迷い迷って、あなたの元へ。

もう、この迷路から逃れられない。


Flower maze(1)


「はぁ……」
 
目の前の、大歓声で沸く体育館を見て、ため息を一つ。意気揚々と進んでいくジャージ姿の高校生の中で、俺の存在は明らかに異質で。ふと、周りの視線を集めている気がして、目深にキャップを被り直し、重たい足を無理矢理進めた。

「悠。おはよ、飯食う?」
「……はよ。食べる」

 朝。学校が開校記念日で休みだと言うのに、いつも通りの時間に目が覚めてしまい。軽くストレッチをしてから一階に行けば、いつもは朝練でとっくにいない兄貴が、珍しくいた。眠たい瞼を擦りながら挨拶を返せば、朝なのに爽やかに笑う。
 日光を浴びてトーストを焼くその制服姿を見ながら、冷蔵庫から牛乳を取り出し、一気に飲み干した。物音に振り返る兄貴は、目を尖らせる。

「悠、お前ラッパ飲みこないだ母さんに怒られただろ」
「仕方ないじゃん、面倒臭いし」
「だからってなぁ」

 テーブルについた俺の目の前には、ラップの掛けられたサラダとハムエッグの支度。兄貴はもう朝食を取ったのか、コーヒーだけを手にキッチンから出て来た。
「母さんは?」
「もう出た。今日は日直だって」
「ふーん」
「悠は、こんなゆっくりしていいのか」
「今日は開校記念日」
「ああ、五月だったっけ、そう言えば」

 俺の言葉に頷きながら、手元の新聞に目を落とす。
 鏡に映したようなそっくりな姿なのに。兄貴はまるで、一端の大人のよう。目の前に広がる越えられない壁に、甘ったるいジャムを塗りこんだトーストを噛んで、色んな思いを呑みこんだ。

 ――青竹梢
 この県でバスケをやってて、この名前を聞いたことのない奴はいないと思う。一時は地方紙に取り上げられ、中学で最優秀選手賞も取っていた。
 小柄な身体から繰り出されるドリブルやクイックパスは、抜群のコントロール力を誇る。特にその名が知られる理由は、鉄壁のディフェンス。一般常識では考えられない高いジャンプは、百八十の相手のシュートをブロックする。フェイクが得意中の得意で、どんな逆境でも諦めず、ボールを追うその執念。バスケにかけるストイックとも言える姿勢は、当時多くの中学生を熱狂させた。
 それが今、俺の目の前でコーヒーを啜る男で、兄貴、だ。
 生まれた時から「双子のよう」とよく言われた。くるくるした茶髪も、小柄で細い身体も(筋肉がつきにくい性質らしい)、笑うと顔に出来る笑窪まで。鏡を見る度ため息を吐いてしまうほど、そっくりで。似たくもなかったのに。

* * *

 昔は良かった。
 兄貴は三つ上とは思えない程出来た奴で、基本的に俺に優しかったし、面倒見てくれたし。周りからよく羨ましがられたし、俺にとっても自慢の兄貴だった。
 でもバスケを始めてから、兄貴は今まで見たく俺と遊んでくれなくなって。悔しくて寂しくて、俺も小学校に入ってすぐ、クラブチームに入った。
 そうしたら、兄貴の側にいられると思ったから。
 予想通り、休日は兄貴は一緒にバスケの練習付き合ってくれたし、周りの先輩も可愛がってくれたし。俺にとって、この選択は間違ってなかったんだ、正しかった。そう信じて、疑いもしなかった。けれど。

『悠のプレイってさぁ。梢先輩そっくりだよな』
 
兄貴が小学校を卒業して、すぐ。同級生に、ニヤニヤ笑いと共に、そんなことを言われた。
 今思えば、あれは俺に対する嫉妬だったんだと思う。先輩達に可愛がられ、四年で身長小さいのにレギュラーに入れてた、俺の。
 でも、その言葉は俺の中にずどんと落ちた。
 違う、何言ってんだ、んな訳ない。
 否定したいのに、走るように帰った家のラックの中。練習試合の様子を映したビデオを見れば、俺と兄貴はほとんど同じような動きで。なのに。本当に、同じなら良かったのに。
 兄貴は、俺よりずっと鮮烈な、鮮やかなプレイをしていた。俺のプレイは、どう見たって兄貴の、真似ごとで。
 でも、兄貴のプレイは。多分バスケをやったことがない奴でも、分かる。このすごさが。
 昼過ぎに見始めたビデオは、一本だけ見るつもりだったのに、気付けば周りには何本も転がり。窓から、夕日が差し込んで。
 そして俺は、……泣いてしまった。
 一緒だなんて、おこがましい。兄貴は、俺の何倍もすごいプレイをする。
 じゃあ、俺は?本物になろうとしてなりきれない、ただの、偽物じゃないか。


