運命の赤い糸。

それは、些細なことで絡み合う。

愛おしいと思うのは、嘘じゃないのに。


41.絡むイト(1)


「おはよう」
「あ、おはよー!!」
 春休みを終え、私達は正式に(?)最高学年へと進んだ。二年から三年への持ちあがり時にはクラス替えがないし、担任も変わらない。だから新学期と言っても、教室が一階上がっただけであんまり新しい感じはない。でも見慣れた顔にはほっとするし、今のクラスはすっごく仲が良いからこれからの一年が楽しみだったりする。
 四月は新学期ならではの行事が色々あり、教科担当の先生も変わっている。なので混乱を避けるため、出席番号の席順に座っている。私はヤ行だから、窓際後ろから三番目の席。バッグを机の横に掛けて、筆箱を取り出していると。
「おはよー、柳っち」
「あ、おはよう」
 エナメルバッグを担いでゆったり歩いてきた学ラン姿の田口くん。私の右斜め後ろの席だ。何だか久しぶりに見たので、いつもより笑顔が眩しい気がします。でもね。
「おはよ、柳」
「おはよう」
 ――惚れた欲目かもしれないけど、山元には叶わないんじゃないかな、なんて。
 ジャージ姿やスウェット姿はずっと見てたけど、制服は久しぶり。無駄に格好良く見えて、頬が熱くなるから困る。声がひっくり返りそうになりながら笑い返したら、蕩けそうな微笑みをもらった。……他の子にはこんな笑顔の大安売りしちゃ駄目だからね。
 さっさと私の後ろの席に着いた山元。去年も一昨年も、出席番号順前後だったから慣れてるはずなのに、後ろに山元の気配があると落ち着かない、っていうかこそばゆい、っていうか。熱い頬を冷まそうと、窓に手を伸ばす。
「柳」
 けど、山元に呼ばれた。慌てて振り返ると、真剣な目がこちらを射抜く。首を傾げると、右手で前髪をちょい、と摘まれた。額に感じる、彼の熱。思わず息が止まりそうだった。
「――前髪、切った?」
 突然の言葉に、目を丸くする。昨日の夜、邪魔だったから少しだけ切った。まだ誰にも指摘されてない、本当に微々たる変化。それに迷いなく気付いた彼に驚いて、でも、……嬉しくて。こくり、と小さく頷く。すると山元はふぅん、と笑って。
「っ」
 前髪を指で摘んだまま、手の甲で瞳から頬にかけてを撫でられる。あまりにさり気ない接触は、多分意識して見なければ気付かれない、はず。だけど私は、その感触に心が震えて。
『……可愛い』
 ――おまけとばかりに、低く落とした声で呟かれた言葉は、恐ろしく甘かった。
「!!」
 ぶん、と音を立てそうなくらい激しく首を振り、前を向く。後ろからは押し殺したような笑い声。怒りたくても、山元の顔が見れない。さっきの触れ合いでも死にそうなくらい恥ずかしいのに、もっと彼に触れてしまった春合宿のことを思いだしてしまいそうで。……私は断じてむっつりじゃない。
「……恍、あんまり見せつけないでくれない?」
「何のことだ?」
 後ろから届くのは、田口くんの苦笑と山元のすっとぼけた声。ああ、分かる。きっと今あいつは、にやにや笑ってるんだろう。
 ていうか、もしかして田口くん、さっきのやり取り見てました……?
 ちらり、田口くんの方を窺う。視線に気づいた彼は、山元の方を見て、仕方ない奴だよね、と言わんばかりにため息をついた。
「〜〜〜!?」
 ばたん、と机に倒れ込む。耳まで赤いから、隠すにはもうこれしかないと思ったのだ。後ろからは、もう押し殺すこともやめた笑い声。唇を噛んで、私は叫びたい衝動を隠した。
 そんな、平和な始業式。

