Deceitful Lips(4)


「はぁ……」
「ちょっとー咲、何ため息吐いてるの。折角見に来たのに」
「あー、ごめん、朝早かったから」
 
ため息を吐けば、隣の友達に怒られる。慌てて言い繕えば、「部活だったもんね」と笑われた。それに曖昧に微笑み返しながら、目の前のグラウンドに目を向ける。緑が、目に眩しい。考えてみれば、バスケ以外のスポーツをわざわざ現地に赴いて見に来たのは初めてだ、と気づいた。

 結局、試合を見に行くことにはなったけど。会場は普通の高校ではなく、準決勝ということで大きなグラウンドを借り切ってやるらしい。……そうなると、どうにも一人で見に行くのは気まずい。噂では、サッカー部の部員の彼女なんかは、彼氏にわざわざユニフォーム借りて応援来るらしいし。彼女でも何でもない私が、部活後に制服で一人行けば浮くだろう。そう思い、クラスの友達に頼みこんだ。私が山元先輩を好きだったのを知っているその友達は、不思議そうな顔をしていたけれど。田口先輩の絡みを思い出し、すぐにニヤニヤ笑った。
「咲もとうとう、第二の恋に踏み出すかぁ〜」
「やめてよ。そういう訳じゃないから」
「そう言っても、嫌いな訳じゃないでしょ?」
「……」
 ――
そりゃ、そうだけど。
 嫌いな人だったら、何言われようが気にならないし、完全に無視するし。でも、好き?って聞かれたらモヤモヤする。そんなんじゃない、って言いたくなる。じゃあ何、って聞かれたら更にモヤモヤなんだけど。田口先輩のことをどう思ってるか、なんて、自分でも決着がつかないんだもの。
 黙りこむ私に、友達はやれやれ、とため息を吐いて。
「じゃあ日曜の、二時に駅前集合ね」
「……うん、ありがとう」
 
とりあえず、今は慌てて答えを出さなくていいから。そう言ってるような友達の返答に、私は素直に笑みを浮かべた。

「あ、田口先輩っ、入って来たよ!!」
「……別に、いちいち言わなくても、分かってるよ」
 
ていうか、今田口先輩に反応した目の前の女子が、ちらっとこっちを見て何か言ってる。確か、隣のクラスの子達だったと思う。体育で一緒だった気がするし。その強い視線の意味は考えるまでもなく、嫉妬で。自分もかつて瑞希先輩に向けていたそれに、私は苦笑した。
 そんな視線、私に向ける必要ないのに。あの人は多分、私をからかって面白がっているだけだ。突っつけば何倍にもなって返ってくる反応が、楽しいだけ。……分かってて相手になる私も、私だけれど。
 遠くで、チームのみんなに大声を上げて何かを指示している田口先輩を見て。この距離が、本来なら当たり前だったんだ、そう思った。

 試合開始のホイッスルが吹かれ、ボールが動く。コロコロ揺れる白黒の球は、確かに目立たないとすぐに見失いそうだ。田口先輩のポジションは、フォワード。得点を取る中心的存在で、試合中にも目立つ役所らしい。……バスケで言うところの、シューティングガードみたいなものだろうか。そんなことを考えながら、動いたボールの行方を追う。
 さすが、元・全国ベスト八の相手チーム。うちの高校から始まったボールなのに、すぐに奪ってゴールに一直線に進む。DFは今日は、調子が悪いんだろうか。それとも、相手チームのが上手いのか。するすると抜かれていく。
「……っ」
 
うわ、うわ。これ、ちょっとまずいんじゃないの?
 時計を見れば、試合始まってまだ五分。サッカーって確か、四十五分・ハーフタイム・四十五分だったはず。
 こんな時に点なんか取られたら、まずいでしょー!!
 内心絶叫しながら、前に傾く。相手チームの応援の声は、盛り上がるばかりだ。ドキドキ鳴る心臓が、口から飛び出そうになる位、緊張感高まった時。
「、!!」
 
