Deceitful
Lips(6)
そんな訳で、話そうとは思ったのだけれど。
テスト期間中はそれどころじゃなかったし、その後もばたばたしたり。結局、決意が固まったのは終業式当日になってしまった。
「あー……あ、あ、あ、」
十二月らしく、寒々しい朝。二年生の教室がある二階の階段踊り場で、一人発声練習。そんな私を、通り過ぎる上級生が変な目で見ていた。今日はサッカー部は朝練あり。八時には終わってるはずだから、と情報を仕入れ。朝早い時間なら大丈夫だろうと、今日は私もいつもよりずっと早く来てる。
シンと冷え込む空気は冷たく、どこか清々しい。頭の芯まで、冴え渡るようだ。
「よし」
とりあえず、深呼吸をしたら少しだけ落ち着いたみたい。心臓のバクバクが収まる訳じゃないけれど、さっきよりはマシだ。
一瞬、ちらりと階段を見つめる。そしてすぐ目を逸らし、頭を大きく振った。いけない、いけない。ここでまた、逃げたりなんかしない。これ以上、こんなの耐えられない。
――あの人の笑顔が見れない日常なんて、もうたくさんだ――
そこまで考えて、ふっと笑ってしまった。
知り合って、ほんの三カ月しか経たない。
意地悪な人。よく分からない人。でも、優しい人。
そんな人が。胸の真ん中に、いる。当たり前みたいに、存在してる。
嘘みたいなその事実は、確かに現実で。だからこそ、大事にしたい、そう思った。
しっかり背筋を伸ばして、一歩一歩肝心の教室に近付く。腕時計を確認すれば、現在時刻八時七分。余程のことがなければ、もう教室にいるはず。そう思えば、逸る心臓と逆に、足はやたら遅くなった。何て言われるか分からない。門前払い喰らう可能性だってある。でも、ここまで来て逃げ帰るなんて出来ないし。ぐっと唇を噛み締めて、C組に近付く。そっとドアの窓から覗き込めば、教室には数人しかいなかった。
だけど、後ろの方の席に見える、茶色の髪。見ているだけでドキドキして、たまらなくなる。吸い寄せられるように、立ち位置を変えると――。
「っ、」
さっきまでと、違う意味で。心臓が、ドキドキした。
田口先輩は、確かにいた。
いつもと同じく、笑顔を浮かべて。
けれど、その前にいるのは。
「……瑞希、先輩……」
ずくり、胸が騒ぐ。
話しこむ二人の距離は、クラスメイトとしてはきっと普通で。気にする方がおかしい。
それでも。
「……」
――苦しい。
田口先輩も、瑞希先輩を、選んだのかな。改めて言葉にすると、息も出来ないくらい。
やっぱり、間に合わなかったの?そもそも、もしかしたら最初から、瑞希先輩のこと。
纏まらない思考。震える手足。
そこで、ふと。田口先輩と目があった。
「っ!!」
慌てて目を逸らし、駆けだす。
逃げなきゃ。早く、早く。
焦る気持ちを抑えながら、ひたすら風を切り、走る。朝の廊下にあるのは、静かな動きのない冷気で。掻き回すのは、私。
そして。
「咲ちゃんっ」
「、」
後ろから聞こえる声に、ちらりと振り返る。そこには、必死な顔をする田口先輩がいて。
どうして。何で、そんな余裕のない顔、するの。私のことどうでもいいなら、笑ってよ。いつも通り、余裕な顔してからかって。一生懸命走って、こんな風に追いかけられて。
そんなこと、されたら。
「つか、まえた……っ」
「……っ」
屋上に行く階段の踊り場で、とうとう手首を捉えられた。最初から、サッカー部のエースとじゃ勝負にならないとは思っていたけれど。Yシャツが、少し濡れている。ぴたりと身体に張り付くそれは、きっとその内、冷えて寒くなる。でも今は。身体の奥底が、ひどく熱くて、荒くなる息を必死で沈めた。それでも、膝はがくがくしてしまい。手首を掴まれたまま、床に崩れ落ちる。「スカート汚れるよ?」なんて、苦笑しながら言われる。
