9. 〜unexpected〜


 布団を被っている内にいつの間にか寝てしまい、起きた時には日は高い位置に昇っていた。
 今、何時だろう。十時か、十一時か。というか、チェックアウトの時間もあるはず。眼を擦りながらむくりと起き上がると、椅子に座っていた寛人は、「おはよう」と声を掛けてきた。どんな顔をしていいか分からず、とりあえず、頷いておいた。
 ……気まずい。
 寛人と一緒の空間にいて普通に眠ってしまったのもアレだし、泣いていたのも見られてしまったし。寛人は体調が悪いせいだと勘違いしてたみたいだけど、実際には違う。ただ、それも要因の一つとしてあったのかもしれない。一旦寝たら、お腹も頭も大分すっきりしていて、心も落ち着いていた。
 体調が悪い時には精神も追い詰められるものだ。さっきもパニック状態に陥ってしまい、とにかく感情が高ぶったんだと思う。アルコールも抜けて、改めて落ち着いた私の元に、寛人は歩いて来る。思わずびくりとするけれど、彼はそれを気にとめないでベッドに腰掛けると、私にラップに包まれたフレンチトーストを差し出した。
「よく寝てたから、持って帰れるように包んでもらった。食べれるようなら食べろ」
「……あり、がと」
 受け取ると、次は紙コップに入った紅茶。もう温くなっていたけれど、喉は乾いてたから一口二口、口に含んだ。水分が足りていなかったせいか、ひび割れた唇に紅茶が染みる。程良い甘さもあって、やっと一息吐けた気がした。
 寛人は、私が紅茶を飲んだのを見て、少し目元を緩ませる。そしてまた、距離を詰めてきた。
 ……だから、この距離は何?
 じーっとこちらを見て来る寛人の視線から逃れようと、ラップを剥がしてフレンチトーストにかぶりつく。口に広がる甘い香り。冷めて少しべっちゃりしているけれど、温かい時だったらすごく美味しかっただろう。ちょっと残念、と思いながら咀嚼していると、寛人から声を掛けてきた。
「昨日のこと、覚えてるか?」
「……ううん」
 彼の言葉に首を振ると、寛人は表情を変えないで説明してくれた。
「美哉が酔い潰れて、大塚に頼まれたから俺が送ってくことにした。結局、家を知らないから、俺が泊まってるこのホテルに連れて来たんだけど」
「そ、そうなの?」
 そもそも、何で寛人が私を送る展開に。大塚くん、何で寛人に頼んだんだろう。高校時代、二人特に仲良さそうな感じもなかったのにな。
 ていうか、待って。昨日会場にいたみんなは、寛人が私を送ってくの、見たってこと、だよね……?
 ――死ぬ!
 高校時代からモテていたのに、プロのサッカー選手になった今なら女子の人気もすごいはず。そんな中、私は寛人に送ってもらって、更にはホテルで一泊しちゃった訳で。
 同級生の刺すような視線を想像しただけで、顔から血の気が一気に引いた。
「それと、服を脱いだのは美哉だから。部屋に着いてすぐ、服が皺になる、って脱いで、ベッドに潜り込んで」
「……」
 ……何で元彼にそんな醜態見せなくちゃいけないんだ。記憶がないことを喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか。収まったはずの頭痛が、ひどくなった気がした。
「……あの、その。何て言うか、……迷惑かけて、ごめんなさい」
 ひとまずフレンチトーストをラップに包んで、ベッドの上で正座し、頭を深く下げた。謝罪の言葉一つで終わりにしようとは思っていないけれど、まずは誠意を見せなければ。
 寛人はしばらく黙っていたけれど、やがて小さくため息を吐いた。
「記憶が無くなるまで飲みすぎるな」
「はい、ごめんなさい」
「変な男に引っかかってたらどうするつもりだったんだ」
「……ごめん」
 淡々と怒られるので、素直に謝るものの、ちょっと釈然としないものはあった。
 そりゃあ感謝や罪悪感はもちろん、ある。だけどそれとは別に、昔の恋人にそんな情けないところ見られたくないし、知らないふりしてくれたっていいじゃないか、とも思う。寛人には言われたくない、というちょっと卑屈な思いも過ぎった。

