31.ただ一つの想い(2)


 固まる私にニッコリと笑う、その姿。優しいはずのそれは、今の私にはひどく残酷に見える。顔を背けると、ただ、「無駄ですよ」そう言われた。
「いくら逃げたって、いつかはそんな場所もなくなります。変わらないものなんて、この世界には無いんです」
「っ」
「もう、自分の気持ちを誤魔化すの、やめたらどうですか」
「わ、私はっ」
 
青竹くんの言葉に、口を噤む。
 分かってるよ、言われなくたって。私が自分の中の気持ち、消化できず、認めることも出来ないこと。
 けれどそれを言ってしまったら、その瞬間。
壊れて、しまう。
「誤魔化して、ない……」
「だったら、言って」
「……」
「兄貴が好きだ、って言えばいい」
 
淡々と告げられる言葉が怖くて、拳を握りしめる。青竹くんの言葉に顔を上げれば、真剣な瞳。その深さに、涙がこぼれそうだった。
 分かっているんだろう、彼にも。 私がもう、先輩を『好きだ』と言えないこと。 変化は他でもない、変化を怖がる、私の心に訪れていたこと。
 
それでもどうにか逃れたくて、身を捩る。いくら逃げても、両手が掴まれている今は、何も出来ないのに。
 結果は分かり切っている。それでも、今は。今だけは。叶わない願いを振りかざす私に、彼は何も言わなかったけれど。不意に、ふっと微笑んで、私の顔を覗き込む。
「ねぇ、先輩」
「、」
「青い鳥、っていう童話を知ってますか?」
「……?」
 
震える指先に染み込む温度に、違和感を覚える。でも、それ以上に彼の発した言葉に私は反応した。
 どうして、いきなり。
 そう思うけれど、実際には、少しだけ首を傾げるばかり。多分、ホッとしたんだと思う。もしかしたらこのまま、話が終えられるのかもしれない。そんな淡い期待を、私は失いたくなくて。
「外国の童話。主人公のチルチルとミチルって二人の兄弟が、幸せの青い鳥を見つけに、旅に出るんです」
「……知ってる」
「そうですか。俺、小さい頃あの話好きだったんですけど、気付けば見当たらなくなってて。そしたら最近本屋で見つけて、読んだんですよ」
 ふと思い出を語るように、彼は優しく笑う。だけどその瞳は、依然として強いまま。私は大きく深呼吸しながら、次の言葉に備える。
「あの話の最後って、知ってますか?」
「……確か……」
 
私自身、小さい頃読み聞かされたお話を、そっと思い浮かべる。
 心優しい彼らは、仲間と共に各地を旅して、けれど鳥は見つからなくて。失意のまま、家に辿り着いた彼らを待っていたのは。
「青い鳥は、自分の家に、いたんだよね」
「そうです」
 
先輩も読んだんですか?静かな問いに、私は首を縦に振る。
 幸せは、気付かないけれど自分の側にある。そんなことを暗示したお話だったはず。
 だけど青竹くんは、少しだけ悲しそうに顔を歪めた。
「でも、あの話。本当のラストは違うんですよ」
「え?」
「青い鳥は家にいたんだけど、どこかに飛んで行ってしまうんです」
 
それは、ただのお話。
 なのに、街灯に揺れる彼の瞳の色は、強く、真っ直ぐで。私に何かを、問い質す。口を開くけれど、何の言葉も返せない私に、青竹くんは微笑んで。ふっと私から視線を外し、空を仰いだ。追いかけて、私も顔を上げる。降ってきそうな星が、視界一杯に広がって。
 ――怖かった。底なしの闇に、落ちてしまいそうで。欲しくてたまらない、あの温もりに触れることもないまま、どこかへ自分が消えてしまいそうで。
「それの解釈は、色々ありますね。人間は一つの幸せで満足出来ない欲深い生き物だとか、幸せは結局なくなってしまうもの、だとか」
 
闇の中、青竹くんの言葉がやたらと耳に響く。不意に離された手に気付く暇がない位、私は何故か、必死にその言葉に耳を澄ましていた。
「だけどね、俺はこう思うんです。
 ――ちゃんと掴まえなくちゃ、幸せは呆気なく消えるものじゃないのかな、って」
 
