人の見る空、鳥の見る空。

どちらが高く、広いのだろう。


25.鳥の空


 今日も、いつも通りの部活のはずだった。ついさっきまでは、いつも通りだったんだ。
 シュート練習が終わった後は、いつも四対四でミニゲームをしていた。その最中。コート内で、接触が起きた。そんなことはよくあることだったし、大丈夫かな、と覗き込んでみたら。
「っう……!!」
「恍!?」
 
山元が。目を押さえて、コートにうずくまっていた。
 
驚きに目を見開けば、指の間から零れる、赤い色。顔を青くした部員が、山元に呼びかける。でも、山元は。応えることも出来ず、押し殺したような苦痛の吐息が、口から漏れただけだった。コート内のプレイは止まり、部員がこっちへ走ってきている。
 私は一瞬、何か分からなくて。その、大きな背中が小さく丸められたのを、呆然と眺めていたけど。
「誰か!!先生呼んで来て!!咲ちゃん、ガーゼとタオル!!それと、部室に行って山元の着替えとバッグ持って来て!!」
 ……
ここで、うろたえられない!!
 唇を噛み締めて、とりあえず今の最優先事項を叫んだ。
 こんな日に限って、先生達は職員会議だ。でも、今は誰でもいい。とにかく、誰か人を呼ばなくちゃ。そして、山元の傷口にガーゼを当てて、床を拭こう。心臓が嫌な音を立てて、耳元に迫ってくるけど。そんな自分への不満に構ってはいられなかった。
 ――山元を、助けなくちゃ。それだけが、震えそうな私の身体を支えていた。

 慌てた先生が駆けつけるまでの五分間も、血は止まらなかった。
 傷口は、右目の瞼。皮膚が薄いからか、軽い傷でも血が出るみたい。原因はというと、接触の際、部員の爪が山元の瞼に突き刺さり。それが目尻までの長い傷になってしまったみたいだ。とりあえず、ガーゼを山元の目に当てておく。痛いだろうけど、必死に堪えてるたいで、ぎゅっと拳を握っていた。
 ……悔しい。救急の講習会とかちゃんと行ってれば、止血の方法とか、分かったかもしれないのに。眉を寄せると、遠くから救急車のサイレンの音が鳴り響いた。
 思わず、祈るように胸の前で腕を組んでしまう。周りの部員も、黙り込んでいた。
「すみません、患者の住所と電話番号など、こちらの紙に記入してもらえますか」
「、はい」
 
担架を出して、山元を運びながら。救急のお兄さんに、何か書類を渡された。慌てて受け取り、部活の連絡網を見ながら記入していく。逸る気持ちはあるけれど、今、自分が出来ること、しなくちゃ。
 山元のために。
 ごくりと喉を鳴らして、お兄さんに紙を渡した。先生は、難しい顔で山元の乗った救急車を見つめている。そうこうしていると、お兄さんは口を開いた。
「同乗者は、どなたでしょうか。二名まででお願いします」
 
まず、先生が手を挙げる。そして、私も。手を挙げた。
 先生はぎょっとする。
「柳。心配なのも分かるが、手術になるかも分からん。お前は、こっちに残れ」
「嫌です。親には連絡すれば問題ありません」
「生徒を、こういう車に乗せてはいけない決まりがあるんだ」
「でしたら、先生の車に乗せてください」
「柳……!!」
 
いつも従順でいようとした。先生は、良い顧問だ。夜中までかかろうと言う診察に、すぐに手を挙げたのが、良い証拠。だからここで先生を困らせるのは、本意じゃない。いい加減、先生の言葉にも苛立ちが混ざってきたし。
 ――でも。
「側に、いたいんです」
 
遠くで、一晩中山元を思うのは、怖い。別の場所ならともかく、今回は目だ。とりわけデリケートな部位だからこそ、最悪の場合を考えただけで、膝から崩れ落ちそうになる。
 だったら、連れて行って欲しい。何も出来ないかもしれないけれど、ただ、あの人を見守りたい。
唇を噛み締めながら、先生の真剣な瞳を見据える。
 十一月の夕暮れは早く、その肩の向こう側は真っ暗だった。ジャージじゃさすがに寒いな、と思うけど。でも、身震いすら出来なかった。一度気を抜いたら、もう、立てないと思ったから。だから涙だって零さないよう、しっかり拳を握った。痛みを、手のひらにぶつけるように。
 しばらく見つめ合った後。お互い、呼吸を止めていたんだと思う。先生は、大きくため息を吐いて。
「……早く、荷物を取って来い」
「!!っはい!!」
 
