止まらない、止められない。
大切なものを手に入れるため、諦めるために。
少年たちは、走り出す。
21.race(1)
空は真っ青、白い雲がふわふわと浮かぶ。見事な秋晴れの今日、ジャージ越しに感じる日差しが暑いくらい。
やって来ました、体育祭!!教室の窓を開けて、一人大きく深呼吸をしていると、肩を叩かれた。
「瑞希」
「あ、神奈。おはよっ」
「ん。ていうかいつまでそうしてんだよ。もう開会式始まるぞ?」
頭に黄色のハチマキを巻いた神奈は、ジャージ姿でもキリッと格好いい。にへら、と思わず顔を崩す私に軽くため息を吐きながら、時計を示した。んー?と唸り声を上げながら時計を見ると、確かにもう二十分前。グラウンドには人が集まり始めている。
「わ、本当だ」
「ほら、行くぞ」
「あ、ごめんごめん」
急いで机の上に置いていたスポーツバッグを掴むと、神奈が私の椅子を持ってくれた。
うちの学校では、体育祭の時はクラスで使ってる自分の椅子をグラウンドに運ぶ。で、指定の場所に置くのだ。慌てて教室の前でそれを受け取り、神奈、と小さく呼びかける。
「何?」
真っ直ぐな視線を受け止めながら、わざとらしくニヤリと笑い。
「目指すは優勝?」
「……あったりまえ」
謎かけのような言葉に、答えを返される。しばらく、お互い見つめ合った後――
―ぱぁんっ
手のひらを叩き合った。
横に並び、その顔を見つめると余裕そうな微笑み。バスケの試合が始まる前くらいに高鳴る鼓動に、わくわくする。これはもう、これはもう、勝つっきゃないでしょ!!
開会式が行われ、生徒会長や主賓の人たちの挨拶も終わり、今はみんな自分のクラスに戻っている。
私はというと。実は、先頭一番、最初の種目に出るのです!!出るのは『借り物競走』。実はこれ、昔からパン食い競争と並んでずーっとやってみたかったのだ。うちの高校は、こういうベタな種目が多い。去年はパン食い競争だったので、今年はすぐにこっちに立候補した。
でも私、パン食い競争は二番目の種目だったから、集合してて去年借り物競走、全く見てないんだよね。
だからかな。私が立候補したときのみんなの視線が妙に生ぬるく感じたのは。
あれは不思議だった、と首を傾げていると、選手入場のアナウンス。慌てて前を走っていく別のクラスの女の子の背中を追いかけた。
視界の端には、はためく黄龍。それを見て、思わず微笑んでしまった。山元が作ったそれは、もちろんクラスのみんなに大好評で、『絶対勝利』とその下に毛筆で書いてあるのは、書道部に所属する女の子が書いたもの。迫力あるそれに、何だか妙に励まされてしまって。くすり、と少し笑いながら、前を向いた。今は目の前の勝負に集中、集中!!
この時の私は、まだ。十分後に自分に降りかかるであろう出来事には、微塵も気付いていなかった。
「では、よーーーい……スタート!」
先生の声と同時に鳴らされた、競技用の銃の音に身体を前に滑らせる。アナウンスや観客が大声を上げる中、私や他の七人は一斉に走り始めた。
運動は得意じゃないけど、苦手でもない。体育はいつも三、たまに四という平平凡凡な成績だ。
とりあえず、一勝だ一勝!!個人競争は意外にも配点が高い。ここで三位以内に入れば、幸先いいスタートと言えるだろう。
百Mほど走り、借り物が書かれている紙の置いてある机に辿り着く。すでに二人ほど着いていて、早速紙を読んでいた。
……と、と、と。冷静に他人を分析している場合じゃない!!早く紙を見て、自分の分の借り物を見つけなきゃ。これは足の速さだけで何とかなる競技じゃないんだから。
とりあえず目についた紙を手に取り、――固まった。
……え。
いや、待て。
これは何の冗、談?
自分の目をごしごしと擦ってみるけれど、目の前の文字は変わってくれそうにもない。
いやいやいやいや。ちょっと待って、やり直し熱烈希望!!
