40.your favorite(4)


 ――ふ、と目の前に影が差す。未だ熱を持った身体、でも額は冷たい。不意に頬にも冷たいものが触れて、気持ち良いのですり寄った。ぴくりと逃げるように動いたそれ。離れるのが嫌で、顔を顰める。するとため息と一緒に頬がすっぽり覆われた。
 気持ちいいな。
 甘やかすような優しさを感じる。
 ふにゃりとだらしなく顔が緩むのが分かったけれど、止められなかった。だって、その温もりが私の大好きな手に似ていたから――。
「……ん?」
 そこまで考えて、ぱちっと目を開ける。ここ四日で見慣れた木目の天井、蛍光灯。そして、私の顔を覗き込む、至近距離の綺麗な顔は。
「……やっ」
 あり得ない事態に、思わず、叫びそうになる。だけどそれを察したらしく、大きな手が私の口をがぽっと覆って、彼は口の前で指を立てた。
「……静かにしろ。もう、十時近いんだよ。今叫ばれるとまずい」
「……っ」
 たくさん瞬きして、彼の存在を確かめる。だけど、消えない。本物らしいと分かって、大きく首を縦に振った。ふ、と苦笑して私の顔から離れた手。慌てて起き上がろうとしたら、彼に肩を押され、身体は異常なほど素直に後ろに倒れ込んだ。
 額から落ちたのは、温くなった濡れタオル。確認してみると、布団に寝かされていたらしい。身体の上にはタオルケットがかけられ、枕元にはスポーツドリンクの入ったペットボトル。それを見て、喉の渇きを思い出す。彼は私の視線に気づいたのか、背中に腕を回して起こしてくれ、更にはペットボトルの蓋を開けて、私の口に近付けてくれた。……何と言う過保護。けれど身体に力が入らないので、素直に従う。一口二口、口に含んで。もういいと手で示せば、すぐに片付けて、また寝かせてくれた。その動きを目で追いながら、ぼんやり口を開く。
「……山元」
 声を出すと、思ったより掠れている。唇を擦り合わせると、かさついていた。そんな私に山元はちょっと眉を顰めて、タオルを額に、ペットボトルを頬に当てる。途端、身体の熱を思い知らされた。
「……山元が、ここまで運んでくれたの……?」
 それしかないだろうと知りつつ、尋ねてしまう。間の抜けた質問に、彼はこくりと頷いた。そして上体を私の方にずらし、顔を覗きこまれる。恥ずかしくて布団で隠そうとしたけれど、手首を握りこまれ、布団に押し付けられて。逆光の中、茶色い瞳は暗く映る。
「そうだ。渡辺が、風呂場で柳が倒れた、って呼びに来たんだよ。大事にしたくなかったから、俺以外誰も知らない」
「……ごめんなさい」
 淡々と説明する彼に、するりと謝罪が口を突く。無感情に見える瞳は、怒りと、――心配で揺れている。咲ちゃんにも迷惑を掛けてしまったし、本当に申し訳ない。泣きそうだ、と思ったけれど、私の身体はこれ以上水分を出したくないらしい。瞳が潤みもしなかった。
 素直に謝ったからか、山元はため息を一つ吐いて、私の頬を撫でる。慈しむようなそれに、心が温かくなった。
 以前にも、倒れたことがあった。同じことを繰り返して、迷惑をかけてばかりで、そんな自分が情けない。だけど謝ってばかりでも、意味はないんだよね。すっと前髪を掻きわけた手を、上から包む。じっと私の顔を覗き込む山元に、笑った。
「山元」
「ん?」
「ありがとう」
 ここまで運んでくれて。心配してくれて。側に、いてくれて。どれを感謝すればいいのか、分からない。気の抜けた私の笑顔に、山元は一瞬絶句すると、もう一つ、大きなため息を吐いた。
「……お前な」
「うん」
「……何でもない」
 大きな手は離れて、山元は自分の前髪をくしゃりと押さえる。いつもと雰囲気が違う彼に戸惑う私の耳に、しばらくして名前を呼ぶ声が聞こえた。
「柳」
「なに?」
 返事をすれば、躊躇うような沈黙。だけど目を合わせられて、その唇が動くのを待っていたら。
「……お前、何でのぼせたんだ?」
「え?」
「いつも、そんなことなかっただろ」
 真っ直ぐな瞳に、ぐ、と詰まる。たまたま長風呂していただけだ、と言い訳はつくから。わざわざそんな質問されるとは思っていなくて。黙り込んだ私に、山元は眉間に皺を寄せた。手持ち無沙汰だったのか、私の髪を指で梳く。今日は濡れ髪のまま、お風呂を上がって梳かしてもいない。私の髪は細いから、とっても絡まりやすい。彼の指は途中で何度か引っ掛かり、その度絡まった髪を丁寧に解いてくれた。
「渡辺に、な」
「……?」
 優しい手つきにうとうとしていると、思わぬ名前。咲ちゃん?が、何。目で続きを促すと、山元は何故か眉間の皺を深くして、顔を近付け。

「柳がのぼせたのは俺のせいだ、って言われたんだけど」
 ――それ、どういうこと?

