3.たった一つの真実 (2) 


 次の日から早速、勉強会は始まった。意外にも柳は解説が丁寧で上手い。理解の遅い俺に何だかんだで最初から説明し、分からないところは、一回一回教科書を見せて教えてくれる。横に座り、完全に一対一で、一生懸命。
 ……そういうことをされると、ひどく照れくさくなる。例え部員としてだとしても、友達扱いだとしても、大事にされてると身に染みて感じるから。ただ、少しでも意識を別の方に飛ばすと、すごい勢いで睨まれるが。


「……?」
 課題テスト前日。最終チェックに出されたプリントは、基礎を中心に軽い応用も含まれていて。中々難しかったが、そこは柳の教え通りに考えていった。二次関数、三角不等式、ここ一週間で妙に頭に残った単語たち。ない知恵を必死に絞って、解答欄に書き込んでいく。最後の一問を何とか埋めて、ザッと見直した。特に計算ミスも無いし、平気か?時計を見れば、まだ時間は残っている。だけど柳に早く丸付けして欲しくて、笑顔で顔を上げ、隣を向く。
 ――けれどそこにあったのは、愛しい彼女が無邪気に。そして余りにも無防備に、首を揺らしている姿だった。
「……やな、ぎ……?」
 小さく呼び掛けるも、起きる様子は無い。少しためらいながら、その頭を軽く叩いた。彼女は少々肩を震わせ、小さく目をこする。その姿に多少安心して息を吐く。早く、起きてくれと。実際切に祈った。
 しかし柳は。
「うぅ……ん……」
「……っ、」
 身動ぎをして、俺の肩にその小さな体を預け、また眠る体勢に入る。耳元で聞こえる小さな寝息に、正直焦燥感を抱いた。 俺も、いわゆる青少年って奴なんだから。 こんな静かで、誰も来ないような図書室の奥まった場所で。
甘い香りさせてすり寄って来る好きな女に、平静に対応なんて出来るはずが無い。 この間『男』を思い知らせたはずなのに、どうしてこうも無防備なのか。誘ってるんデスカ、とか都合のいい解釈まで浮かんで来る。……こいつが、そんな真似するはずがないって分かっているけれど。
 とりあえず、意識を逸らそうと机の上に視線を滑らせた。そこには、俺の教科書と、数枚のプリント。
「……?」
 よく見るとそこには、小さな丸々した字が並んでいた。これは、柳の字だ。プリントに印刷した問題に、丸や解説が脇に書いてあった。それに疑問が沸いて来て、思わず手を伸ばした。 それを見て、初めて気付いた。思わず息を、飲むくらい驚く。
 問いの下には、何の参考書からの出典か書き込んであった。答えの方は、解説がびっしり書いてある。そこに挟んであった宿題用だったプリントは、間違えた問題にはそれぞれ『ここの計算ミス、明日指摘』『考え方と公式が違う。教科書P152を見せる』等ポイントがまとめてあった。
 柳を起こさないよう、小さく呟く。
「……自分で、プリント作ってたのか」
 そっとプリントの文字をなぞるように、指を滑らせる。そんなものでも、どうしようもなく愛しく感じられた。無言で、隣に眠る彼女を見つめる。
 ……眠くなるのも当然、か。俺は、高校まで自転車で三十分はかからない。柳は、電車で一時間半ほどかかるらしい。部活の開始時刻は基本は八時。ただし、マネージャーは一時間前集合だと昔聞いた。部活終了がだいたい四時半ごろ。その後更にこの勉強会だ。家帰ってこんな作業してたら、寝るのなんて確実に十二時過ぎる。そんなことを考えていたら、無性に愛しさと苦い気持ちと、一気に溢れて来た。
 頬を、顎のラインにそってなぞる。白く滑らかな肌はツルツルで、指が面白いくらい滑った。鼻を彼女の髪に埋めて、匂いを肺一杯に吸い込む。甘いその香りに、身体が、震える。
 ……ヤバい。本気で止まんないかも。身体が、心が、柳が欲しいと、疼いて乾いている。
 ヒーターが消えて寒いのか、温もりを求めるように俺の肩に頬を擦りよせる子猫みたいな仕草。可愛すぎて、脳味噌が沸騰したみたいな気分になった。浮かれたような、妙にフワフワした気分のまま、彼女の頬にかかる髪をそっと掻きあげる。リップが塗られていない、少しかさついた桜色の唇が俺を誘ってるみたいで。黙って柳の頬に手を添えたまま、顔を近付けた。