顔を、正面に戻す。少し離れた場所で笑う彼は、どこか人間離れしていて。よろよろと、ベンチから立ち上がる私を見て、ふわりと笑う。
「別に先輩が逃げても、俺は良いんです。その分、俺にチャンスが増えることだから。……だけど、どうか、その前に。俺の質問に、答えて」
 
その静かな声は、この世界を満たし、制して。闇の中、どこまでも冴え渡った。震える身体は、でも、逃げようとしない。
 ああ、そうか。もう、出来ていたんだ。震える手は、目の前に迫る扉を、開ける用意を。


「先輩が、側にいて安らぐ人は?」
 
その言葉に浮かぶのは、優しい微笑み。
「先輩が、側にいなくて寂しいと思う人は?」
 その言葉に浮かぶのは、大きく骨張った手の平。
「先輩が、悲しい時抱き締めて欲しい人は?」
 
その言葉に浮かぶのは、耳元で響く吐息混じりの低い声。
「先輩が、失いたくない人は?」
 
その言葉に浮かぶのは、仄かな熱で揺らめく瞳。
「先輩が、絶対に、掴まえたい人は?」
 その言葉に浮かぶのは、私全部を包み込む心。

「……先輩の、幸せの形は?」
 ――その言葉に、浮かぶのは。

 最初から、心が指し示していた、答え。
 それは、抑えていただけで。
 いつしか、こんなにも零れ落ちていた。
 私の心一杯に、落ちて、広がって。


「っ、ふ……っ」
「……」
 
認めてしまえば、自分の中を一気に埋め尽くそうとする大きな気持ちに、堪え切れずぼろぼろと泣きじゃくる私に、青竹くんはそっと近寄り。両腕を伸ばし、――優しく抱き締める。抵抗しようとすると、「今だけ、」耳元に、囁かれた。
「今日で、最後にします。だから、今だけ、」
「……」
 
苦しそうなその響きに、私は、何も答えられず。ただぼんやりと、青竹くんも、泣いているのかもしれない。そう、思った。柔らかな抱擁は、決して私を閉じ込めようとはしない。逃げようと思えば、彼は私を手離す。それでも、私は逃げなかった。望んだものではない。それでも。
 だって彼は、向き合ってくれた。私の、ために。
「言って?」
「ふっ、う……?」
「教えてください。あなたの好きな人。
 ――はっきり言葉にして、俺を、ちゃんと、ふってください」

 最後のわがままだと言う彼の笑い声は、私の耳元に悲しく響いた。
 
分かってた。最初から。
 青竹くんに触られても嫌じゃないし、彼といると、とても落ち着く。
 それは、青竹くんのこと、とても、大事に思っているからだ。そして青竹くんも、私をとても、大事に思ってくれているから。
 だから私は彼を、本当は最初から、……外していたの。恋愛対象から、外していた。
 きっと彼を好きになってしまえば、私は、青竹くんを先輩と比べてしまう。口では「違う」と言うけれど、二人は似ているから。そして二人は違うから。だからこそ、私はどこかで青竹くんに、先輩を求めてしまう。
 それが嫌だった。大事だから、傷付けたくなくて、恋愛対象から外して。手のかかる弟を思うように、接していた。
 
違うの。全然、違うの。
「……わ、私」
「……」
「っ私の好きな、人は……!!」
 
自分には何も、返ってこなくても。
 与えたい。
 触れるのがいっそ怖くて、逃げたくなっても。
 触れて欲しい。
 その笑顔一つで、私の中身が壊れていくような。その温もり一つで、私の全身が熱くなるような。
 いつから。いつから、ここに住み着いていたんだろう。いつの間に、私の心を埋め尽くしたんだろう。私の心の真ん中にいるのは、たった一人。
 そう。たった、一人だけ。