 悔しくて、痛くて。小四の俺には堪えられないような、初めての『絶望』だった。
 自分が決して越えられない人間は、自分の兄貴で。決して離れることの出来ない距離に、そいつがいる。必死でプレイを変えようとすればするほど、兄貴に捕われる。どうすればいいか。何をすればいいか。分からなくて模索している内に、レギュラーを落とされ、監督にも責められる。
 『お前は梢みたいにやっていればいい』と。
 それで兄貴の真似をすれば、みんなは満足し、評価される。そんな日々を繰り返す中、徐々に俺の心は乾いていって。
 中学に入れば、名を県中に知らしめた兄貴の影は、もっと大きくなって、誰もが俺を、『青竹悠』じゃなくて、『青竹梢の弟』として見る。
 叫びだしたいような衝動は、徐々に諦めに取って代わる。
 どうして、兄貴だったんだろう。例えばただの先輩だったりしたら。俺は、あの人を尊敬するだけで、済んだのかな。こんな風に、醜い嫉妬に捕われないで、済んだのかな。
 けれど、もしも話に意味はなく。
 やって来る高校受験、せめて兄貴の高校とは別の地区で、バスケをやらずに済むことを祈るばかりだった。

* * *

「……るか、悠」
「あ、?」

 そっと、肩を押す手。慌てて顔を上げれば、兄貴が心配そうな顔で俺を見ていた。
 ―ずくり
 また、心臓が、痛い。

「お前、ジャム落ちるぞ」
「え、あ、ああ」
 
指差す先を見れば、齧りかけのトーストの先から今にもしたたり落ちそうな赤いジャム。慌てて飲みこむと、兄貴はふと目を細めた。しょうがない弟を見るような目は、俺をいつだって咎める。
 小四以来、何かと反発しがちだった俺を、それでも見捨てず大切にしてくれる兄貴。その存在が、苦しい。そこで俺のことを諦めてくれたのなら、それで良いのに。あくまで兄貴は、称賛されるべきプレイヤーで、優しい兄貴で、出来た人間で。自分の醜さを浮き彫りにされ、ますます心は痛むだけだ。
 食べ終わった俺の皿を片づけ、自分の使ったマグカップも一緒にシンクに運ぶ。洗い物を始めたその横顔をぼんやり見ながら、もう一口、トーストを齧った。
「な、悠?」
「……ん?」
 
水の流れる音の隙間に聞こえる、自分そっくりの声。曖昧に返事をすると、兄貴の明るい声が届く。
「お前、今日予定は?」
「ないよ。勉強する位」
 
バスケ部は、先週、準決勝戦で負けてしまった。迎えてしまうとあっけない終わりに、未だ馴染むことも出来ず。泣いて次の日には意識を切り替えた他の連中と違い、一人、取り残されたままだった。
「じゃあ、試合見に来いよ」
「は?」
「笹川西で、今日大会なんだ。チャリで来れるだろ?」
「そりゃ、まぁ」
 
トーストを食べ終え、指についたカスをティッシュで拭きとっていれば、とんでもない提案。
 笹川西高校は、家から一番近い公立高校だ。俺の通ってる中学からは、一番志望者が多い。ちなみに、俺も志望者の一人だったりする。兄貴の通ってる藤ヶ丘とは、地区も違うし。
 口ごもる俺に、兄貴は振り返った。
「一回くらい、うちのチーム見に来ないか?」
「藤ヶ丘?何で?」
「お前に、見せたい奴がいるんだ」

 手は止めないまま、目を細めて、笑う。嬉しそうなその顔が、何故なのか分からなくて。黙って首を傾げると、兄貴は喉を鳴らした。
「今年入った奴なんだけどな、多分お前と気合うぞ」
「ポジションは?」
「百八十あるけど、シューティングガード。しかも滅茶苦茶イケ面」
「……最後、関係なくない?」
 
