41.絡むイト(2)


 あの日のきっかけは、些細なこと。あの須藤とか言う新入生が柳のこと名前で呼んでいた。仲良さそうに、話していた。俺の知らない、柳のこと。二人の時間のこと。それだけなのに、馬鹿みたいに嫉妬した。許せないとすら思った。
 柳が俺に名前を呼ばせない理由は、今は部活を第一にしたいからだと聞いている。それをちゃんと了承しているし、実際俺らの付き合いが顧問に知れれば良い影響は、まずない。あいつが最後までマネージャーとして頑張りたいのを知っている。だけど本当は、納得していなかったのかもしれない。
 他の男の話を楽しそうにする柳に苛々しながら腕の中に閉じ込めれて名前を呼べば、少しだけほっとした。逃げないのも、嫌がっていないのも、嬉しい。初めて口にする柳の名前は、何だか甘く感じた。赤くなる耳と、熱くなる身体。俺を意識しているのが分かって機嫌が回復するのを感じながら、逃げようとする柳を強く抱きしめる。だけど。
『だ、めっ』
 その一言で、理性が千切れた。
『あ、あの、……ご、ごめん、嫌とかじゃないんだけど、その、名前呼ぶのは……』
 どうして。俺以外の男は、呼んでいるのに。どうして俺は、駄目なのか。
 ――どうして。
 柳に対する溢れんばかりの恋情が、胸の中で焦げ付いていく。ぶすぶす音を立て苦く、黒くなって。『狂気』と呼んでも差し支えない程に、面積を広げた。
 愛おしい彼女の声を、耳に入れたくなくて。小さな彼女を、強く壁に押し付ける。震える身体は本能的な恐怖からだと理解していたのに、感情が納得していなくて。スウェットの襟を下げて見える、白い肌。初めてではないものの、見る度に喉の渇きを覚えてしまう。それでも、普段はその衝動を堪える理性があった。でも、その時は。
「!!」
 鎖骨のすぐ下に、噛みつく。柔らかい皮膚の下に、薄い肉と骨の感触。勢い良くやり過ぎたせいか、少し血の味がした。それでも気にせずに、次はその上へ。Yシャツで隠せないような場所に噛みつく。一旦唇を離して、その肌を見回す。
 どこが、いいだろう。どこなら、誰の目にも止まるだろう。どこに痕を残せば、こいつが俺のものだと、誰の目にも分かるだろう――。
 悩んだけれど、項の方なら隠しづらいし、背の低い柳が俯けば大抵の男にはすぐに痕が見える。そう考えて、項に唇を当てた。今度は加減して、吸いつくだけにしておく。出来あがった赤い痕に、頬が緩んだ。キスマークなんて初めてつけたけれど、予想以上に気分が良い。
 だけどまだ、足りない。もっとそこかしこまで散らばせないと、隠せてしまう。首筋から足首まで、俺の痕で埋め尽くされた柳が、欲しくて仕方なかった。
 もっと。もっと、もっと、もっと――
 自分の欲望に耳を傾け、ゆっくり顔を上げる。目の前にあるのは、愛しい彼女の顔。その瞳を舐めまわしたくて、唇を近付けたその時。
「あ、う、ぁ……」
 掠れひきつった、小さな声。
「……柳?」
 尋常じゃなく震えている身体に、ようやく異変に気付く。目の前にあるのに俺を映さない茶色い瞳に、胸騒ぎを覚えて手を伸ばした。
「……いやぁぁぁ!!」
「柳っ」
 ――けれどその手は、振り払われて。慌ててもう片方の手を伸ばすけれど、手足を振りまわし悲鳴をあげる柳は、完全に俺を拒否している。そのことに気付いて、ショックで力が抜けた。するりと腕の中から抜け出し、背を向けた柳はそのまま、走り出して。
「柳!!」
 俺が叫んでも、彼女は振り返ることなく。暗闇に飲みこまれる背中を、呆然と見送った。

 しばらく、そのまま動けなくてぼんやりしていた。だけど、水道から落ちた水滴がぽちゃりと音を立てて床に落ちた時。
「……っ!!」
 ―ダンッ
 思い切り、壁を殴りつける。だけど肘に多少痺れが走っただけだったから。もう一度、拳を握りしめた。分かっている。こんな行為、何も意味をもたないこと。それでも、止められなかった。胸の中に巣食う不安や、衝動を堪えるためには。
「ちく、しょうっ……!!」
 ぎりり、と唇を噛み締めれば血の味が口一杯に広がる。それに先程の、柳の血の味も混ざって吐き気がした。何よりも、自分の馬鹿さ加減に。

