24.二粒の秘密(2)


 練習試合から、三日経ち。私は、あの日からずっと、山元と部活の用事以外で話してない。
 バスケ部では、実咲さんの話題で持ちきり。そりゃ、あんな美人さんだもんねぇ。山元は、みんなに問い詰められて困った顔をしてる。
 ふん。もっともっと、困ればいいじゃない。知らない。山元なんて。
 教室でも山元をずっと無視してるから、ある放課後、田口くんに尋ねられた。
「柳っち、今度は恍が何したの?」
「……知らない、あんな奴」
 
ふて腐れてそっぽ向けば、田口くんは苦笑した。
 ていうかもう、山元の名前なんて、聞きたくない。
 嫌い。あんな、女ったらし。山元の大好きな美人に声かけてればいいじゃない。私なんか、どうせ童顔だし小さいし美人じゃないし胸も無いよ。そんな私の思考を読んだかのように。
「恍はもう、柳っち一筋だよ?」
「……」
「黙らないでよ」
 
そんなこと、言われても。何て返せばいいの。この間の状況を、思い出して。
「田口くんは、知らないから」
「うん?」
「……この間の、練習試合の、こと」
 
思わず口にすれば、何の話?と聞かれ。素直に、零してしまった。実咲さんのこと。全部話し終わると、田口くんは、綺麗に苦笑した。
「あー……、それは」
「山元は、女ったらしなの。だから、落ちない女の子が、気になるだけなのっ」
「うーん」
 
溜まりに溜まった不満を吐き出すと、田口くんは唸って、しばらく黙ったけど。
 しばらくして、――時々見せる、何もかも見透かすような瞳で、私の顔を覗き込んだ。それに、ぐっと息を呑む。
 何が言われるんだろう。怖くて、震える手をぎゅっと握り込んだ。
 それが見えたんだろうか。田口くんは、いつもの通り、爽やかな笑みを見せる。
「柳っちは、さ。ずるいよね」
「っ」
「恍の気持ちが、本気なの知ってて、そういうこと言うし」
 知ってるよ。あの熱い瞳が嘘だなんて、思ってない。さっきのは、勢いに任せて言っちゃっただけで。本当はいつだって。あの人が、優しいこと、知ってる。
「それに、わがままだ。別に恍と柳っちは付き合ってる訳でもないのに、どうしてそんなムキになるの」
「……」
「……あんまり、あいつ虐めちゃ駄目だよ。恍、柳っちに嫌われたら、多分廃人になっちゃうから」
 「じゃあ、俺、部活だから」とバッグを持って田口くんは教室を出て行った。
 夕暮れに染まる教室で、私は一人。
 『ずるい』
 『わがままだ』
「……はぁ」
 
大きくため息を吐いて、机の上に突っ伏した。
 分かってる。十分、分かってる。
 だけど、田口くんの言葉は、痛かった。自分で思ってるのと、他人に言われるのは、殺傷力が大分変わる気がする。我ながら、馬鹿だな、と思いながら窓の外を見つめた。
 ――分かってるの。今の私に、こんな風に拗ねる権限なんて、ないこと。付き合ってすら、いないんだから。恋人でも何でもないんだから、笑い飛ばせばいい。部員と一緒になって、質問攻めすればいい。それが、出来ない。したくない。その理由が、田口くんには、見透かされてる。
 ますます自分が嫌になって、私は、ほんのちょっと泣いてしまった。


 それから更に二日経った、金曜日。今日は職員会議があったので、顧問の先生が来るのが、遅かった。そのせいか、練習の終了時間も遅くなり、今日の洗濯物担当だったせいで、体育館を出るのが九時過ぎになってしまった。咲ちゃんは用事があるとかで、先に帰ってしまったし。
「……どうしよ」
 
いつも遅くなる時は、咲ちゃんが一緒に帰ってくれた。だけど今日は、いないし。部員も、随分前に最後の一人が体育館を出てしまった。迷ってる内に、窓の外はどんどん暗くなる。それを見て、自然と身震いした。
 仕方ない。大通りの方をダッシュしよう。なんて思いつつも、やっぱり怖くて。ため息を吐きながら体育館を出る、と。
「あれ」
 
まだ、部室の光が点いていた。どうしたんだろう。消し忘れ?とりあえず行ってみよう、とドアを開けたら。
「あれ、柳先輩。まだ帰ってなかったんですか?」
「片瀬くんこそ。どうしたの」
 
スタメンの片瀬くんが、ケータイをいじって座り込んでいた。私の質問に、片瀬くんは苦笑する。
「いや、ついさっき電話で親と喧嘩しちゃって。しばらく帰りたくないなーって」
「あ、そうなんだ」
 