腹の立つ人。あんなに走ったのに、息も全然荒くなってない。
悔しい。
悔しい。
悔しくて、苦しくて、そんな人。
「きらい……っ」
「……」
「きらい、きらい、きらいっ!!田口先輩なんて大きらい……!!」
俯きながら、掠れた声で叫ぶ。子供みたい。単なる八つ当たりなのに、こんなの。
そもそも、今日田口先輩に会いに来たのは、話をするためだったのに。勝手に逃げて、こんなことわめいて。我ながら馬鹿だと思う。ひどく呆れる。なのに、言葉は止められない。そんな私を、しばらく先輩は黙って見ていた。
「きらいきらいきら、」
「だったら、」
「っ」
けれど急に、ぐっと手首を強く握られる。はっとして、口を閉じた。
――怒らせた?ふるり、と身体を震わせる。でも田口先輩は、ふっと吐息を零して。
「何で、そんな嫌いな相手に会いに来たの?」
ゆっくりしゃがみこみ、私の顔を覗き込んだ。見られたくなくて首を振るけれど、顎を掴まれ、顔を上げさせられる。目が合うと、小さく苦笑された。
「ひどい顔だな」
「うる、さい……っ」
ぼろぼろ、いつからか分からないけれど零れていた涙。瞼が腫れて、鼻も真っ赤になって、言われなくても分かってる。多分、めちゃくちゃ不細工。先輩は、私の言葉に笑うと、目元を拭ってくれた。
そして。
「……でも、可愛い」
――ぎゅっと、強く抱き締められる。
押しつけられる先輩の制服。学ランの生地はごわごわしてて、腫れた瞼には痛くて。でも、ごしごし擦りつけてやった。こら、なんて笑いながら離す様子はない。むしろ、髪の毛を梳かれて。そのあまりに優しい感触に、甘えてしまう。
先輩の匂い。こんなに近付いたこと、なかったけれど。当たり前みたいに、心地良かった。
―キーンコーン……カーンコーン……
ふと気づいたらチャイムが鳴っていて。腕時計を見れば、もうすぐHRが始まる時間だ。慌てて、その腕から離れようとするけれど。
「……田口先輩、離してください」
「ん?駄目」
駄目って何それ!!
先輩の胸に手を置いて離れようとするけれど、そんなものでは動いてくれなくて。逆に、苦しいくらいぎゅうぎゅうに締まる腕。
「先輩、HR始まっちゃう、」
「いいよ、そんなの。咲ちゃんといる方が大事」
「っ」
不意打ちのように、耳元で囁かれる甘い言葉。
今までは、冗談だと流すことが出来たのに。これからは、もう無理だろう。
抱き締められてるから、田口先輩にもすぐ気付かれる。少し笑い混じりの声で、先輩は話した。
「咲ちゃん、身体熱いね」
「……誰のせいですか」
「俺のせい、なら嬉しいけど」
本当にそう思ってるかも、分からない。でも、もういいや。そんな風に思ってる自分がいた。確証なんていらない。今まで、こっちの気持ち無視されて振り回されてきたんだ。今度は、そっちの気持ちを無視してやる。
「田口、先輩」
「ん?」
「……すみません、でした」
「何が?」
「一杯」
まず最初は、謝罪から。分かってるのに聞くなんてずるい手、食わないからね。私の曖昧な回答に、先輩は笑う。
「あと、ありがとうございます」
「何が」
「それも、一杯」
お次は、お礼。これにもとぼけた返事を返す彼に、若干膨れる。そんな顔見せたら喜ばれるだけだ。分かっていたから、その胸元に顔を押し付けて、そのまま。
「あとは」
一番、大事な言葉を。