 だからかもしれない。
「俺だから、良かったものの」
 その寛人の言葉に。
「……大塚くんとかの方が、私は良かった」
 思わず小声で、呟いてしまったのは。

 一気に冷えた空気に、私は自分のミスを悟った。慌てて口を覆う。
(ば、馬鹿ーーー!)
 本気で思った訳じゃない。ただ、売り言葉に買い言葉というか、不貞腐れながら思ったことが勝手に口から出ていたのだ。
「………………は?」
 まるで氷のように冷たい寛人の声に、だらだらと背中に冷や汗が落ちた気がした。
 そりゃそうだ、同窓会で昔の恋人に再会した挙句、介抱頼まれて渋々やったのにこんな八つ当たりみたいな台詞。私でも怒る。
 そろそろと、視線を上げて寛人を見る。でもすぐに、後悔した。
 ――それは、目が合った瞬間、凍えてしまいそうな程冷たい瞳だったから。
「あ、あの、あの、ごめんなさい、あの、そういうんじゃなくてっ、えと、」
 紅茶の入った紙コップをサイドテーブルに置いて、両手を左右に大きく振る。言い訳が思いつかず、挙動不審にどもる私。だけど寛人はむっつりと黙りこみ、表情を全く変えなかった。
 まずい、まずすぎる。どうしよう。
 クーラーが効いて快適な気温だったのが、今じゃ鳥肌が立って寒いくらい。重たい空気に、半分泣きそうになった時。
「!?」
 こちらへ、伸びてきた腕。両手首を掴まれ、そのまま、後ろへ押し倒される。くしゃくしゃの布団とシーツに飲みこまれ、目を丸くする。
 さっきと同じ状況、だけどさっきよりずっと、危ない気がする。寛人の瞳は怒りでぎらぎら燃えているし、手首を掴む力が強くて、痛い。痕が残りそうな気がする。
 不意に。片方の手首が解放されて、彼の手は私の髪を掬った。こめかみから毛先までゆっくり梳いて、指先に絡める。固まったまま、その行動を見守っていると、――毛先に、口付けられた。
「……っ」
 髪だから、直接触れた感覚はない。それでも、そこからまるで熱が広がるみたいに、熱くなる。
 やめて。触れないで。閉じ込めようとした傷が、血を噴き出すから。閉じ込めようとした気持ちが、鳴き声をあげるから。
 唇を噛み締めて、何とか自分を保とうとする。
 じっと私の目を捉えたまま、顔を変えなかった寛人は、眉間に皺を寄せて、一言。

「――美哉は、俺の女だ」
 それに、何かがぶちぎれた、気がする。

 じわじわと頭にその言葉が染み込むと同時に、顔がかっと熱くなった。それは、さっきとは違う。怒りで。
「い、まさら何言ってるの……っ!」
 口をついて出た叫びは、衝動に任せた結果。でも、まぎれも無い本心だった。
 どうして、そんなこと言うの。離れてもう六年。最初に、別の人を見たのはあなたじゃない。私を捨てたのは、あなたじゃない。
 ――だけどそんな恨みごと、言いたくなかったのに。

 初めての恋だった。初めての恋人だった。ずっと好きでいるだろうと思った。
 だからあの日、心が潰れそうな悲しみを味わった。
 でも、怒りや悲しみよりも、寛人を好きな気持ちの方が勝ってしまったから。責めたくなかった。電話やメールにも応じなかったのは、言い訳を聞かされれば延々と寛人を責めてしまいそうだったからだ。
 そして彼が引きとめてくれたのなら、私はきっと、寛人が何を言っても馬鹿みたいに信じて、側にいることを選んだ。それこそ何度繰り返されても、陰で笑われようと。
 だけど、そんな日々を繰り返せば私はいつか、彼に依存してしまう。それだけは嫌だった。馬鹿な女ならば、構わない。重い女にだけは、なりたくなかった。
 綺麗事だと言われようと、悲劇に酔っているだけだと言われようと、私は寛人の悪い思い出にはなりなくなかったの。
 なのに、今更こんなこと言われてしまったら、責めてしまう。
 浮気をさせてしまった私にも、多分、何か責任はあった。なのにそれを差し置いて、全部寛人に押し付けてしまう。

