26.オカエリ(2)

「おにいちゃん、」
「ん?何だ、よしと」
「ジュース、ほしい」
 
しばらく話していると、急によしとくんが山元に声をかけて。緩慢によしとくんを振り返った山元は、仕方ないな、と笑った。近くのベンチに、よしとくんを下ろす。
「何か買ってくるよ。何が良い?」
「ココア!!あったかいの!!」
「ん。柳は?」
 
目線を合わせながら話すその表情は、ひどく穏やかで。私はそれに、ついつい見惚れてしまう。そうしたらいきなりこっちを見るものだから。心臓が、びくりと跳ね上がった。痛い位に騒ぐその部分を押さえて、息を吐く。
「私は、いいよ。今は喉乾かないから」
「……そうか?分かった、じゃあ待ってろよ。変な奴には、着いて行かないように」
「っしません!!私を何歳だと思ってるの!!」
「よしと、柳を守ってくれ、な?」
「うんっ」
 
とりあえず、笑って首を振ると、山元は頷いた。でも、その後、また。よしとくんに向ける優しい微笑みじゃなくて、意地の悪い笑い方をする。膨れて怒鳴ると、楽しそうに目を細め、彼はよしとくんの頭を撫でた。それに嬉しそうに足をばたつかせて、よしとくんは頷く。
 ……可愛いなぁ。弟、欲しかったかも。雑踏に消える山元の背中を見つめながら、そんなことを思うと、不意に。ぎゅっと制服のスカートを、掴まれた。視線を向けると、よしとくんが大きな瞳で、私を見上げている。
 今更だけど、この年頃の子って、みんな目、大きいよねぇ。なんて考えながら、笑ってみせた。
「ん?どうした?」
 
さっきから、よしとくんと話すのは山元の方が多くて、私はあまり話してない。人見知りするタイプでは、ないんだと思う。でも、何故か彼は私をじっと見つめて、動かなかった。とりあえず、スカートを掴んだままの手を握ってみる。びっくりする位あったかくて、目を見開いた。子供が体温高いって、本当なんだ。初めて知った事実に、私は一人、感動していた。ら。
「おねえちゃんは、おにいちゃんと、結婚してるの?」
「…………はいぃ?」

 ――突拍子も邪気もない言葉に、思考が停止した。固まる私を余所に、よしとくんは目をキラキラさせて。小さい身体を一杯振り回して、話す。
「だって、だってねっ。おにいちゃんの目、キラキラしてるのっ」
「はぁ」
 
山元の目が、キラキラ?よしとくんの目の方が、よっぽどキラキラじゃないか。ていうかあいつの目がキラキラって、何だそれ。少女漫画ですか。いや、何かもう、想像するだけで笑えるんだけど。
 間の抜けた返事をする私に、よしとくんはニッコリ、笑う。
「パパがね。ママを見る目と、おんなじ、なの」
「、え?」
「『大好きー』って、目で言ってるんだ、て、パパが、言ってたの」
「っ」
 
言葉を、失う。
 大好き、って。こんな小さい子でも分かる位。山元の目は、雄弁なの――?
 口から漏れる息は、白いのに。肌を刺す空気は、冷たいのに。私の頬は、ひどく、熱い。
 揺れる。心が、ぐらぐらと。知っていたのに、山元の目が、優しいこと。それでも、他人から言われると、全然違う。気恥ずかしくて、だけど、すごく、嬉しい。
「おねえちゃんは?おにいちゃんのこと、好き?」
 
無邪気なその質問に、私は、息を呑んだ。自分ですら手を伸ばせない、心の奥深く。そこにさらりと、触れられた気がしたから。
 あの春の日から、山元は、私に答えを求めはしない。大事に大事に、私の気持ちを第一に考えてくれている。
 でも、時折。その視線に混じる熱は、感じる。――きっと彼は、待ってる。あの日の、言葉通り、私が彼を、好きになること。
 でも、私は、どうしても、躊躇ってしまう。彼の言葉、彼の瞳、その気持ちに応えること。だって、私は。

