ここが世界の端ならば、俺はただ、その下の闇に落ちてしまいたかった。

深く深く。

あなたを、忘れるほど深く。


17.世界の端がここならば


「……ただいま」
 
暗い声で明るい室内に声をかける。でも、誰も気付かなければいいと思った。誰にも、会わないまま。今は部屋に行きたい。あの泣き顔が、今にも瞼の裏側に蘇って、辛くて――。
「あ、悠。早かったな」
「、」
 
最悪だ。思わず唇を噛み締め、二階から降りてきたその声の主を睨み付けてしまう。「おかえり」、なんて。今は軽々しく、口にして欲しくなかった。少なくとも、兄貴には。
 俺の顔が歪んでるのに気付いたのか、兄貴は首を傾げながら俺に近づく。その、自分にそっくりな顔が、今はどうしても見たくない。
「どうかしたか?体調でも悪いのか?」
「……別に。つか俺、部屋いるから」
「飯は?母さん作ってくれたけど」
「兄貴が食えよ。……悪いけど、俺腹減ってない」
 
俺の気持ちなんか知らないで、穏やかに笑いながら話す兄貴に、イライラする。
 こんなの八つ当たりだって、十分わかってる。それでも、辛かった。兄貴の存在が、兄貴の声が、全部が。とにかく素っ気なく言って、上に上がろうとする俺の腕を、兄貴が掴む。
「……何?」
「……」
「何だよ、兄貴っ」
 
俺は階段を登ってる途中だったから、若干兄貴より高い位置にいる。俯いたまま、俺のこと引き留めたくせに話そうとしない兄貴にイライラした態度も隠さず、半ば怒鳴った。

 
何にこんなイラついてんだよ、俺。
 別に兄貴が悪い訳じゃないって、知ってるのに。
 じゃあ、何?
 山元先輩に嫉妬した?
 それも、違くて。
 それとも、柳先輩がいきなり逃げ出したのにむかついた?
 違う、そうじゃない。
 じゃあ、何だよ。本当に、意味分かんねぇ。

 帰ってくるまでに永遠ループした思考の深みに、もう一度、嵌りそうで。ずきずきと音を立てる勢いで痛む頭に、咄嗟に手を当てた。それと同時に、兄貴が口を開く。
「――は、?」
「……何、聞こえない」
「……柳さんは?元気、か……?」
「っ」
 
予想しなかった名前を兄貴の口から出されて、思考が固まる。何で?何でそんな、心配そうな顔してんだよ。兄貴が、助けたからか?だから今でも、柳先輩を心配するのか?何だよそれ、ただの後輩だろ。そうとしか思ってないから、ふったんだろ?
 だったら、いいじゃん。もう放っておいてくれよ。柳先輩の、こと。そうじゃなきゃ、俺は二度と、柳先輩の瞳に映ることが出来ない。
 ハッキリと顔を歪める俺の目を見ながら、兄貴は悲しげに眉を顰めた。
「言いたくない。兄貴には、言いたくない」
「……悠?」
「俺は、柳先輩が好きなんだよっ!!」
 
けれど俺の叫びを聞いて、兄貴は目を丸くし、手を離す。肩をいからせる俺を、ただひたすら見つめる。
驚いている。そりゃ、そうか。家で柳先輩の話を出したことなかったから、知らないのも当然だ。だからこんな風に兄貴を拒絶する権利も、怒る権利もないのに。
 悔しい。どうして、兄貴が罪悪感に駆られたような面、するんだ。八つ当たりなんかして、俺が悪いと罵ればいいのに、子供だと怒ればいいのに。
 昔から喧嘩をした時、いつだって兄貴は冷静で、すぐに謝って来た。その度にまるで、俺なんか眼中にない、そう言われてる気がした。
 兄貴がもう少し子供であったなら、俺がもう少し大人になれたなら。俺はこんなに、兄貴にコンプレックスを持つようにはならなかった。
 ――知ってるよ。
 顔は似てるけど、兄貴と俺は全然違う。バスケだって兄貴の方が上手いし、勉強だって兄貴の方が出来る。兄貴は料理も出来るし人付き合いもいいし、ノリもいいし。完璧だから、嫌なんだ。一部でも悪いところがあれば俺は満足出来たのに、兄貴は完璧な人間だったから。だから俺は、自分が嫌で仕様が無かったんだ。
「……ごめん、無神経だったな」
 
ほらまた。
 何で謝る訳?俺だって、自分が悪いって知ってるよ、そこまで子供じゃない。兄貴が謝る隙をくれない限り、謝ることが出来ない子供ではあるけど。
「……何でなんだよ、」
「……え?」
「何で先輩ふったんだよ!?なのに何で、今でも先輩を気にするんだよっ」
「……」
「――っ何で今でも!!先輩を、兄貴に縛り付けるんだよっ!!」
 ……ああ、完璧な八つ当たり。なんて俺は、馬鹿で醜い人間なんだろう。これ以上の醜態は無いだろうってくらい、俺はみっともなかった。

