Like A Dream?(4)


 四月、春。入学式の一週間前、今日も男バスは元気に部活していた。
 花粉症だという田爪の真っ赤な鼻と目に思わず笑ってしまうと、奴は拗ねてしまった。全く、拗ねたって可愛いなぁって思っちゃうんだから、意味無いって気付きなさいよね。
 そして毎年恒例なのだろう、新入生が部活に体験に来ていた。
「美祢。水」
「うっさいなぁ、恍、自分で用意しなさいよ」
「あぁ?面倒くせぇし」
「ったく……」
 
あたしの従兄弟、山元恍が。
 一個下のはずのそいつは、何故かかなり偉そうで。むかつくけど、小さい頃から知ってる分、素直に甘えられない性格も、その理由も知っているから。いけないと思いつつ、ついついこいつは甘やかしてしまう。ボトルに水を入れて渡してやると、でかい図体を丸めて、無表情に礼を言ってきた。
 こういうとこ、憎めないんだよなぁ。
 苦笑すると、「何笑ってんだよ気色悪ぃ」と、相変わらずの憎まれ口。本当にこいつ、中学の間何をしてきたのか。バスケの腕は相当上がったみたいだけど、精神年齢の低さは相変わらずだ。
「恍ー!!一対一やらねぇ?」
「あ、はい!!」
 
大きくため息を吐くのと同時に、恍を呼ぶ声。小さくあたしに舌を出すと、恍は走ってコートに向かっていった。高校レベルの練習を済ませて疲れているはずなのに平然としたその姿勢には全くお手上げだ。まぁ、他の先輩方とも上手くやっていけそうだし、大丈夫かな。心配してたけど、馴染んだその様子に小さく笑った。
 ……と同時に、田爪と目が合う。ボール片手にじっとあたしを見ていた田爪にぎくりと心臓を騒がせながら手を振ると、――奴は黙ったまま顔を逸らし、そのまま外へ出て行った。
「……は?」
 
あり得ない。あり得ない、失礼な態度。
 何でよ、手振ったらあんたいっつも「美祢っ」って笑ってこっちに駆けて来るじゃない。
 何で、あたしを避けるのよ。何で、逃げるのよ。何で、あたしから離れるの?
 初めての田爪の無愛想な態度に焦って、あたしはその背中を追い掛けた。

「ちょっと、田爪っ」
「美祢」
 
少しだけ転びそうになりながら外に続くドアを開けて、田爪の姿を探す。焦ったせいで、バッシュのままだ。だけどそんなの気にならない。あたしの心を四六時中かき乱す奴が、またあたしの思考を乱して。グラウンドを見つめるように立っていた少し遠いその背中に叫ぶと、ぼんやりした返事が返ってきた。薬が効いてるみたいで、辛くはなさそう。いや、そういう問題じゃないか今は。
 いつもと同じようで、いつもと違う田爪。振り返ったその瞳はどこか冷たくて、背筋がゾッとした。
 そのまま、やっぱり自分からこっちには来てくれなくて。グラウンドの端にある桜の樹の方に向かうその姿に、届きたくなった。
「ちょっと待ちなさいよ!!」
「……」
「田爪!?」
 
半ば怒鳴るようにその背中に叫んでも、今度は振り返ってもくれない。いっそ泣きたいような衝動に駆られながら走った。いつもはあたしに合わせてくれる歩調も、今は全く自分勝手。
 あたし、何したの?怒ってるなら言ってくれたらいい。こんな風に無視されるくらいなら、いっそ――。
「っ、」
「良かったの?」
「たづ、」
 
だけど不意に振り返った田爪の肩に鼻をぶつける。結構な速度で走っていたから、仕様が無いんだろうけど、痛い。非難するようにその顔を見ると、田爪は苦しげな無表情で、小さく呟いた。
 そんな表情、見たこと無いよ。
 さっきまで怒ってたはずなのに、そんな顔見せられたら、心配してしまう。ああ本当に、あたしは田爪に甘すぎる。
 だけどあたしの言葉をねじ伏せるように、田爪はもう一度口を開いた。
「山元、置いてきてよかったの?」
「恍の、こと?」
「……っ、」
 
予想外の台詞に目を見開く。たどたどしいながら聞き返すと、田爪はぎゅっと眉間に皺を寄せて、悲しげな色を瞳に映した。
 不意に、頬に触れる、震えた指先。少しだけ身体は揺れてしまったけど、でも、逃げないように踏ん張った。だって、今逃げたら田爪が崩れちゃいそう、って思ったから。だから、田爪の目を見たまま、必死に話し始めた。
「どうしたの?恍が、どうかした?それともどっか痛いんじゃ、」
 ――だけど、その努力も途中で消える。
 いきなり、強い力で引き寄せられたから。頬に触れていたはずの指先は、あたしの肩をしっかり掴んで。決して触れることは無いと思っていた、広く逞しい胸板。
 あたしは、田爪の腕の中にいた。

