君はまるで、儚くて。

頼りなく揺れる、微かな存在。

だから、触れると消えてしまいそうで、いつも、怯えている。

夢のような、大好きな、人。


Like A Dream?(1)


「山元ってさぁ。名前、なんて読むの?」
 
――初めて交わした会話は、五月、暑い太陽の下で。
 一年生みんなが走る外走。タイムを取っていたあたしに、一足早くゴールした田爪は、そう、声をかけた。汗を拭い振り返れば、顔を真っ赤にした田爪。顔をわざとらしくしかめて、水の入ったボトルを突出す。そうすれば、不思議そうに首を傾げるから、ため息と一緒に事情を説明した。
「あんた、水飲んだ?顔赤いよ」
「んぁ?あ、あー。飲んでない」
「とっとと飲まんか!!熱中症になるよ!?」
「ふぇーい」
 
気の抜けた返事と一緒に、手から重みが消えた。視線を上げると、美味しそうに水を飲む、田爪の姿。ニコニコ、水を飲む姿が、まるで犬みたいで。こいつ、こんなキャラだったのかと今更思う。

 中学の時はプレイヤーだったあたしは、高校では男バスのマネージャーを希望した。女子の試合より、男子の試合見てる方が好きだったし、ついでに、将来スポーツマネージメント関連の職業につきたかったから。
 入部してみて、もちろん楽しいと感じた。やっぱり高校は中学とは違う。身長はもちろんのこと、プレイが豪快ながら繊細、更に磨かれている。
 チームの要となる存在っていうのもいて、うちのチームだと、それは青竹先輩という二年の人だった。身長は小さいけど、とにかく速いドリブルと正確なパス、綺麗なスリーを持ち味とするガード。
 そして、期待のルーキーというのも、存在するものだ。それが、今年の一年だと目の前で水を飲む、田爪稔だった。
 入学して、一か月。入部して、三週間。だけど、同じクラスで同じ部活でもある田爪とは、その時まだ、会話を交わしたことも無かった。
 あたしは、以前から興味はあったんだけど。
 中学で選抜に選ばれた奴の名は、意外に知れてる。県内でタメだったら、知らない奴はいないんじゃないかな?

 どんな状況でも動じない、「不屈のフォワード」と呼ばれるあいつ。
点差が大きく開いた時でも、じっくりと落ち着いてシュートを打ち、必ず決める。気付けばそれが積み重なり、大逆転を起こしたことが多々あるのだ。
 それを聞いた中学の時は、どんなに精神力の強いプレイヤーなのかと気になったものだけど。しばらく一緒にいて、気付いた。あいつはただ単に、神経が妙に図太いか、または全く無いかのどちらかだ。
 
教室ではいつも寝ている奴。先生が大激怒しようがなんだろうが、ぐっすり寝てる。
 だけど、部活の時には。顔を輝かせ、楽しそうにボールを追って、コートを駆け回る姿に、いつも、目を奪われた。バスケが、好きで好きで仕様が無い。全身から溢れるその感情に、驚かされる。少なくとも、あたしの周りにそこまでバスケ好きなのはいなかった。もちろんみんな好きではあったんだろうけど、あいつほど素直に楽しんでる奴はいない。そんな風にプレイできる田爪を、羨ましいと思ったし、すごいなぁって心底、思ったんだ。
 ただ、あたしの中の奴のイメージは、何となく部活以外だとクールっていうか。笑わないとか、そんな風に思ってたから。
 ――眉を落として、泣きそうに笑う。ひどく優しいその笑顔に名前を呼ばれ、一瞬柄にもなく緊張してしまった。

 
田爪のタイムをノートに書き込んで、視線を上げたけど、奴はまだ水を飲んでいて。軽く息を吐き、肩を少しつつきながらストップウォッチを見た。
 あと、少しくらいは。無駄話、しても平気かな?
 何しろこいつは、他のどんな一年より三十秒近く、一周―二キロが速い。今は五周走ってもらってるから、あたしは相当暇なんだ。なんつーか体力馬鹿な奴だよなぁ、とため息を吐いた。
 その間に、ペットボトルから口を離し、首を傾げる田爪。くりくりした薄茶の瞳は子犬みたいに可愛くて、思わず噴き出した。
「?な、なんだよー」
「うんにゃ、別に?あんま飲み過ぎないようにねーって」
 
笑いながらそう言うと、田爪は目を丸くし、満面の笑みで頷いた。
「ついでに、あたしの名前は美祢(みね)よ」
「みね?」
「うん。これで、疑問は解消?」
 
首を傾げて微笑むと、田爪は満足げに頷いて。ゆっくり、立ち上がった。……かと思えば、いきなり、振り返って。

「なぁ、美祢さぁ。笑ってた方が、絶対いいよっ」

 犬っころみたいに無邪気に、笑った。

 元来気安い性格のあたしは、田爪の性格が素直で人懐っこい奴だと分かってからは普通に仲良くなった。元々興味はあったし、同じクラスだし、仲良くしたって損はない。それに、妙に天然ボケな奴は、どっちかって言うと突っ込みタイプなあたしと、馬があったのだ。
「ねー美祢ー。腹減ったー」
「じゃあなんか食べて来なよ」
「持ってない」
「なら買って来なさい」
 