「芳人っ!!」
「ママ!?」
「ぁ、」
 
ぼんやりした私の耳に、女の人の悲鳴が届いた。はっとして顔を上げると、よしとくんは走り出している。そして一直線に、見知らぬ女の人に抱きつく。
 ああ、あれが、よしとくんのママ。
 ゆっくりとベンチから立ち、彼らの方へ向かった。泣きながらお母さんにしがみつくよしとくんは、やっぱり心細かったんだろう。その手は、小さく震えてる。お母さんも泣きそうになりながら、よしとくんをぎゅっと強く抱きしめていた。私に気がつくと、ぱっと顔を上げる。
「あ……。すみません、この子、何かご迷惑を」
「あっ、いえっ全然そんなことないですっ。良かったね、よしとくん」
「うんっ」
 
膝をつくお母さん同様、私も腰を屈める。そして、よしとくんの頭を撫でた。お母さんの胸元に顔を埋めながら、こくこく頷く。子供らしいその仕草に、思わず笑うと。
「柳」
「山元、」
 
上から、くしゃりと頭を撫でられる。振り返ると、山元が立っていた。大きなその姿は、逆光で、よく見えない。でも、その口角が上がってるのだけは分かって。腕を引かれて、素直に立ち上がった。
 お母さんもよしとくんを抱き上げながら、立ち上がる。その腕の中で泣いている彼を見て、山元は、意地悪く笑う。
「お前、男がそう簡単に泣くなよなぁ」
「だ、って……ぇぐっ」
「――お母さんに会えて良かったな、よしと」
 
からかうような言葉に顔を上げて、よしとくんは山元を睨む。でも、その涙でぐしゃぐしゃの顔じゃ、何の効果もなくて。苦笑しながら、山元はよしとくんの額に自分の額をぶつけた。慈しむような、宥めるような優しい瞳。自分に向けられた訳じゃないのに、ドキドキする。お母さんもそうだったみたいで、はにかんで笑った。
「お二人が、この子の面倒を見てくださったんですか?」
「そんな大層なことじゃないですが……まぁ、はい」
「ありがとうございます」
 
山元の返事に、お母さんは深々と頭を下げて。私は慌てて、それよりも深く腰を曲げた。山元は、軽い会釈だ。
 焦ったりとかないのかっ、こいつは。
 内心毒づいていると、四時のチャイムが鳴り響いた。お母さんは慌てて、夕焼けに染まった空を見上げる。
「ごめんなさい、お礼したいんですけど、時間が……」
「ああ、気にしないでください。そうだ、これ。よしとに」
 
帰りの挨拶を口にするお母さんに、山元は手の中の、ココアを見せる。それを見て、また慌てるお母さんを、山元は静かに制して。私たちは手を振って、二人と別れた。

「んー、疲れたな」
「そうだね」
 
二人の背中が見えなくなるまで、手を振り続けて。いなくなってすぐ、山元は大きく背伸びをした。疲れた、なんて言いながら、その横顔は晴れ晴れしてる。きっと、すごく楽しかったんだろう。
 そんなことを考えてると、――手のひらに、温もり。
「!?」
「さて、じゃあ買い出し行くか」
「ちょっ、手っ!!」
 
何でもないことのように、山元は私の手を握った。そしてそのまま、歩き出す。慌てる私と裏腹に、山元はひどく楽しげに笑って。
「これでやっと、二人っきりでデートだな」
「!!?」
「つかお前、手、冷たい。素直に繋いどけ」
 
で、デートって何!?ただの買い出しでしょ!?
 真っ赤になってパニックになる私を置いてけぼりに、山元は私を引っ張る。自分とは全然違う、大きな手に。この人は、男の人なんだ、って思い知らされる。悔しくて、すぐ振り解こうと思ったんだけど。夕焼けに染まるその笑顔が、あんまり嬉しそうだから。
 
寒いから。
 山元の手が、あったかいから。
 そんな、可愛くない言い訳を内心、呟いて。
 そっと、その手を握り返した。驚いたように山元は振り返り、やがて。――瞳を細め、はにかんで、笑う。誰も見たことがないだろうその笑顔に。私の心臓が、また、騒いだ。




苦しいの。
あなたを思うと、色んな気持ちが、一度に込み上げて。
だから、私は、ただ。

  

inserted by FC2 system