を口にした。
 数分、そうしていただろうか。ようやく顔を上げた山元は、何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。そして、私の後頭部に大きな掌を伸ばして――。
「ぅわ、」
「……変な声出すなよ」
「な、や、山元が悪いんでしょ?」
 
そのまま、自分の胸元に引き寄せた。私は丁度、彼の二の腕の下から首だけを出している状態。なかなか辛い体制なんだけど、恥ずかしいはずなんだけど。どうしてか、今はこのぬくもりが恋しいから。あえて身を預け、その堅い胸板に頬を擦りつけた。一瞬、山元が息を呑む音が、聞こえたけど。そんなの、知らない。仕掛けたのはそっちが先なんだ、離れてなんかやるもんか。今日だけだから、そう心で言い訳て、離されないよう、強くそのTシャツの裾を握った。
「ったく、お前なぁ」
「何よ」
「現金っつか、馬鹿?……俺のことも、駄目になったんじゃないの」
 
聞かれた言葉に、思わず身体を跳ね上げる。やっぱり、気付かれてたんだ。でも、理由は私にだって分かんないよ、山元の体温があったかくて、妙に心地よく感じるから。思わず、縋ってしまうのだ。
 昨日まで、確かに怖くて仕方なかったのに。今はこの温もり以上に落ち着ける場所なんて、ないとまで思ってしまう。
 けれど何て答えたらいいか分からなくて、ただ首を振ると、またため息を吐いた山元は、私の髪に頬を寄せた。耳元に落とされる、吐息混じりの声。
「――なぁ」
「何?」
「青竹と、何、話したの?」
 
気恥ずかしさを感じる前に、その台詞に私は、縛られる。
 青竹くん。『青竹先輩』と私が言った時の、泣きそうなその表情が、瞼の裏から離れなかった。
 分かってる、はずだったのに。彼が青竹先輩に対してひどい劣等感を抱いていること。私がその名前を口にすることが、タブーであることも。
 なのに私は、自分の事情にかまけて彼を傷付けてしまった。その事実はひどく胸を刺して、ズキズキ、音がしそう。それを伝えようと思ったけど、言葉にならなくて。俯き、言葉を探しながら、首を振って。少しだけ、その胸に深く顔を埋めた。微かな汗の匂いと一緒に私の鼻に届くのは、タオルとかと同じ、山元の家の、洗剤とか、そういう類の香り。私の心境を知ってか知らずか、相手は黙ったまま、頭をぐしゃぐしゃと力強く撫でてくれて、優しく笑う声が頭上を通りすぎた。
「なんか知らねぇけど、お前、また自分を一方的に責めてる訳?」
「一方的っていうか……、私が、悪いから……」
 
そう、私が悪いんだ。私がしっかりしてれば、あんなこと起こらなかったし。そして今になって、こんなに揺さぶられなかった。我ながら馬鹿だな、と思う。そしてそのタイミングを計ったように、山元は、笑った。いつも通り、きっと意地悪な微笑みで。優しく、「馬ー鹿、」って。
「……そうだよ」
「青竹が、そう言ったのかよ?」
「、え、」
「青竹が、お前が悪いって言ったのか?お前が一方的に悪い、って?」
「そ、れは、言われてないけど」
 
でもそんなの、言うはず無いじゃない。彼は、優しい人。――だから人の心が壊れることに、ひどく敏感だ。だからこそ、そんな風に人を責める言葉なんて使わないって、そう思うんだけど……。
「勝手に自己完結すんな。それはお前の悪い癖だろ?ただ自分だけ悪いって言って相手の言葉の意味を考えなけりゃ、それで話が終わっちまう」
「……駄目、なの?」
「駄目、つーか。相手と向き合わなきゃ、大事なもんは見えねぇよ」
 「だろ?」そう促す山元に、黙り込んでしまう。
 ――向き合うのが、怖かった。面と向かって罵られるのが怖くて、だから、まるで逃げるように謝罪を繰り返した。

