41.絡むイト(3)




 放課後。帰りのホームルームが終わってすでに一時間、夕陽が沈むのを見つめながら、自分の席に座っていた。
 今日は部活が休みであるためか、柳は補習に参加しているらしい、と神奈に聞いた。机の横にバッグが掛かっているのを確認して、じっと彼女を待つ。
『これ以上、あいつを追い詰めるようなら他の男紹介するからな』
 部活に行く前、俺を睨んでそう零した神奈。事情は聞いていないらしいが、何となく俺が何かしたのは勘付いているらしい。その言葉に、深く頷いた。
 分かっている。これ以上あいつを傷付けることしか出来ないのなら、俺の存在には何の意味も無い。そして、他の男なんて紹介されるのも最悪だ。あの温もりや笑顔が他の男の腕の中に在るなんて、想像するだけで目の前が真っ赤になる。
「……まぁ、俺に止める権利はないんだけどな」
 もしも。彼女が俺の手を完全に振り払うなら、俺以外の男の手を取るなら。俺にそれを止めることは出来ない。それで俺がどんなに絶望に包まれようと、彼女の意思を無視してこれ以上嫌われたくはない。
 ぼんやりと、自分の手を見据える。
 大きく、無骨な手。この手で彼女を優しく包みたかった。けれど実際には、傷付けてしまった。だとしても、出来るならばもう一度。この手を、選んでほしいから。
 ―ガラッ
「!!」
 考えごとに耽っている最中。戸を開く音に目を見開き、ドアを見つめる。そこから入って来たのは、――待ち受けていた、柳だった。
 窓の外の夕陽が眩しくて、最初は少し目を細めていた柳は、いるのが俺だと認識すると目を大きく見開いた。そして、一歩下がる。
「っ待ってくれ!!」
 その姿に心臓が嫌な音を立てるけれど、何とか叫んだ。予想以上に大きな声が出てしまい、ますます怯えて後ろへ下がる彼女。慌てて立ち上がり、机の横まで歩いていくけれど踏みとどまる。無理に距離を縮めれば、怖がらせるだけだ。
「……これ以上、近付かないから。話だけでも、聞いてくれ」
 真っ直ぐに、柳だけを見据えて、話しかける。困ったように視線を彷徨わせた彼女は、しばらくして小さく頷き、一歩教室に踏み込んだ。その瞳に、嫌悪が見えないことにまず安心して、ほっと息を吐く。今の俺達は、教室の一番後ろの席と、前の扉と言う対角線上。この教室で一番遠いだろう距離。それでも、同じ空間に柳がいて、目を逸らさず、逃げないでいてくれる。それが途方もなく嬉しかった。
「……まずは、ごめん。この間のこと。謝ってすむ問題じゃない、けど……本当に、悪かったっ……」
 ひとまず、謝罪をする。謝る、という行為は好きじゃない。相手に許してもらうがために謝る訳で、そこには単なる自己満足が含まれている気がするから。もちろん、相手に申し訳ないという気持ちが前提にあるから謝っている。それでも、どこかしらで自分が卑怯だと感じる気持ちが拭えなかった。
 俺の言葉を聞いて、柳はそっと俯いた。唇を噛み締めている。それは、どうしても俺に対しての怒りが拭えないと訴えているようにしか見えなくて。
「いくらでも、殴ってくれて、構わない。……俺に触りたくないって言うなら、ノートでも辞書でも使って」
 実際のところ、柳の傷がそんなもので癒えるとは思っちゃいない。暴力は多少のうっ憤を晴らす程度で、根本的解決にはならないから。それでも、今の俺には柳の傷を癒せる自信はなかった。傷付けた張本人が、どんな顔でそれをすればいい?
「それも嫌だって言うなら、好きなところを言ってくれ、自分で殴る」
 軽く拳を作って、自分の頬に当てる仕草をする。自分で言いだしたが、それが一番俺にとってはすっきりしそうだった。俺の馬鹿さ加減を思えば、拳に最上級の威力を乗せられそうな気もした。
 腕に持った教科書をぎゅっと胸に抱き、柳は俺を戸惑いながら見つめる。そして、微かな声を零した。
「……して?」
「……え?」
「……どうして、あんなこと、したの……?」
 今にも消えそうな、震える声。三日ぶりに聞く彼女の声は、弱弱しく、それをしたのが自分かと思えば本当に苛々した。ぎゅっと爪が皮膚に食い込むほど強く拳を握り、机に添える。今机を殴れば、柳を怯えさせるだけだ。
 絶対に、これ以上、傷付けない。
 その時の俺にあったのは、その気持ちだけだった。
「……嫉妬、した」
 改めて口に出せば、何とも馬鹿馬鹿しい。ただの後輩だと柳が言うのに、それが分かっているのにどうしようもなく嫉妬して、溢れる独占欲のまま、彼女を傷付けた。
「し、っと?」
「……あの、須藤って奴。あいつが、柳のこと名前で呼んでて、……柳も、それを、許してて。仲良さそうに話してるから、すごい、嫉妬した」
 思いだせばまた、胸の中に黒い感情が広がる。どうしようもない。自分でもコントロール出来ないそれが、ひどく苦い。
 目を丸くし、首を傾げる柳の目を見れず、自分の拳を見つめた。
「……あいつは、俺の知らないお前を知ってて、そういうのも、すっげ、……嫌で。俺を、柳の特別にして欲しくて、……あんなことした」
 真っ赤な陽が、俺の拳を赤く照らす。ますます、夕陽が嫌いになりそうだと内心ぼやいて、言葉を続けた。
 結局、俺は柳が俺の恋人、っていう証拠が欲しかったんだと思う。須藤の側にいる柳はすごくリラックスしていて、俺の前とほとんど変わらなくて。そういうのが、怖かった。俺だけが特別だと思っていたかった。だからせめてもと、対抗心で名前を呼んで、拒否されたくらいで馬鹿なことをした。
 ――こうやって考えると、本当に、馬鹿だ。
 数えきれないくらい、もらっていたのに。特別である証を。それに気付いていたのに、頭に血が上って忘れてしまった。
 本当に、馬鹿で、最低で、どうしようもない。独占欲も強いし、きっとこれからだって、それで柳を振りまわすだろう。多少見てくれが良いとは言われるけれど、それだけだ。人間として、なにもかもが足りない。こんな男。それでも。
「でも、ごめん。
 それでも、離れないでしい。……別れるなんて、言わないでほしい。――側に、いてほしいんだ」
 掠れて震える、弱々しい声。泣き落としか、と自分でも笑いそうになった。
 だけどどんなに情けない手を使っても、彼女に隣にいてほしかった。もう一度、チャンスが欲しかった。誰よりも、愛しい相手だからこそ。これで諦めることが、出来なかった。

