40.your favorite(3)



 合宿も順調に進んだ四日目、最後の夜。事件は起こったのです――。

* * *

「ああー!!気持ちいいねー!!」
 ざぶん、と音を立てて湯船に飛び込む。その拍子に、鼻にお湯が入り、咳き込む私を咲ちゃんは苦笑しながら眺めていた。熱いのが苦手らしい彼女は、とりあえず足だけゆっくり湯船に淹れていた。 
 伊豆と言えば温泉。今私達が浸かっているのは、民宿の離れの露天風呂。本館の露天風呂は檜風呂で、正しく言うと屋外風呂と言った感じ。でも、離れの方は岩作りで、本当に露天風呂って感じ!!
 離れは値段も少し高くなるので、基本は使用禁止なんだけど、毎年最終日だけは利用させてもらっている。今晩はご夫婦も「ゆっくり入っておいで」と言ってくれたので、お言葉に甘えることにした。もちろん、本館の大浴場も同じ温泉を引いているんだけど、何だろうな。やっぱり、『露天風呂』ってテンションあがるよね。正に温泉!!という感じで。岩の感じとか、肩に当たる冷たい風だとか。空を見れば、緑色の葉っぱがサラサラ揺れて、紺色の夜空はきらきら光る満天の星で淡く輝く。日本ならではのこの光景は、何て言うかもう、たまらなく好き。
「伊豆、いいですね」
「うんっ。いつかゆっくり一人旅とかしてみたいなぁ」
 長い髪は、お風呂に入る前にバレッタで留めてある。咲ちゃんは肩につくかつかないか、という微妙な長さなので迷った挙句ゆるく結んでいた。
 ……それにしても、咲ちゃん、綺麗な裸してるよなぁ。なんて、親父な発想。でも何て言うか、いやらしい意味じゃなくて、純粋に綺麗なんだもん。手足はすらりと長く、無駄な筋肉もぜい肉もなく。腰の括れとかきゅっと締まってる。顔が中性的な雰囲気のせいか、胸とかないように思えるけど、とんでもない。着痩せするって言葉のまま。出るとこはしっかり出てる。一度、俯いて自分の胸を見下ろし。大きく、ため息を吐いた時。
「おーっ、すげぇぇ!!」
 ――隣から、大きな歓声。妙に聞き覚えのある叫び声は。
「……梶山先輩、ですかね?」
「……多分」
 ぱしゃ、と湯船に浸かり、咲ちゃんは遠慮がちに私の耳元で囁く。わざわざ小声にならなくても、と思うんだけど、ついつい私も小声で返してしまった。なんとなく、声を聞かれたら気まずい気もしたし。
「あーやっべ疲れたんだけど。マジ何なの、この鬼日程」
「死ぬっしょ、がちで。つーか宿題俺全然手付けてない」
「俺もー」
 私のすぐ後ろにある竹の柵の向こう側から、ばしゃばしゃと音が聞こえ、夜空に部員たちの馬鹿声が響く。他にお客さんがいないことが分かってるから、咎めようとは思わないけど。大騒ぎする奴らの会話を聞く限り、今いるのは三年生だけっぽい。あきれ顔で話を聞いている私に、咲ちゃんがもう一度囁く。
「よくあるんですか?お風呂の時間被るの」
「いや、初めて。いつも片付けとかでお風呂入るの遅くなっちゃうからね」
 ぼそぼそと話しているのは、さすがに向こう側には聞こえないみたい。その内、部員達はどこの大学のマネージャーが可愛かった、とかそんな話で盛り上がり始め、何だかんだ抜かりない奴らにため息を零してしまった。
 ……でもまぁ、仕方ないか。高校生だもんね、女の人が気になっても仕方あるまい。女子大生って何であんな大人っぽいんだろうなぁ。美人だし、化粧もちゃんとしてるし。思わず目を奪われてしまうのも仕方ないか、と納得して、今のうちに出ようか、と咲ちゃんに向かって口を開く。
「なぁ、恍はー?どれが一番可愛かったと思う?」
 ――が、固まった。
 咲ちゃんも私と、柵を交互に見て、苦笑している。……いや、なんかもう、本当にごめんなさい。私も部員のこと言えないですね、色恋沙汰で頭いっぱいです。駄目人間です。でも、……気になっちゃうんだもん!!
 ぎゅっと唇を噛んで、柵の向こうの声を、待つ。然程間を開けず、低い声は耳に届いた。
「あ?見てない」
「は?お前、見てないって何だよー」
「興味なかったし。つーかお前ら、そんなとこ見てたから試合負けたんだろう、がっ」
「ぎゃぶっ、ごめんなさいぶちょー!!」
 淡々とした声は、嘘を言ってるようには聞こえない。思わず、詰めていた息をほ、と吐き出してしまった。部員にお湯でも掛けたのか、相手の声は中途半端に途切れる。
 柵の向こうでは、欲望なんて全然感じさせないような声、女なんて興味ない、って感じの言い方。……でも私は、その声が、砂糖みたいに甘くなる時を、知っている。その唇が、優しく愛を紡ぐ時を、知っている。
「〜〜〜っ」
 何だか、まずい。温泉のせいか知らないけれど、顔が一気に熱くなってしまった。
 女の子って、基本的にギャップに弱いと思う。例えば可愛い男子が実は力持ちだったり、ぶっきらぼうな男子が優しかったり。それでもって、それが自分の前でしか見せない特別なものだったりすれば、尚更。
 だから、ずるいんだよね、山元は。知れば知るほど、私を嵌まらせる。その全てで、引きずりこむ――。
「えええ、でもさ、北原のマネージャーは流石に見なかった!?やばくなかった、あの胸っ!!」
 ……ばか梶山!!何とも乙女な思考は、下心丸出しの叫びにあっさり抜けてしまった。ぎっと柵を睨んで、鼻息荒くなる私に、咲ちゃん、苦笑。
「あーやっばいよな、走る度に胸揺れてたもんなー」
「俺ベンチにいる時はガン見しちゃったもん」
「巨乳で可愛い彼女欲しいわー」
「お前じゃ無理だろ」
「何だとっ!?俺かなりお得な物件だと思うぞ!?」
 ……何とも下世話な会話だなぁ。盗み聞きしてる私が思うことじゃないけれども。でも、何となく新鮮な気もするんだよね。流石に年頃の男女でそこまではっきり異性の話をすることって、少ないし。
 ぽたりと、頭に乗せたタオルからお湯がしたたり落ちた。ちょっとだけのぼせたような気がして、近くの大きな岩に頬と肩を擦り寄せる。冷たい感触にほっと息を吐いて、目を細めた。ゆらゆら揺れる濁り湯を掬って、顔に掛ける。気持ちいい。
「で、どうなんだよ恍ー。あの胸はさすがのお前も見ただろー」
 未だに山元への尋問は続いていたらしい。よくやるなぁ、と苦笑。
 何かもういいかな、と思ってしまった。さっきの言葉、私がいないところで言ってくれたから。だからそれで十分かな、って。
「あー」
 思ったんだけど。

