Flower maze(2)


 息が切れる勢いでチャリを漕いで、十五分。空きすぎて痛む腹をさすりながら、ゆっくり校門を潜る。そこには、色々な高校生が溢れていて。なんとなく居心地が悪くて顔を顰めた。見渡せば、今日は平日なこともあってか私服姿はほとんどいない。何も考えずに、普段着で飛び出してきてしまったことを今更後悔する。
 ていうか、家の鍵、閉めたっけ。それすらあやふやな自分に苦笑しながら、黙って体育館に歩を進めた。
「え、っと」
 二階席まで上がると、多分兄貴にばれる。そう思い、入口に固まった人々の隙間から中を覗き見た。野太い応援の声と、むわっと広がる熱気。どこか懐かしいそれに心を揺らしながら、腰を屈めて下から覗き見る。
 藤ヶ丘、は、今日は白いユニフォームらしい。タイマーを見ると、残り三分。この時間から考えると、四ピリに違いない。大きく息を吐き出し、兄貴の姿を探す。すぐに、目の前でふわりと揺れる茶髪を見つけた。
 
まるで、手にボールが吸いつくように。リズミカルなピボットと、綺麗なステップ。きっとあれは、他の誰にも真似できない兄貴のドライブだと思う。思わず息を詰めて見守る、小さな七番の背中。
 不意にその顔が、俺の方を見据えて、
「、」
 真横に、パスを出す。受け取った選手は、静かに一歩、後ろに下がって。重力など感じさせない位、軽やかに飛んだ。
 ―
わぁ……っ!!
 
シュッ、と涼しげにネットをくぐる、オレンジのボール。よくよくその足元を見れば、スリーポイントラインの外側で。その為に一歩下がったのか、と息を呑んだ。
 入るかも分からないのに。確実に、点を取るために。
 思わず、拳を握る。腕を下ろした選手の顔は、よく見えた。汗に濡れた黒髪を掻き上げ、目を細める、大きな十三番。兄貴がその腕を叩くのを見なくても、すぐに分かった。
 あの人が。兄貴の、認める……。
「!!」
 
耐えられなくなって、すぐに人混みを飛び出した。ぶつかった誰かが、文句を言うのを背中越しに受け止めながら、足を運ぶ。
 本当に、すごい選手だった。ちらりと点差を見れば、すぐに分かる。兄貴たちは、絶対に勝てる。なのにそこで気を抜かず、止めを刺すような、鮮烈なスリーポイント。綺麗なその構えに、俺は我知らず、見惚れていた。兄貴のプレイ以外に、こんな風になったのは初めてで。
 分かってしまった。
 ――あの人も、また、俺とは違う人種であることを。選ばれた才能を持つ、特別な人であることを。兄貴と、同じ世界で生きる人であることを。

「っ、は、あ……」
 
部活を引退して、まだそんなに日が経っている訳でもない。なのにこんなにも、苦しいのは。胸が、ぎりぎり痛めつけられるから。
 体育館を抜け、渡り廊下を抜け、近くの水道場に手を付く。ほんの十mほど離れただけなのに、歓声は遠く。
 やっとまともに、息が出来た気がして。ふ、とため息を吐きながら、背中を壁に預けて、ずるずるとしゃがみ込んだ。
 来なきゃ、良かった。これ以上、兄貴との差を浮き彫りにしてどうする。自分を苛めて、何が楽しい。そう思うのに。
 心の中が、ごっちゃになる。
 兄貴を今でも好きで、尊敬してる気持ちと。兄貴が憎くて、側にいたくない気持ち。どちらの比重も重たいから、迷う。
 
俺は、どうすればいい?
「……」
 
じわり、目が潤む。情けなくて、立てた膝にごしごしと目を擦りつけた。
 何で泣いてるんだろう。こんなとこで、俺、何泣いてるんだろう。恥ずかしい。情けない。悔しい。
 いつの間にか握りしめていた拳を、地面に力なく振りおろした。ひきずれば、砂利が擦れて痛い。だからきっと。再び目尻に零れる雫は、それのせい。噛み締めすぎた唇から、血の味がした時。
「あの。大丈夫ですか?」
 
突如、影が差し込む。慌ててキャップを深く被り直し、影を振り返った。
 しゃがみ込む俺の顔を覗き込むように、腰を屈めて俺を見る人。徐々に視線を上に上げて行けば、白いTシャツ。真っ白な肌に日が射し、小さな顔に不釣り合いな程大きな瞳は茶色く映る。肩で跳ねる髪は二つに束ねられ、華奢な背中に流れて。俺より年下に見える少女は、けれどここにいる以上、高校生以上なんだろう。
 驚いて目を丸くしながら、「大丈夫です」とだけ返した。でも、納得してくれなかったらしい。彼女は手を差し出し、首を少しだけ曲げた。
「でも、ここじゃ暑いでしょう?保健室に行きませんか?」
「いえ、あの。本当に大丈夫なので」
「それならいいんですけど」
 
