The wizard And Glafs flippers(2)


 日が明け、月曜日。
 前日の雨の威力は予想以上に効いたらしい。当たり前のごとく八度を超える熱を出し、母さんにこっぴどく叱られた。傘を持って行ったでしょう、と尋ねられ、失くしたと言うとますます怒鳴られる。
 何となく、言えなかった。あの日の出会いを、無かったものにしたいから、なのかもしれない。
 昼前に帰って来た兄貴は、俺が好きなコンビニのミルクプリンを買いこんで来ていた。……何と言うか、どこまでも世話焼きな人だと思う。痛む喉に有り難く頂戴し、また寝る。
 火曜日には熱も下がったけれど、高熱の影響か関節が痛かったので大事を取って休んだ。その頃には、混乱していた脳も徐々に収まっていた。
 あの子は、兄貴が好きなんだ。そして、俺と間違えた。単純な事実は、やたら胸に響く。
 彼女がバスケ部のマネージャーであることは間違いない、と思う。そして明日から本入部が開始。 もし俺が、あそこに現れたら、彼女はどうするんだろうか?怯えるか、震えるか。そしてまた、――あの瞳で、見つめるのか。想像して、背筋が震えた。彼女の恋する瞳に見つめられることに対する喜び、けれどそれは兄貴に向けられるものだということに対する、絶望。
 分からないのは、自分の中にある、彼女に対する執着。どうして、あの少女を考えることに痛みを覚えるのに、何度も思ってしまうのか。
「……馬鹿なこと、考えるなよ」
 頭を振り、ベッドに横になった。これ以上、悩んでも仕方ない。明日、とりあえず顔を出そう。その時の彼女の反応を今想像しても仕方ないし。ため息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。

 翌日。結局俺は、部活に行くことは出来なかった。休んでいた間に溜まった課題などを、朝担任がたっぷり渡してくれたのだ。軽い足取りで出て行く友人の背を見守り、放課後の教室で一人、たくさんのプリントをこなし。終わった頃には陽も落ちていて、もちろんバスケ部も終わっていた。
 翌木曜日。今日こそ部活に行こう、と闘志を燃やす俺。そんな俺のバッグに入っているバッシュを見ると、友人は嬉しそうに絡んできた。聞いてもいないのに、どの先輩がどうすごいか、切々と語って来る。そして、その中には当然。
「やべーよ恍先輩!!地区違うから知らなかったけど、いちいち動きが綺麗なんだよなー!!」
「……そうかよ」
「見てると痺れて来るんだよな!!青竹も見たらくぅ〜!!ってなるぜっ」
 無謀にも山元先輩のシュートフォームを真似し、にやにや笑う。……分かったから、そのテンションの高さをどうにか出来ないのかよ。しかしバスケ馬鹿はその後も嬉々として、先輩のプレイのすごさを伝え続ける。ため息を吐き、窓の外に視線を流す。流れる雲に目を細めながら、友人の話を聞き流した。
「三年のマネの先輩がさ、恍先輩の従姉妹なんだって。だからか、めっちゃ美人なんだよ」
「へぇ」
 結婚でもしたら恍先輩と親戚になるなんて、考えるだけで怖いけどなーとけらけら笑う。安心しろ、そんな美人とお前が付き合える訳がない。
 けれど、俺がそれを口にするまえに。
「柳先輩は、恍先輩と付き合ってるっぽいしなぁ」
 ―― 一瞬、思考が停止した。
「……は、?」
「あ、二年のマネの先輩が柳先輩って言うんだけど。気さくだし、良い人だよ。ちっさくて可愛い感じ。でも、昨日恍先輩と二人きりで真剣に何か話してたし、多分あの二人、深い仲って奴だなっ」
 うんうん、と頷くその馬鹿面を眺めて、絶句する。付き合ってる、って、山元先輩と、その柳先輩とやらが?
 一度だけ、正面から見た彼女の顔は、あどけなく可愛らしかった。けれど、それ以上じゃない。少なくとも、山元先輩の横に並べても、違和感しか浮かばない。けれど、ふと体育館二階から見た光景を思い出して、苦しくなった。髪を引っ張る山元先輩、怒鳴る柳先輩。そんな気安い触れ合いが、許されている。
「……」
 音を立てて、席を立つ。未だに話し続けようとする友人が、俺を不思議そうに見つめた。軽く首を傾げ、笑って見せる。
「トイレ、行ってくる」
「あ、そ?そろそろ授業始まるから、早くしろよー」
「ああ」
 頷いて、足早に教室を出た。廊下で立ち話をする人々のざわめきすら気になって、目に映る全てが、苛立たしい。そんな自分に胸がざわついて、視線を窓の外に落とせば。
「っ」
 斜め下の渡り廊下には、先程考えていた、二人の姿。自販機の前、仲良く飲み物を選んでいる。山元先輩はジュースのボタンを押すと、出て来た缶を柳先輩に渡していた。笑顔で喜ぶ柳先輩、それを温かく見守る山元先輩。それはまるで、その形が当たり前であるような光景で。
 ……何だよ、それ。
 あんたは、兄貴が好きじゃなかったのかよ?手に入らないからって、他の男を、取るのか?兄貴が卒業して、まだ一月も経っていないのに?
 吐き気がする。なんて打算的な女なのかと、俺は何の関係もないのに、吐き捨てたくなる。けれど俺の存在には気がつかず、未だに笑って話す二人を見ている内に、口元が笑みの形に歪んだ。
 