「――まぁ、あれはな。見るよな」

「……」
「……」
 瞬間的に、私と咲ちゃんの間に冷たい風が吹き抜けた。

「やっぱりー。そこ見てなかったら、俺はお前を同じ男として疑ったよ」
「馬鹿、俺だってそこまで枯れてねぇよ」
 爽やかな山元の笑い声が、やけに響く。そのまま会話は山元の元カノの方へと進んだけど、少しだけ匂わせ、さらりと交わした山元。お前は本当に高校生か!!ってくらい、見事な返し。最後に山元は。
「やっぱな、胸はあった方がいいよな、女は」
 とばっさり言いきって、男どもは笑ってお風呂を出て行った。

「……」
「……」
「……あの、瑞希先輩?」
「……」
「そんなに気にすることないですよっ。山元先輩も、ほら、ネタというか、何て言うんですかね。ボーイズトークの一環ですし、実際は瑞希先輩一筋ですしっ」
 咲ちゃんのフォローが、するすると擦り抜けて行く。盗み聞きした私が悪いんだし、実際山元を責める気もないんだけど。それでも、頭にはぐわーんぐわーんと大きな鐘の音と共に、山元の台詞がぐるぐる回っていた。
『やっぱな、胸はあった方がいいよな、女は』
 ぼーっと揺れる白い湯気を眺めて、ため息を吐く。そんな私を見て、咲ちゃんがびくりと肩を竦めるのが、視界の端に映った。
 私が好きだと言ってくれたその言葉は、嘘じゃない。信じてるし、理解している。それでも、今感じているこの気持ちは、多分。ショック、なんだろうな。なんて自己分析。それは山元が他の女の人を見ていたことが原因かと聞かれれば当たりでいて、間違ってもいる。
「私、知らなかった」
「え?」
 ぽつりと落ちた私のつぶやきに、咲ちゃんが不思議そうに首を傾げる。そっと真下に落としていた視線を咲ちゃんに合わせて、口を、開く。

