あなたに一つ、魔法をかけよう。

大したことは出来ないけれど、俺に出来る精一杯の呪文で。


The wizard And Glafs flippers(1)


『本当に、嫌いなものなら。見るのも嫌になる、聞くのも嫌になる。当たり前になるほど長い間側にあったものはきっとたまらなく、……好きなんじゃないですか?』
 あの日。俺の背中を押したその言葉を、俺は忘れない。魔法みたいに、俺を揺り起こした言葉達。
 夕焼けの中、輝く微笑みも、甘やかな声音も、泣きたくなるくらい、胸が震える瞬間も。全部全部、大事にする。閉じ込めるように思い返して、進まない勉強を頑張った。
 そして三月。藤ヶ丘高校に合格した時、覚悟を決めた。バスケ部に入って、兄貴に比べられようが何だろうが、頑張ろう、って。兄貴はもういないけれど、先輩たちはいるし、あの日兄貴が称賛した先輩も、去年一年生だったからいるはず。だけど、そんなことでいちいちへこたれてどうする。
 ――もう一度、会おう。
 あの時会った少女――先輩、になるのか。正直に言えば、一度しか会ったことがない彼女の顔をはっきり思い出せるかと聞かれれば否定せざるを得ない。けれどきっと、分かる。会ってその瞳を見つめれば、彼女だと気付けるはずだ。その時を初めての出会いとして、知り合いになりたい。……あんな情けない姿、自分だなんて暴露したくないし。ともかく、再会した時に少しでも胸を張れる男になりたいのだ。どこの学校か分からない、不審者扱いされるかもしれない、それでもいい。俺の『きっかけ』を作ってくれた彼女を、諦める理由にはならない。目下の方針も固め、入学式、俺のスタートはいいものだったんだと思う。