「――山、元……だよっ……」

 呼吸をするように、簡単に。その名前は、口から零れていく。
 最初は青竹くんと同じ、恋愛対象外だった。青竹先輩と同じ、特別な存在で。だからこそ恋愛対象ではなく、『男』でもない。私を嫌な『男』の手から守ってくれた、安心出来る、安全な人。
 自分の中できっちりラインを引いたからこそ、山元を『男』として認めてしまえば、私は壊れてしまう。告白された時、まずそう思った。
 あの日、私は自分に恋愛感情を封じた。そんなもの、なければ触られるのも我慢できる、そう思って。
 そんな時に青竹先輩が助けてくれて、必然のように、何よりも信頼出来る人だと信じて、好きになった。自分の中に消えかけていた恋というものを全て、あの人にぶつけた。
 もしも先輩を好きでなくなった時、私は自分の恋愛感情をもう一度解放して、新しく好きになる人を受け入れる隙間を、自分の心の中に作らなければならない。それが山元ならば、尚更。彼をもう一度、恋愛対象である『男』と認めなければならないから。
 その為には、あの日の記憶がどうしても付随してくる。何度も何度も封じ込めた。怖くて、自分を襲ってくる闇は果てしなくて。こんなものに耐えなければならないのなら、青竹先輩以外いらない、好きにならない、そうやってずっと抵抗した。
 けれど結局。私の箱は、呆気なく開かれた。彼の、いつだって優しい、その瞳によって。
 
けれどそれでも、私はずっと、怖かった。だって山元は、とても人気がある人で色んな女の人を知っていて、私みたいな人間、きっとすぐに見向きもしなくなってしまう。そうに違いない、ってそう思った。その時山元が好きだと認めれば、気持ちは膨れ上がり、同時に、壊れてしまう。彼がくれた愛情だけ、心に降り積もった愛情はもう、私の小さな胸を破裂させそうだった。だったら我慢すればいい。見ないふりをして、気付かないふりをして、やり過ごせばいい、って。
 でも、違う。きっともう、無理だ。もう私は、抗えない。例えもう届かないと分かっても、私は山元に手を伸ばし、泣いて縋ってしまうだろう。だって、堪えられない。彼がいなくなってしまうなんて。
 そんな深くて重たい気持ち、私が向けられるのは、ただ、一人。山元だけ。
「、っごめん、なさい……」
「……」
「青竹、くんの気持ちには、……っこたえ、られない……」
 
ごめんなさい。
 本当に、ごめんなさい。
 私がずっと、認めなかったから。自分の気持ちを、放り出してしまったから。あなたに、頼り切って、甘えて、そして傷付けてしまった。
 自分がしでかした罪が、あまりに大きく。私は泣きじゃくりながら、必死で謝る。
 こんな時に、泣きたくなんてない。弱さの象徴のような、慰めて欲しそうな涙なんて、いらない。これは彼が私を責める、足枷にしか、ならないのに。放っておけば勝手に変な声を出す喉を、ぐっと押さえながら言葉を続ける私の額に。
「、」
 ――
ひとすじ、雫が落ちる。
 ぽとり、と落ちたそれは、私の頬を伝い、やがて地面に零れて。震える唇が、その替わりに額に触れた。
「俺は」
「……」
「……あなたを好きにならなければ、きっと、幸せだった」
 
真摯な、けれど弱々しい声音は、私の心臓を締め付ける。でも、と動いた唇から漏れ出た白い吐息は、私の前髪を揺らし。
「あなたを好きになったから、きっと、――幸せになれる」
「……」
「……だから、これから先、後悔はしません。あなたと出会ったことも、好きになったことも、今日の自分の選択も」
 
今は少しだけ、後悔しているけれど。そう言って、離された身体。
 見上げた先にある彼の微笑みは、どこまでも、綺麗で。赤くなった目元も、穏やかな瞳も、何もかも。綺麗なことに、気付いた。
 そして、私が言葉を間違えたことにも。
 遠い目をする彼の腕を、少しだけ引っ張り。自分に出来る限り、最大限の笑顔を作る。
「じゃあ、」
「……はい」
「ありがとう。青竹くん」
 
私に、大切なことを教えてくれて。苦しい選択を、それでも選び抜いてくれて。弱虫な私に、道を示してくれて。――私を、好きになってくれて。
 心からのお礼に、彼は瞠目した後、小さく笑い声を上げて。
「だったら、先輩はあなたの幸せを。どうか、逃がさないで」
 
悪戯っ子みたい光を瞳に宿し、ニッコリと笑った。




目の前に立ち並ぶ扉は、何枚も存在して。
目の前に広がる道は、何通りも存在する。
でも、私が選んだ道は、最初からたった一つに通じていた。
ずっとずっと、気付かないでこの道を歩いていた。
ただ、馬鹿みたいに、それを認めなかっただけで。
今、私は一枚の扉を開ける。
開いて一番最初に見えたのは、眩い光。
そしてきっと、その先に見えるの。
――誰より望む、その微笑みが。
私だけの、幸せの形が。


  

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