 一瞬、何がなんだか分からなくて瞬きを繰り返す。田爪の吐息が耳元に当たった瞬間、初めて自分が抱きしめられていることに気付いた。
 
すぐに、カッと顔に熱が上る。
 誰もいないグラウンド、舞い散る桜、そして、全身で感じる田爪の熱。頬に当たるゴツゴツした肩の骨や腕の筋肉、風で揺れるその黒い髪が、あたしを惑わす。
 何で、何で。
 今日何度目かの疑問があたしの中に込み上げる。だけど実際、それを口には出来なくて。急上昇する自分の体温に、戸惑うばかりだった。
「……美祢、」
 
知らない、大人の男の人みたい。焦れたように掠れたその声に、呼ばれた自分の名前に、甘い痺れが走る。何も反応を返せないあたしを置いて、田爪は、ぎゅっと腕に力を込める。奴の肩越しに見える風景は妙にぼやけて、まるで夢の中みたいだった。
 手に入らないって思ってたものが、今、目の前にある。少し汗の匂いが混じるTシャツも、目の前にある少し赤く染まった耳の形も、苦しいほど愛おしい。
 ただ一つ、いつも見てるその表情だけ見えなくて。
「……ごめん、もう俺、無理だよ」
「何、が……?」
 
お互い熱に浮かされたような口調だった。実際、浮かされているのかもしれない。じゃなきゃこんなこと、なってない。だらんと力を失った両腕は垂らされ、少しでもきっかけがあれば膝から崩れ落ちそうだった。
「ずっと、今のままがいいって思ってた。下手に距離を縮めたり、そんな風にして今の関係を壊して、その後を考えると、いっつも不安だったから。だから、大事なモノ、ずっと美祢に渡せなかったんだ」
「……」
「だけど今日、山元と話してる美祢を見て、さ。怖くなったし、すっごい嫉妬した。従兄弟だって分かってるけど、今のままでいたら、いつ誰に取られるか分からないって実感して……」
 
そこで一旦言葉を区切り、熱い瞳をあたしに向ける田爪。それを、じっと見つめた。
 ……何、言ってるんだろう。田爪の言ってることは、今までのあたしの葛藤そのもので。
 嘘、でしょう?期待してしまうよ。夢なら覚めないでと、祈ってしまう。
 角膜が、不意に揺れた。熱い何かが瞳の奥からこみあげる。頬を生温い雫が伝ったとき、初めて、ああ泣いてるんだって思った。
 自覚したと同時に、田爪の腕の力が緩まる。名残惜しむように、少しづつ解放される身体。でもあたしは、呪縛にでもかかったように動けなかった。完全に田爪の体温が離れても、未だあたしの身体にその感触は、残って。
 それは至近距離であたしの瞳を覗き込む田爪にも原因はあると思う。躊躇いがちに、そっとあたしの涙を拭って、額をコツリと合わせて。いつもみたいに情けなく眉を八の字にして、笑うその顔はあたしの好きな奴、そのもの。それを自覚してまた溢れ出す涙に、田爪は困ったように息を吐いた。
「……泣かないでよ、美祢」
「誰が、泣かせてるのよ……っ」
「俺、だよね。ごめんね、」
 
優しく、そのマメだらけの手で。
 次から次へと零れるあたしの涙を拭って。
 でも、と優しく囁いた。

「――好きだよ、美祢」

 どれだけ、その言葉を切望したことだろう。
 その言葉を得ることを夢見て、その瞳に映るのがあたしただ一人だと知って、そして、幸せに身を焦がすことを祈っただろう。
 本当に、欲しかったんだよ。
 その言葉を、この温もりを、あの笑顔を、田爪を。
 優しいその微笑みに応えるように笑って、あたしは返事をしようと口を開き、……気付いた。

 
今この場で、気付いちゃいけなかったことに。
 ううん、気付きたくなかった、ことに。
 ――それは、あたしにとって悲しい事実だったから。

 涙がまた、頬を伝う。田爪は困ったように、優しく笑ってあたしの目を見ながら頬を撫でた。
 だけど、あたしは。……これは最後の温もりだと知るから、少しだけ、身を離す。この温もりに、溺れないように、と。
「……ん、」
「美祢?どうしたの?」
「……めん、田爪」
 
幸せに包まれたように笑う田爪の胸を、更に強めに押す。不思議そうに首を傾げる田爪から顔を背けて、俯いた。溢れる涙を拭えず、止められず。

「……ごめん田爪、無理だよ。あたし、あんたの気持ちには、応えられない」

 ――ひどい台詞を、吐き出した。
 次から次へと零れる涙を止めようと、必死で手を目元に押し当てるけど、効果はない。コンクリートへ涙が落ちて、染み込んでいくのが分かった。しゃくりあげそうになる喉を、必死に押し込む。
 今は、見れない。田爪の、顔が。
 だけど強い力で肩を掴まれて、そんな甘えたことは言っていられない、と実感した。数秒経って、何とか顔を上げると。
 ……怒っているけど、今にも泣きそうな、田爪の顔。
 震える指先に、今すぐ縋り付きたい気持ちになる。でもそれを押し殺して、唇を噛み締めた。田爪はあたしの肩を掴む力を強くして、瞳を揺らした。
「っなん、で、なんで、美祢……!!」
「……言葉の、まんまだよ。ごめん、ごめんね、」
「謝るなよっ!!」
「っ」
 