 静まり返った教室には、時計の針が動く音。四月とは言え、まだ少し寒い。窓を閉め切っているものの、わずかに冷気が忍び込み、制服では隠せない首筋や手が、徐々に冷え切っている。特に掌は、冷や汗でびっしょりだった。
 キュ、と響く音に顔を上げる。こちらを見据えた柳は、俺の方へ一直線に向かってきていた。淀みない足取りに、こちらがパニックになって、後ろに下がる。がたりと腰が机にぶつかって、仰け反ることしか出来なかった。
 やがて、目の前に立つ柳。挑むように俺を見上げる瞳は、どんな感情を灯らせているのだろう。怖くて目を逸らしたくなるのを、どうにか堪えた。
「山元、机、座って」
「……は、」
「いいから、座って」
 強い口調で言われた言葉に、一瞬反応出来なくなる。固まる俺を一睨みして、柳は机を指差した。仰け反っていた俺は、その言葉に素直に従い、腰を下ろす。当然視野が下がって、柳の視線とほぼ同じ高さに俺の視線があった。普段より遥かに近い距離に、どきまぎする。同時に、少しだけこけたように感じる頬や、Yシャツから覗く絆創膏に胸が痛くなったけれど。
「それで、目、瞑って」
「……ああ」
 今度は一発で、その言葉に従う。す、と瞼を下ろせば微かに光が捉えられる程度で、後は闇が広がった。近くで聞こえる、息遣いや足音、人の動く気配。
 叩かれるんだろうな、多分。
 過去に女に別れ話をした時の経験を思い出し、納得する。見られながらじゃ殴り辛いだろうし、俺が立ったままじゃ柳には届かない。
 予想はついたけれど、特に歯を食いしばったりもせず、その瞬間を待った。殴られるならば、甘んじて受けよう。柳がそうして当然のことを、俺はしたんだから。
 ……しばらくそのままでいたけれど、一向に動く気配がない。もしかしてこのまま放置されたのか、とも思ったけれど、人の気配は変わらず目の前にある。けれどなかなか、衝撃は来ない。目を開けようか迷い、眉間に皺を寄せた時。
「……っ」
 ぐ、と息を飲む音。そして。