「……山元が、巨乳好きなんて」
「……」

 声に出して、ずん、とまた沈んだ。「えー……っと」と咲ちゃんが答え辛そうにしているのが、非常に申し訳ない。ていうかこの台詞、普通に考えてふざけてんのか!!と言いたくなるよね。だけど、私は真剣に落ち込んでしまった。
 ――私、山元の好みなんて知らなかった。付き合ってた人はモデル体型で美人な人が多いな、って思ったけど二人しか知らないし。そこから私を選んだのは突然変異としか思えないんだけど、それは置いといて。
 甘えていたのかもしれない。山元が、私を一生懸命大事にしてくれてるから。それに満足して、山元の好みを調べようとか、考えもしなかった。女の子の好みだけじゃない。考えてみれば、彼が休日どう過ごしてるかとか、好きなブランドとか、全然知らない。そりゃ友達として過ごした二年近くからある程度のプロフィールは分かってるけど、でも、恋人として必要な情報ってそれだけじゃ、足りない。
 山元は、知ってくれてた。自販機に一緒に行くと、私の好きなお茶を何も言わないで選んでくれる。携帯のストラップだって、私の些細な呟きを覚えてくれてたからだし。私の一挙一動に注意して、見ていてくれてる。
 その気持ちに応えようと思ったのに。彼の優しさに負けないくらい、大事にしようと思ったのに。全然足りてない、そのことに気付いてしまったから。馬鹿みたいに落ち込んでしまった。
 それでも。

「……咲ちゃんっ!!」
「は、はいっ?」
 がばっと顔を上げると、前髪から垂れていた雫が大きく跳ねた。それに構わず、ずいっと膝立ちで咲ちゃんに詰め寄る。少し怯え気味の彼女の両肩をがっしり掴み、頭を下げた。
「胸ってどうやったら大きくなるか、教えてくださいっ!!」
「……へ?」
 目を瞬かせる彼女の胸は、視線を下げてすぐのところにある。随分前に聞いた当時のサイズは確かEカップだったはず。私より二カップ上ですよ。こんなに細いのに、ですよ?しかも形もいいし、文句のつけどころないって言うか、咲ちゃんは顔もスタイルも性格も、全部理想の女性。だからいいコツを知ってるんじゃないかな、と思ったんだけど。
「……えーっと、私も別に特別なことしている訳じゃないんですよ」
「そ、そうなの?」
「身長もそうですけど、胸も遺伝って聞いたことありますね」
 ……遺伝。何とも乗り越えづらい壁を感じた。遺伝と言われると、どうにも出来ない気がする……。気持ちが顔に出たんだろう、咲ちゃんが慌てて顔の前で大きく手を振った。
「あ、でもですね、マッサージは良いらしいですよ」
「……マッサージ?」
「はい。周りの余分なお肉を胸に集めてみたりとか。血流が良くなるので、バストアップに効果的だそうです」
「へぇ」
「あと、よく揉むと大きくなる、って言うじゃないですか。それも一応マッサージの一種で、乳腺を刺激するっていう効果があるらしいです」
「へぇぇ!!」
 感動の声を上げながら、手は頑張って背中の肉やらを寄せ集めてみる。割と柔らかいお肉に悲しくなるけれど、贅肉がなければ寄せてあげることも出来ないはず……!!と自分を励まして、マッサージに勤しむ。むにむに、と自分でも心がほっこりする贅肉の感触にどうすればいいんだろうか……。
「瑞希先輩」
「んー?」
 一心不乱にマッサージを続ける私の隣、咲ちゃんは湯船から上がり、タオルを絞っていた。ほんのり上気した顔で私を見つめる。暑さで潤んだ瞳が、無性に色っぽい。
「私、先に部屋、戻ってますね」
「あ、はーい。すぐ追いかけるね」
 はい、と微笑んで頷く。急いでいる時は一緒に出て仕事を済ませるんだけど、今日はもうスコアの計算も終わっているし、怪我人もいない。ゆっくり入っても罰は当たらないだろう。と、私は残ることにした。元々長風呂派だし。それに、……血流を良くするのが効果的なら、お風呂に入ってた方がいいんじゃないかな、と思ってもみたり。
 カララ……と音を響かせて戸を出て行く咲ちゃんの気配を感じながら、ひたすら、もみもみ。むにむに。傍から見れば空しい光景だろうと、関係なーい!!