何だか、ちょっと意外だった。部活ではいっつもニコニコ笑ってる彼も、誰かと喧嘩することあるんだなぁ、って思って。そう言うと、しょっちゅうですよ、と言われたけど。
「柳先輩は、もう帰るんですか?」
「うん。そうしたいんだけど……」
「?何か、待ち合わせとかですか?」
「や、その。暗いの、駄目で」
 
片瀬くんの質問に正直に答える訳にもいかなくて、とりあえずよく使う言い訳。十七にもなって情けないけど、仕方ない。案の定、大声で笑われた。
「っ先輩、何歳ですか、それっ」
「う、うるさい!!」
 
恥ずかしくて拳を振り上げるけど、ちっとも効かないらしい。悔しくて、懲りずにファイティングポーズを取ると、ため息を吐きながら、片瀬くんはバッグを持って立ち上がった。あれ、と首を傾げる。
「片瀬くん、帰るの?」
「んー、そうします。いつまでもこうしてても仕方ないんで」
「そっか」
「なので、暗いのが苦手な先輩を送ったげましょう」
「え、」
 
相変わらずのニコニコ顔で言われて、一瞬反応出来なかった。それって、それって。私のために帰ってくれる、ってこと?
 うわ、何それ。超いい子!!片瀬くん、やっぱり超いい子!!
 普段だったら遠慮するけど、今回は素直に受け取ろう。この暗い中一人とか、絶対無理!!なので、大きく頷いて、その隣に並ぶ。
 
寒いね、なんて何気ない話をしながら校門まで一緒に歩く。すると、そこに人影があった。最初は逆光で見えなかっただけど、近付くにつれ分かる、その人は。
「あれ」
「うげ」
 
二人同時に気付いて、声をあげる。私の内心を如実に表したそれに、片瀬くんは不思議そうな顔をした。
 けど、問題はそこじゃない。その人物は、自転車を引っ張ってずかずかとこっちに近寄って。私が逃げ出そうとした、一瞬前。
 ―がしっ
 しっかり、二の腕を掴んでくれた。
「柳、帰るぞ」
「……何で」
「いいから。片瀬、悪い。一人で帰れ」
 
不満そうな声が聞こえるけど、私だって、不満だ。
 ていうか、何勝手に片瀬くん帰してるの。何様なの!!
 救いを求めるように、片瀬くんに視線を投げる。お願い!!私と帰るって言って!!もう、頼みの綱は片瀬くんしかいない。じぃっと、念を込めて彼を見つめ続ける。すると。
「……はい、分かりました。じゃ、山元先輩、柳先輩、お疲れ様です」
 
っちょ!!何、『自分良い仕事しました』みたいな感じで去ろうとしてるの!!
 慌てて叫ぼうと、口を開く。
「ちょ、片瀬く、ふぐっ」
「……お前には、話あるんだよ」
 
だけど、大魔王・山元が、腕を掴んでた手を外して、口を塞いだせいで。私は、彼が歩いていくのを見送ることとなった。
 ……片瀬くん、悪い子。


「大体お前、何で片瀬と一緒なんだ」
 
歩き出してすぐ。山元は横目で私を睨みながら、そんなことを言い始めた。いらっとしながら、そっぽを向く。
「片瀬くんが、駅まで送ってくれるって言ったの」
 
どっかの誰かさんと違って、優しいんです。ちょっと空気読めないけれど、それも気遣い故なんです。良い子なんです。……でも、あんまり片瀬くんをこいつの前で褒めちぎると、絶対もっとうるさく言われる。仕方ないから、一言に留めておいた。私の言葉に、山元はため息を吐く。
「こういう時は、俺に言え。俺が送る」
「ごめんねー、山元はデートで忙しいかと思ってっ」
 
渋々、と言った感じで言われた言葉にますます苛立ちが募る。嫌味を言えば、空気が重くなった。
 ていうか何、どこのお父さんよその台詞。別に、無理して送ってなんて欲しくないし。
 膨れて口をつぐむと、山元もため息を吐いて、口を開かなくなった。てくてくてく、とお互い無言のまま、歩いていく。ちらりと、大分高い位置にある、山元の横顔を見つめた。時々、車のライトを浴びて輝くその顔は、むかつくけれど綺麗だ。冷たいとすら感じる美しさは、昔は全然理解できなかったけど。
 今は、ほんの少し、分かるかもしれない。魅入られるんだ。瞳が、気付けば、吸い込まれる感じ――。