内心大絶叫しながらも、すでに紙を取った女の子たちは観客に声を掛け始めている。これに衝撃を受けてないってことは、去年も参加してた、とかに違いない。ああ、どうして。どうしてあの生ぬるい視線の意味を真面目に考えなかったんだろう……!!
絶望する私に関係せず、はっきりと示す、目の前の文字。
『猫耳と肉球
※着用してゴールしなければ、最下位扱いとなります。』
うちの学校の借り物競走は、必ずその物を持っている仕掛け人が、観客に紛れているらしい。私はずっと、借り物競走の物と言えば、眼鏡とか特定のブランドのタオルとか。普通みんなが持っているものだと思っていたから、どうしてそんな人がいるのか不思議だった。
……そりゃ、仕掛け人いるはずだよ。だって他の女の子も。
「すいませーん、チャイナ服ありませんかー!?」
「白長学ラン、お願いしまーす!!」
――持ってる訳ないだろそんなの!!普通の体育祭参加者やら保護者じゃ!!
……うう。何だこれ、何だこれ。これは違う。借り物競走なんかじゃ、ない。意を決して息を吸い込んだ私の脳裏に、はっきりと正しい名前が示された。
「っすいませーーん!!猫耳と肉球持ってる方いらっしゃいませんかーー!?」
『恥 曝 し 競 争』 だ ! !
全力で頬を赤く染めながら、やけくそ気味に怒鳴り散らす私が、非常にイイ笑顔の仕掛け人からそれらを受け取ったのは、三分後。
チャイナ服などの着衣でなく、ただ装着するだけの猫耳&肉球だったのが、幸いしたのか。見事一位で私はゴールテープをくぐり抜けた。観客の笑いと、クラスのみんなの生ぬるい視線と、微妙な心の傷をゲットしながら。
「やっ瑞希お疲れ、一番だったね」
「おめでとう。似合っていたわよ?」
「きゆ……嬉しくない」
クラスの場所に戻ると、さっちゃんがまず真っ先に声をかけてくれた。その笑顔に癒されながらも、続けて言われたきゆの一言に、さっきの自分を思い出して、どよんとした空気を背負ってしまった。微妙に黒い笑顔のまま、きゆは「あら?」と首を傾げる。
「でも、それ――」
「お疲れ、猫娘」
きゆが声を口を開いたのと同時に、私の頭がぽんっと叩かれる。大きな手のひらとその声で、一瞬で持ち主がわかり、キッと斜め上を見上げる。
「猫娘言うなっ!!ていうか髪崩れるからやめてよ山元っ!!」
今日はせっかく、いつもの二つ結びじゃなくてポニーテールにしたのに!!
きーきーとわめく私に、山元は逆光で、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「ほお?だったら、お前の手にあるものは、何なんだ?」
「……っ」
ぐ、と口籠もる私を、山元はニヤニヤと見つめている。
……そう、そうだよ。コレを突っ込まれたらそりゃあ苦しいのよ……!!
「だっ、い、一位の記念とか言って!!無理矢理渡されたんだもん!!」
私の手にしっかり握られているソレは、さっき私に散々恥をかかせた、憎き猫耳と肉球。『君、似合うから貰っていっていいよ』なんてよく分からない言葉と一緒に押しつけられたのだ。その場に捨てると土まみれになっちゃうし、勿体ないし。仕方ないからここまで持ってきたんだけど、そのせいで「さっき一位の猫耳だ」と指差され、笑われたのだ。
っああもう今日はなんて日なの!!神奈との格好いい朝なんてどこかに消えちゃったよ!!