背を向ければ、声に不満そうな響きを帯びながら、手は離れた。小さい。ソフトボールも握れなさそうなそれに、ついつい視線は向く。少女は上体を起こし、額に零れる汗を拭った。日差しなど知らないような、白い手首に走る青い血管。薄い唇が、小さく息を吐き出して蛇口を捻った。溢れる水の水滴が、小さく頬に飛ぶ。その冷たさで、自分の頬の火照りに気付いた。
 そのまましばらくすると、カチャカチャと何かを洗う音。背中越しに確認すると、どうやらタンクやボトルを洗っているらしい。
 一年生部員、か。それともマネージャー?どちらにせよ、やはり高校生には違いないらしい。
 ふと彼女の視線がこちらに向いた。慌てて視線を前に戻し、キャップの鍔を掴む。しばらく水が流れる音だけ響き、やがて小さく吹き出す声が聞こえた。
「!!」
 
かぁっと顔が熱くなる。
 ……はず。見知らぬ女の子ガン見して笑われる、って。滅茶苦茶情けない。
 頭を掻き毟りたい衝動にかられるけれど、流石に今キャップは外せない。兄貴を知ってる人に顔を見られて、騒がれるのは避けたい。今の県内の高校生で兄貴を知らない奴は、きっといない。
 黙って立てた膝に額を押し付けると、後ろから押し殺したような笑い声が届いた。
「あの。大丈夫、ですか?」
「……はい」
「そうですか」
 
あっさり引くので、訝しく思い彼女の様子を窺う。――優しい微笑みで、俺を見ていた。
 ぐりん、っと首を慌てて回す。そんな俺に、後ろでまた笑い声が上がった。
 何だ何だ何なんだこの子!!
 自慢じゃないけど、この容姿は割に女子受けが良いらしい。数回告白されたことあるし、彼女がいたことだってある。けれども。あんなに優しい、柔らかい笑顔で見つめられたことなかった。心臓が一瞬、止まるかと思うくらい。
 何で初対面の俺に、こんなに気安く話しかける?
 疑問に思うが、流石にこれ以上見るのはまずいだろう。焦って頬を掻くと、俺の心を読んだように、彼女は口を開いた。
「ごめんなさい、気安く話し掛けちゃって」
「……いえ」
「今日、うちの学校勝ったんです。嬉しくて、ついつい」
 
ひどく嬉しいんだろう、声が弾んでいる。聞いてもいないのに、先輩がああだったこうだったと話し始めている。苦笑しながら、どこか甘いその声に耳を澄ました。高いけれど、耳障りではない。割に落ち付けるから、不満はなかった。
「一年生に、上手い子もいるんですよ。……性格、悪いけど」
「はぁ」
「て、すみません。こんな話」
 
部活の話すると止まらないんですよねーなんて邪気のない笑い声。それに胸が、ずくりと痛む。
 彼女の言葉には、バスケに対するコンプレックスも何も感じない。あるのはただ、純粋な楽しさと、興味と。大好きなものを誰かと共有し、喜ぶその姿勢。俺には覚えが無さ過ぎて、胸が痛い。
 ……いや、無い訳じゃない。久しく感じていなかったせいで、感覚がつかめないだけだ。
「……いいですね」
「え?」
 
思わず、感情が声になって零れていたらしい。驚いて口を手で覆うけれど、手遅れだ。目を丸くする彼女を横目で確認しながら、小さくため息を吐いた。
「今、俺。分かんなくって」
「何を、ですか?」
「自分がバスケ好きなのかどうなのか。ずっとやってきて、当たり前で、だけど、離れるとバスケやってることが辛くて」
 俺、何言ってんだろ。初対面の女の子に、こんなの。あっちだって困るに決まってる。自分でも脈絡のない言葉だと思うし、実際支離滅裂だし。
 それでも、吐き出さずにはいられなかった。
 全く知らない人間だったからかもしれない。こんな風に、素直になれるの。
「このままやってけばいいのかも、分からないんです。バスケやるのが辛いのに、でも、俺にはバスケしかないから……」
 
ぎゅう、と膝を強く抱えて、項垂れる。熱い息が口から漏れた。苦しい。じわりと、日陰だから暑くないのに汗が噴き出す。口にして、自分の不安がはっきり形になる。
 俺にとってバスケを捨てるということは、兄貴の威光も捨てるってことで。そうなった俺に、誰が振り向いてくれるんだろう。兄貴なしの俺に、どこまで人は側にいてくれる?
 怖い。怖いんだ。
 苦しくてもバスケを続けて来たのは、きっとそれが理由だったから。
 失望されるのが怖い。期待を裏切るのが怖い。でも、兄貴と比べられるのも嫌だ。
 どうしたらいいんだろう。俺は、どうしたいんだろう。
 嗚咽が漏れそうで、手を口にあてた時。
「――いいじゃないですか」
 