 つまりは単純に、嫌だったんだと思う。俺は。
 兄貴を見ただけで過去を取り戻す先輩にとって、今でも兄貴は特別な存在で。
 それを、覆すことが出来ない事実にも、それを受け取めて柳先輩の側にいれる山元先輩にも。
 俺には出来ないことばかり、目の前に立ち並ぶ。
 山元先輩が今まで、俺の強引な行動を留めていたのも、自分が無理に動かなかったのも。
 全部全部、きっと今回の事件に起因していた。
 知らなかったから仕方ない、確かにその一言に尽きるかもしれない。
 けれど。
 俺に向かって泣き叫び続ける柳先輩が、簡単に目の裏に浮かんだ。
 『青竹先輩』、って呼ぶ声も、簡単に蘇る。
 
俺がどんなに言っても、先輩にとっての青竹は、未だに“梢”であって、“悠”にはならないのか、って。
 考えれば考えるほど、目眩しそうになる。
 俺はあの時、先輩が傷付いてるのを心配しながら、責めていた。
 どうして俺を見ないのか、と。
 結局、俺は兄貴の替わりにすら、なれない。
 中途半端で、意味のない存在だ。

 言った後、急に息切れして、肩で荒い息を繰り返す。シンとして、言葉を返さないままの兄貴を見つめた。
「何か、言えよ」
「……」
「っ兄貴!!」
 何をそんなに焦っているのか、自分でも分からないくらい必死に呼び掛けた。ただ、どうしようも無いんだ。顔見てるとムカつくし、どうしようも無いのに。なのに、兄貴からの答えを待ってる。ムカつくはずの兄貴が、俺の欲しい答えを持ってるから。だから俺は、兄貴に縋るしかない。
「――知ってたからだよ」
「は、?」
「柳さんが俺のことを好きなの、知ってたから。だから、ふった」
 
意味が、分からない。知ってたから?だから、ふった?どういうことだ?
「正確に言えば、柳さんが俺を好きだと思ってることを知ってたから、かな」
「……意味分かんないんだけど」
「柳さんは、勘違いしただけだ。危ない時に助けてくれた人間には、何かしら好意を持つだろ。それを恋と思った」
「っそんなの、そんなの、兄貴の思い違いかもしれないだろ?」
 ――何で俺、柳先輩の気持ち肯定するようなこと、言ってるんだろう。
 柳先輩が本当は兄貴を好きじゃなかったとしたら、それは俺にとって嬉しいことなのに。なのに、俺は怖いんだ。気付いてるから。もしこの話が事実だと認めてしまった場合、浮かび上がる、もう一つの可能性。
「だって先輩は、泣きながら兄貴の名前呼んでたんだぞ!?」
「それは刷り込みだ。一番安心出来る異性、ってあん時柳さんの中に刷り込まれたんだろ。だから柳さんが俺を好きだとしても、それは異性としてじゃない。父親みたいなもんだ」
 
だから、気持ちに答えたらいつかあの子が泣くと思った、そう呟く兄貴。俺はそれを呆然と聞いてた。
 それって、もしかして。
「……兄貴は、」
「……ん?」
「兄貴は、――柳先輩が好き、なのか?」
 
そう言った瞬間、空気が張り詰めるのを感じた。再び俯いた兄貴の表情は、俺からは伺えない。だって、今までの口ぶりからして兄貴が柳先輩を大切にしていたに、違いない。ふった理由は柳先輩を思ったが故で、そこに兄貴の気持ちは挙げられていなくて。
 まさか、そんな。考えてもみなかった仮定に、唖然とする。だとしたら、俺は兄貴に何を言った?事情も知らないまま、どんなひどい言葉を投げ掛けた?自分の言動を思い返して、泣きたくなるほどの後悔に襲われた、時。

「それは、違う」
 はっきりとした声で、兄貴はそれを否定した。顔を上げた兄貴は、何とも言えないような苦笑を浮かべていた。似てるのに、俺じゃ決して出来ない、大人びた微笑み。
「それは、違う。だから、泣きそうな顔するなよ」
「っ、してねぇよそんな顔!!」
「俺から見ればそうなんだよ。気にしてない、大丈夫だ」
 
何でこう、俺が兄貴に気を使われなくちゃならないんだ。むくれる俺の頭を兄貴は乱暴に掻き混ぜてから、ポツリと零した。
「まぁ、気になってはいたけどな」
「……は?」
「放っとけないと思ったし、守りたいとも思った。だから正直、迷いもしたんだ」
「、」
「でも、そうしたら。俺は、自分を一生許せなくなったから」
 
