自覚すれば、急速に深まっていく。

病みたいに、私を繋ぎとめて。


29.加速する想い


 部活が終わってすぐ。私は、雑巾を洗う、なんて口実を作って体育館を飛び出す。
 もう少し。冷たい水と、身を切るような空気に耐えれば、彼は、やって来るから。しばらく、そっと息を詰めて、水道場で作業を続ける。
 そうすれば。

「柳先輩。抜け出すにしても、もう少し楽な仕事を選んでください。寒いでしょう」
「青竹くん」

 苦笑しながら、私の元へ歩いて来るその人に、私は小さく微笑みを返した。

 三学期の始業式から、はや三週間。あの日から、山元を避けながら、私は青竹くんと話をしている。もちろん、山元と話す時もある。だけどそんな時は、青竹くんが上手くフォローしてくれたりして。冬休みに比べれば、最近の私の精神状態は、ぐっと落ち着いていた。
 そう。あのころみたいに、山元の一挙一動を気にしたり、不安になることは、あまりない。

「それでね?山元、先生に何て言ったと思う?」
「何て言ったんですか?」
「『俺より程度の低い説明は、聞く気なくなっても仕方ないと思います』って。先生カンカンになっちゃって大変だったんだよー」
「山元先輩らしいですね……」
 だけど、いつだって私達の間で交わされるのは、この場にいない、ただ一人のこと。
 青竹くんは、相談に乗ってくれると言った。でも今の私には、この色んな想いが言葉に出来るほど、頭が働かなくて、他愛のない世間話ばかりを、繰り返している。それでも青竹くんは、笑ってくれるから。私はつい、彼の優しさに、甘えてしまって。
 良くないことだなんて、とっくの昔に分かっている。山元を避けて、青竹くんの優しさに逃げ込んで、自分に反吐が出る。それでも、差し出された手を離そうとしない。
 ――それはどこまでもずるい、私の本性。
 きっと、それを止めてくれる人が現れる限り、私は動こうとしない。我ながら、情けない確信に、顔を歪めた。
 するとそれに気付いた青竹くんが、雑巾を洗う私の隣に立って。そっと、頬を撫でてくる。運動後で温かい手の感触に、思わず笑ってしまった。

「青竹くん、あったかいね」
「柳先輩の頬は、冷たいですね」
「そりゃ、運動してないもん」

 からかうような笑みに、私はニヤリと笑い返す。
 ……落ち着く。青竹くんの側は、何も強制されない。彼は、私に何も促さなければ、何も示さない。
 それは、迷った道の中で見つけた、一つの灯りのような。ささやかで、けれど確かな温かさで。私は、固まったままの表情筋がほぐれていくのを、確かに感じていた。
 冷たい木枯らしの中。彼の側では、私は何の躊躇いもなく笑うことが、できる。それが何を意味するかを、考えることもない。今日もまた、私はその隣で、ただただ無意味な言葉を重ねる。自分の中にどうしようもなく燻ぶる思いから、目を逸らすように。


 次の日の昼休み、お弁当を食べていた。
 今日は、神奈は女バスの子と一緒で、きゆは先生に授業の質問をしに行った。そんな訳で、残ったのは、私とさっちゃんだけ。でも、いつも元気なさっちゃんは、今日は難しい顔で雑誌を眺めている。頬杖をつきながらそれを見つめて、私はふっと顔を窓の外に向けた。
 授業開始まで、あと十分。どこかのクラスは、体育みたいだ。室内の温度との差で、白く曇ったガラス越しに、何人もの男女がグラウンドへ走って行くのが、見える。
 その中に、青竹くんを見つける。スコアを書いている時のせいか、バスケ部の子は、後ろ姿でもすぐに分かった。ぼんやりと、彼を眺める。隣にいる友達の子と、元気に笑うその姿からは、寒さなんか感じられなくて。微笑ましくて、無意識に口元に笑みが浮かんだ、時。
「みーずーきー」
「ん?」

 さっちゃんに髪を引っ張られて、私は意識をすぐにそっちに向ける。半分泣きそうなその表情に、目を見開いた。
 どうしたんだろう、いきなり。
 首を傾げて話を促せば、彼女は顔を赤く染めて、雑誌のあるページを示してみせた。
「バレンタイン?」
「うん。あと二週間でしょ?」
「ああ、」

 そっか、忘れてた。私の納得したような表情に、さっちゃんは小さく顔を顰める。
「もう、瑞希!!女の子がこーんな一大イベント忘れちゃ駄目でしょ!!」
「えー、別に部活の子に配る位だし……」
 
バレンタインは、部活の子と顧問の先生に配るのがマネージャーの掟になっている。それとプラスして、友達とチョコ交換する位で。毎年、私にはあまり縁の無いイベントだった。どっちかって言うと、部員の数分作るのなかなか大変だし。去年だって、青竹先輩に渡そうにも、家庭研修期間だったから、会うことも出来なかった訳だし――。
「、」
「んん?何、このイベントの重要性に気が付いた!?」
「……あ、う、うん、そうだね、」

 ぽつりと、口から小さな悲鳴が漏れる。それに過敏に反応したさっちゃんに、私は曖昧に頷き返した。内心では、馬鹿みたいに混乱している癖に、それを覆い隠しながら。
「でね、私悩んでるんですよ」
「何に?」
「や、彼氏が、さぁ、……ブラウニー食べたいって言ってるんだけど、上手く作る自信なくって……」
 
そりゃ幼馴染みだったから毎年あげてるし、私の腕前あっちは知ってるし、でも今年はちょっと違うって言うか、真っ赤な顔のまま、早口で捲し立てられて。私は、苦笑しながらそれに応じた。




――消えていく。
私の中から、青竹先輩の存在が。
ずっと好きだって、思っていたのに。
違う。これからだって、思っていくのに。
私には、あの人しかいないのに。

どうして、あなたの影が、薄れていくの。
どうして、私はそれを見ていることしか出来ないの。
……どうして、あなた以上に、私の心を占める人が、いるの。

開いていく。
自分のココロと、アタマの距離が。
なのに、受け入れられない現実が、刻一刻と向かって来る。
そこに残るのは、一筋の想いの残滓と、新たな、欠片。


   

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