 
悪いと思ったのは、本当。
 
だけど、怖いなって思ったのも、本当。
 
私すら、気付いていなかったこと、なのに……。

「……どうして、なの?」
「あ?」
「どうして山元は私のこと、何でも分かっちゃうの?」
 
私は山元のこと、何にも分からないのに。拗ねたような言い方になってしまったのは、否めない。すると山元は小さく噴出した後、腕を上げて私をゆっくり解放した。背中越しに、皮肉げに微笑みながら、目を合わせて来る。
「俺だって、お前のことは何も分かんねぇよ。当てずっぽうだ、そんなもん」
「、でも」
「ま、一年以上一緒にいんだからな。側にいりゃ自然と分かることもあるし、全然分かんねぇことも、ある」
 そんなもんだろ?そう言って笑う山元の横顔を見つめながら、私は何とも言えない気分になった。
 ――そうなの、かな。私は山元のこと、よく分かってない気がする。意地悪な癖して優しかったり、その逆だったり。笑ってる時だって、その裏で怒ってる時も悲しんでる時もある。
 どうして私は、こんなに山元が分からないんだろう。
 ……どうして私は、山元を知りたいと、思っているんだろう。
 
黙ったまま、両膝を立てて体育座りをする。頬に感じる柔らかい布団の感触にため息を吐きながら、ジッとその背中を見つめた。
 広い背中。汗のせいか、一部分の色が変わってる。この背中に、守られてきた。助けられてきた。私はこの人に、何を返せるのかな……?

「つーかお前さ、」
「え?」
「……」
 
いきなり声をかけられて、驚く。顔を上げるけど、向こうを見たまま、振り返らない山元の視線とは絡まない。首を傾げながら、その背中に話し掛けた。
「何?山元」
「……」
「ちょっと、言ってよ」
「…………」
 
だけどいつまで経っても返事は返さないし、こっちも向かない。思わず唇を尖らせて責めるような言い方をしてしまう。何なんだろう。どうしてこんなに間を取るのか?こんな山元は初めてで、対応に困る。
「……メール、見たか?」
「、は、」
「だからっ!!俺のメール見たかっつってんだよ!!」
 
不意に言われた言葉は、余りに予想外で。思わず返事を返せずいた私に苛立ったのか、半ば叫ぶように言う山元。
 メール、って、あれだよね……?
 昼に開いたケータイを思い浮かべて、私はちょっと溜めてから「……ううん、見てない」と答えた。見てないって言うか、見なかったんだけど。それは流石に言えないので、ささやかながら嘘を吐くと、山元はガックリ肩を落とした。
「くしょ……、何で見てねぇんだよ」
「ご、ごめんね?何か急用だった?」
「急用、つーか……、」
 
ひどく落ち込んだように言う山元に慌てて謝りながら尋ねると、言葉に詰まる、彼。本当に、今日の山元はキレが悪い。そんなに大事な用事だったのかな?
「別に、急用とかじゃ、ねぇけど」
「そうなの?」
「……ああ」
「何て送ったの?ごめん、今ケータイ持って無いや」
 
ポケットを探るけど、入って無い。多分、教室に一回戻った時に置いて来ちゃったんだと思う。何だかいい加減申し訳なくなって、質問する。
 その瞬間、山元の肩はビクリと跳ねて、しばらくしてから、大きなため息。同時に、ボソボソと話し始める。


「……か」
「へ、なに、」
「…………か、って」
「ぇ、ごめん、もういっかい、」
「っだから明日!!一緒に、回らないかって……っ、」

 ――そこで私は、やっと気付いた。耳まで真っ赤に染める、山元に。多分、こっちを向かないのは怒ってるからとか、そういうんじゃなくて――。
 気付いたら妙にその姿が、可愛く感じて。思わず笑いを零すと、「笑うな」なんて不満げな台詞。

 何だろうね。
 
そうやって、照れたり、不器用だったり。
 
そう言う君を見ると、君の一部だけでも分かった気がして、嬉しくなるんだよ。

 もう一度笑って、目を細める。黒髪の隙間から見えるその真っ赤な耳が、本当に面白くて。クスクス笑いながら、どう返事しようか、そう思う。私の気持ちはとっくに決まってる。山元の言葉を聞いた瞬間、あったかくなった気持ちがあるから。だけど、普段の意地悪の仕返しに、ね?
「そうだねぇ……」
「……、」
「気が向いたら?」
 
笑い混じりの言葉に、ぴくりとその肩が震える。何で信じちゃうかな?本気で言ってるはず、ないじゃない。でも正直なその反応が、やっぱり微笑ましくて。そっと手を伸ばして、そのTシャツの裾を、ぎゅっとつかんだ。
「嘘。いいよ、一緒しよう?」
「っ、」
「山元と一緒だったら、きっと楽しいよねっ!!」

 心からの言葉と、笑顔を。最後まで山元は振り返らなかったけど、更に赤味を増すその耳朶を、微笑みながら見つめて、いた。


  

inserted by FC2 system