別に兄貴の後輩がイケ面だろうとなかろうと、俺には関係ない。唇を尖らせる俺に兄貴は、それと、と言葉を続けた。
「小生意気でな、でも柔軟性がある。他人のプレイを認めるとすぐに、その部分を受け入れていくな。正直、すごいよ。俺にはない才能だな」
 ――瞬間、音が消えた。
 兄貴が。県のトップスターに入る存在の、兄貴が。認めている人。
 それは、俺じゃない。決して俺じゃない。それは、俺のプレイが兄貴の真似だから――?
「……っ」
 
大きな音を立てて椅子から立ち上がった。その音を聞いて、兄貴は流しっぱなしの水道の蛇口を捻り、俺の方に向かってくる。それを手を振って制し、出口に足を向けた。
「悠?」
「ごめん、今日は勉強する」

 訝しげな声のトーンに気付いていながら、無視をしてしまう。
 こんなの八つ当たりじゃないのか。もしくは、幼い嫉妬か。兄を取られて寂しい気持ちになった、とでも言うのか。
 馬鹿馬鹿しい自分に、不意に口元が歪む。自分の中にいつも巣食う汚い、ドロドロしたものが急激に胸一杯に広がった。
 階段を上る俺の背中に、兄貴の静かな声が届いた。

「悠、試合、今日の十二時からだから。来れたら来いよ」
「……」
 
聞こえない振りをして、二階に上がってすぐの自分の部屋のドアを閉める。閉め切った部屋は、息苦しい程湿っぽい。じめじめとした空気に耐え切れなくて、カーテンを開け、風を取り込もうと窓を開け放った。
「……っ」
 
途端に飛び込む、梅雨期には珍しい眩しい太陽。目を細めてそれを見据えながら、Tシャツを脱ぎ散らかした床に寝転がった。
 勉強なんて、単なる言い訳。
 何も、見たくない。兄貴のプレイも、兄貴が認める後輩のプレイも、自分の汚さも。全てがうざったくて、嫌でたまらなくて、泣き叫びたい衝動にかられることも、あって。
 目を閉じ、固い床に力を抜いて四肢を伸ばす。瞼に侵食しようとする光を、腕で目を覆うことで遮り、静かに息を吐いた。思考が、徐々に蕩けて行く。
 それでいい。寝ている時は、兄貴のことも何も考えなくて済む。
 それだけで、いい。

「ん……」
 
ごろり、寝返りを打つ。同時に、頬にぶつかる固い感触に目を開く。
「ん?」
 
一瞬、自分がどこにいるか分からなくて、目を回す。半身を起き上がらせて、自分の部屋であることを確認し。ぎしぎし痛む身体を揉みながら、ようやく自分の状況を思い出した。
「ああ、そっか」
 
兄貴と別れた後、ずっと寝ていたのか。ずきりと痛む頭を押さえながら、壁時計を見る。
 十二時、五十分。どうやら六時間近く寝ていたらしい。今夜は多分、眠れない。そう思いながら、ゆっくり身を起こす。ラグもない部屋で長時間寝るなんて、正直自殺行為に近い。骨の軋みを感じながら、立ち上がり、身体を回した。
 それから、一階に下りる。予想通り、リビングには誰の姿もなかった。

 小腹が空いていることに気付き、辺りを見回す。何もなかったので、コンビニに買いに行くことに決めた。部屋に戻って、バックパックに財布とケータイとを放り込む。同時に、つい目にしてしまうのは、壁時計。
「十二時、だっけ」
 
今から行っても、間に合うかも分からない。
 高校までは、チャリで二十分くらい。試合が定刻に開始したのなら、四ピリが数分見れるかもしれない程度で、大して期待出来ない。
 けれど。
『お前に、見せたい奴がいるんだ』
 
俺が一度、バスケの話でひどい反応をして以来。俺にその手の話題を振って来なかった兄貴が、今になって。そこには何か、深い意味が込められているような気がしてならない。そう思えば、なんとなく落ち着かなくなってしまい。
「……あーもーっ」
 机の上のチャリの鍵を掴み、日差し避けに部屋の片隅に投げてあったキャップを被って、部屋を飛び出した。
 悔しさを感じる。それでも。兄貴が褒める選手が、大したことないはず、無い。そう思って心を弾ませる俺は、もしかしたらまだどこかで、バスケを好きでいられているのかもしれない。そう、思った。



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