 ――ふわり、頬に柔らかな温もりが、触れた。

「……は?」
 間抜けな声と共に、目を開ける。ぽすん、と軽い衝撃が胸に走って、見下ろせば、俺の頬を擽る髪の感触。背中に回された細い腕が、俺の身体を逃がさないとでもいうように、しっかり絡みつく。
 それは。
 間違いなく、柳で。
「…………え?」
 もう一度、間抜けな声を出してしまった。
 聞こえているはずなのに顔を上げず、ぐりぐりと俺の肩に顔を擦りつける柳。甘い香りに温かい感触は、絶対に失ってしまうだろうと思っていた、彼女のもの。じわじわと実感が沸いてきて、替わりに言葉を失う。
「っ」
 気付けば、無意識に力一杯、腕の中の身体を抱きしめていた。その肩に顔を埋め、髪の毛に頬を擦り付ける。
 触れてくれた。触れられた。夢ならこのまま、覚めないでくれと、本気で願った。
 何もかもが愛おしくて、離したくない。今までの考えが、一瞬で吹っ飛ぶような温もりだった。
 嫌われてもいいから、殴られても、罵られてもいいから。何だっていい、側にいて欲しい。どんな形でもいいから、彼女の存在を感じていたい。そうでなければ、もう、生きてはいけない。
「……っ、」
 ……けれど、暴走しかけた俺は今度こそ、彼女の必死のサインに気付いた。どんどん、と強く背中を叩かれて、慌てて腕の力を緩める。ぷはっ、と俺の腕から抜け出した柳は、真っ赤な頬で、俺を睨みつけていた。
「くるしいっ」
「ごめん」
「……もう」
 怒った姿も可愛くて、頬がにやけてしまう。それに気付いたのだろう、唇を尖らせたまま、柳はそっぽを向いてしまった。でも、背中に回された腕は、解けない。
「山元の、馬鹿」
「……ごめん」
「ほんっとうに、馬鹿!!」
 叩き付けるように罵られて、さすがに真面目な顔で答える。それは、柳の瞳が少し泣きそうに潤んでいたからでもあったんだけど。
「何で、分からないのよ」
「ごめ、」
「山元だけが、みんなの知らない私を、知ってること」
 ……けれど、謝罪の言葉は止まってしまった。彼女の、言葉で。
 目を丸くする俺に、柳は苦笑しながら、俺の瞳を見据える。それは、何もかも許してしまう、優しい瞳で。
「須藤くんは、確かに仲良かったよ。それで、もちろん山元の知らない過去とか、話もある。でもそれは、みんなと一緒の過去だもの。他の何人もと共有してる過去であって、別に特別じゃない」
 聞き分けの悪い子供を諭すような、優しい声音。背中をぽんぽん、と叩かれ、まるで自分が本当に子供になってしまったかのように感じた。
「――山元は、私の初めての恋人じゃない。他の人とは、違う。山元だけは、私、考えも表情もなにもかも、全部とち狂っちゃってる気がするもん。
 だから、山元は誰も知らない私の表情や感情を一番知ってるし、これからも、知っていくんだよ」
 これ以上の特別なんて、ないよ。
 そうやってはにかむ彼女は、そっと顔を近づけて、俺の頬に口付けを落とした。それは、さっき頬に落ちた温もりと同じ、感触。
 恥ずかしくなったのか、顔を赤くした彼女はまた俺の肩に顔を埋め、ぎゅうっと背中に回した腕に力を込めた。
「……」
 震える指で、その髪を梳いて、そのまま肩を抱く。震えることもなく、しっかり俺の腕の中に収まる彼女に、愛おしさが込み上げた。
「柳」
「……なに?」
「――好きだ」
 耳に吹き込むように囁くと、それは一気に赤く染まって。可愛らしくて、こめかみに口付けた。