「やな、ぎ……」
 低く掠れる自分の声が、静かな図書室に響いた気がする。バックンバックン、妙にでかい心臓の音に柳が起きないか心配になる。柄にも無く、頬が妙に赤くなるのを感じて。
 キスなんて今更、初めてでもないのに。どうしてこんなに緊張するのか。その理由は、柳だから。触れ合う吐息に、喉が引き攣る。たったそれだけでも、たまらない快感。どうしよう。本当に、止まらないかもしれない。
 
こんなの、フェアじゃない。 バレたら軽蔑されるかも、しれない。 それならまだいい。 
 もしかしたら――

「図書館閉館時刻になりまーす!!」
「っ、」
「ん……んー?」
 突然遠くから聞こえた、閉館の知らせ。驚いて思わず身を引いたら、柳の身体は大きく傾いて、目を擦りながら瞼をしぱしぱさせた。
「んぅ……あれ、山元……?」
「……お前、起きんの遅すぎ」
「ふぇ?って閉館!?うっそ起こしてくれれば良かったのに!!」
「……問題解いてて気付かなかったんだよ」
「え、あ、やばっ!!じゃあとりあえず丸付けしちゃうからプリント出して」
「んー」
 慌てる柳にはバレないように、息を吐く。最後の一瞬。直前で俺は、この手を緩めた。俺は多分こいつの、真っ直ぐなところが気に入っていて。だから。