激しい怒鳴り声に驚いて身を引くと、田爪はハッとして身を引いた。
「ごめん……」
 震えた、弱々しいその声に手のひらを握りしめる。傷跡が残りそうなくらい、強く。いっそ、残ればいい。あたしが、田爪を傷付けた分だけ。
 しばらく、お互い俯いたままだった。だけど不意に、田爪が顔を上げる。その顔は、決して『フラれた男』なんて言葉は使えなかった。
 いつもみたいに、優しく笑っていたんだ。
 ただ一つ違うのは、その目元を真っ赤に染めて今にも泣きそうに目を潤ませていたことだけ。
「ごめん、……聞かれても、困るよな。俺が、勝手に勘違いした、だけだから」
 
違う。
 違うよ、田爪。
 あたしは、あんたが大好きなんだ。
「だからさ、美祢が謝る必要、全然無いから。やめよ?」
 誰よりも、愛おしいと思う。優しいその笑顔も、どんなに強い相手でも躊躇わず立ち向かう勇気も、素直でまっすぐな心も。
「ていうか、俺が悪いんだけどさ、……うん、ごめん。俺、今日、変だ」
 
どんな時だって、あたしの側にあった。
 大切で、キラキラしたあんたが。
 宝物みたいに、長年思い描いた夢みたいに。
「…………ごめん、今日俺すぐ帰る。山下に、先帰るって言っといてくれる?」
 
そして、これから先もずっと。

 照れたように笑って、田爪は頬を掻く。今にも壊れそうな、脆い奴は、それでも笑って見せた。あたしの、負担にならないように。そして、さっさと踵を返して歩き出す。来た時とまるで違う、弱々しい足取りで。その背中はいつになく小さく見えて、また、涙が頬を伝った時。
「あんさ、……美祢?」
 
田爪が不意に、声を掛けてきた。ビクリとして、返事を返せない。でも、それは既に見越してあったみたいで。
 そのまま、田爪は苦笑混じりに、苦しげに、言葉を吐き出した。
「――俺、本気でお前のこと、好きだった、から。……でも、忘れて欲しい。美祢とは、ずっといい友達として、やっていきたい、から」
 
そして、言うだけ言って、田爪は行ってしまった。今度こそ、本当に。

 完全にその姿が見えなくなってから、膝ががくがくと震える。止め処なく溢れる涙が、隙間なく痛む心が、その全てに、押しつぶされそうで。
「ぅあ……っ、うえぇぇん……!!」

 
好き。大好きだよ、本当に、誰よりも。
 こんなに人を好きになれるって、独占したいって、そんな感情全部、あんたが教えてくれた。
 なのに、なのに。
 終わらせてしまった。あたしの、手で。
 壊してしまった。あの優しい人の心を。
 儚く、そして夢のように大好きな人を。

 あの瞬間、あたしは怖がってしまったんだ。田爪の、プレイヤーとしての可能性を潰してしまうことに。
 恍ですら嫉妬する田爪。付き合いだしたら、きっともっとたくさん、そういう嫌な感情に苛まれていくだろう。そうして、プレイが不安定になったとしたら。『不屈のフォワード』の名の通り、揺るがない精神性が定評の田爪のプレイを、あたしが崩すのは耐えられなくて。田爪のプレイが大好きで、ファンでもあるあたしにはそんなもの許せない。
 以前、先輩にも言われた。「マネージャーと付き合って、プレイが上手くいかなくなって別れて気まずくなるパターンは多い」って。
 田爪と付き合えたら、それはひどく幸せだろう。だけど、それだけのためにここから先のあいつを、あたし達を、壊したくない。それなら、今のままでいようと。確かに、決意したのに。
「っ……、」
 
泣きそうな、あの田爪の顔が視界に焼き付いて、消えてくれない。好きだと告げてくれた、あの幸せそうな微笑みが、もう手に入らないって言う事実が、胸を突き刺して。一言もあたしを責めようとしなかった田爪が、苦しくて。




桜、舞い散る、四月、春。
優しい子犬みたいに、純粋なあいつに、会った季節。
誰よりも恋したあの瞳を、誰よりも深く傷付けました。
あいつの肩越しに見た美しい世界は、二度と見れないと。
知りながら、あたしは。
知ってしまった今、ひどく焦がれているのです。
宝物みたいに、大事だった。
夢みたいに、儚く、今にも零れそうだった。
そんな人を、あたしは、自分の手で壊してしまったのです。


  

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