18.natural(2)

 翌日、朝七時。眠い目を擦りながら、私は部室に向かった。まだ風も冷たい朝、一応セーターを着てきたけど、効果があるかは微妙だ。だけど、今日はこの時間に出てこなくちゃいけない、理由があった。
 ドアをノックする、と、「はい」小さな返事。意を決してノブを回す。そこには、予想通り。青竹くんがバッシュの紐を結んでいた。未だこっちを見ないままの彼を尻目に、ドアを閉める。すると、ようやくこっちを向いた青竹くんは、目を見開いた。あまりの驚きように苦笑しながら、ドアに背を凭れて挨拶をする。
「おはよ、青竹くん」
「……おはようございます」

 だけどすぐに、表情と口調を淡々としたものに切り替えて、口元だけ笑みを浮かべる。その悲しい笑いに、私はひどく胸が痛んだ。
 こんな表情を、させてしまっている。こんなに冷たい笑いを、青竹くんに。
 あの日、夏休みに見たときのあの無邪気な微笑み、忘れたりしない。あれからさほど日は経っていないのに、こんなに距離が開くものなのか。それは辛くて、でも、何より大切な記憶なんだ。
 ぐっと、手に持った鞄の柄を握り締め、青竹くんを見据える。けれど視線があった瞬間、彼は私から視線を外し、おもむろに立ち上がった。

「じゃあ、俺もう行きますね。後はゆっくり――」
「、っ」

 ……行ってしまう。このままじゃ。
 何のために、いつもより一時間も早い電車に乗ったかって、それは、青竹くんと話すためなのに。毎朝こんな早くから来て、始業ギリギリまでシューティングして、そうやって努力してる彼を、知ってるからなのに。
 考えるより、先。
 早足で私の横を擦り抜けてドアを開けようとする彼の、前に。両手を広げて、私は立ちはだかった。一瞬、そんな私に驚いたみたいだったけど。訝しげに眉を潜めた後、小さく苦笑される。
 駄目だよ、無駄。笑ったってね、私は青竹くんよりずっと身長が低いの。だから、見えちゃう。傷付いて、淋しい、悲しいって、そう訴えるその瞳の色合いに。

「何やってるんですか、柳先輩。俺、シューティングに、」
「駄目」
「……は、」
「行かせない。行くなら、私と話してからにして」

 真っ直ぐその瞳を見据えて、語気を強める。予想通り、青竹くんは辛そうに顔を歪めた後、黙って顔を逸らした。
 正直、マネージャーとしてはプレイヤーが頑張ってるなら応援するべきなんだろう。シューティングを邪魔するなんて、私にそんな権利、無い。
 だけど、知ってるんだよ?最近調子悪いでしょう。全然シュート、決まらない。楽しそうにバスケ、してない。その原因が全部私なんて、そこまで調子は乗らないけど、一割くらいはある、と思う。
 
だから、お願い。話をさせて。私のためにも、君のためにも。

 数十秒、お互い黙り込んだままだった。だけど、青竹くんは大きくため息を吐くと、近くの席に黙って腰を下ろして。
「……何ですか、話って」
 
どこか投げやりにも思える態度で、口を開いた。その顔を見つめるけど、彼はこっちは見てくれない。僅かに胸が痛んだけど、そこには触れず、静かに両腕を下ろして、話し始めることにした。疲労や、どこかやつれたようにも見える彼を見つめながら。
「単刀直入に、言うよ。――何で私を避けるの?」
「、」

 言葉通り、聞きたかったことを、口にする。ぴくりと肩を震わせるのを、しっかり視界に納めながら再び口を開く。
「私を嫌いになったの?」
「……別に、そう言う訳じゃ……、」
「じゃあ、何?答えて」

 多少、言葉尻がキツくなってしまったのは仕方ないと思う。でも、どうしようも無いじゃない。
 今なら分かる。私、山元や青竹くんや、他の男バスの子や、周りにいる友達の子。その子達は絶対に私を嫌いにならないって、そんな確信を持ってた。みんなの気持ちに、胡座を掻いてたんだと思う。だけど、そんなの気遣いを忘れてしまえば、崩れてしまう。私は、そんな罪深いことを、してしまったんじゃないのかな。青竹くんの優しさにかまけて、傷付いたままの彼を放り出してしまったのかな――。
「……」
 
焦る私の気持ちに反して、青竹くんは沈黙したまま。段々、呼吸をすることすら辛くなって来る。泣いちゃいけない。そう思うのに、涙が瞳の表面を覆うのを自分で感じていた。
 だって、辛いんだよ。いくら自分のせいなんだから、って自分に言い聞かせたって。青竹くんに避けられて、嫌われてるって思う日々は。気にしないようにしたって、頭の片隅に引っ掛かって、苦しくて。
「もう、やだよ……」
 