頭を抱える私に、山元は「ふーん」とつまらなそうに呟いた。それに顔を上げると、笑ってるけど、なんか。
「……どうしたの?今日、調子悪い?」
なんか、元気ない気がする。
首を傾げると、山元はじっと目を細めた。意地悪くからかわれるのは別に好きじゃないけど、……こうやって凝視されるのも、無駄に緊張する。
身体を縮こめる私に、山元は苦笑し。腰をかがめ、そっと、私の耳元に顔を寄せて。
「――ただ、妬いただけ」
囁きながら、私の首筋にかかっていた毛先を、そっと払った。
「っ!!」
一瞬、うなじに触れた指に過剰なまでに反応し、肩を跳ね上げる私に、くつくつと笑いを零し。空いた左手で、私の右手に握られていた猫耳を撫でる。
「俺以外に、柳が、そんな可愛い格好見せるから」
「……妬けるだろ?」と同意を求める甘い声。
ってか、近い!!近い!!今昼間だし屋外だし、ていうかそれ以前に意味分かんないし、ああもうどこから突っ込めばいいの!!パニック状態に陥る私の耳には、未だ落ちる、甘い甘い、囁き。猫耳を弄っていたはずの指先は、気まぐれに私の爪先を撫で始めて。
「折角だから。今度、二人っきりの時に着けろよ」
「っ、な、何言っ――」
「オイ離れろそこの変態」
「っが、」
二人っきり、を妙に強調した言葉に上擦った返事を返そうとした、その瞬間。冷静な言葉と一緒に、山元の顔が離れた。
「っっっ神奈ぁ〜」
「はいはい、大変だったな瑞希。性犯罪者予備軍にセクハラされて」
「誰が性犯罪者予備軍だっ!!」
「端から見りゃそうとしか取れない」
そして私は、神奈の腕の中。思いっきり抱きつくと、珍しく優しく頭を撫でてくれる。
どうやら顎にでも拳をくらったのか、山元は顎を押さえながら涙目で神奈を睨んでいた。その隙に私はさっちゃんときゆの席へ向かう。二人はよしよし、と私を宥めてくれた。背後をチラリと見れば、怒る山元と、馬鹿にしたような微笑みを浮かべる神奈。
そして、山元をじっと眺める。
……神奈は、セクハラって言ったけど。(いや、私もそう思うけど)なんだか、今日の山元、やっぱり変だ。さっきのあの言葉が嘘か本当かは分からないけど、少なくとも。山元の元気なかった原因は、それでは、無いと思う。
上手くごまかすために、あえて私がパニックを起こすような状態に、したんじゃないか。ふっとそんな考えが浮かんだ。
じゃあ、さっきの言葉、やっぱり嘘、なのかな。
『――ただ、妬いただけ』
耳元に落とされた、甘い響きを思い出して顔が熱くなったけど。でも、その言葉が嘘だったのかも、しれない。そう考えることが、何故だか苦しかった。
『午前の競技は、これにて終了です。各自昼休憩を取ってください』
アナウンスが流れる、と同時にさっちゃんがニコニコ顔でお弁当の蓋を開けた。
「どうしたの、倖。ずいぶんご機嫌ね」
「えっへっへー。今日ね、お母さんがエビフライ入れてくれたんだよー!!」
「……それだけ?」
「ん?何かあるの?」
同じことを思ったのか、質問したきゆにさっちゃんは無邪気に答えた。食事にあんまり好き嫌いがないきゆだからか、さっちゃんの答えに脱力したみたい。私は二人のやりとりを苦笑いで見つめながら、自分のお弁当の蓋を開けた。
実は私、お弁当自分で作ってるのだ。よって、さっちゃんみたいな喜び方はあまりしない。
私が中学にあがってから、お母さんは一回辞めた美容師として、もう一度働き始めた。それからは、あまり共働きの両親に負担をかけないように瀬菜と二人で家事をやってきたんだけど。最近は私が部活が忙しいのでそんなに出来なくて、申し訳ないなあ。来年は部活引退するし、瀬菜も私も受験だし。ちゃんと家事分担しなくちゃ。
はむはむ、とベーコンのアスパラ巻きを食べていると、神奈が戻ってきた。
「お帰り、神奈」
「ん。疲れた」
「あはは、午前だけで三種目だもんね」
ぐったりと私の隣の席に座り込む神奈に、水筒のお茶をカップに注ぎ、渡す。「ありがと、」と声をかけながら一息で飲み干した。