『いや、いやぁ……っ!!』
――あの時みたいに、壊れたこいつは見たくない。

 テーブルに肘を付いて、組んだ手の上に顎を乗せる。慌てて丸を付けていく横顔を、じっと見つめる。
『……山元が私なんて好きになる訳ないなって思って……』
 不意に蘇る、つい最近聞いた言葉。泣きそうに吐き出された言葉に、混乱したのはこっちだ。こんなにも、彼女を思っているのに。それを、どうして分かってくれないのかと、傲慢な想いを抱えて。だけど、そんな不器用な彼女を愛しく思ったのも確か。
 しばらく見ていると、柳は驚いたように目を見開いて輝く笑顔を見せた。心臓が飛び跳ねる。そんな可愛い笑顔見せんなこの馬鹿、と心で小さく照れ隠しの悪態をついた。
「山元っ、すごいよ!!」
「は?」
「これ!!」
 嬉しそうに差し出される一枚の紙。それを見て、始めて勉強会の最中であることを思い出した。右上に小さく書かれた数字に、視線を移す。
「……八十点。……マジで!?」
「うん!!よく頑張ったね山元。これ一番始めにやったテストよりちょっと難しいんだよー」
「ああ、十点で柳がキレた奴か」
 勉強会の一番最初の授業の時、柳は簡単な実力を見たいと言ってテストを持って来た。全く分からなかった俺は間違えまくり、こいつはそれに激怒した、と。鼻歌を歌いながらニコニコそれを眺める柳に、思わず言葉を零した。
「ありがとな」
「え?」
「プリント。自分で作ってたんだろ?」
「……へ……えぇぇぇぇ!?」
 真っ赤になって悲鳴を上げる。そしてそのまま、勢いをつけて椅子から転げ落ちた。大きな音に驚いて椅子から立ち上がり、彼女を見る。後頭部を打ったらしく、頭を押さえて寝転がったまま呻いていた。呆れながら、声をかける。
「おい、大丈夫か?」
「う゛……だ、大丈夫……っ」
「ほら、手貸せ」
「あ゛り゛がど……」
 痛みで泣いてるのか、鼻が詰まったような涙声で返事を返してきた。苦笑して、腕を掴んで起こしてやる。真っ赤な顔に涙目で、上目遣いでこちらを見る様子に、視線を逸らしたくなる。まだ頭が痛いのか、片手は後頭部にやったままだった。
「たく、なんなんだ突然……」
「いつ、から?」
「ん?」
「いつ、分かったの?プリント私が作ってるって……」
「え、さっきお前寝てる時に見て……」
 困ったように質問する柳に、不思議に思いつつも返事をする。俺の言葉に、彼女は大きくため息を吐いてあからさまに落ち込んだ様子でうなだれた。……俺はそんなにまずいことをしたのか?しばらく真っ赤になって固まった彼女は、無言で立ち上がり、不意にボソボソとしゃべり始める。
「……でしょ?」
「え?」
「プリント、見にくかった、でしょ?」
「え?いや、別に」
「嘘!!問題もまとまり無かったし、解説とか絶対分かりにくいし……」
「いや、そんなことねぇよ」
「っ、でもっ」
「柳」
「……ぅ」
 情けない顔で俺を不安げに見上げる。何となく、彼女の言いたいことが分かった。多分、自分の作ったプリントに自信が持てなかったんだろう。だから自分が作ったと言うことも出来ず、バレないと信じていたからあんな大きな反応を。
 耳まで真っ赤に染めた彼女の手を、ぎゅっと握り締める。
「柳。あのプリント、目茶苦茶分かりやすかったよ。サンキュ」
「で、も」
「……あのなぁ。大事な奴が自分のためにわざわざ苦労してくれたんだぞ?その気持ちだけで、十分だよ」
 顔を上げた彼女の目を真直ぐ見て、自分の気持ちを正直に伝える。彼女は泣きそうに目を潤ませ、嬉しそうに笑った。 その笑顔にこっちの心もほぐれて、自分より随分低い位置にある頭をグシャグシャと撫でる。すると柳は、頬を赤く染めた。
 ……え?不可解なその反応に、思わず手を止める。
 だって、こんなの今までだってやってきた。なのに、何で?不思議そうな俺の視線に、柳は困ったように眉を寄せて膨れる。
「意識しすぎかもだけど、……仕方ない、じゃん」
「……意識?」
「告白されて本気だって分かって、そんな人に触られて、ど、ドキドキしない訳無いでしょっ」
 たこみたいに真っ赤になって叫ぶ柳の言葉に、動けなくなる。呆然とした俺を、心配そうに見上げる瞳。でも、俺は。
「山元?どしたの?」
「お前、……俺を男に見てるの?」
「当たり前でしょ?山元、男じゃん」
「……いや、えと、そうじゃなくて……」
「ん?」
「……俺をちゃんと、恋愛対象の男として、見てくれてるのか?」
 驚いたまま、囁くように尋ねる俺に、驚いたような表情を浮かべた彼女は、小さく苦笑した。そのまま、俺の瞳を覗き込む。柔らかな色を、宿したまま。
「山元、私のこと本気で好きって言ってくれたじゃない」
「……え、」
「それね、嬉しかったんだよ。だから私も、真剣に答えたいって思ったの。好きになれるかは分からないよ?私はまだ、先輩を忘れられない。だけど、きちんと考えたい。山元のこと」
 ハッキリとした口調に、あまりに大きな幸せを感じた。その心中に、まだまだ先輩に負けてるとしても、俺のことも考えてくれていると。正直、こいつにとって俺が男になることはずっとないと思っていたから。嘘みたいな現実に、嬉しすぎて目眩がしそうだった。

 俺はきっと、こいつを好きになって良かったんだと思う。それは、この先どうなろうとも変わらない、気持ち。

 その後、図書館の先生に追い出されて、俺達は学校を出て家路に着いた。柳は笑って、「頑張ってね」と口にしていた。直前の柳の言葉が嬉しくて、俺はただ赤くなって「おう」としか返せなかった。
 そして夜は彼女の言い付けに従って早めに眠りにつき、そして今日。周りにも数人、必死で教科書を捲ってる奴等がいる。もうすぐテスト開始だ。だけど俺は、大分落ち着いて深呼吸をしていた。と、不意にケータイの電源を消し忘れたのを思い出す。慌てて取り出すと、メールが一件。それは、柳からで。
 ――開いて、顔が赤くなった。
 勝手に緩む頬を必死で叩いて、真顔を作る。もう一度、画面を見て電源を切った。
「では、テストを開始します」
 説明と共に、プリントが配られる。大丈夫。絶対、大丈夫。 柳のメール内容をもう一度思い返しながら名前を書く。
『合格して、一緒に進級しようね』




彼女がいてくれるなら。彼女がそこで、俺に向かって笑ってくれるなら。
いくらだって、俺は歩んで行ける。
この気持ちは、偽りが無い、俺のたった一つの真実。

  

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