「柳?」
「!!」
 
随分長い間、見つめていたらしい。視線を感じたのか、山元が、片眉を上げて私の名前を呼んだ。慌てて顔を逸らすけど、耳、熱い。絶対赤くなってる、なんて思っていると、不意に。冷たい指先が、私の耳たぶに、触れた。
「……りんごみてぇに、真っ赤だな」
 
ふ、と笑い混じりのその言葉が、妙に優しくて。私は、ますます顔が熱くなっていく。耳の縁をなぞるように、指先がすぅっと滑って、私は肩を跳ね上げた。
 やだ、何。
 叫びたいのに、何も言えない。山元も、黙って私の耳を撫でて、その指は頬に触れた。
 ぞわぞわする。くすぐったい、とは、また違う感じ。お腹の奥が、きゅうっと締め付けられる、みたいな。
 でも、どこかで。……女の人に触れるの、慣れてるんだ、って思ってしまった。
 山元が昔彼女、一杯いた、って聞いたことある。だから、山元にとってはこんな触れ合い、当たり前なのかもしれない。ううん、こんなものじゃなくて、きっともっと深くまで、触れ合ったはずだ。耳へのキスだって、抱き締めてみるのだって、それ以上だって。色んな女の人に触れて、――色んな女の人に、触れられて。
 でもね、私は。 まだ、付き合ったこともなくて。 そんな風に、山元が他の女の人に触れた、って考えるだけで頭グチャグチャにするくらい、子供なんだよ。
 まだ触れようとする指先に、何かが、堪えきれなくなって。唇を一回噛んで、口を開く。
「……やめ、」
「恍!!」
 ……
この、最悪な割り込み方は。振り返ると、予想通り。相も変わらず、美人な実咲さんが、いらっしゃいました。「恍、また会ったね〜。藤ヶ丘ってこっちの方なんだ?」
「……実咲先輩、何で、」
「んん?こっちに住んでる友達いてさ、今帰るとこ。丁度いいじゃん、恍、途中まで自転車後ろ乗っけてよ〜」
 
ぱたぱたと走ってきて、山元の腕をまた、簡単に絡め取る。もちろん、私に触れていた指は、離れた。実咲さんを引き離そうとする、その指。今は、別の人に触れていて。
「〜〜〜っ」
 
会って間もない人、嫌いになったり、したくないのに。
 ――やだ。何で、こんな汚い感情、自分の中にあるの。山元がいなかったら、気付かないで、すんだのに。泣きたい位に、その感情は、私を強く支配する。
 俯く私に気付かないで、山元は、実咲さんと話してる、し。
「あれ。この子、この間もいたよねぇ?」
「っ」
 
強い視線を感じて、顔を上げる。実咲さんが、私を見ていた。その視線の、あまりの強さに。私は、言葉を失ってしまう。躊躇いながら頭を下げると、上から下までじろじろ見られる感じ。何だろう。別に、この人にそんな見られる理由、ないのにな。
「恍のお友達?だったら私も、仲良くしたいなぁ」
「、」
 
鈍い私でも、はっきり分かる。これは、牽制だ。この人。昔付き合ってたって言ってたけど、多分、今も山元のこと。
 ……そう思うと、心臓がずきずき、痛くなった。
 だってこの人、昔の山元を、知ってるんだ。山元が、昔好きだったんだ。山元の初めてを、持ってるんだ。山元にキスして、触れて、きっと私が知らない山元を、たくさん持っている。――私には出来ないこと、たくさん、たくさん。
 考えれば考えるほど、苦しくて。息も、出来そうにない。
 教えてよ、山元。こういう時、どうすればいいの。苦しい理由は、山元なのに。こんな時、山元にしか縋れない。泣きそうな気持ちで山元を、見上げる。
 一瞬、大きく目を見開いた山元は、次の瞬間、ふっと優しく笑って。
「ひゃ、」
 
実咲さんの腕を、振り払って。私の腰を、乱暴に抱き寄せた。頬に当たる、堅い胸板の感触に、私は言葉をなくす。そのまま、ぎゅぎゅっと隙間を埋めるかのように強く抱き締められて。抵抗すら忘れて、私はただ、山元を見つめた。山元はただ、笑ってる。

「こいつは、俺の女」
 ――揺るぎなく、意地の悪い微笑みで。

 目の前の実咲さんが呆然とするのも気に留めず、山元はにっこり笑って続ける。
「俺から告白して、つい最近やーっと俺のものになったんですよ。もう俺、こいつが好きで可愛くて仕方なくって」
 
