27.星に願いを(3)


「山、元……」
 
やっと出てきた言葉は、もう役には立たない。だって、行ってしまった。長い足の彼は、もう三軒先まで行ってしまっている。
 山元がいなくなった途端、急激に空気が冷えた気がして。慌てて、自分の身体を抱きしめる。その時、手に持った紙袋の重さに気付いた。
「……」
 
開けて、いいんだろうか。
 迷いながら、玄関前の階段に腰を下ろして、包装紙を丁寧に開いていく。
 そこに入っていたのは、木製の、オルゴール。長方形の形で、蓋はガラス張りになっている。蓋を開けると野うさぎの絵が描かれていて、金色の針は、ぎこちなく音を奏で始めた。
 ―ポロンポロン
 柔らかなその音色に、耳を澄ます。ネジを巻いていないから、緩やかに、静かに進んでいく。曲は、『星に願いを』。私の、大好きな曲。目を閉じれば、暖かい何かに包まれているかのようにすら、感じられて。不意に、頬に当たる、柔らかな感触に気付く。
「……」
 
山元の、マフラー。灰色のそれは、無機質なのにこのオルゴールみたいに、ひどく優しく映る。そう、まるで持ち主みたいに――。
「……っ」
 
ほろり、涙が落ちる。音もなく、地面に雫は吸い込まれて、消えていった。気付けば、雪は静かに道路に降り積もり。まるで、世界と私を遮断するかのよう。こんな寒空で一人涙を零す私は、なんて愚かなんだろう。
「行か、なきゃ」
 
ぽそりと口から零れる、音。こんなところで、一人で泣いていて、そんな私は何て愚かなの。
 違うじゃない。この涙を、言葉を、本音を、向ける相手は。雪でも、この寒さでもない。
 
優しく笑う、ただ一人。
 
 ―ッガシャン!!
 乱暴に音を立てて、門を開ける。
 早く。早く行かなきゃ、また、手遅れになってしまう。あの人はきっと、心の中でひっそりと傷を作る。
 馬鹿だ、私。
 サンダルで、冷たい足の指先に、雪がぶつかってビチョビチョになる。とっくに感覚はなくなっていて、むしろ熱く感じた。パジャマの上に羽織ったカーディガンは、水を吸って重たく、冷たくなる。頬に当たる雪は、徐々に勢いを増していく。
 本当に、馬鹿だ、私。
 もらったプレゼントも放り出して、何を走っているんだろう。もう、とっくに駅かもしれないじゃない。そうしたら電車賃はないし、何よりこんな格好で。
 息が、切れる。頭の中が、霞がかって、足が重たい。だけど、私を動かすのは、首元にかかる、柔らかい、温もり。ぜぇぜぇ言いながら、角の斉藤さん家を曲がった、瞬間。
「、ぶっ!!」
「ぅわ、」
 
どしんと、黒いものにぶつかった。鼻をぶつけて、変な声が出る。同時に、向こう側からも。だけど、待って?この、声。
「……柳?お前、こんな格好で何してるんだ」
「山元……っ!!」
 
探し求めたその人は、目の前にいた。私を見つめるその瞳は厳しくて、だけど、私の目元を零れる雫に気付いて、息を呑む。その指は私の眦を、優しく撫でた。
「俺の、せいか?」
「、がっ、違うよっ」
 
こんな時まで、優しくなくていいの。あなたはもっと、私に対して、ずるくあればいいの。だけど、そんなあなただから、私は、逃げられない。いつだって、この温もりに縋ってしまう。
 もう、傷付けたくなくて。逃げたくなくて。きゅっ、と私の目元に触れる手を握りしめた。氷のように、冷たい手。だけど、どうして?こんなに私の心、あったかくしてくれる――。
「私が、悪いの、」
「柳?」
「私が、逃げようとしたの、山元からっ」
 