* * *

 始業式が終わり、午前中で今日の日程は終わり。午後は部活だ。入学式は昨日終わって、一年生は午前中に校内見学や図書館ガイダンスをしていたみたい。緊張した面持ちで移動する集団を掃除中見つけて、微笑ましくなった。自分も二年前はあの中の一員だったと思うと、とても懐かしい。
「あっという間、だなぁ」
 雑巾を洗いながら、ぼうっと呟いた。この間まで寒かったのに、今はスウェット姿でちょっと走ると汗を掻くこともある。ふと、指折りあの修学旅行から日付を数えてみる。
「……あと三日で一カ月、か」
 そう言えば、昔さっちゃんが「今日で付き合って一カ月だからデートだ!!」とか言っていた気がする。付き合って一カ月って、お祝いするものなんだろうか。でも毎月そんなのやるの大変だし、きっと山元は面倒くさいとか言うに違いない。……でも、最初くらい……。いやいやでも、どうせ部活だし。……でも、部活終わった後にちょっとくらいなら。誘ってみようかな、なんて。
 頬を赤くして、雑巾を絞る。考えてみれば未だに一緒に出かけたこともないし、これを機に恋人っぽいこともしてみたい。山元が初めて付き合う人だから、どうすればいいかよく分からないけれど、別に特別なことは何もいらない。ただ、ありがとう、これからもよろしく、って言いたいんだ。少しだけでも、二人で話せれば、それで。
 とりあえず咲ちゃんに相談してみようかな?なんて思い、体育館へ向かう。扉を開くと、体育着の子数人が話していた。ぱっと数えた感じ、十人はいる。今年は去年と違って、人が足りないと嘆くことはないだろう。にんまり笑って歩き出した。
「あれ、瑞希先輩っ?」
「へ?」
 だけど大きな声で、名前を呼ばれる。咲ちゃんの声だったらびっくりしないけど、明らかに男の子の声。男バスで私のこと名前で呼ぶ子はいない。山元も苗字だし、それに、『先輩』?
 首を傾げて振り返ると、ひょろりと細長い短髪の男の子が走って来る。体育着だから一年生、だよね。見覚えのない顔にますます顔を歪める私に、自分を指差して彼は笑う。
「瑞希先輩、久しぶりです!!俺のこと、覚えてますかっ?」
「え」
 そばかすが残る頬、三白眼なんだけど目尻が少したれているから、何だか可愛い雰囲気。にこにこ笑う顔に、ふ、と一人の男の子の姿が過ぎった。
「……あ、もしかして、須藤くん?」
「はい!!」
「えー、うっそうち入ったんだ!!ていうか大きくなったね、最初分からなかったよっ」
 私の言葉に須藤くんははにかんで、「瑞希先輩が卒業してから二十センチ伸びたんですよ」と言った。私と須藤くんのやり取りを見ていたのか、近くにいた三年生が声をかけてくる。
「何?柳、こいつと知り合いなの?」
「うん。同じ中学だったんだ」
「あー、なるほど。え、でも何で名前で呼んでんの?」
「確か男バスにも柳がいたから、名前で呼んでたんだっけ」
「はい。でも、姉が先輩のこと名前で呼んでたんで、それが癖になっちゃったのもありますね」
 おかしそうに笑う須藤くん。身長は伸びたけど、笑っている顔は当時の面影そのままで。中学時代のことが蘇って懐かしくなる。
 うちの学校は男バスも女バスも弱小校で、地区大会三回戦に出場できれば快挙って言われるくらい。そんなんだから部員も少なかったので、よく男女で合同練習していた。自然に仲は深まっていく。須藤くんは二つ下だから本来ならあまり関わりはないんだけど、彼のお姉さんは私のクラスメイトで女バスの部長。自然とよく話すようになっていった。人懐こい彼と、部活後にジュースを賭けてスリーポイント勝負したことなんかを思いだして、笑ってしまう。そんな私に、須藤くんは首を傾げた。
「瑞希先輩?どうかしました?」
「ううん、何でもない。須藤くん、ポジションは今はどこなの?」
「身長伸びてから、ガードからセンターになったんですけど、俺筋肉つきづらいのか、細くてパワーないんで。今はフォワードやってます」
「うわー、すごい変わったね」
「そうなんすよー。俺、ポイントガード目指してたのになぁ」
「そうなの?」
 久しぶりに会う可愛い後輩との会話に、花が咲く。のんびりした話し方に話している最中首の裏を掻く仕草、何一つ変わらない。中二の頃、急に十三センチ伸びて夜中に身体が痛くなるくらい、骨がばきばき鳴っていたと嘆く彼に、噴き出した。
 ――そう、懐かしい後輩との再会に私は夢中だった。熱心に私達を見つめる視線に、気付かないくらいには。