 ぼろぼろと、涙が止まらない。頬を伝い、首筋にまで流れ、ワンピースの襟が濡れて張り付いた。
 やめておけ、と頭で念じても、心は従わない。私はひたすら、寛人を睨んでいた。
「もう、やめてよ……っ、私を、振り回さないでっ」
 涙を拭おうとする手を避けて、首を大きく振る。頭がくらくらしてくるけれど、何もかもが、嫌だった。
 その熱い手に、触れられたくない。今でも、その温もりを求めている自分がどこかにいるのを分かっているからこそ。
「……ひっ、く」
 しゃくりあげて、ただ、泣く。まるで子供に戻ったみたいに。それくらい、私にとって寛人の存在は大きい。彼が側にいるだけで、簡単にパニックになっちゃうくらい。
 解放された手で目元を覆った。冷えた手が、熱い瞼に気持ちいい。瞼だけじゃない。色んな部分が、熱を持っている気がする。頬に零れた涙が、乾いてぱりぱりしている気がする。
 突然、ぐ、と手首を掴む手に力が込められた。びくりと震えるけれど、寛人は離してくれない。小さなため息が聞こえて。
「……っ、ん!?」
 ――唇に、温もり。
 目を覆っていたから状況が全く飲みこめなかったんだけど、その感触は、覚えがあるもので。
 それが離れたと思ったら、目の上の手も捉われる。
 私の目の前に、寛人。彼はゆっくり一度瞬きすると、目を瞑って、もう一度、触れた。彼の唇で、私の、唇に。
「!」
 キスされてる。
 理解した瞬間、脳味噌が真っ白になった。
「ん、ぅ、んんっ」
 慌てて手首を振り上げようとするけれど、男の力には勝てない。唇を舐められて思わず開くと、その隙間から寛人の舌が滑り込んできた。
「ふ、んむぅ」
 歯列をなぞられ、咥内中ぐるりと掻き回され。舌が絡まると、くちゅ、と小さく濡れた音がする。
 慣れた様子と、息苦しさで目元に涙が滲む。
 寛人と違って、私は数年ぶりだ。すぐにギブアップして、息が上がる。そんな私の様子に気付いたのか、寛人はゆっくりと唇を離した。
「は……、」
 微かに頬を上気させ、唇を濡らした寛人。潤んだ瞳で私を見つめて、もう一度、顔を近付けてきた。
 ――そんな彼の足を、思い切り蹴り飛ばす。
「っぐ!?」
 脛辺りを蹴ったから、ものすごい痛いだろう。顔を歪めてくぐもった声を漏らした寛人は、横に倒れ込んだ。それに目もくれず、立ち上がる。腰がほとんど砕けかけていたけれど、何とか気合いを入れてベッドから起きて、机の上にあったシュシュと自分のバッグを握り、走った。
「っ美哉」
 叫び声が聞こえるけれど、振り返らない。入口近くにあったパンプスに足を突っ込んで、早足で部屋から出て行く。出たら目の前にエレベーターがあったから、飛び乗った。
「美哉!」
 扉が、閉まる直前。部屋から飛び出した寛人が、私を追いかけてくるのが見えた。裸足で、ドアを開けっ放しで。
 必死な顔の彼が、私に手を伸ばす。けれどエレベーターの扉はぱたりと閉まった。

 静かな、空間。機械の音だけ響く。そうしてようやく、私を一息吐けた。
「……はぁ」
 ため息と一緒に、涙が落ちる。今日は泣きすぎた。明日きっと、真っ赤に腫れてしまうだろう。それでも、自分の意思では止められなかった。
 ……人を馬鹿にするにも、程がある。寛人がキスをしてきた時、ただそう思った。何に煽られたか知らないけれど、それにしたってこんな乱暴な真似、最低だ。
 まだ唇に、寛人のキスの感触が残っている気がする。バッグからタオルを取り出して、唇を拭った。
「最低」
 ――あんなキス、知らない。
 あんな乱暴なキス、したことない。
 あれからもう、六年だ。その間、彼は何人の女性と付き合ったんだろう。きっと相手は私なんかとは違う、美人でスタイルも良い、素敵な人ばかりだろう。
 もしかしたら、あのキスも、その彼女達と交わしたものなのかもしれない。そう思ったら、また涙が零れた。
「さいってい……!」

 なのにまだ、唇に彼の熱が、残っている。 


 

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