しゃくりあげながら、けれど瞳は逸らさない。垂れそうになる鼻水をずずっとすすりながら、訝しげなその瞳を見つめた。
「今日だって、本当は、風邪引いて、ホッとした。もし、っ、山元にまた、告白されたらどうしようって思って、っ」
「……」
「今の関係が、好きだからっ。変わっちゃうのが怖くてっ、だから私、逃げたのっ。何にも、考えたくなくて、山元を傷付けたくないとか、偽善者ぶってっ」
 
全ては、私のわがまま。どこまでも許容しようとするあなたに、私は応えきれない。ただ精一杯に思いをぶつけるあなたから、逃げようとした。理由をつけて、いい子ぶって、自分を正当化して。それだけは、私がしてはいけないこと、だったのに。
「だから、私。山元に想ってもらう資格、ないの。優しくしてもらったり、プレゼントもらったり、……そんな良い人間じゃ、ないもの」
 
突き離すことも、受け入れることも出来ず、側にいて欲しいと駄々を捏ねる。ただ自分を、甘やかすだけの人間。そんな私に、山元は眩しすぎた。私はどこまでも、汚い人間、だから。
 黒い髪に絡み付く白い雪を、ぼんやり見つめる。きっと私の髪も、同じ風なんだろう。今の彼は、どんな顔をしてるのか。怖くて、私は自分の手を離して、俯いた。
 言い終わった途端、怖くなった。全部ちゃんと伝えよう、って思ったのに。今度こそ、逃げないって決めたのに。それでも私は、顔を背ける。見たくない現実から。
 じわりとまた、瞳の表面が潤い始めた。山元が、大きく息を吐く音がする。そして同時に、私の両頬に手が添えられ――。
「ひゃ!!」
「ちゃんとこっち見ろ、柳」
 
山元と目を合わすことを、強制される。山元は背を屈めているけれど、それでも私が爪先立ちしなくちゃいけなくなった。怖くて仕方ないのに、十cmもない距離にある彼の瞳から、目を逸らすことは叶わない。何とか涙で視界をぼやけさせようとするけど、雫はやがて零れ、世界はクリアになった。
 
目の前一杯に広がる、山元の顔。綺麗なその顔も、その瞳も、その全てが。今は、私一人に向けられている。贅沢すぎて、眩暈がしそう。
「ほんっと、お前って面倒臭い女だよ」
 
彼は緩やかに口角を上げて、微笑む。その笑顔は、余りに綺麗で。私はただ、口を噤む。
「勝手に考え込んで、暴走して。人の好意は踏みにじるし、こんな女、初めてだよ」
「……ごめん」
 
ぐさぐさと自分の短所を上げられて、私は謝罪しか出来ない。そんな私を、山元は面白そうに見つめる。そして、口を開いた。
「だけどな。どうやったって、お前が良いんだよ、俺は」
「……っ」
「逃げようとしても、結局逃げ切れなくて、戻ってくるとこも。臆病な癖に、肝心なところでちゃんと言うとこも。きっと何年経っても理解しきれない、お前が、――好きで仕方ない」
「!!」
 
優しい、愛の言葉。それは、私が怖がる響きなんて、どこにもなくて。ただ、私を包み込もうとしていた。言葉を切り、静かに私を抱き締める山元の温もりが、どうしよう。何よりも、安心する。
 その胸に顔を埋めて、私は声を押し殺して泣く。山元は、その間も私に語りかけていた。
「大体、俺は『お前が俺を好きになるまで』告白の返事はいらねぇって言っただろ。今更、お前相手に焦んねぇよ」
「で、も、」
「そりゃ、気持ちばっか逸ることはある。でもそれじゃ、意味ねぇんだ。お前の気持ち、丸ごと欲しいんだよ俺は」
 
山元のコートも手も、冷たいのに。それは、びっくりする位あったかくて。優しく髪を撫でるその手に、私はただ、身を委ねるばかり。
「資格とか何とか、そんなのお前の決めることじゃねぇ。俺が好きなら、それは誰にも止められない。もちろん、お前にも」
「……っく」
 