* * *

 部活が終わり、早足で外の水道へ向かう。サッカー部の片付けの声を聞きながら、暗い中、外灯を頼りにペットボトルに水を詰める。
 今日の練習も充実してた。どう足掻いても、今年で私達三年生は引退。最後は華を飾りたい。見た感じ、荒削りながら見どころありそうな一年生もたくさんいて、これからが楽しみだ。気分良く鼻歌を歌いながら、水道の水を流し続ける。と。
「柳」
 後ろから、大好きな声。慌てて振り返ると、Tシャツにバスパン姿の山元が、タオルで汗を拭いながらこちらへ歩いてきた。外灯の光がその引き締まった頬に反射して、眩しい。私の手元をちらりと見ると、水道の淵に腰を下ろし、ぼんやりと反対側のグラウンドを見つめていた。
「山元、どうかした?」
「……別に」
 声を掛けると、少しの沈黙を経て素っ気ない返事。
 ……何だからしくない気がする。でも、原因が分からない。朝はからかわれたし、お昼も普通だったし、その後特に不機嫌になるようなこともあると思えない。今日の部活も、いつもより気合い入ってたと思うんだけど。
 様子がおかしい山元に、どうすればいいか分からなくて。何度か声をかけようとして、やっぱりやめてしまう。言いたくないなら無理に聞きたくないし、山元から言ってくれるのを待とうか。ちらちらと横を窺うと、ぽつり、と山元が零した。
「……なぁ」
「うん?」
「……あの、須藤って奴。仲、良いのか」
 ――須藤くん?
 急に出てきた名前に、目を丸くする。でも、質問されたのだからちゃんと答えよう。
「うん。中学時代、色々勝負とかしてたよ。ちょっとしか一緒に部活してないけど、男バスの後輩じゃ一番仲良かったんじゃないかな」
「……あいつ、お前のこと名前で呼んでんのな」
「同じ名字の子がいたから、呼び分けてたんだよ。それに中学時代は名前で呼ばれたり、結構普通だったかも」
 笑いながら話す私は、気付かなかった。見つめなかった。
 ――この時、ちゃんと山元のことを見ていれば、私の言葉に固くなった肩や、握られた拳に気付いていたはずなのに。そもそも、山元はやきもち焼きだ、ってちゃんと分かっていた。だけど私にとって須藤くんは弟分であって、決して恋愛対象じゃなくて。だから山元の嫉妬の対象に入るなんて、考えもしなかったから。

「……」
「……え?」
 聞き取れないくらい、微かな声で呟かれた、何か。風にさらわれて、私の耳を擦り抜ける。散り始めた桜が私と山元の間を舞って、思わず目を瞑ってしまう。そして。

「――瑞希」

「……っ」
 次に目を開けたのは、彼の声が耳に届いたから。届いた、なんてものじゃない。耳に唇がくっついていて、吐息ごと注ぎこまれた。呼ばれたのは、私の、名前。大好きな山元の、低くて甘い声。それで紡がれる自分の名前に、一気に顔が熱くなる。
 いつの間に、こんな側に来ていたんだろう。横にいたはずの彼は私の後ろに回り込んでいて、お腹の辺りでぎゅっと強く抱きしめられていた。
「……瑞希」
「あ、う……」
 言葉に、ならない。好きな人に名前を呼ばれることが、こんなに衝撃的なことだとは思わなかった。心臓が、破裂しそう。駄目、駄目。こんなの、駄目。触れ合っている場所から、どろどろに溶けてしまいそう。
 ひとまず、落ち着かなくちゃ。こんな人目があるところで、見られたら大変だ。部員に見つかるかもしれないし、最悪顧問の先生に見つかるかもしれない。力を抜いて、彼に身を預けてしまいたい気持ちに蓋をして、肘で彼の胸を押し、回された腕を引っ張ってみる。ぴくりと反応した山元は、何故か次の瞬間、益々力を込めて来た。圧迫されて、苦しい位。
「っぐ、」
「……」
「ちょ、……山元、くるし、……一回離して?」
 言葉で伝えても、彼は何も言わない。むしろ、ますます腕の力は強まった。、もし半袖だったら痕が残りそうなくらい。何とか逃れようと身を捩っても、どうにも出来なくて。
「やま、もと……?」
 彼の体温が、嬉しい。でも、こんな訳の分からない状態で、触れ合いたくはない。とりあえずその真意を確かめたくて、名前を呼ぶ。しばらく黙った山元だったけど、少しだけ、腕の力を緩めてくれた。ほっとする私の耳に、……やわらかな、感触。
「瑞希」
「、」
 ――三度目。
 鼓膜どころか、心臓まで震えるような、その、声。膝から崩れ落ちそうな感覚を、味わった。少し冷たくなってきた身体に、また熱が灯る。顔から首から背中まで熱くて、掌は汗でびっしょりだった。真っ白な頭でも、分かる。
 これ以上は、駄目。
 これ以上名前を呼ばれたら、幸せで恥ずかしくて心臓がうるさくて、死んでしまう。
 本気で、そう思ったから。
 彼が小さく息を吸い込んだのを感じた瞬間、喉を震わせた。
「だ、めっ」
 ぴたり、彼が止まる。その腕の中、くるりと身体を反転し、山元に向き直った。暗いのと逆光なので、山元の顔はよく見えない。私自身、山元の顔を見るのが恥ずかしいのもあって、微妙に俯いているし。
「あ、あの、……ご、ごめん、嫌とかじゃないんだけど、その、名前呼ぶのは……」
 ――動悸が激しすぎるので、一回やめて欲しい
 そう続けようと、乾いた唇を舐めて彼を見上げた時。
「っ」
 ぐ、と骨が軋みそうなくらい強く、両肩を掴まれる。そのまま、水道場の壁に乱暴に押しつけられた。水を詰めたまま、キャップを閉めていなかったペットボトルが倒れて、手にかかる。冷たい。
「……んだよ、それ」
 目の前で動く唇が、私には、信じられなかった。
 元々、山元は口が良い訳じゃない。だけど、私が反応したのは、その『声』。冷え冷えとして、恐ろしく低くて。ぞくりと、背中が震える。だけどそれは、寒さじゃなくて。
「……他の男には許しといて、俺には駄目ってか?……ざけんじゃねぇよ」
「や、ま」
 吐き捨てるように呟く山元の耳には、私の呼び掛けは届いていないらしい。ぶつぶつ呟く彼の姿は見たことないくらい、怖くて。ただ、怯えて震える私。
 だけど。
「!!」
 両肩を掴む手の力が強まり、そちらに気を取られた、瞬間。
 ――山元が、私のスウェットの襟を下げて、鎖骨の少し下に、噛みついた。突然のことに、声もあげられなくて。一瞬強い痛みが走ったと思ったら、唇は、離れた。
 でも、それで終わりじゃなかった。その少し上にもまた痛みは走り、数秒おいて、項付近に唇は触れる。最初の噛みつきの痛みに比べれば随分ましだけど、吸いつかれたそこは、じんじんと痛くて。
 