その言葉に、大きく頷いて走り出す。幸い、救急の人達は山元の搬送先の病院を探してたところだったから、迷惑にはならなかったはず。
 ……ごめんなさい、先生。わがまま言ったりして。でも、耐えられなかったの。私の知らないところで、山元が苦しんでたら、って思うだけで。他の何もかも、放り出して山元の元へ駆けていける気がする。

 駆け足で部室から戻ってきた私の元へ、一人の部員が憔悴しきった顔で近寄った。
 山元と、衝突事故、した子。
 真っ青な顔をした彼は、大きな身体を丸めて、泣きそうだった。
「柳、俺、どうしよ……恍が……」
「……」
 
苦しそうなその表情を見て、私も、何を言ったら分からなくなる。今の私が何を言っても、きっと気休めにしかならないから。
 それでも。私は、口を開く。
「山元は、きっと笑って帰ってくるから。大丈夫」
「っでも!!」
「不安になるのは分かる!!」
「、」
 
案の定、自分の口から零れたのは、あまりに安っぽくて。激昂した彼に、私は必死に叫ぶ。
 分かるから。大丈夫、だから。
 今も震えてるその指先に、自分でもきっとぞっとするんだろう。これで人を傷付けたんだ、って。私なら、自分を許せない。それでも。
「今、あんたがやることは心配じゃない。練習よ」
「……」
「万が一のことを考えて、山元の穴を埋めることを出来るのは、誰。あんた達部員でしょう」
「……うん」
「怖くても、やるの。自分に出来ること、精一杯」
 
間違っても、辞める、なんて言わないで。こんなことあったら、バスケやりたくなくなるかもしれないけど。それでも、逃げないで。ここにいて。きっと山元も、それを望んでくれる。そういう奴だから。
 ぐっとその瞳を、睨むように見つめる。しばらくして、力無く、こっくり頷かれた。
 ――よし!!
 その指先をきゅっと握り、小指を絡める。
「結果分かったらメールするから。大丈夫だよ」
「……ん」
 
何回繰り返したって、きっと不安は消えない。それでも、私は繰り返そう。根拠のない『大丈夫』も、何度も言えば、きっと少しは現実の手触りがするから。私の精一杯の微笑みに、彼は少しだけ、小指に力を込めた。

 ―チッチッチッチッ
 時計の針の音が、静かな廊下で響く。遠くを見ると明かりがついているけど、ここら辺の廊下は真っ暗だった。
 ……学校を出たのは、もうすぐ七時って頃だ。今は、どれ位経ったんだろう。何時間も経ったようにも思えるし、全然時間が経ってない気もする。
 先生がおにぎりとかを近くのコンビニで買ってきてくれたけど、そんな気分になれなくて。一口食べたら、バッグにしまい込んだ。
 今、先生は山元の家に電話してる。全然誰も出なくて、困ってるみたいだ。
 私はただ、じっと動けないでいた。身体中を、ひどい倦怠感が襲うのに。目だけは冴えて、頭が妙に痛い。
 ケータイの電源は、病院内なので切ってある。多分、つけたら着信とメールの嵐になるだろう。それを思い浮かべると、また身体が重くなった。
 今更ながら、どうして私来たんだろう、という後悔も巡る。ただの、お荷物じゃないか、私。山元の辛いのを遠くで考えるのが嫌で着いて来たけど、病室に入ってしまえば関係ないし。ご飯だって、先生が買って来てくれた。自分の気持ちだけで、先生に迷惑をかけてしまったことを、後悔している。唇を噛んで、俯いた、時。
「柳」
「先生」
「山元は、まだか」
「はい。電話、繋がりましたか?」
「いいや」
 
疲れた様子の先生に、声をかけられた。
 慌てて、ソファーの端に寄る。先生は複雑そうな顔をしながら、隣にどっかりと座り込んで。私の言葉に、大きなため息と否定の言葉を与えた。
 お互い、重い空気を垂れ流す。だけど不意に、先生は口を開いた。
「……冬の新人戦は。覚悟しないと、いけないかもな」
「……」
 