 きっと、あいつだって知らない。
 俺が柳に堂々と触れられるようになって、まだ一月にも満たない。それなのに俺は我慢がきかなくて、何度も不意打ちで抱きしめてしまった。その度、怯えるように少しだけ身を縮ませる柳。それでも逃げないで、腕の中にいてくれた。俺の背中に腕を回してくれた。微笑んで、くれた。
 今でも男が怖いんだろうに、精一杯俺の存在を許容してくれているのが分かった。愛おしくて嬉しくて、触れる度に気持ちが募る。柔らかな手の平で目一杯甘やかされているような、どうしようもなく幸せな時間。柳は言葉でも、態度でも、俺のことを好きだと伝えてくれていた。だから、今すぐ襲いかかりたい本能よりも、その愛情が育つ時間を大事にしたいと素直に思えた。どんなに欲望が突きぬけそうになっても、ぎりぎりで堪えられた。全部全部、柳が俺を許してくれたから。俺に心を預けて、信頼してくれたから。

 ――なのに。それを、俺が、壊した。

 一番壊しちゃいけなかった。一番大事にして、甘やかして、幸せにしなくちゃいけなかった。
 知っていたはずだ。『男』の暴力に、それを生み出す手に怯えて逃げる柳を。
 さっきのあいつは、怯えていた。他の誰でもない、俺に。この手に。逃げだす瞬間見せた瞳が忘れられない。空っぽの瞳に映ったのは純粋な恐怖だった。
「……!!」
 かっと頭の中が熱くなって、もう一度、壁を殴ろうと拳を振り上げる。
「や、山元先輩っ!?」
 ――が、止められた。後ろから、下ろしたままの俺の腕に絡みつく、細い腕。その白さに一瞬柳を思い出しながら、振り返る。
「……渡辺」
「何してるんですか!!今の時期に手を怪我なんて洒落にならないですよ!!」
 中学時代からの後輩が、珍しく真剣に怒った顔で俺を見据える。怒りで燃える瞳、一文字に結んだ唇。話を聞きながら、無意識にその視線の位置すら、瑞希と比べてしまった。馬鹿みたいな自分に、腕の力が急に抜ける。振り上げた拳を下ろした俺に、渡辺はほっと息を吐いた後、怪我の確認をしようと手を伸ばす。その手から自分の拳を引き抜き、渡辺から一歩距離を置いた。訝しげにこちらを見つめる瞳に唇を、噛み締める。
「……渡辺」
「何ですか」
「頼む」
 俺の突然の言葉に、目を丸くする渡辺。ついでに頭も下げたから、驚いているのもあるんだろう。だけどどうしても、渡辺しかいなかったから。
「……柳を、迎えに行って欲しいんだ。何か仕事が残ってるなら、俺がやっておくから」
 こんなこと、俺が言えた義理じゃない。それでも、そうすることしか出来なかった。今のあいつに、俺は、近付けない。
「瑞希、先輩?迎えに、ってどこに……」
「多分、こっちを真っ直ぐ走っていったから校舎の方にいると思う。はっきりとは言えないけど」
「……私で、いいんですか?山元先輩じゃなくて」
 俺の突拍子もない言葉に、渡辺は眉を寄せながらも、必要以上に尋ねてこない。それに感謝を感じながら、今までよりも深く深く、頭を下げた。
「――俺が近付いても、柳が泣くだけだから。本当に悪いんだけど……頼む、渡辺」
 今俺が柳に何を言っても、あいつの耳には届かない。そしてきっと、震える柳を前に、俺は何も言えない。自分勝手もここに極まれりだな、と内心自嘲する。
 渡辺はしばらく戸惑っていたようだが、しばらくしてため息を吐き、「顔を上げてください」と囁いた。暗い俺の顔を見て、渡辺は複雑そうな微笑みを浮かべる。
「分かりました。今日の仕事は大体終わってますから、このペットボトルと椅子の片付けだけ、お願いしてもいいですか?」
「ああ」
「それじゃ、行ってきますね」
 横暴な願いに、渡辺はそれでも応えてくれる。笑って走り出すその背中に、心からの感謝を込めて視線を送る。けれど二三歩進んだところで、渡辺は振り返った。
「山元先輩」
「……何だ?」
 表情に戸惑いをのせながら、渡辺は俺を見据えて口を開いた。暗くなる外に反し、その瞳は真っ直ぐな輝きをのせて、ぶれない。
「私は何が起こったか、知らないですけど。
 ――今は、無理でも。必ず話をしてくださいね。このまま、瑞希先輩から、逃げないでください」
 それと、ちゃんと傷を冷やしておいてください。そう言って笑い、渡辺は軽快に走り出した。何の言葉もかけられなかった俺を置いて。
「……」
 何も聞かなかった渡辺はただ、忠告を残した。俺の卑怯な本心を見抜いたような言葉を。
「……はぁ」
 ため息を一つ零して、倒れて潰れてしまったらしいペットボトルを抱える。その冷たさに、今更外気温を思い出して背筋が震えた。