 ――そっちがそんな人間ならば、構わない。
 あの雨の日、俺が感じた感情は八つ当たりの苛立ちだった。
 けれどあんたがそんな人間ならば、俺はその苛立ちを、ぶつけよう。
 手始めに、そうだな。

「……告白でも、しようかな」
 俺は確かに兄貴ではないけれど、顔だけで言えば双子とまで言われる程、よく似ている。兄貴を恋いながら、それでも誰でも良いのならば、きっと彼女は、山元先輩ではなく、俺の手を取るだろう。
 ――その時。彼女を捨ててしまおう。
 その時、あの柔らかな笑顔がどんな風に歪むのか。想像するだけで、胸が暗い喜びで賑わった。

 ……当時の俺はきっと、自分の中のコンプレックスを歪んだ形で柳先輩にぶつけようとしていた。兄貴に、山元先輩に、自分が勝てないだろうと思った人種から。柳先輩の目を一時でも奪えば、俺が勝てると思っていた。そんなことで人の心を引き裂くことすら厭わなかったなんて、何て下らない、つまらない意識なのだろう。そんなんだから、兄貴にも勝てなかったのだと。今ならそう思う。だけど当時、俺は自分の馬鹿馬鹿しい思い込みが一番正しいことだと、信じて疑わなかったのだ。
 それがどんなに、柳先輩に失礼で、そして彼女を見誤った選択か、気付きもしないで。

* * *

 とうとう、部活に正式入部した。俺の顔を見てざわめく先輩達の中、一人だけ、青ざめた顔。三年の山元美祢先輩と話しながら彼女に笑いかければ、びくりと身を竦める。この怯えは、俺に対してのものなのか、この顔に対してのものなのか。分からないけれど、まるで狙われた小動物のような反応に内心、苦笑してしまう。
 ……けれどその後すぐに、山元先輩には笑いかける。気に食わなくて、思わず睨めば、先輩は俺を、鼻で笑った。歯牙にもかけようとしないその態度に、胸の中がちりちり燃えて、熱くなる。
 今は、余裕でいればいい。あんたの大事な人を、あんたの目の前で、奪ってみせよう。自分にそう言い聞かせて、ゆっくり二人から視線を外した。
 そう。この人は、誰でもいいんだろう。兄貴を想っていたとしても、他の人と付き合えるくらいには、その想いも浅いに違いない。
 そう、思っていたのに。

「っ、あ、青竹くん、ごめん……私、」
 山元先輩に隠れながら、震える唇で、彼女は俺を拒絶する。想像とはあまりに外れた光景に、胸が熱くなり、目の前が暗くなり、足元から崩れて行く気が、する。
 兄貴の影に負け、山元先輩にも、俺は、負けてしまうのか。
 それを実感したくなくて、柳先輩の言葉を遮り、足早にその場を去る。けれど残した二人が気になって、扉越しに、その様子を窺った。情けない自分の姿に苦笑するも。
「お前さ。何で、青竹の告白受けなかったの?」
 俺の疑問を映した山元先輩の、声。俺自身気になった質問に、身を乗り出す。消えかけの外灯では二人の姿は、見えない。
「当たり前でしょ?私が好きなのは『青竹先輩』であって『青竹くん』じゃないもん」
 だからこそ、聞こえた言葉は、妙に響いて声を呑む。
 悲しいはずなのに。彼女に、兄貴と俺を別に見てもらったことを嬉しく感じてしまうのは、何故なのか。
 訳の分からない思考に、決着を付けたのは、彼女の言葉。

「一瞬、緊張したけどさ。どんなに似てても、違う人なら私は欲しくないの。替えが、利かない。青竹先輩は、私にとっての唯一だから」

 照らされた明かりの中、真っ直ぐな瞳で微笑むのは、柳先輩。
 それはぶれながら、――ゆっくりと、あの日の彼女に重なった。

「……う、そだろ」
 ぽつりと落ちる自分の声は、震えていた。けれどいくら打ち消そうとしても、一年前の初夏、俺の卑屈な気持ちを、一瞬で打ち消したあの笑顔が、瞳が、言葉が。全部全部、今ここにいる、柳先輩に重なる。
 どうして、気付かなかったんだろう。
 どうして、忘れることが出来たんだろう。
 あんなに大事な人だったのに。俺の背中を押してくれた、たった一人だったのに。自分の中にあった意味の分からない気持ちが、ちゃんと最初から、答えを示してくれていたのに。
 ……なのに、俺は。
 その気持ちを認めず、彼女を見誤り、馬鹿にした。俺が出会ったあの人が柳先輩であるなら、妥協など許さない。自分の大切なものを、間違えたりしない。なのに俺は、自分のコンプレックスや八つ当たりで、柳先輩に告白した。
「……何、やってんだ……」
 何が、再会した時に少しでも胸を張れる男になりたい、だ。
 俺がやったことは、最低最悪。悪趣味な悪戯に近い。
 『彼女』に再会出来たら、自分の気持ちを真摯に伝えようと思っていた。それなのに、実際に『彼女』に伝えられたのは、意味を持たない、下らない言葉。あの告白には、彼女が望むものも、俺が望むものも入ってはいなかった。
 静かにその場を離れ、しゃがみ込む。暗くなる空、俺の心を映しているかのように。大声をあげて泣きたい気持ちが、全身を走った。



  

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