こんな時に大会の話なんて、と怒るところかもしれない。
 でも私は、同意した。大会に出れないこと、一番辛く思うのは。多分、山元だから。先生もそれが分かってるから、こう言うんだと思う。
 二人とも、黙り込んでしまった。ここで何かしゃべりたいという気にもなれないし、意味もない。やっぱり何も出来ない。その事実に、再び打ちのめされる。
 苦しくて、苦しくて。ぐっと唇を噛んだ時。

 ―ガララ
「「!!」」
 
暗い廊下が、一瞬光で満たされる。慌てて顔を上げると、山元が、出て来た。右眼は大きなガーゼですっぽり覆われている。私も先生も言葉を失っていると、山元は静かに、背後の治療室を示した。
「先生、すみません。何か話あるみたいで、聞いてもらえますか?」
「あ、ああ。……大丈夫なのか」
「それも、含めて。説明されるはずなので」
 あまりに、静かな声だった。先生も声をかけるけど、その言葉は、有無を言わせない迫力があって。先生は躊躇いがちに山元を見た後、黙って治療室に入った。
 そして、静かに扉が閉まる。光は消え去り、また、闇が舞い降りる。俯いた山元は、ゆっくりと私の近くに歩いてきた。上にあるその顔を窺ってみたけど、暗くて、よく分からない。ただ、真っ白いガーゼだけ、院内の中庭の外灯に照らされ、妙に眩しく見える。
「や、ま、元?」
「……」
「どうだった、の?」
 
ごくり、自分が喉を鳴らす音が響いて聞こえた。
 それでも彼は、口を開かない。一歩こちらに進んで、さっきまで先生が座っていた、私の隣に腰を下ろした。ぎしり、と重たい音を立てるソファ。ぎゅっとその端を掴んで、山元の横顔を眺める。何も言わない冷たいその顔を、前髪が隠して。叫び出しそうな心が喉まで迫り上がってきそうになるのを、必死で堪える。
「……」
「……」
 
沈黙が、重い。
 どうして、何も言ってくれないの。まさか、まさか。悪い想像ばかり、私の頭を駆け巡る。それでも逃げることは出来なくて。
 視線を送り続ける私に、山元は小さくため息を吐いて、ソファの背に、身体を預けた。そして、どこか遠くを見るように、冷たい壁を見つめて、唇を動かす。


「――バスケ、出来なくなるかもしれない」
「……え?」

 一瞬、頭が揺れた。殴られたような、衝撃だった。
 山元。
 何を。
 何を、言ってるの?
「……傷自体は、血は出たけど、深くはない。問題は、角膜に入った鉄粉だ。取り除いたけど、中心に近かったから、これから分からない、って」
 
山元の話では。目が切れた時に、相手の爪先に鉄粉が入っていたんだろうって。それが角膜に突き刺さって、将来的に軽度の視力障害の可能性があるらしい。そこまで話して、山元は自嘲気味な口調になった。
「軽度っつってもな。スポーツ選手には致命的だろ。距離感が狂えばパスは出来ねぇし、視界がぼやければシュートも狂う」
「……」
「もう、駄目なのかも、な……」
 
淡々と話していたはずのその口調は、急に弱々しくなり。全てを諦めるように言われたその言葉に、私は目を見開いた。見守る私の前で、山元は、その目で闇を追いかける。隣にいる私が、まるで存在しないように、遠く遠く、その意識が、どこかへ飛んでしまったように。
「バスケなんて、最初は、時間つぶしに始めただけだった」
「山、」
「それが、気付けばすげぇ楽しくて、ずっとここまで、続けてきた」
 
呆然とする私の前で、山元は話し続ける。慌てて口を挟むけれど、それさえも押し切るように。
「強い相手とやったり、自分の身長以上に高く飛んだり、楽しくて、わくわく、して、」
 
だけど、その言葉は急に熱を失う。何かの糸が切れたように、ふつり、山元の言葉は途切れて、ゆっくりと、うなだれて。
「バスケ、なくなった俺に、何が残んのかな……」
 
――小さく言った彼の拳に、雫が落ちた時。
 私は弾けるように立ち上がり、山元の正面に立って。両腕を伸ばし、その頭を抱えた。抱く腕に力を込めないよう注意しながら、黒髪を優しく梳く。一瞬、ぴくりと震えた山元は、私の肩にゆっくり頭を埋めた。
「私は、いるよ」
「……」
「足りないかもしれないけど。私、側にいるよ。一人になんて、絶対させないから」
 