ポツリと鼻声混じりに吐き出した言葉に、やっとこっちを振り向いた青竹くんは、私の顔を見てギョッとした。
「や、柳先輩!?」
「……うー」

 涙を必死で堪えているから、顔の筋肉が変な風に寄ってぷるぷるする。すごい変な顔なのに、更に鼻水まで出そうになるから色んな意味で必死だ。
 駄目だな、何でこんなに弱いんだろう。人に迷惑かけて、甘えてばっかり。
 とりあえず、慌てる青竹くんに手を振って、大丈夫、と返事した。鼻水を啜って、もう一度、青竹くんを見る。困ったような顔で、頭を掻いている。申し訳ない気持ちになりながら、口を開いた。
「私、謝るよ。青竹くんを、傷付けたの、私でしょ?」
「ちが、」
「違わないでしょ?」

 否定してくれるのは、知ってた。でも、その言葉をそのまま受け取るのは、青竹くんに甘えることだ。人は嘘を付けるから。相手を傷付けないための、優しい嘘を。どんなに青竹君が否定しても、彼が今悲しんでいるのは、私のせい。ここで彼の言葉を鵜呑みにして引いてしまうのは簡単だけど。そうしたら、また。こんな日が来るのは、分かってる。傷付けた私が偉そうにするのは、おかしいかもしれないけど。
「ねぇ」
「……はい」
「教えて?青竹くんの、理由」

 意を決して、言った言葉。だけど彼は、また微かに視線を逸らすだけだった。
 ――どうしてなんだろう。何が彼を、こんなにかたくなに拒否させるのか。言うのすら嫌なことなのかも、しれない。
 だけど、知りたい。知らなくちゃいけない。それが私にとって悪いことでも――。


 今度は急かさないよう、意識して黙る。俯いて、自分の指先をずっと見ていた。面白みも何もない、かさついて荒れた手。私という人間は、こんな風なのかもしれない。触れた人が驚くくらいに、素っ気なく、柔らかさが無い。ぐっと唇を噛み締めていると、不意に、青竹くんが呟いた。
「……から、です」
「……え?」

 とっさのことで反応出来なくて、慌てて顔を上げる。困ったように、首の後ろに手を当てる彼は妙に情けなさそうな顔をしていた。そのまま、グッと唇をかみしめて、視線を下に向けて。

「……こんな風に、柳先輩を泣かせることが、分かってたからです」

 ――言われた言葉に、上手く反応が、返せない。
 泣かせる?こんな、風に?瞳に込み上げていたはずの涙はもう止まっていて、ただ青竹くんの言葉を反芻していた。未だ居心地悪そうに俯いてる青竹くんは、辛そうに言葉を重ねる。

「俺、先輩を傷付けてばかりなんです。いつも、いつも」
「そ、そんなことないよっ、何でいきなり……?」
 
その様子に、その言葉に、黙っていられなくて、慌てて言葉を返す。だけど青竹くんは暗い瞳のまま、私を見返してきた。そのまま、どこか悲しげな微笑みを私に返す。
「ずっと、思ってました。俺は先輩に優しくできない。先輩を、守れない。でも、俺は先輩から離れる勇気なんてなくて」
 
その自嘲気味な響きの言葉に、息を呑む。彼は辛そうに眉を顰めてから、ぐっと握った拳に力を込めた。
「――だけど文化祭の後、色々考えて。やっと、離れる勇気が、出来たんです。これからはもう、今までみたいなこと、無いから」
 だから、安心してください。言外にそう言い含めた青竹くんは、ひどく頼りない微笑みを浮かべた。
 ここ最近、ずっと私が思っていた、今にも壊れそうな。そんな風に、悲しい微笑み。
 違うよ。私が見たいのは、そんな笑顔じゃない。私が聞きたいのは、そんな言葉じゃない。本当の君は、どこにいるの?あの日私がとても好きだと思った、とても素敵だと思った君は。
 ねぇ、お願いだから。――逃げないでよ。
 気づいたら、私は自然と笑っていた。スッキリした、とは違う。ただ、苦笑にも似た笑顔が、自然とあふれてきた。
 何、山元。あんた私のこと、馬鹿にしたけどさ。

「……青竹くんも、結構馬鹿じゃない、ね」
「……は?」

 泣きそうな顔だった青竹くんは、私の言葉に目を瞬いた。その様子に、もう一度、笑って。一歩、近づく。
「今の青竹くんに、ぴったりな言葉、知ってるよ」
「え、……え?」

 何も分からないのか、困ったように眉を寄せて、じりじり距離を詰める私を、困った表情で見つめてくる。
 でも、私は分かったの。山元の言った言葉の、意味に。

「自己完結、って言うんだよ」
「……」
「青竹くん、私の言葉、聞いてなかった?あの時私、青竹くんが悪いとか、傷付けられたなんて、言わなかったじゃない」
 
ちょうど正面に立って、下から彼の顔を見る。瞳の色は困惑に包まれていて、何とも言えない戸惑いを表している。
 だけど、言葉の通り。
 私も青竹くんも、馬鹿だった、ね。相手の言葉を、ちゃんと受け取らなかった。自分の気持ちばっかり、優先して、殻に閉じこもった。
 それが今、分かったの。
「喧嘩して、自分が悪いって言ってさ、そのままでいても、何も手に入らないじゃない。相手の態度の改善も、もちろん自分のことも。現状維持って言っても、それに不満があるから喧嘩した訳でしょ?」
「……はい」
「だから、一回正面から、正直に自分の欲求を話さなきゃ、いけないんだよ。――私と、青竹くんも」
 