「……」
 一瞬思考が止まって、口を噤んだ。ぱちぱち、と何度も瞬きする。理解できなかった言葉を、ゆっくりゆっくり、噛み砕いて。
 結論。
「な……!?」
 パニック。
 一気に顔を真っ赤にして、思わず上体を起こす。けれどまだ本調子じゃないのか、身体は揺らぐ。畳に倒れそうになった身体を、抱き寄せてくれたのは。
「……っ」
 山元、で。私の身体を、片手一本で自分の元へ引き寄せてくれた。とん、と山元の胸に頭を預ければ、聞こえるのは彼の鼓動。どくん、どくん、と徐々に早くなる鼓動に、私まで緊張してしまう。だけど今は、それどころじゃないよね!?
「さ、咲ちゃん、それ以外に何か言ってたっ?」
 のぼせて倒れたのは、完全に自業自得。それを助けてくれたのは、咲ちゃんと山元な訳で、私に文句を言う隙なんて、ない。もちろん感謝で胸は一杯なんだけど、それとこれとは別、と言うか!!
 山元の膝に手をついて、その顔を見上げる。後から考えればすごい至近距離で見上げていた訳で、それで山元が驚いた顔をしていたんだけど、その時の私にそんなことを気にする余裕はなく。だって、恥ずかしい。バストアップのマッサージのため長風呂しててのぼせちゃいました、とか。それを彼氏に知られるとかどんな羞恥プレイ!!
 ものすごく必死な顔の私に、山元はしばらくして無言で首を振った。……良かったぁ!!
 ほ、と一息吐く私に山元は訝しげな顔をした。
「……何だよ。俺に知られちゃまずい理由でもあったのか?」
「え、あ、いや、その」
 さらっとかわせればいいのに、どうして馬鹿正直に反応してしまったのか。途端言葉に詰まった私を見て、山元は不機嫌になった。がしっと肩を掴まれ、見つめられる。ていうか、睨まれてる。
「言え」
「……」
 言い辛いことは、聞かないでそのままにしてくれると嬉しかったなぁ、とか思ってみたり。あからさまな私の反応が悪かったんだけどね。明後日の方向を見る私を、山元はじぃっと見つめたまま。どうにか話を逸らそうと何度も唇を開くんだけど、結局言葉にならず、唇を閉じた。まだ身体が、熱を持っているからかもしれない。興奮状態から冷めてしまえば、また思考が、纏まらない。
「柳」
「……」
「のぼせたお前の面倒見たのは、俺だ。話聞く権利はあるだろ」
 威圧的な物言いに、身を竦める。普段の山元は、こんな言い方しない。そりゃ、人一人のぼせてそれが自分のせいだと言われれば気になっちゃうだろうけど。視線を背けようとしたら、今度は両頬を挟まれ、正面に顔を戻された。
「い゛、わっ」
 ぐぎっと鈍い音と一緒に、無理矢理方向転換させられる私の首。痛みに目を瞬けば、異常に至近距離に山元の顔があって。一気に、顔が熱くなった。
「ちょ、近、」
「言え」
「やまも」
「言わなきゃ、」
 じたばたと暴れるものの、さっきまで倒れてた人間に何が出来るだろうか。額がぶつかりそうになり、後ろに仰け反ると彼の腕が支えてくれた。……と思ったら、そのまま後ろに――つまり布団の上に――転がされ。ぽす、と倒れた私の顔の横に、山元は両手をつく。目を回す私に、にやりと唇を歪めて。

「襲う」

 ちょーーーー!!
 山元さん、目が、目が、マジですよーーーー!!
 さすがに合宿中にそんな馬鹿なことしないって分かってるけど、信じてるけど、ちょちょちょちょ、何屈みこんでるんですか何そんな美声で「柳」とか囁いてるんですか何手を伸ばしてるんですか!!
 さっきまでも危なかったけど、今度は別の意味で、危ない。いきなり訪れた濃密な空気に、私はパニックになりながら、迫って来た綺麗な顔をブロックするように、自分の顔を両手で覆い、ごろりと寝返りを打って。
「バストアップマッサージとか馬鹿なことしてたんだよー!!そんなんでのぼせて悪かったよー!!」
 ――半泣きで、何とも情けない台詞を吐いた。