「青竹っ」
「ん?」
 入学式から、三日。
 体育棟の二階の窓から、バスケ部の活動を眺めた。みんな必死にやってるし、声もよく出てる。部長の人柄なのか、元々の校風か知らないけれど、いい雰囲気だ。だから兄貴も、この学校にしたのかな。ガラスを軽く引っかきながら、そんなことを思う。するとクラスメイトに、肩を叩かれて振り返った。
「どうする?今日、もう入部申し込み出すか?」
「んー、そうだなぁ」
 目を輝かせ、体育館と俺を交互に見るこいつは、中学の時のチームメイトで、根っからのバスケ馬鹿。早く動きたい!!と語るその瞳に、苦笑で応じる。実際、すでに春休みにも何度か行っていたらしいし。だけど俺は、今日はまだ見学だけのつもりだったから、入部届けはHRでもらって、机の中に突っ込んでしまった。ので、今手元にない。そう言えば、明らかにがっかりされた。
「ええぇぇ」
「ごめん、って」
「でも今日逃すと月曜になるじゃんー」
「どうせまだ本入部にはあるだろ?ゆっくりでいいじゃん」
 ――どこかで、未だに踏み出せない部分がある。それは兄貴と比べられたくない、比べられて負けたくない、俺のちっぽけなプライドが原因かもしれない。まぁ、三歳違いで同じ体力や技術を持っている訳がないんだけど。それでも、ついつい春休み中あまり遊ばずにトレーニングを続けた自分には苦笑、だ。そこまでしても、最初の一歩が厳しい。
 しっかりしろ、自分。彼女に会った時、ちゃんと胸張れる自分に、って決めただろ。……とは言え、本入部開始は来週の水曜日、まだ五日あると思うとついつい自分を甘やかしてしまう。
 不満を呟きながら歩き出した友人に、頭を下げた。だけどくるりと振り返り、俺に向き直る。
「とりあえず、青竹、入るんだよな?」
「ん、ああ。多分」
「多分て何だよー!!」
 微妙に正直な本音をかませば、怒ったみたいで詰め寄られる。やめろ気持ち悪い、とその顔を押し退け、もう一度窓の中を覗き込む。
 コートを駆け回る、大きな影。遠目からでも、その造形が整っていることが分かる。
 ――山元先輩。
 体育館での入学式の後、練習が入っている部活はまず椅子を片付けなくちゃいけない。入口を出ると、勧誘も兼ねてバスケ部やバトミントン部がずらりと並んでいた。
 そんな中、頭一つ分飛びぬけていた高身長、尚且つ人目を引く綺麗な顔の人がいた。それがあの人。俺の前の女子二人組も、頬を染めて彼を指差していた。バスケも出来て高身長で顔も良い、しかもクラスの女子が持ち込んだ情報では頭も良いんだとか。……何となく嫉妬心を覚えてしまうのは、男として当たり前だと思う。
 努力すれば大抵のことは何でも出来ると言うし、俺もそう思う。だけど例えば身長だとか容姿だったり、要領の良さというものは生まれた時から持ってるものだろう。山元先輩という人は、それらを持って存分に活かしている人だ、と思う。それは俺に、どこか兄貴を彷彿とさせる。だから苦手なのかもしれない。勝手な敵対心を持っているのかもしれない。
 幼い自分に苦笑しながら、淡々と繰り返される練習を見つめる。
 しばらくすると、ガラス越しにも響く大きなホイッスルの音。部員は身体の力を抜き、コートの外に出て行く。どうやら、休憩らしい。ついつい目で追ってしまう件の山元先輩は、壁際にあったタオルで汗を拭き、ドリンクを飲んでいた。
 と、そこに一人の女子が近付く。身長差がすごいのは、山元先輩が大きいのか女子が小さいのか判断が難しいが、多分両方だろう。先輩は何を言われたのか、二言三言交わすと女子の二つ結びの髪の片方をぐ、っと横に大きく引っ張った。慌てて体勢を立て直し、山元先輩に何かを叫び、肩を怒らせて背を向ける。そんな女子に先輩は腹を抱えて笑っていた。
 ……マネージャー、だよな?
 女バスの部員では、ないと思う。そもそも今日、女バスは休みだし。様子を見る限り、同学年のマネージャーなんだろう。先輩に対する態度ではないし、一年にするには気安すぎる。
 ふと、その女子に視線を移す。何てことない、普通に部の灰色のスウェット姿だ。サイズが大きいのか、少しだぼついた感じはあるけれど、別に変わったところもない。なのに。どうしてか、目が離せなかった。
 小さな身体、白い首筋、二つに束ねられた長い黒髪。吸いこまれるように視線が、吸い寄せられる。どうして――。
「青竹、入部まだならもう今日帰ろうぜっ」
「え、あ、ああ」
 ぐい、と俺の視線に気づかず友人が腕を引っ張る。頷くと満足げに笑って、数歩先まで駆けだした。子犬みたいな様子に苦笑し、俺も走る。
 きっと、何でもない。ただなんとなく、目に止まっただけだろう。そうに違いない。まるで自分に言い聞かせるように、口で呟き足を速めた。

「あーあ」
 日曜日。朝起きて、予定もないので家でゴロゴロしていて、ふと数学の宿題が出されているのを思い出した。バッグを漁ってみるけれど、どこにも、ない。学校に忘れただろうことに気付き、がっくりした。
 昼後だったら写したりも出来たけど、数学は一時間目。
 しばらく俯いていたけれど、ため息を吐いて立ち上がった。幸い、遠く離れた学校でもない。だったら遅くなる前に、さっさと行って取ってきてしまおう。七分のシャツの上にジャケットを羽織り、階段を下りる。玄関で靴を履いていると、後ろからリビングの扉が開く音がした。
「あれ?悠、出掛けるの?」
「あー、学校に忘れ物したから取りに行って来る」
「あらら。多分雨降るから、自転車じゃない方がいいわよ」
 振り返れば、のん気な声を出す母さんの姿。
 間違いなく俺ら兄弟は母さん似だと思う。茶色いふわふわの猫っ毛に、小柄な身体。何と言うか、同じ家に三人も同じような顔がいるってのも変な感じだ。
 スニーカーの紐を結び、踵をならして、家を出る。広がるのは青空だ。とても雨が降るようには見えない。でも、母さんの天気予報は俺が物心ついた頃から、一度として外れたことがない。シューズボックスから折り畳み傘を取り出し、バッグに放り込むと後ろから笑い混じりの「いってらしゃい」が届いた。何だか気恥かしくて、後ろを向かず手を振って、走り出した。