* * *

 あの日から、三日。翌日の土曜日に柳は部活を休み、日曜日には復帰したものの、お互い目を合わせることはなかった。そんな俺を渡辺は見ていたけれど、何も言えなかった。あの日、柳から詳しい事情を聞いたのか、何も聞いていないのか。聞かなくても、あの時の柳を見ていたら自ずと気付くかもしれない。
 責められるべきは、俺だ。それに間違いはない。それでも、俺の目を見ようとしない柳に心が締め付けられる。なのに言い訳も弁解も出来ずに日曜日の練習は終わり、今日にいたる。

「この構文に使われる動詞は、ある程度決まっています。それを書きだしていくので、ぜひノートに写しておいてください」
 英語の時間。教師がそう言いながら黒板に書いていくのを、柳は律儀に写していく。今日は部活が休みなせいか、下ろされた髪。肩下で揃えられた黒髪に、指を通したい衝動をぐっと堪えて、見つめる。目の前に晒される、真っ白な項。髪が下ろされてはいるけれど、俯けば横に流れて露になってしまう。視線を滑らせると、Yシャツの襟から肌色の絆創膏が覗いていた。それを剥がせば、きっと赤黒くなっている痣があるはず。
 俺が、柳に残した痕――傷。彼女を痛めつけたソレは、未だ残っている。項はもちろん、深く噛みついた鎖骨の方はもっと痛々しいことになっているだろう。それを見る度、彼女はどんな気持ちになっただろう。どんな感情で、その心を埋めたのだろう。考えれば考える程、胃がむかむかして、気持ち悪くなる。大きく息を吐き出して、机に突っ伏した。
 ――はっきり言えば俺は、怖いのだ。柳が俺を見つめる瞳が、嫌悪で埋め尽くされることが。
 決定的な言葉をもらうのが、怖い。「嫌いだ」と泣かれてしまったら、自分がどうなるのか分からない。想像するだけで足元から崩れ落ちそうな恐怖を感じて、何も出来なかった。ここ三日柳のことを考えると眠れず、やっと寝れたかと思えば柳が夢で俺を睨みつけていて、慌てて飛び起きる。それでも、夢ならまだ良かった。覚めればいいだけだから。
 いっそのこと、思いが通い合ったことさえ夢だったらよかったのに。それならまだ、救われた。あいつの温もりや、気持ちを受け入れてもらえる幸福感を知った今だからこそ、俺は怖くなる。失うことに、ますます怯える。
 一人じゃなくなる幸福を知れば、一人に戻る恐怖を知った。シーソーのように、両方の重みが膨らんでいく。どうすれば、いい。今のまま、毎日恐怖に揺られる日々は苦しい。それでも、面と向かって拒絶されるよりはずっとましだ。まだ微かな希望に縋って生きていくことが出来るから――。

『今は、無理でも。必ず話をしてくださいね。このまま、瑞希先輩から、逃げないでください』

「……」
 ……だけどこの思考に陥る度に蘇る渡辺の台詞に、ため息を吐いた。
 分かっている。それでは、何の解決にもならない。このまま手を離すのだって、いつかは死にたくなる程の苦しみを抱えて待っているのだ。少なくとも、俺は柳に心を込めて謝らなくちゃいけない。それだけは確実だ。
 むくり、と身体を起こして小さな背中を見つめる。数日前までは、躊躇わずに触れられた肌。それがどうしようもなく遠く感じられることに、絶望すらしたけれど。腹は、決まった。
 好きなんだ。どうしようもなく、誰よりも、深く。
 心の中で呟いたのは、懇願にも似た告白だった。


  

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