相手校の青いユニフォームの前に躍り出た、真っ白な九番。茶色いサラサラ髪を風になびかせて、呆然とする位呆気なく、ボールは宙に飛び、センターラインより向こうに行った。応援席は、ホッとした空気に包まれる。前の方にいたサッカー部の一年部員は、大声で田口先輩を囃し立てた。
「やっぱかっけー田口先輩!!」
「顔も良くてサッカーも上手いもんなっ、マジソンケー!!」
 
頬を真っ赤にして、くしゃくしゃな笑顔。幼い少年のように憧れを紡ぐその姿に、誰もが微笑んでしまうと思う。すぐに目の前の二年に怒られて、慌てて応援に集中したけれど。
 それにしても、意外と、人望あるんだ、なんて思ってしまった。なんとなく、他人は他人、自分は自分と分けるタイプかと思っていた。でも、あんな尊敬する後輩がいるってことは、ちゃんと先輩らしい面も見せてるんだろう。
 ――山元先輩にも通じる、気がする。あの人も、唯我独尊っぽく見えながら後輩への指導はちゃんとしてるし。つまり、人は一面じゃ判断出来ない、ってことだ。
 私から見る田口先輩は、意地悪で腹黒でやたらスキンシップ過剰なむかつく先輩だけれども。後輩からは、格好良く慕われる先輩。
 そう、きっと。
 私が見落としてる田口先輩なんて、数えきれない程、存在している。
 こっちを振り返りもしない、陽に透ける茶髪に、私は目を細めた。

 ジリジリした頓着状態の試合は続き、四十分を過ぎようとしている。未だにどちらも得点していなくて、息苦しい。十一月なのにやたらと日差しが強いのも、原因の一つだと思う。応援も頑張っているけれど、徐々に間が空いている。
 ……ああ、なんかやだな。この状況。バスケだと、少なくとも前半で十点は決まるし、一分間に二回はシュートが打たれるから。サッカー特有のゆったりとした空気の流れは、どうにも居心地が悪い。そんな風に私が考える状況が、どう作用したか分からないけれど。
「ぁ!!」
 
一瞬。相手方の九番が、風のように走り抜けて。キーパーや他の選手、田口先輩の隙をもついて。
 ―バスッ
 ……
綺麗なシュートを、ネットに叩きつけた。
「、」
 膠着状態に決着はついたけれど、それは決して良いものではなく。やがて前半終了の笛がなるまで、うちの高校の応援席は、しんと静まり返っていた。

「……き、咲」
「へっ」
 
呼び掛けられて、はっと顔を上げる。呆れた顔の友達が、お茶の缶を差し出してくれた。慌ててお金を渡そうと財布を取り出すと、静かに制止される。眉を顰めながら、彼女はオレンジジュースをごくり、飲んだ。受け取る時、自分の手の平にくっきり爪痕が残っていて。今更ながら、試合に自分がどれだけ熱中していたのか、分かる。大きく息を吐きながら、缶を両手でぎゅっと握り締めた。冷たいそれは、私の体温を吸い取って表面に水滴が浮かび、やがて温くなる。だけど、手は離せなくて。また真っ白になった私の指先を見て、友達は呆れた。
「咲。あんた、選手じゃないんだしちょっと落ち着きなさい」
「わ、分かってるよっ」
「どうだか」
 
ぐ、と言葉に詰まる私を見て、彼女はもう何も言わなかった。
 そうこうしている内に、選手入場は始まる。後半開始三分前。さっきまでの緊張がよみがえって、心臓が大きく音を立てる。
 瞼の裏に、何度もリピートされる光景。得点を入れられ、『あの』田口先輩が、うなだれる姿。
 彼一人のミスじゃない。みんながみんな、あの時もうすぐ前半終了、ってことで気が抜けていた。その勢いで決まりそうになった二点目を食い止めたのは、先輩だ。だけど、退場の時。彼の背中は、確かに自己嫌悪に、満ちていた。
 
そして、今は?