 それでも、母さんの忠告は素直に聞いておいて良かったんだと思う。無事忘れ物を取って帰ろうとした時、校舎を出たら空が曇り出していた。走ればまだ行けるか、そう思い教科書とプリントをバッグの奥に突っ込んで外へ飛び出た。
 ――しかし、考えが甘かったらしい。走り出してすぐに、雨がぽつりぽつりと降り、気付けば土砂降りになっていた。
「っちくしょ!!」
 傘は持っているが、立ち止まって出している時間が勿体ない。辺りを見回しながら歩を進めると、丁度雨宿りに良さそうな軒先を見つけ、急いで駆けだした。軒先ではすでに一人、雨宿りしていた。
駆けこんで隣を窺えば、女の子。しかも、うちの高校の制服だ。雨雲で一気に暗くなった世界に、二人きりとはなんとも居心地が悪い、と思う。
 ため息を吐いて、ジャケットの前を掻き合わせた。寒いな。春先の雨は、凍えるようだ。それは隣にいた女の子も、同じくだったらしい。小さなくしゃみが耳に飛び込み、横目で見ていると、肩や腕を摩っていた。その様子に、純粋に可哀想だな、と思う。俺の家はそんなに離れていないし、すでにもうどうしようもない位全身濡れてしまっている。バッグは防水加工だし、随分躊躇ったけれど。
「あの。傘、無いんですか?」
 声をかけて、おどおどとした彼女の手に傘を押し付ける。当然遠慮されるが、俺は腐っても男だ。女の子には無茶させたくないし、風邪を引かせるのもどうかと思う。割と頑固なんだろう少女が、顔を上げた瞬間。消えかけていた外灯が、俺と彼女を照らした。
 白い肌、大きな瞳、幼い顔立ち。確かにどこかで見たことのある、その姿。会ったことがないか、と尋ねるために口を開いた時。

「……せん、ぱ、い……?」

 震える唇から届くのは、小さな声。小さな少女は、今、本当に幼子に戻ったかのように、頼りなく揺れていた。
 ずくり、心臓が、斬られたように痛む。そんな自分を覆い隠して、にっこり笑ってその手に傘を押し付け、走った。後ろから追いかける叫び声を、無視して。

「あら、遅かったわね。お帰りなさい……ってずぶ濡れじゃない!!」
「……あ、うん、ごめん。タオルちょうだい」
 電車に乗り、最寄りの駅に辿り着き、その後は走る気力もなくてのろのろ歩いた。傘はないから、全身ひどく濡れている。
 玄関のドアを閉める音に、リビングから顔を出した母さんは、俺を見て顔色を変えた。ぶつくさ呟きながら、風呂場にタオルを取りに走る。その背中を眺めながら、シャツの水気を絞る。
 頭がひどく、痛かった。
「……」
 ――彼女は俺を見て、『先輩』と口にした。
 俺は新入生で、まだ後輩なんていなくて、それでもってあの子はうちの高校の生徒で。考えるまでもない。
 彼女が見ていたのは、俺じゃない。――兄貴だ。
「……っ」
 今更、そんなこと気にしないって決めたのに。何故か、彼女の勘違いだけ、俺の胸をやけに痛くする。
 ぐしゃぐしゃと濡れた頭をかき混ぜると、雫が後から後から零れた。多分、間違いないと思う。少女はきっと、バスケ部のマネージャー。体格的にも、髪型的にも、間違いないと思う。二年生だろうから、兄貴と付き合いがあるのも不思議じゃない。
 けれど、……違う。
 あの時の彼女は、確かに怯えていた。何か知らない恐怖に震えるような、ひどく頼りない視線。同時に、喜びと、柔らかさと、切なさと、色んなものが含まれていた。複雑な色は、きっと、シンプルな感情の表れだった。初めて会った俺が、一瞬で分かってしまうくらい。
 多分、あの子は兄貴のことが――。
「なんで……っ」
 しゃがみ込んで、頭を抱えた。ショックを、受けてしまう。
 見知らぬ少女なのに、どうでもいいはずなのに、どうしてか、ひどく痛い。彼女に間違えられたことが辛くて、悲しくて、腹が立ってきたりもして。一瞬のことだ、間違うのも無理はない、そう言い聞かせるのに。
 見当違いの憎しみが、彼女へ向かう。胸の中とぐろを巻く思いは、どうやっても消えずに燻ぶった。



  

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