「……」
「……」
 動きが止まった山元と、プライドをすっ飛ばされて彼を睨んでしまう、私。理性はないけど喉が掠れてたのが幸いか、大声は出なかった。だからと言って、山元にはばっちし聞こえてたと思うけどね。ちらりとのぞいた彼は、大きく目を見開いたまま、固まっていたから。
「……は?」
 ぽつり、と漏れる疑問の声。瞬きを何度も繰り返し、私の顔を呆然と見つめている。……その前に上から退いてくれないかな、と思うけど、無理だよね。
「……何で、いきなり、そんな……」
 山元も混乱しているのか、視線を左右に飛ばしては、言葉にならない呟きを零す。対する私は、パニック状態が吹っ切れて、ある意味腹が座った状態。
「山元が言ったんじゃない!!女は胸がある方がいいって」
「は、え、俺そんなこと」
「言ってました!!お風呂場でっ!!」
 噛みつくように叫んでも、山元は唖然としたまま。だけどついさっきのことだったから、何かに思い当たったような顔をした。白い頬は、さっと赤く染まる。
「それは、違っ、つかお前どこで聞いてたんだよっ」
「女子風呂の方まで声届いてたんだもん!!」
 お互い、睨みあう。布団の上で押し倒された(?)まま、なのに色気は欠片もない。鼻息荒く、顔を真っ赤にして睨みつける私は猿か、馬か。猿の方が、まだましだと思う。
「だからって、何でお前そんなこと――」
 目の前で、理解出来ないと言わんばかりに言葉を重ねる山元に。私は、もう一つ、とびっきりの睨みをあげる。
「だって山元の好みに合わせたかったんだもん!!」
 一息で言い切り、一旦呼吸を落ち着かせる。頭上でまたしても固まった彼に向かって、もう一度口を開いた。
「山元に、私を選んでよかったって言わせたいのっ。一杯色んなものもらった分、出来ることから返したいからっ。せめて山元の好みの女の子になりたいのっ!!」
 ついでに、胸なら何とかなると思ったんだもん!!と子供っぽさ全開の叫び声を上げて、タオルケットを頭まで引き上げた。布団の中、唇を噛み締める。感情が高ぶって、瞳がじわりと潤ってきたから。
 盗み聞きしてたことを暴露して、勝手に暴走して、何て子供。いくらスタイルだけ良くしても、中身がこんなに子供のまま、山元の隣に居座り続けるんだろうか。そんなんじゃ、いつ呆れられるかも分からない。ごそごそ、と布団の中で丸くなる。膝を抱えて、枕に顔を埋めて。三月、春とは言えまだまだ寒い。だけど布団に閉じこもれば空気が籠って、額に汗を掻いてきた。もともと、のぼせてたんだから当然なんだけど。せめて顔だけ出したいな、でも顔見られたくないな、そんな戸惑いと戦っていると。
「……ひわぁっ」
 ――お腹側と、背中側から回って来た手。そのまま、上半身を抱き起こされ、足がだらんと伸びる。その足まで抱えられて気付いたら、――胡坐をかいた山元の膝の上に座っていた。タオルケットごとぎゅっと抱き締められていて、目の前には山元の、耳。タオルケット越しとは言え、背中にリアルに感じる熱や腕の固さに、身体中がさっき以上に熱を持って、今にも発火してしまいそうだった。
「……馬鹿か、お前」
「……なっ」
 ぽそり、頭上に落ちる呟き。一瞬耳を素通りしたけれど、脳はしっかりキャッチしていたみたい。反論しようと、私が顔を上げる前に。彼の腕に、力が籠る。離さないぞ、ってその態度で一生懸命、山元は伝えていて。目の前で真っ赤に染まっている耳が、どうしようもなく、可愛かった。
「……何でそう、可愛いことばっかすんだよ」
「……可愛く、ないもん」
「可愛いよ」
 ぎゅ、と力強く抱きしめられて。息苦しさすら感じるのに、離してほしくない。頭にかかっていたタオルケットは滑り落ち、露わになった私の耳に、直に山元の吐息が届いて。背筋が、震えた。
「……何でもいいんだよ」
「え?」
 ぎこちなく、その背中に腕を回す。すると苦笑まじりの呟きが、私の耳に落ちた。間抜けな返事をする私に、くつくつと喉で笑いながら。
「――お前なら、何でもいい。柳がやることなすこと、全部に夢中になってるから」
「っ」
 とろりと耳に流し込まれる低音ボイスは、極上の蜂蜜みたいに、甘くて。
 その響きに夢中になったのは、いつから、だろう?分かっているのは、私はもう、この人から逃げられないだろう、ってことだけ。
 そっと腕の力が緩む。頬を両手で包まれて、至近距離で光る瞳。電灯を逆光に浴びて、唇が艶っぽく光っていた。
「何もしなくていいから。そりゃ胸がでかけりゃいいってのは正直な意見だけどな、お前なら関係ない。貧乳だろうが、欲情する」
 ――発言内容は最低だけど。
「馬鹿!?」
 叫び、離れようと山元の胸に手を当て、強く押す。でも私なんかの力じゃ、奴にはかなわない。顔を真っ赤にして鼻息荒く、無駄な抵抗を続ける私を見て、山元はとっても楽しそうに笑って。
「馬鹿だよ。俺、すっげぇ柳馬鹿」
「……!!」

 


 笑いながら、優しく頬を擦られて、額に落ちてきた唇。
 私が拒否出来たかどうかは、――神のみぞ、知る。



≫そのころの咲ちゃんは?(おまけの隼人×咲)


  

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