 ――そんなことを続けて。
 虫の鳴き声をBGMに一人自分の胸を揉む自分に、いい加減空しさが募って来た。頑張らねば!!と自分を励ます想いと、もういい加減良いんじゃないかなぁ……という想い。そもそも、一日二日マッサージした位で巨乳になるんだったら、世の中貧乳で悩む女性はいないだろう。と、冷静に心の中で呟いてしまった。しかし手だけは熱心に動く私の耳に、カラカラと戸口が開く音がして。
「瑞希先輩?」
「へぅ?」
 湯気の中、Tシャツにジャージを履いた咲ちゃんが見える。湯船から顔を出す私を見て、苦笑した。
「もうすぐ、お風呂入って一時間は経ちますよ。そろそろ出ませんか?」
「え、嘘っ?」
 まさかそんなに経っていたとは!!素っ頓狂な声を上げる私に咲ちゃんは頷いて、出入り口を示した。これ以上浸かるのは、合宿なのにアレだよなぁ。近くに置いてあったタオルや洗顔用具を手に取り、ざぶ、と湯船から出た時。

 くらり、揺れる。

 ……まずい。長風呂は慣れてるから大丈夫だと思ったんだけど、さすがにのぼせてしまったらしい。顔や肌が熱を持ち、外気に触れても熱いまま。とりあえず、転ばないように注意してゆっくり脱衣所に向かった。
 戸を開けてこちらに顔を向けた咲ちゃんは、目を見開く。
「え、瑞希先輩大丈夫ですか?顔真っ赤……!!」
 こちらに駆けよって心配してくれる彼女に手を振り、笑ってみせる。実際、熱いし気持ち悪いしだけど、自業自得だし。
「ん、へーき。待たせてごめんね」
「いえ、それは全然良いんですけどっ。のぼせちゃったんですよね?」
「みたい。でも、すぐ治るよ」
 ちょっと立ったまま身体を拭くのはきつそうなので、近くにあった籐椅子に腰掛けて、髪を拭く。浴場よりは涼しいけれど、脱衣所も熱気が立ち込めているので汗ばむ暑さ。激しく拭くとぐらぐらした視界がひどくなるだけなので、軽く水分を取る程度に留めた。そのまま、身体をさっと拭いて下着を身につけていく。
「瑞希先輩、私、何か冷たいもの買ってきますよ。何が良いですか?」
「だーいじょーぶだってぇ。大したことないしさ」
 心配そうに顔を覗き込んでくる咲ちゃんに、ひらひら手を振ってみせた。上下七分のジャージを着こみ、咲ちゃんに大丈夫だと示そうと、立ち上がる。
「……はれぇ?」
 ――はずが、膝からへなへな崩れ落ちてしまった。熱を持った肌は、まるで風邪をひいているみたい。慌てて支えてくれた咲ちゃんだけど、所詮細身な女の子、二人揃って崩れることになる。
 ぺったり咲ちゃんに張り付いて、申し訳ないから起き上がろうとするのに、身体は言うことを聞かない。それどころか、徐々に視界が狭まって来て、……あうう。
「瑞希先輩!?え、ちょ、大丈夫ですか!?」
「……咲ちゃん……」
 きゅ、とその腕を掴み。ごめんなさい、と謝ろうと口を開いたのに。すうっと意識が闇の底に沈み、挙句の果てに。
 ―ごちん
 咲ちゃんの細い肩かたはみ出た私の顔は、床に激突して、もう何も言えなかった。


  

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