 
入場してくる選手達を、ドキドキしながら見守る。最後の方に現れた彼は、静かにストレッチを始め、視線を観客席に飛ばす。ふと、目が合った気がした。そんな訳ない、こんな遠くで、私が見つかるはず、ないのに。
 ――でも、その時。確かに先輩は、口角を緩やかに吊り上げた。
 どくり、心臓が鳴る。それは、聞き覚えのあるオト。まるで、新人戦の時見た、バスケ部のみんなの微笑みと、同じ類。
 負けていても、決して折れないしなやかな心。確かに映る、奇跡の瞬間――。
 私が、こくりと息を呑んだ瞬間。彼はグラウンドへと踏み出し、静かに片腕を空へ掲げる。まるで漫画の主人公のように、凛々しく、綺麗なその姿に。会場は、わっと盛り上がった。

 
まだ終わりじゃない 後半がある、絶対勝てる

 さっきまでは実感のこもらなかった言葉が、大声で叫ばれる。
 静かな背中に、誰もが期待を寄せる。
「……すごい……」
「ね」
 
口から漏れた呟きに、友達が嬉しそうに頷く。彼女の表情からも、厳しそうな様子は窺えない。そして私の手からも、静かに力は抜けて。
 視線が追うのは、ただ一人。我ながら、馬鹿みたいに見つめてしまった。

 それから先は、圧巻としか言い様がなかった。まるでこれから、本当の試合が始まる、そう言わんばかりに。田口先輩は走り、飛んで、誰よりも動いた。泥だらけになって、落ちて、転んでもその瞳は真っ直ぐで。
 ……少しばかり、ボールが羨ましくなったのは、否めない。私はからかわれてばかりだけど、ボールは田口先輩に常に追われているから。そんなくだらない考えは、頭を軽く振れば何処かに行ってしまったけれど。
 そして、後半二十三分。とうとう、その瞬間が来た。
「いっけー!!」
 
観客の応援の声を一身に受けながら走る、三年生のキャプテン。大柄な彼は、折角ボールをゴールの目の前に運べたのに、三・四人にマークに付かれて動けない。それでもキャプテンは、わずかな間を付いてゴール向かってボールを蹴り上げた。けれどそれは、ギリギリ高過ぎて、ネットには引っ掛からない。
 観客誰もが、がっかりした。ああ、得点のチャンスが、と。
 けれど、その瞬間。
 白い風が、横切る。
「……っ」
 
身軽なその人は、マークをも欺いて、ボールへ先回りし。空中で、そのボールを頭で受け止めて。勢い良く頭突きをかまし、グラウンドに降り立つ。
 ボールは、キーパーの手を擦り抜け、ネットにぶつかり、ころころと転がった。一瞬、間が空いて。

 わぁぁぁぁぁ……っ
 
――大歓声が、会場中に響いて。

 田口先輩は、キャプテンと大きくハイタッチをしていた。そしてすぐにまた、走り出す。
 悔しい位に、格好良かった。


 その後は、田口先輩のシュートで気合いを入れたのか、相手方の守りが厳しくなり。果敢にゴールを目指すも、辿り着けることはない。時間はとうとう四十分を過ぎ、このままロスタイムに入るのか、と思われた時。
 田口先輩が、単身ゴール前に切り込んでいく。白い風は一瞬で目の前から掻き消え、スイスイと抜けていく。今までの走りは、何だったのか、そう思う位。いや、今までも本気だったんだとは思う。ただ、周りの動きが徐々に遅くなっていただけで。田口先輩一人、未だに疾風のごとく走っているだけで。
 ドキドキして、うるさい心臓をぎゅっと押さえる。
 これは、何だろう。例えようもない、湧き立つ気持ち。
 ……私、すごく、ワクワクしてる。目が痛くなる位、瞬きもせずその動きを見据える。
 ハーフラインを越え、もうすぐ、ゴール近くのラインに辿り着く。
 けど、その瞬間。
「!!」
 
相手方の九番の振り上げた、足が。田口先輩のふくらはぎに、ぶつかり。――激しい転倒。
 慌てて駆け寄る審判を見つめながら、私は叫びだしそうになった口元を押さえる。受け身は取ったんだろうけれど、頭や肩は打ったと思う。そもそも、ボールを蹴るための力が、足に向かったのだ。最悪、骨にいってる可能性もある。さっきとは、違う意味で高鳴ってる心臓。隣の友達も、恐々として話しかけてくる。
「ちょ、咲。……あれ、まずいんじゃ……」
「……うん」
 