降り注ぐ言葉は、道路に染み込む雪のように、私の中に溶けていく。それはあまりに私に都合の良い言葉なのに、何気なく山元は、くれるから。私はまた、貪欲になってしまうのに。
 一度言葉を切ると、山元は私を抱き締めたまま、私の顔を覗き込んで。だらしなく、その顔を緩めた。
「大体、俺だってわがままでお前に告白したんだ。別にお前が、いちいち気に病まなくていい」
「でも、私、っもらってばっかり……」
「良いよ。お前が側で笑ってりゃ、俺は幸せなんだよ」
 ――お前、自分がどんだけ俺に影響力あるか、全然分かってない。
 耳元で囁かれた言葉に、私は反射的に、山元の背中に手を回した。
 
 
山元だって、分かってないでしょう?あなたがどれだけ、私に影響力があるか。
 
だけどまだ、気付かないでいて。そう願う、ずるい私がいることすら――。

 しばらくすると、山元は私を離して、家まで送ってくれた。いいって言ったのに、手を取られてしまったので、仕方ない。冷たい指と指。なのにそこから生まれる熱は、熱くって。
 
門を開けたところで、私は「あ、」小さく声をあげる。首を傾げる山元は、今更ながらに寒そうで、私の首筋に収まっていたマフラーを外して、手渡した。
「はい、これ。ありがとう」
「……ああ、貸してたんだっけ」
 
その言葉に、思わず呆れてしまう。
 何て無頓着なの。大会も近いのに、風邪なんて引いてられないのに。
 だけど顔を顰めるだけで、口には出さずにおいた。
 山元はそれを受け取ると、さっさと自分の首に巻く。けれど、一瞬驚いた顔をした後、私にひどく嬉しそうに笑いかけた。
「何?」
「ん。いや、さ」
 
尋ねるけれど、山元はにやにや笑うばかり。なかなか言わないから、私がむっと唇をへの字にすると、やっと口を開いた。
 ――意地悪な、顔で。
「柳の匂いがするな、って思って」
「!!」
 
な、何を言うかーーー!!
 赤裸々に語るその様子に、顔が赤くなった。
 そんなこと、そんなこと、喜んで言うことじゃないでしょ!!
 全力で叫ぶんだけど、それは内心で。唇からは、「え」とか「あ」とか、言葉にならない母音が零れるばかり。そんな私を見て、山元はまた、嬉しそうに笑った。
「、」
 
急に、手首を引かれる。ぽす、と軽い音を立てて、バランスを失った私の身体は山元の胸にダイブした。反応出来ない私の背中に、山元は黙って腕を回す。決して強くはない抱擁は、かえって私の抵抗力を失わせた。
 抵抗すれば、きっとすぐにこの手は離れる。それが分かっていたから、……何もしなかった。だってこんなに、温かい。

 どうして、あの曲を選んでくれたの?
 どうして、戻ってきたの?
 ――
どうしてそんなに、私を想ってくれるの?

 胸の中で、数え切れない疑問が蠢く。だけど一つとして、言葉にはしなかった。それを口にすれば、この空気は壊れてしまいそうで。私はただ、目を閉じた。山元が私を離し、「帰る」そう口にするまで、ずっと。

 山元が帰ってしばらくしても、私は動けなかった。ドアの前に散らかされた包装紙が、風が吹く度カサカサと音を立てる。
 
妙に、物悲しくて。心の一部が、ぽかりと空いているみたい。
 他の誰が側にいなくても、こんな気持ちにはならなかった。だけど、山元が。私の側にいなくちゃ、私は崩れそうになる。
 その理由を。ずっと、逃げていた。認めることから。
 だけど、もう。時間が、ない。目の前に迫る扉は、開きかけている。ただもうほんの少しの勇気が、私にあれば。全ての思いは、きっと溶ける。
「……」
 
腰を屈めて、オルゴールを拾い、ネジを巻いた。さっきよりテンポの速いメロディが、私の耳にやけに響く。
 ちらりと空を見上げても、灰色の雲が覆っていて、星なんて見えやしない。けれど、私は祈ってしまう。




それは、逃げるための時間?
それは、立ち向かうための勇気?
答えは未だ、私の胸の奥深く。


  

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