14. 〜word〜


 焼きうどんに漬物という簡単な夕飯をすませ、洗い物をすると言った寛人を座らせ、とりあえず食器を水に漬けておく。時計を確認すると、午後八時二十分だ。割と、早い方だと思う。いつもは家に帰ったら何となくだらけてしまい、夕飯作りにもなかなか取りかからないから。
 冷蔵庫に入っていた梨を剥き、ガラス皿に盛りつける。ついでに、適当に二個選んで、爪楊枝を刺した。すると。
「……運ぶのか?」
「、」
 真後ろから声が聞こえて、びくりと身体が跳ねた。ギシリ、と私の左側から音が聞こえる。視線を落としてみると、寛人がシンクに手をついていた。微かに右のこめかみをくすぐる吐息に、彼が相当近くにいることに気付く。
 思わぬ状況に固まる私を、寛人は不思議に思ったのか。
「美哉?」
 私の髪をつまみ、振り返ることを促す。その仕草に、急に今がいつだか分からなくなった。

 付き合っていた頃、私が料理をしている時や本を読んでいる時、寛人はよく、ちょっかいを出してきた。今みたいに、こちらに意識を向けさせるために、髪をつまんで。
 あの頃、はにかんで振り返る私はもう、いない。いないのに、彼はあの頃と同じように触れるから。
 分からなくなる。まるでこの六年が、夢だったみたいで――。
 
 振り返らない私に焦れたのか、毛先をつまんでいた指は、髪を掻きわけて項に移動する。つ、となぞる指先を怒ろうと振り返ったら、予想通り、ひどく近い場所に彼がいた。少し動けば、鼻が触れそうな距離に、息をすることを躊躇う。
「ひろ、ひと」
「……」
 何とか非難の意を込めて名前を呼んだけれど、声がひっくり返ってしまった。こくり、唾を飲み込んで落ち着こうと試みる。でも、その前に。
「ゃ」
 項をなぞる指が、私の顎に移動する。親指が、ゆっくりと唇をなぞる。その動きから逃げだしたくて、首を振り後ろへずれた。だけど両腕を掴まれ、シンクに背中を押しつけられる。挙句、足を絡められ、顔が熱くなった。
 何、これ。おかしい、絶対におかしい。まさか寛人、欲求不満?
 やっぱりうちに入れたのは間違いだったと、胸中で舌打ちする。両腕を突っ張ろうとすれば、あっさり両手首をまとめられ、もう一度、顎にかかる手。至近距離に見える寛人の瞳に、背中がぞくっとした。
 男の、目。
 彼は昔も、こんな目をしていただろうか。まるで、飢えた野獣みたいな目を。
 知らない、分からない。どちらにしろ、こんなの、嫌だ。触れないって約束したのに。嘘吐き。
 近付く吐息に、じわりと涙が浮かぶ。それは寛人に向けてと、迂闊な自分に対してと。両方の意味を含んでいた。
 最後の抵抗にせめて叫んでやろうと、大きく息を吸い込む。

「いやだ……っ!」

 声にした瞬間、ぱ、っと手が離れる。足も離れて、突然の解放感に、膝から力が抜けた。ぺたん、とフローリングに尻もちをつく私。寛人は黙ったまま、私から離れて、冷蔵庫の方へ向かい、そしてまた、歩き出す。真っ直ぐリビングのドアに向かうその背中を見上げると、彼は入り口で振り返った。未だに呆然としている私を見て、呆れたようにため息を吐く。
「美哉、お前絶対にこの部屋に男を上げるなよ。何もしない、って言われても信じるな」
「……っあ、」
 あんたに言われたくない!と叫ぼうと口を開き、でも安易にOKした自分も悪い、と口を閉ざす。そんな私を見て、寛人は眉間に皺を寄せた。
「言っておくけど、嘘ついた方が絶対的に悪いんだからな。もし手を出されても、その場合、美哉に落ち度はない」
「、」
「ただ、そうなったらお前にも責任があるって相手の馬鹿が言いかねないから。……それに、俺も、お前に誰かが触れるのは絶対に嫌だ」
 淡々と、その低い声で続ける寛人。最後の言葉を言うと、小さく舌打ちした。
 ……いや、そもそも。私に手を出そうなんて男性は、そうそういないと思うんだけど。現に寛人以外、私と付き合おうなんて人、いなかったんだし。
 だけどそんな返事彼は求めていないだろうと思ったから、口を噤む。そんな私をちらりと見て、寛人は、少しだけ口角を上げた。ついでに、ポケットに突っこんでいた右手を出す。その手に、あったものは。
「……あ!」
「今日は、これで帰る。またな、美哉」
 ――ピンクの鈴がついた、私の家の、合鍵。
 ちりん、と涼やかな音を立てて、それは彼のポケットに戻る。慌てて立ち上がり取り戻そうとするものの、まだ足に力は入らない。そんな私に寛人は小さく笑い、さっさと家を出て行ってしまった。