 こんなに小さくて細い彼女は、本当に、どれだけのものを隠し持っているのだろう。俺を喜ばせて、幸福の絶頂に追い込ませて、本気で柳なしで生きていけなくさせるつもりか、と悪態をつきたくなった。
 ――それもきっと、幸せに違いないけれど。

 しばらく腕の中に収まっていた彼女は、ごそごそと身動きすると、小さく俺の名前を呼んだ。
「ん?」
 首を傾げれば、頬をほんのり染めて顔を顰める彼女。照れている時によく見る顔に、
片眉を上げる。
「……あの、ね。今日、何の日か、分かる?」
「今日?」
 吐息交じりに囁かれた言葉に、一瞬理性を失いそうになりながら。何とか堪え、黒板を見る。既に明日の日付になっているが、単純に一を引けばいい。けれどそれを考えても、いまいち引っ掛かるような行事は思い浮かばなかった。
 柳の誕生日じゃないし、俺の誕生日でもない。特別何かある訳じゃないと思うんだが。
 考え込む俺を見て、柳は小さく笑い、あのね、と口を開いた。
「今日でね。一ヶ月なんだよ。私達」
「え……」
 その言葉に、目を丸くした。考えてみれば、もうそんな時期に違いない。けれどあまりに早いような、遅いような。改めて意識すると、時間の流れが不思議に思える。
 固まった俺を見て、柳はくすくす笑っていた。
「別に、だからどうって訳じゃないんだけど。ただ、これからもよろしく、って言いたかったの」
「あ、……ああ。こちらこそ」
 俺の返しに、柳はまた楽しそうに笑って、それから少しだけ、寂しげな色を瞳に乗せた。
「……今回のことは、山元だけを責められないって思ってる」
「は?いや、俺が全面的に悪い」
 ぽつぽつと語る柳に、大きく首を振って答える。でも柳は、頑として譲らなかった。
「私、付き合いだす時に決めてたの。山元を大事にしよう、不安にさせないようにしよう、って。なのに山元があんな風に爆発しちゃったのは、私の努力が足りてなかったからだなって思う」
 それは違う、と言葉にしたかった。柳は十分に俺のことを思ってくれている、その証拠をもらっている。けれど、その瞳は俺に口を開かせなかった。
「だから、不安になったら言葉にして、伝えてよ。私に出来る精一杯で、山元の不安を失くすから。精一杯、大事にするから」
 ――外でとっくに陽は落ちて、照明もつけていないこの部屋は、ひどく暗い。なのに柳の瞳は、眩しいほどだった。揺るぎない光を、湛えていた。

 真っ赤になって固まる俺を抱きしめて、柳は笑う。そして、囁いた。
「――山元、好き」

 


傷付いても、怖くても、その手を離すことは、選ばない。
きっと二人なら、乗り越えて行けると信じてるから。
絡んだ糸も、絡んだ意図も。
丁寧に正せば、解くことが出来るから。


  

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