山元が失うかもしれないものに、私なんかじゃ絶対足りない。人の価値に重さはないというけれど、それは嘘だ。
ひどく大事なものならば、それに代わろうとするならば、絶対量は足りなくなっていく。
 それでも、私は側にいよう。山元がいつか立ち上がる時に、一人いるかいないかじゃ、きっと変わる。
 ……違うな。私が、側にいたいんだ。この人の、側に。
「私だけじゃない。みんな、側にいる」
「……」
「みんな、山元が大切だよ。だから、離れたりしない」
 
灼けるように、目頭が熱い。そっと、彼の後頭部に額を押しつけた。苦しくて、苦しくて。今にも逃げ出しそうな自分を、自分の中に認めた。この人に出会わなければ、きっと知らなかった。こんなに臆病で、弱虫で、情けない。今にも裸足で逃げて行きたいと願う、自分。
「まだ結果は分からないし、その経験はこれからだって生かせる。山元のしたことは、どこまでも、繋がっていく」
「……」
「だから、そんなこと、言わないで。たくさん、たくさん、残るの、」
 
私は、見当違いのことを言っていないだろうか。この人の求めるものと、違う方向を見ていないだろうか。
 だけど口を止められなかった。今、話すのを止めれば。山元がどこかに、消えてしまいそうで。闇の中、私は必死に手を伸ばす。どこに辿り着くかも分からないまま、藻掻く。ここに彼を、繋ぎ止めておきたくて。
 ――ああ、もう、無理。
 熱い雫が、頬を伝った。だって、この人がこんなにも、儚いから。
「山元の歩いてきた道は、ずっと残る、よ、」
「……」
「抱えきれない位、残って、る。私、側で、一緒に……っ」
 
話す途中で、喉がひくついて。終いには、しゃくりあげて、何もしゃべれなくなった。
 情けない。側にいて、何かしたかったのに。こんな言葉すら、私は全部は伝えきれない。
 一番怯えているのは、私だ。山元の視力障害の可能性を一番高く見ているのも、私。
 だって、たまらなく怖い。あの眩い夢が、見れなくなることが。この人が、それに絶望することが。その時、私は側で何も出来ないことが。
 ――怖い。

 
ひっくり返った泣き声をあげる私の腕に、指が絡み付く。私は思わず、びくりと跳ねた。だけど、まるで縋るようなそれは、強い力で私を制する。骨が軋みそうな位、強く腕を掴まれて、喉が引き攣る。それでも、逃げたくなくて。その場にとどまった。
 しばらくして、いつもよりずっと低い声音が、笑い混じりに私の鼓膜を震わせる。
「……泣くなよ」
「……」
 
こんな時まで、あなたは、私のことを、思ってくれるんですか。
 気付いて、ますます自分が馬鹿みたいに思えた。ここまで来て、山元に心配かけて、どうするんだ。本当に、情けなくて、駄目な人間。申し訳なくて、離れようと身を離せば、ぎゅっと強く、背中に手を回された。
「側に」
「、」
「側にいてくれれば、いいから」
 
息も出来ないくらい、強く、強く。その力強さと、言葉に。私はただ、黙り込む。
 側にいて、私は山元に何を出来る。足手まといでしか、ないのに。
 でも、こんな時でも。山元は私に、優しさを見せつける。
「お前がいれば、暗い中でも、きっと歩けるから」
「……っ」
「ただ手を取ってくれればいい。そうしたら、……怖くない」
 
言葉を切ると、山元は手を離した。そして、私の顔を覗き込んで、力無く、笑う。弱々しいけれど、真っ赤な瞳の中、微かに点る力に、私は目を細めた。
 そのまま、力の抜けた私の手のひらを取ると、そっと自分の頬に押し当てて。
「――この手が、俺を、導くから。いつだって、眩しい世界に、俺を連れ出してくれるから」
 ……
それは、私の台詞だよ。山元はいつだって、私に明るい世界を見せてくれる。暗闇を歩くしかなかった私に優しくして、大きな手で私を力強く、引いて行ってくれる。想像もしなかったような、キラキラした場所に。だから私は、少しでもあなたに返したかったのに、与えられてばかり、だ。
 そんな自分が情けなくて嫌で、そして。そんなあなたが、愛おしい。




鳥の空は、どんなに広いのだろう。
きっと私達が見る空よりも、ずっと高く、そして綺麗なのだろう。
でも、それに匹敵する位、ううん、それ以上なの。
あなたが私にくれる世界。
これから先も、それに触れたい。
それは、どんなにわがままで、ぜいたくな願いなのでしょう。


  

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