柔らかな声が、耳を打った。
 びくり、と身体を震わせてしまう。
 くすりと涼やかな笑いは響き、少女は蛇口を捻った。
「分からなくても、いいじゃないですか。バスケ、続けましょうよ」
「……は」
 
軽い調子で言われた言葉に、目を見開く。ちらりと振り返ると、彼女は楽しそうに目を細めていた。
「やってる間は楽しいんでしょ?だったら、ずっと続ければいい」
「っでも」
 
バスケやってない時は、ずっとグダグダ悩んで。そしてその辛さの理由を、兄貴に押し付けてしまう。兄貴がいたからだ、なんて当たり散らす汚い人間になってしまう。
 これ以上、嫌なのに。
 けれど、そんな俺の葛藤に畳みかけるように。背後の声は、止まらなかった。
「だって、ずっとやってきたんでしょう?失くしたらきっと、辛いですよ」
「……」
「当たり前のように側にあるから、辛さばかりが身にしみるんですよね。もっと楽しいこともあるだろう、って感じるんですよね。だけど本当に自分の手から零してしまった時、意外と拾うの大変なんですよ」
 
少女の言葉を、聞きながら。俺は、言葉を失った。
「本当に、嫌いなものなら。見るのも嫌になる、聞くのも嫌になる。当たり前になるほど長い間側にあったものはきっとたまらなく、好きなんじゃないですか?」
 
私の勝手な理論かもですけど、彼女はそう締めくくり。
 ただ、笑う。オレンジに染まる日を浴びて笑う彼女は、真っ直ぐに、俺を見ていて。

 こんなに真っ直ぐ人を見る人を、俺は知らない。
 こんなに心打つ言葉を知っている人を、俺は知らない。
 ――こんなに綺麗な人を、俺は、知らない。

 胸が苦しい。それは、兄貴を思ったり、バスケを思ったりする時とは違って。痛みと、苦みと、それを凌駕するような甘さと。どこか覚えのある感覚に、俺の手は小さく震えた。
「……き、瑞希ー?どこー?」
「っわ、」
 
どこかから、声が響く。彼女は焦ったように顔色を変え、タンクとボトルを腕に抱えて、俺に向き直った。
「す、すみませんっ、私もう集合しなくちゃ」
「あ、い、いえ。こちらこそすみません」
 
必死な顔で頭を下げられるが、こちらが引きとめたようなものだ。申し訳ないな、と心底思う。同時に。その細い腕を掴んで、引き寄せたい。そう思えば、たまらなかった。
 「それじゃ、」そう笑って走りだす、その背中。立ち上がってぼんやり見送ると、不意に振り返る。
 慌ててキャップを深く被り直す。
 彼女は目を細めて、悪戯っぽく笑った。
「うちの高校で、プレイして欲しかったです。そしたらきっと、そんなこと言わなかったのに」
「え?」
「バスケ、心から楽しいって思ってもらえるのに。悩む暇ない位、ずっとプレイしてたい、って言いたくなりますよ」
 
に、っと笑って少女はまた、走り出す。立ち尽くす俺に、振り返りもせず。長い長い影を残し、ずっとずっと、遠くまで。

 その後、俺は迷いながらも進路を藤ヶ丘に変えた。
 きっと、比べられる。みんなに言われる。『青竹先輩の弟だ』って中学の時みたいに。それでも、もう逃げたくなかった。バスケが好きだと、胸を張って言えるように、あえて兄貴と同じ土俵で戦いたかった。そして叶うなら、もう一度。
 あの笑顔が、見れるように。

 あの日の出来事がなかったとしても、俺はきっと、バスケは捨てなかった。呼吸をするみたいに、当たり前に、小さい時から側にあった。オレンジ色のボール、バッシュの音が響く体育館、この手から放たれるシュート。どれをとっても、きっと手離したら満足出来ない。
 けれど今。こんなに穏やかな気持ちで、コートに向かっていけるのは。
 ――その先にあなたがいると信じたいから。




綻ぶ花を、俺は追いかける。
苦しんで、泣きたくて、それでも。
唯一つ。
その微笑みを、求めて。
俺は深い深い迷路に、足を踏み入れた。








***
 悠と瑞希、もうひとつの出会いのお話です。これは本編で悠が登場してから、ずっと考えていました。
ここでポイントは、@悠は瑞希の高校を知らないA瑞希は悠の顔を知らない の二点です。とにかくも、こうして悠の切ない恋は始まった訳です。
 そして割とブラコンの気がある青竹先輩は、「恍と悠って似てるよな、一緒にプレイ出来たら楽しいよな、二人って絶対気が合うよな。よし、試合身に来てもらおう!!それでうちの学校来る気になってくれないかな!!」なんて考えてました。(自分の卒業は忘れていたw)そこまで考えておきながら、基本言葉の足りない青竹先輩は弟の気持ちに気付かず、兄弟の溝は深まる(笑)いつか青竹先輩のお話を書く時は、ぜひ言葉の足りない彼を堪能していただきたいです。
 それでは、ここまで読んでいただきありがとうございましたv



 

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