この局面で、田口先輩が抜ければどうなるか。今まで試合を見てたから分かる。彼が、どんなにこのチームに大事な存在か。……いなくなったら、どうなるか分からない程。
 観客が息を呑んでいる、中。しばらく蹲っていた田口先輩が、ゆっくりと立ち上がり、ラインに近寄る。チームの人も徐々にゴール前に近付いてきて、私としては、何だ?という感じ。
 でも、前の方のサッカー部員はざわめいた。
「おい、まさか……」
「やっべ!!俺泣きそう」
 
その顔からは、どうも悲しそうな感じは窺えない。どちらかと言えば、嬉しそう、と言った風情で。何なのか全く分からない私と、友達。
 でも、黙ってボールを目の前に置き、ライン上に立つ田口先輩を見て、友達は手を叩いた。
「あ。これ、PKじゃない?」
「PK?」
「ペナルティキック。ファウルされた時とかに、貰えるんじゃないっけ」
 
言われてみれば、一・二回、テレビで見たサッカーの試合でもこんなのあった気がする。バスケで言うところの、フリースロー、かな?納得しながら頷いて、固まった。
 え、じゃあこれって。
「め、めちゃくちゃチャンスってこと?」
「じゃない?サッカー部の子も喜んでるし」
 
慌ててグラウンドを見ると、真っ直ぐな瞳でゴールを見据える田口先輩。対峙するキーパーも、緊張した様子で何度もグローブをはめ直していた。
 無言のまま見つめあう、両者。そしてそれを見守る、チームのみんな。うちの学校側の応援団は、全力で田口先輩を応援している。
 PKって言うのは、基本的に入る確率が高いらしい。これで入れば、勝つ可能性がぐんと高まる。それが分かっているから、みんなの興奮や期待は急上昇。
 それは。私の中でも、同様で。ぎゅっとスカートの裾を握り締め、歯を食い縛る。
 そして、田口先輩が後ろに一歩下がった瞬間。

「っいけーっ!!」

 
零れそうな不安とか、涙とか、その他もろもろ。抱え込みたくなくて、全力で、叫んだ。
 
それでもそれは所詮、観客に掻き消されてしまうものだった。
 
――田口先輩が、見事決めたシュートによって、大興奮した観客達があげた歓声に。
 私の声は、完全に掻き消されてしまった。

 
なのに。
「、」
 不意に、また、目が合う。違う、合うって思ってるのはこっちだけ。百何人といるだろう観客から、私を見つけられるなんて、ありえなくて。だから、やたらと大きい心臓の音も、全部全部、気にするべきじゃないのに。
「……」
 
田口先輩は、――満開の笑顔で、笑う。子供みたいに無邪気に、大口開けて、顔くしゃくしゃにして。そのまま、チームの人に頭撫でられて首に腕回されて、すぐに見えなくなってしまったけれど。
「やっば、今の田口先輩やばくない!?」
「ちょー可愛かったよね!!写メりたかったー!!」
 
目の前の女子二人組が、頬を紅潮させて話している。可愛い、だの、頭撫でたい、だの、ずっと見てたい、だの。そんな言葉を繰り返す彼女達を、私は無言で見据える。
 だって。
「咲、顔真っ赤」
「……うるさい」
 
同じような感情を、自分も確かに持ってしまって。
 いつもの腹黒な笑みでもない、大人びてもない、全く初めての表情。最近増えてきた田口先輩の表情の中で、一番親しみやすい。それでもって、一番破壊力。
 一度見ただけなのに、何度もリプレイされて、消えてくれない、そんな位。
 頭一杯で広がる、その笑顔を反芻する内。さっきまで夢中になってた試合は、見事二対一という勝利で、幕を閉じていた。

* * *

「で?どうだった、俺の活躍見て」
「……詐欺だと思いました」
 
にやけるその顔を殴りたくなりながら、答える。
 翌日、月曜日。律儀に校門で待っていた先輩に捕まりすぐに、昨日の試合の感想を聞かれる。そんな彼から、昨日の必死な顔や真剣な瞳の面影はなく。私も動揺せずに、淡々と言葉を返せた。田口先輩は肩を竦め、眉を下げて笑う。
「詐欺って思う位、良かったって解釈していい?」
「そうですね。普段よりは、格好良かったですよ」
「咲ちゃんも返しが上手くなってきたな」
 