苦笑混じりに話すと、青竹くんは、黙り込んだ。
 しばらく、そのままお互い瞳を見つめ合う。彼の気持ちを探るようにその瞳を覗くと、……泣きそうに顔を歪めた。

「だけど、俺は……、」
「何?」
「……先輩を、いつか、傷付けます。またこんな風に、先輩を泣かせてしまうかもしれない、……」
 
そうしてまた、さっきと同じように、不安げな言葉を吐き出す。
 優しい子って、思ってたんだけど。青竹くんは多分、臆病なんだ、人と付き合うことに対して、極端に。その理由は、大事な人を失いたくないから、なのかな。それは、良い時もあり、悪い時も、ある。
 だから、私は。悲しげに眉を顰めたままの彼へ、腕を伸ばして。
 ―
ぺしっ
 
軽く、その頬を叩いた。下を向いていたままの彼は、目を見開いて、私を見る。
「ねぇ、私さ。そんなに弱くなった覚え、ないんだけど」
「え、……いや、その」
「青竹くんの中の私って、どんなイメージなの?ガラス細工でもあるまいし」
「……」
「一度や二度、意見の行き違いで壊れたり、そんな弱くないよ。ていうかむしろ、意外と図太い人間なんだ、私。守ってくれたり、優しくされるばっかりだったり。そんなこと、望んでない」

 イメージを壊すようで、申し訳ないけど。そう言って、軽くその頬を撫でる。すると途端に、顔を真っ赤に染めた。……そうだよ、それくらい、生き生きしてる方がいい。
「だからね、大丈夫だから。今まで通り接してくれた方が、私はずっと、嬉しいの」
 
トドメとばかり、ニッコリ笑ってみせる。
 そりゃ、私だって優しく守られて女の子扱いされるの、嬉しいよ。でも起こってないことに怯えて距離を取られるなんて、絶対に嫌。
 壊れても、もう直せないガラス細工とは違う。傷付いたら、時間が掛かっても、いつかまた、立ち上がれる。
 しばらく私の顔を驚いて見つめていた青竹くんは、しばらくして、「……そうでした、」なんて、苦笑した。
 その柔らかい微笑みは、いつも通り。彼自身が作り上げた、大切な、笑顔。

「本当に、もう」
「ん?」
「……人が諦めようとしてるのに、先輩はどうしてそうやって……」
 
ボソボソと吐き出された言葉が聞き取りづらくて、首を傾げても、笑われるだけ。そのまま、いきなり挑戦的に微笑んで。
「先輩がまだ気付いてないなら、俺は、このままでいますから。覚悟してくださいね」
「……何を覚悟するの?」
「言いません、」

 そしてそっと、手を外され、ニッコリ笑われる。……何だか上手い具合に言いくるめられてる気がするんですが。だけど、青竹くんが元気になったなら、まぁいっか、と一呼吸置いて、苦笑する、と。
「……はよ、」
 
聞き覚えのある声と一緒に、滑り込んでくる大きな身体。振り返ると、山元が欠伸混じりに部室に入ってきて、――私たちの姿を見て、目を丸くした。
「は?……え、何で?」
 
まだ眠いのか、ぼんやりしたように話し出すその姿が、面白くて。青竹くんと軽く目を合わせて、二人で笑う。彼は微笑み混じりに、山元を見つめた。
「柳先輩が、俺に話しあるって言って、来てくれたんですよ」
「…………はぁ?」
「ね、柳先輩?」
「うん、まぁそんな感じ」
 
からかい混じりのその言葉に、山元の周辺はちょっと温度が下がったと思う。だけど、青竹くんは気にする様子もなく、クスクス笑いでそんな話をした。言った言葉は間違ってないので、青竹くんの言葉を肯定する。段々と不機嫌になるその顔に苦笑して、鞄を持ち直した。
「じゃ、青竹くん。話も終わったし、私教室に戻るね?」
「あ、俺も行きます、シューティング」
「本当に?じゃあ、途中まで一緒に行こうか」

 二人で話しながら、山元の横をすり抜ける。未だ文句がありそうな山元に手を振りながら、私は青竹くんと歩いた。青竹くんの笑顔に、山元に、こうやって、笑える私。やっと戻ってきた自分に、私は嬉しくなっていた。




そんな浮かれている私には、またも見えないことだらけで。
不機嫌そうに私の背中を見つめる山元も、
悪戯っぽくそんな山元を見ていた青竹くんも、
そして自分が、変わろうと思った理由も。
何一つ、未だ気付けないまま、闇の中に。

  

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