そのまま、黙り込んで、兄貴は何の言葉も発しなかった。
 ……多分兄貴には、俺に分からないような色んな揺らぎがあったんだと思う。それを無理矢理聞き出すのはいけない気がしたから、何も言えなかった。
 俯いた俺に、兄貴はフッと柔らかく笑い、表情を引き締める。
「だけどな、悠。一つだけ言っておく。柳さんがまだ俺に縛られてるとしたら、それはあの子の問題で、俺には何も出来ない」
「なっ、」
「もしこれから先も柳さんが俺のことが好きだって、勘違いしていくとしても。それで次の恋が出来なかったとしても、それは、あの子が自分でどうにかしなくちゃならない」
 
急に話し始めた兄貴の言葉は、まるで柳先輩のことを丸投げするかのような発言で。目を丸くして驚く俺を尻目に、兄貴は淡々と言葉を並べた。
 そりゃ確かに、いつまで兄貴を好きでいるか、なんて、柳先輩の問題だ。だけど、その相手は兄貴なんだ。だから兄貴が少しくらい手を貸したって、いいんじゃないのか?
「それであの子が救われるなら、俺は手を貸す。だけど柳さんがそれを望んだ訳じゃないし、今俺が近付いたら、また柳さんが壊れるかもしれないだろ」
「――っそれは、」
「……いい加減認めろ、悠、」
 
言葉を中途半端に途切れさせて、兄貴が真っ直ぐに俺を見据えた。昔から、この瞳が苦手だった。強い光を帯びた、何もかも正しいと教えこまされるような、瞳。これがある限り、きっと俺は、兄貴から逃げられないし、逆らえない。
「俺を見て逃げ出したのは、ただ単にあの頃の記憶だけが原因じゃないと、思う」
「……」
「多分、柳さんは今不安定なんだよ。今悩んでることがあって、それを乗り越えるためには、あの記憶が必要だった」
「……なら、」
「ん?」
「なら、今、柳先輩の悩んでることって、何なんだよ――?」
 
震える唇から、それでも声は出た。本当は、薄々勘付いてる。答えなんて。
 先輩は、ずっと兄貴を好きなんだ。一番安心出来る、一番好きでいて楽な、兄貴を。一番、好きでいて自然な兄貴を。
 だけど、先輩の中には今きっと、別の人間が侵食している。それを認めるには。それから、逃げ出すには。嫌な事件の記憶が掘り起こされてしまう、程に。

 どうしても認めたくない。
 決して目の前に置かれたソレが、事実だと知りたくない。
 だって――。

「……お前は、気付いてるんだろ?お前の方が、今はずっと柳さんの側にいた。柳さんの変わっていく理由を、知っているはずだ」
「――違う!!」
「違わない。お前はもう、分かってるんだろ?だから逃げるんだろ?」
 否定したいのに。喉に引っ掛かった魚の骨のように、言葉が出てこなかった。だって、否定しようとすればするほど、頭を過ぎるんだ。

 柳先輩の笑顔、
 
はにかんだ様子、
 
甘さを含んだ柔らかい声、
 
伸ばされる細い指、
 
泣きながら、縋り付く弱さ。
 
――そして、それが与えられる、たった一人の男の姿。

 俺は、知りたくない。兄貴の言葉を認めていけば、まるでパズルのピースが徐々に埋まっていくように、自然とその事実は横たわるけど。それでも俺は、認めたくなかった。
 だってそうだとしたら、俺はどうすればいいんだよ。こんなに柳先輩を好きな俺の気持ちは、どこへ行けばいいんだよ。

 俯いたまま、階段を登り始めた俺に、兄貴はため息を一つ落とした。だけど俺は振り向かないで、兄貴はそれ以上、何も声を掛けてこなかった。
 放っておいて、欲しい。頼むから、俺のこと、知らないでいて欲しい。
 フラフラになりながら、ようやく部屋に辿り着き、ドアを開ける。鞄を乱暴にベッドの上に投げ出すと、そのまま、ドアに背を預けて、ズルズルと崩れ落ちた。
「……くしょ、……」
 
声に覇気は、無い。今胸を占めるのは苛立ちじゃ無くて、ただただ、虚しさだった。決して、一番大切で欲しかったものが、掌に入らないと知った時の、喪失感。
「ちくしょう」
 
暗い部屋に木霊する自分の声に、耳を塞ぎたい衝動に駆られながら、髪に指を通して、グシャグシャに掻き混ぜた。
 こんなに辛い思いをするなら、好きにならなければ良かった。過去をやり直せるなら、彼女と出会えなかった未来を、選ぶのに。知りたくなかった。
「……」
 
頬を伝う涙を感じながら、俺はただ、自分の身に余るほどの苦しさに、耐えていた。




こんなに人を好きになるなんて、こんなに恋しくてたまらないなんて。

――知りたくなかったよ、本当に。

例えばもう一度、未来を知ったまま、あの時に戻っても。
俺は選択肢無しで彼女を乞うだろうと、知っていた


  

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