「―― 一緒に、いたい、です」
その大きな背中に、腕を回す。ぼそぼそと、前の二つよりずっと小さい声になってしまった。
熱い。やばい。
耳が赤くなってるのが分かって、隠したいけど流石に無理だ。仕方ないから、じっと我慢した。
でも、ずっと待っても田口先輩の返事は聞こえない。
遅すぎない?まさか、聞こえなかったとか?不審に思って、恐る恐る、顔を上げると。
「っ」
思わず、言葉を失う。
だって。
「……咲ちゃん、可愛すぎ」
わずかに目を逸らした、田口先輩。その頬は、赤く染まっていて。見ているこっちまで、恥ずかしくなる。
「な、何で赤くなるんですかっ」
「だから、咲ちゃんが可愛いから」
「や、やめてくださいよ!!恥ずかしい!!」
反論すれば、飾らない言葉。慌てて、その真っ直ぐな視線から逃げる。私の様子を窺うような瞳に、心臓が痛くて。唇を噛み締めて、目をぎゅうっと瞑れば。
「、」
はっとしたように、田口先輩が息を呑む音が聞こえた。そして触れる、ごつごつした指。目を閉じたままだから、やたらと意識してしまう。びくり、と肩が跳ねた。すると、腰を引き寄せられ――。
「!?」
一瞬、唇に触れる温もり。目を開けば、至近距離に、薄い色素の髪。
今、何、……え?
混乱する私の唇に、もう一度何かが触れて。挙句の果てには下唇が吸われて、ちゅ、と音がした。
……え?
「っいやぁぁぁぁぁ!?」
「うわ、」
叫びながら、両手両足をじたばたさせて、田口先輩の腕から逃げる。びっくりしたのか何なのか、すぐに手は離れて。座り込んだまま、壁際まで逃げた。……いや、正確には腰が抜けて立てなかったんだけど。
「い、今、今っ!!」
「え、キスだけど」
「!!」
叫ぶ私に対して、どこまでも落ち着いた田口先輩の返事。余りに平然とした態度に、思わず。
「ぅ、うえっ、」
「え、泣くの!?」
「は、初めてだった、のにっ」
枯れたと思った涙が、ぼろぼろ目から出てくる。顔をくしゃくしゃにして泣く私に、流石に田口先輩は顔色を変えた。そろそろとこっちに寄ってきて、私の泣き顔を困ったように見つめた。
「な、何でいきなりっ、」
「いや、その、可愛かったし。目瞑ったから、いいのかな、と思って」
「よ、良くないっ!!良くない、ですっ」
何それ!!答えになってないし!!
何で、こんなことになるの。私だって女子だから、ファーストキスの夢だって、あったのに。少なくとも、こんな埃っぽい階段で、なんて嫌ですよ!!私の訴えを聞いて、田口先輩は困ったように頬を掻いていた。
でも、しばらくして。
「咲ちゃん、」と小さく呼ばれる。
泣きながら、睨むようにその顔を見る。苦笑された。誰のせいよっ!!
「とりあえず。嫌じゃ、なかった?」
「……だから、嫌でした」
「そうじゃなくて」
唐突な質問に憮然として言葉を返せば、否定される。訳が分からなくて首を傾げれば、静かに咳払いをして。
「俺が相手で、嫌じゃなかった?」
――笑ってるのに。その顔は、少しだけ、不安そうで。
何だか、優越感。この人のこんな顔を見れるのは、きっと、私だけだ。漠然と、そう思ったから。
「……た、」
「ん?」
「……嫌じゃ、ありませんでした」
私の言葉を聞くと、緩やかにその表情は変わった。とても嬉しそうなものに。その顔を見てると、私も何だか、さっきまでのこと、どうでも良くなってきて。
再び近付いて来るその顔に、今度は素直に目を閉じた。
触れる瞬間。
確かに聞こえた、「好きだよ」という言葉に。
思わずまた、泣いてしまったけれど。 |