運動神経抜群の神奈は、午前に三種目詰まってる。百mと、障害物競走、スウェーデンリレーの二百m。逆に午後はクラス対抗リレーだけだ。ぐったりしてるのは、体力の問題って言うか、プレッシャーとか、精神的な問題なんだろうけどね。
ちなみにさっちゃんは午前二種目、午後は私と一緒の玉入れと、学年対抗リレー。運動神経いい人って忙しいなぁ。いや、きゆは運動神経いいくせに、面倒臭いとか言って一種目しか出ないけどね。
今のところ、うちのクラスは全体で三位。騎馬戦で集中的に狙われて、相当大変だったみたい。まぁ、午後で十分巻き返せる位置にいる。
よし、と拳を握りしめながら息を吐く、と。
「あ」
「?どうかしたか?」
「あ、ううん。ごめん、ちょっと後輩いたから声かけてくるね」
ふっと、視界の端に映った人。その様子が気になって、何となく、追いかけたくなり。お弁当を椅子の上に置いて、駆け足になった。
「青竹くんっ」
「、」
早足の背中は、私の声に足を止めてくれる。
くるりと振り返った、紅茶色の頭。驚いたようなその表情に、わずかに笑ってしまう。なんだかんだ、青竹くんの驚いた顔ってあんまり見ないから、興味深い。
ととと、と早足でその正面に向かう。完全にこっちに身体を向けた青竹くんににっこり微笑んだ。
「おはよ、青竹くん」
「おはようございます、柳先輩。見ましたよ、借り物競走」
「っ、そ、それはコメントなしでっ」
だけどそこはさすが青竹くんっていうか。いきなり今日一番の恥を口にされて、思わず顔が熱くなった。うーわー。やっぱりあれ、後輩全員に見られたんじゃないかなぁ。明日からの部活が、ものすごく、ものすごく、不安だ!!からかわれる気がする!!
頭を抱える私に、青竹くんはくすりと笑った。
「どうしてですか?――可愛かったですよ」
艶めいた響きが、耳元に落ちてきて、っうわ、もうっ!!
「は、恥ずかしいってば!!」
「あはは、顔赤いですもんね」
「わ、分かってるならからかわないでよ」
「からかってませんよ。本音です」
「も、もういいっ!!」
ぺらぺらと饒舌に落ちてくる囁きに、頭が痛くて、全身が熱い。ああ、もうっ。青竹くん、絶対山元の悪影響受けてる気がするんだけど!!顔を背けた時も、背中に落ちる笑い声。やっぱりからかわれてる気がする!!
ひとしきり、顔の熱さが引くのを待って、もう一度青竹くんに向き直った。ふわりと浮かんだ笑みのあまりの甘さに、顎が自然と上がってしまう。
いやいや駄目だっ私何のために声をかけたのっ。
「あ、青竹くんどうしたの?その格好」
「ああ、これですか?午後の応援合戦で、無理矢理着せられて」
「えーっうそ、出るの?」
そう。今の青竹くんの格好は、格好いい白長学ラン。苦笑混じりなその顔は困ってるみたいだけど、いやいや。
「ものすっごく格好いいね!!」
「そうですか?自分ではそんな気、しないんですけど」
「いやいや、似合うよー。後で写真撮ろうね」
にっこり駄目押しのごとく笑えば、苦笑気味に頷かれる。
うちの学校のお昼直後の応援合戦は、毎年ものすごく盛り上がる。八クラスがそれぞれ、個別に振り付けや衣装を用意して、三分間応援を行う。メンバーは毎年適当に決まるみたいなんだけど、その参加員はみんなには当日にならないと明かされないのだ。時々覆面でやって、当日になってもメンバーを明かさないクラスもあったり。とにかく盛り上がる、応援合戦。
青竹くんは私とは組違うから応援はできないけど、うん。写真撮っとこう。密かに心の中で誓いをすると、青竹くんが声をかけた。
「じゃあ、先輩。俺、これから最後の打ち合わせがあるんで。また、後で」
「あ、うんっ。頑張ってね!!負けないけど」
「それはこっちの台詞です」
じゃ、と手を振って去っていくその後ろ姿を見つめながら、何だかやっぱり違和感。いつもの青竹くんなら、もう少しゆっくり話してくれる気が……。
いや、何て言うか。言葉にし辛いんだけど、とにかく、おかしい気がする。それはどこか、山元の違和感にも似ていて、私の中の彼らに、しっくり来ないのだ。
首を傾げていると、遠くからさっちゃんに呼ばれて。とりあえず、お弁当を食べよう。そう思っている内に、そんな疑問はどこかに消えてしまった。
|