むきになればなるほど、からかわれるだけだ。分かっていたから、目を合わさずに本音を返す。苦笑混じりなその返しに、勝った、と思った。嬉しくて、口元で笑いながら顔を上げると。
「、」
 
思ってたより、ずっと至近距離に綺麗な顔があって。頬をくすぐる前髪の感触に、固まった。街灯に照らされ、意地悪に光るその瞳。気まぐれな指先は、静かに私の頬を撫で、……すぐに離れた。
「〜〜っ」
 
ふっと鼻で笑われ、元の位置に戻る。からかわれてる、なのに、顔が熱い。耳まで真っ赤になった私を見て、田口先輩は嬉しそうに微笑んだ。
「そっちのが、らしいけどね」
「っせ、せくはら!!」
「咲ちゃんにしかしないよ、こんなこと」
「!!」
 
悪態を吐けば、またすらすらとそんな台詞。
 この、タラシめ!!
 冷え込んだ両手で、頬を包む。耳に、心臓が埋め込まれたみたい。どくどくどくどく、大きな音が爆ぜる。そんな私に、田口先輩はくつくつ笑って目を細めた。
「ごめん。俺、今大分調子乗ってるかも」
「……何で、いきなり」
「仕方ないじゃん」
 
元々じゃないんですか?
 問いかけたくなるのをぐっと堪え、答えを待つ。すると、田口先輩の大きな手は、私の片手をぐっと掴み。
「咲ちゃん、あんな必死な顔で俺のこと応援してくれるからさ」
 
至近距離で、笑う。その笑顔。嘘も何もなく、透けて見えるのは、『嬉しい』って感情で。言葉の意味を理解した瞬間、頭が熱くなった。
「、な、な、な、」
「PKの時、叫んでくれたよね?ちゃんと聞こえた」
「っ、」
 
まさか、まさか。本当に見えてたなんて。
 じゃあ何だ。ハーフタイムのも、全部全部、知っててやったってこと?
 何で。

「――咲ちゃんなら、分かるよ。どこにいても、何してても。すぐに、見つける」

 真っ直ぐな瞳で、優しく落とされる、甘い囁き。それに、深く深く、身を落としてしまいたくなって。
 それでも。

「い、いい、ですから。……そーいうの」

 俯いて、その手を振り払う。そして、黙って歩き出した。私の後ろを着いて来る田口先輩に、無性に苛立つ。いつもは、すぐに隣に並ぶ癖に、べらべら話を振る癖に。今日に限って、後ろを歩く、その意味を。どうしても、深読みしてしまう。
「……」
 
どんなに、優しくされても。
 どんなに、甘い言葉を囁かれても。
 彼の言葉が、信じられない。
 いつか取り上げられてしまう幻なら、最初から、掴まない。無視すれば、気付かなければ、耳を塞げば、楽だから。
 そう。田口先輩の言葉を、信じてはいけない。あの唇から囁かれるのは、いつだって、嘘ばかりで。
「咲ちゃん」
「何ですか」
 
前を向いたまま、固い声で答える。早足で隣に並んだ田口先輩は、頑なな私を見て、ふっと困ったように笑った。
「別に、からかった訳じゃないよ?」
「うそつき」
「嘘じゃない」
「田口先輩は、私の反応を見て楽しんでるんでしょ」
「違うよ」
 
まるで駄々を捏ねる子供のよう。そんな私に、彼はそれでも優しく接する。それがまた、子供扱いで気に入らないのを、気付いていないんだろうか?気付いててやってるんなら、絶対許さないけれど。
 だけど、急に腕を引かれて。反動で、大きく身体は後ろにずれ込む。顔も自然と上を向いて。そこに待つのは、優しい微笑み。
「咲ちゃんが来てくれて、すごく嬉しかった。本当に」
 ――だまされないんだから。




大嫌い。その綺麗な顔も。
大嫌い。その軽薄な唇も。
大嫌い。その優しい笑顔も。
大嫌い。その甘い言葉も。
中途半端な優しさも、同情で後輩の気を引く作戦も、どこかで、……期待している自分も。

全部全部、大っ嫌い。


  

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