 思いだしたくも、ない。
 あの痛みと、おんなじ。

「……!!」
 違う、違う、山元は、アイツじゃない、私の彼氏で、恋人で、やさしくて、だって、私のこと大事にするって、だって、山元は、
 パニックになる頭を必死に説得しても、首筋に残る痛みが、私の思考をかき乱す。
 ゆらり、顔を上げた山元の瞳が私を捉えた。それは。
「ぁ……」

 掴まれた肩が、気持チ悪イ

 触れた首筋も、気持チ悪イ

 何よりも、その瞳が、気持チ、悪イ

「あ、う、ぁ……」
「……柳?」
 がたがたと、身体が震えている。ちがう、痙攣している。アイツの声が、聞こえる。違う、山元の声。でも、違う。山元じゃない。だって、山元は、――あんな目しない。
 目の前に迫る、大きな男の手。
 ――怖い
「……いやぁぁぁ!!」
「柳っ」
 振り払って、滅茶苦茶に暴れる。両肩に触れる体温もなにもかも、気持ち悪い。嫌だ。吐き気が、する。その手から力が抜けた瞬間、バッシュだったけど気にせずに、駆けだした。
「柳!!」
 大好きな声で、呼ばれる名前。
 だけどその時の私には、恐怖を煽られるものでしかなかった。

 走って、走って、校舎の方に辿りつく。今のぼろぼろな状況を、誰にも見られたくなくて。静まり返り外灯もついていない外廊下の半ばで、ぺたりと腰が抜けて、コンクリートの床に膝を打ち付けた。痛い、でも、よく、分からない。ぼたぼたと、涙が、落ちて行く。
「っぅ、うぅ……っ」
 まだ痛みや熱さが残っているような気のする、首筋や鎖骨。手を伸ばし、掻きむしる。自分が汚れてしまった痕を、決して残したくなくて。あの体温もなにもかも、消してしまいたい。
「あ、ああ……!!」
 堪えられない。
 どうしても、堪えられない。
 さっきの、山元の瞳は。――アノ男と、同じ目をしていたから。
 私を私と、認識していない。『柳瑞希』だと、一人の人間だと、思っていない。ただ欲望のままに蹂躙しようとしていた、昏く深い、色。獰猛に光る瞳に、私に対する気持ちなんて、欠片も見当たらなかった。
「……っ」
 どうしてよ。
 どうしてよ。
 言ったじゃない。
 『絶対傷付けない』って。
 『怖いことは、何もない』って。

 『大丈夫』って。 あんな優しい瞳で、言ってくれたのに。

 


「……ふ、うぅ……っ」
 止め処なく、流れて行く涙がスウェットを、手を濡らして、べたべたにしていく。いつしか、首筋を掻きむしることも忘れて、私はただただ、一人泣いていた。
 


  

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