昼休みの教室、次の英語の小テスト対策をしていたら、いきなり前の席に座った田爪。視線もあげないまま、言葉を返していたら、田爪はあたしの教科書を机から攫った。眉をしかめ、顔を上げるとぶすっとつまらなさそうに唇を尖らせる田爪の姿。教科書を取り返そうと手を伸ばしたけど、田爪は教科書を更に高く上げた。返すつもりは無いらしい。そのまま、奴はゆっくり口を開いた。
「俺、金無いんだ」
「……で?」
「……美祢さん、購買まで、一緒しませんか?」
 ――
そういう魂胆か、この野郎。
 奢ってくれないかなー、駄目かなー、と顔に書いてありそうなくらい分かりやすい反応を示している田爪を見て、ため息を吐く。他の男子だったら絶対殴り飛ばせるのに。その子犬みたいな、縋る瞳に見られると、そんな文句も飲み込んでしまう。テスト勉強なんかする気も失せてしまい、視線を落としてバッグから財布を取り出した。その途端、ぱぁっと顔を輝かせ、あたしを見つめる田爪。何の言葉もかけないまま、席を立つと、田爪は慌ててあたしの後を追ってきた。
 扉を開けて、廊下に出た瞬間、肩に回される太い腕。……よく筋肉ついてるなぁ。思わず感心したけれど、六月のじっとりした気候に、これは大分暑苦しい。文句を言おうとすぐ隣を見ると、予想以上に至近距離に、むっとした田爪がいた。
 いつだって、ありのまま、真っ直ぐに感情をぶつける、大きな瞳。
 視線すら絡め取られて、一瞬、言葉を失う。そんなあたしに気付くでもなく、田爪は不満げな声を漏らした。
「置いてくこと無いじゃんかー、ひどいぞ美祢っ」
「暑苦しいよ、あんた」
「ひどっ」
 
嫌味を言っても怒るでもなく、ニコニコする田爪。途中、男バスの部員にすれ違い、ため息混じりに「仲いいなお前らー」なんて声をかけられる。それに田爪はヒヒッと馬鹿笑いし、「まぁなー」なんて脳天気な返事。
 ――「仲いい」。
 その言葉に、心臓に針でも刺さったように、痛むから。自分がつくづく馬鹿みたいに思う。だけど田爪はまたもそんなあたしに気付かず、機嫌良さそうに笑っていた。
 そりゃ、そうだよね。
 『友達』に、パン奢ってもらえるんだから。
 そう思うと胸中にどうしようもない苛立ちがこみあげて、奴の手を振り払い、歩く速度を速めた。いきなり早足になったあたしに驚くでもなく、平然とした顔でついてくる田爪が、悔しい。どうしたんだよ、とか、何だ?、とか、不思議そうに声をかけてくる。振り返らないまま、ムッとした声で田爪に告げる。
「購買には、行く、けど」
「?」
「……田爪に買うとは言ってないからね」
「!?な、なっ!!」
 
ショックを受けた声音に、思わず振り向いてやると。……今にも泣きそうな、悲哀に満ちた表情。たかがパン一個で、何をそんなに落ち込むか。どんだけ食い意地はってんの、あんた?肩を落とし、俯いたまま、とぼとぼとあたしの後ろをついてくる。
 ていうか、買わないって言ってるのになんであんたは着いてくるかな。まさか、まだ期待してる?……や、それは無いか。こいつ、諦めはいいんだよなぁ。買ってもらえないって分かったけど、ここまで来たら付き合う、ってか。
 ……馬鹿正直の、お人好しめ。
 思わず、苦笑してしまう。こっちが困るような、しつこいお願いは絶対しないんだよね。笑ったまま、口を開いた。
「田爪?」
「……何?」
 
悲しげな表情のまま、顔を上げる、田爪。なんだか、そんな奴が、可愛くて。
「百円まで、だからね?奢りは」
「……っ!!」
 
結局今日もあたしは、奴を甘やかしてしまう。
「ぅわ、っ」
 
いきなり、ドンッと衝撃を受ける身体。前につんのめりながら、ふらふらと足がよろめく。その原因となっただろう奴に文句を言おうと顔を上げると、ひどい至近距離に広がる、満面の笑み。その生き生きとした嬉しそうな顔に、思わず言葉を失うと、田爪は無邪気に笑って。

「美祢、大好きだっ!!」

 残酷な言葉を、吐き出した。




何も知らない奴を責めることはできないし、こんなの、あたしが悪いってわかってる。
ただの『友達』だなんて思えなくなったのは、いつからだろう。
もしかしたらあたしは、初めてこいつの笑顔を見たあの日からとっくに、狂ってしまったのかもしれない。
その微笑みに、その無邪気さに、その素直さに、その全てに。
知れば知るほど、側にいればいるほど、こいつを望んでしまう、もっと、もっと、って。
マネージャーとしてこんな感情おかしい、って、何度も自分に言ったのに。
もう抜け出せないのだと、奴の目の前に行く度、思い知らされるのだ。
こいつがあたしを女子としては何とも思ってないって、知っている。
それでもあたしはたまらなく、――田爪が、好きなんだ。


  

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