ぺらぺらとしゃべる山元の声が、どこか遠くに聞こえる。
 これは、何。何言ってるの、山元は。
 だけど、ただ。頬に伝わる温もりが、優しくて。
「だから、先輩」
 
だけど、一瞬。山元の声が、変わった。鋭い、切り裂くような空気を醸し出している。びくりとして、身体を反らそうとするけど、強い力はそれを許さない。
「……邪魔、すんなよ」
 
吐き捨てるようにそう言って、山元は私の腰を抱いたまま、歩き出す。慌てて後ろを振り向くと、実咲さんが、さっきと全く同じ格好で立っていた。

「や、山元っ」
「何」
「いいの?実咲さんっ」
「別に、どうでもいい」
「ど、どうでもいいってっ」
 
あのままじゃ、風邪ひいちゃうよ!!
 多分一生好きにはなれない人だけど、このまま置いてくのは、ひどいと思う。ていうか。好きな人にあんな態度取られたら、私一生、立ち直れない。
 だけどあまりに冷たい山元の言葉に、文句を言おうと顔を上げた、時。思いの外、真剣な瞳が、私を貫いた。
「お前を傷付ける奴なんか、どうでもいい」
 ……一瞬、言葉の意味が理解出来なくて。じわじわと、頭の中に染み渡っていく。それは。
「っ、な、に言ってっ」
 
理解した途端、かっと顔が赤くなるのを感じた。
 何それ。そんなの、反則。最近ずっと、歯切れの悪い反応ばっかりだったくせに、何それ。そんなの、ずるい。山元の気持ちが、すとんと、私の中に収まってしまう。
 つまらなさそうに、ふん、と鼻を鳴らす山元は、本当に不機嫌そうで。さっきの言葉が、現実味を帯びてしまう。腰を抱く手も、今更ながらに熱く感じて、急いで引き剥がした。不満そうな視線が私の後頭部を突き刺すけど、……知らない!!ていうか!!
「さ、さっきだって!!何、あれ!!俺の女、とか!!」
「あ?あそこまで言っとかないとインパクトねぇだろ」
「なっ、ひ、ひどいじゃない」
「何が」
「か、仮にも昔好きだった人に、そんな、嘘……」
 ――
偽善だ。こんな言葉。全然、本気じゃない。本当は、私。本当は、山元がああ言った時。
 私の訴えを、山元は不思議そうに聞いていた。でも、私の最後の台詞を聞いた途端、眉を顰めて、口を開く。
「好きじゃねぇよ」
「…………へ」
「だから、好きじゃねぇって」
 
今、何て言った?山元。好きじゃ、ない……?
「だ、付き合ってたんでしょ!?」
「それは、そうだけど」
「名前で呼んでたし!!」
「それは、下の名前しか知らなかったから」
 
な、何で彼女の名字も知らないのよ、あんたは!!
 思わず噛み付きそうになる、けど。不意に山元の目を過ぎった、暗い影に、私は言葉を失った。
「色々あって頭がグチャグチャしてた頃に、声かけられて。何となく、誘いに乗っただけだよ。そういう最低な付き合い方をお前にばらされたくなくて、機嫌取ってたんだけどな」
 
無駄になった、と小さく零す。そして、山元は乱暴に自分の髪を掻き上げると、私を見据えた。
「信じなくてもいいし、怒るかもしれないけどな。お前は、俺が、初めて好きになった女だ」
 
数十歩先の、駅のホームから、電車が走り出す。ちかちか揺れる光が、山元と、私を、照らして。
 その瞳に捕らわれて、動けない私の頬に、冷たい指が、また触れた。今度は、心臓、痛くはない。ただ、ただ、一杯になる。顔の輪郭をなぞるように、クルリと人差し指が動いて。ぴくり、と顎を揺らしたら、ぐっと掴まれた。
「嫉妬したり、言い訳したり、……こんな情けないの、初めてだよ。自分でも、馬鹿みてぇって、いつも思ってる」
 
逸らすのは、許さない。強く言い聞かせるようなその瞳に、私はいつも、逆らえない。瞬きも出来なくて、目の表面が、少しずつ乾いてきた。
 それでも。
「触れるのも、もう、自分のブレーキ、効かねぇんだ。お前見てると触りたくて、全部が知りたくてたまらくて、無意識で触ってる。そん位、――お前に餓えてる」
 この、美しい人から。
 私は、逃げられない。逃げたくない。

 乾いた瞳の表面が潤んだのを、どう取ったのか。ふっと表情を笑顔に変えた彼は、私の頭をくしゃりと撫でて、背を向けた。その背中に、私は少しだけ手を伸ばし、すぐに引っ込めた。




今の私には、何も言えない。
実咲さんに感じた、不快感も。
山元の言葉に感じた、嬉しさも。
私には、どうしても、認められないものだから。

  

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