「……やられた……!」
 私の家では、冷蔵庫の横のコルクボードに日常的に使う鍵を全部かけてある。家の鍵、実家の鍵、自転車の鍵、職場の鍵。失くした時にもすぐに分かるように、家に帰ってきたら必ずかけるようにしている。これは、実家でお母さんがやっていたのを真似した。寛人に当時、鍵の管理方法としてこれを教えた記憶もある。家の鍵と合鍵は隣同士だから、すぐ分かるし。
 ただ、鍵を取ろうとしたら流しを横切らなくちゃいけない。意識していた訳じゃないけど、私は寛人をキッチンに入れようとしなかったし、勝手に冷蔵庫に近付いたら不審に思うはず。
 どこから確信して動いていたんだろう。さっき触れたのは、私の意識を逸らすためだったのかもしれない。というか、間違いなくそうだろう。そう思うと、ますます腹が立った。
 大体、話があるとか言った癖に話してないし、合鍵を勝手に取るなんて、一歩間違えればストーカーだ。
「……もう、訳分かんない」
 ぽつりと零し、何とか立ち上がる。シンクに置いてあった梨を一口齧ると、シャリ、という良い音と一緒に、瑞々しい甘さが口いっぱいに広がった。二本差してある爪楊枝にも腹が立ち、思いっきり抜いて、思いっきり流しに叩きつけておいた。
 それを見て、大きく肩で息をする。と同時に、部屋中に着信音が鳴り響いた。
「は、へっ?」
 その音は、職場の人から掛かって来た用の専用着信メロディで。目を丸くしながら、慌ててリビングのテーブルに走る。思考を何とか仕事に切り替えて、机の上の携帯に手を伸ばすと。
『着信 玲子先生』
 ……まさかの相手で、一瞬動きを止めてしまった。
 出ようか迷ったけれど、仕事の連絡なら出なくちゃまずい。意を決して、通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
『あ、もしもし、美哉先生?すみません、玲子です。今大丈夫ですか?』
「う、うん」
 何となくだけど。何となく、仕事の話じゃないだろうな、というのが分かってしまった。これは勘だけど、確実に当たり。
『今日の、洒井選手のことなんですけど』
 ――やっぱり。
 少しだけ、声を潜めて話す玲子先生に、内心息を呑む。声の感じからして、全然知らない、なんて嘘をついたことに対して怒られることは無さそうだけど。そうなると何だろう。連絡先を教えてほしい、とか。そんな感じだろうか、やっぱり。
 緊張しながら、玲子先生の言葉を待つ。時計の秒針が、一周回った時。
『あの後、ちゃんと合流出来ましたか?』
「……へ」
 想像もしなかった言葉に、間抜けな返事をしてしまった。
『美哉先生が出て行った後、洒井選手、すぐに美哉先生を追いかけたんですけど、追いつかなかったみたいで。通勤手段を尋ねて来たので、利用している駅を教えたんです。一応ざっと説明したし、一本道だから迷うことは無かったと思うんですが、ちゃんと辿りつけたか心配で……』
「……あ、えと、うん。大丈夫でした」
 混乱しながらも、なんとか玲子先生に言葉を返す。『良かったぁ』と電話越しにも分かる、柔らかい声音。今笑っているんだろうな、とすぐに分かる。
 どうして?あの後、玲子先生と話してたんじゃないの?
 ――どうして?
『……でも、美哉先生、嘘つきましたね』
「、」
 不意に、玲子先生の声音が変わる。その言葉は予想していたものだけど、言い方は全然違う。悪戯っぽい、そんな声。
『洒井選手と知り合いじゃないって、嘘でしょう?』
「あ、……あの、」
『まぁ、ファンの前で知り合いだー、なんて軽々しく言えないですよね』
「……ごめんね」
『あ、全然気にしてないです。今日会えただけでもラッキーだと思うので』
 柔らかい玲子先生の声に、少し心がほぐれた。
 短大時代の同じクラスの人には、私と寛人が高校の同級生だと知ると、しつこく連絡先を聞いて来る人なんかもいた。知らないと言っても、連絡網くらいは知っているだろう、とか、卒業アルバムを寄越せ、とか。そんな人達のせいで、玲子先生まで疑ってしまっていた。彼女はそんな人じゃないと、ちゃんと付き合ってきた中で知っていたはずなのに。申し訳なくて、唇を噛む。
 でも、そんな私を玲子先生はあっさり笑い飛ばした。
『ていうか洒井選手、美哉先生にベタ惚れですよね』
 ――あげく、爆弾を投下した。
「は……?」
『園長先生に聞きました。たくまくんと、美哉先生の取り合いしてたらしいじゃないですか。それに美哉先生が出てった後、慌てて出て行って、園内中駆け回ってましたよ』
「……」
『もう、インタビューの時のクールな姿とのギャップが激しくて、ちょっと笑っちゃいましたよ、私』
 電話の向こうで、小さく噴き出す音。そんな、そんなの。私にだって、想像つかない。
 確かに、駅で会った時、汗掻いてるな、って思った。でもそれは、暑い中歩いてきたからであって、私を探して園内を走ったなんて、思わない。
 だって、そんな必要、無いのに。私を追いかける必要なんて。私に執着する、理由なんて。
『美哉先生、愛されてますね!』
 元気一杯に玲子先生がそう言って『じゃあまた明日』と電話を切った。ツー、ツーと切れてしまった電話を握ったまま、私はしばらく、固まってしまった。

 玲子先生の言葉を全て信じるならば、愛されていると思うだろう。子供とも張り合って、職場にまで会いに来て、姿が見えなくなったら探し求めて。愛情あふれる行動だ。傍から見たのならば。
 だけどやっぱり、私は寛人が自分を想っている、なんて自惚れることは出来ない。
 それには六年前の出来事が未だに引きずっていることもあるし、彼の私にぶつける態度が、どうしても本気には見えないからだ。
 気を逸らすためだけに触れるなんて、本当に好きな相手には絶対にしないと思う。それは私の思い込みなのかもしれないけれど、でも。
「……愛されてる、なんて」
 ならどうして。寛人は、何も、言ってくれないの?
 六年前も、今も。「俺の女だ」とか「渡さない」なんて言いながら、私に向けて、はっきり好意を口にしてくれたことはなかった。告白の時も、言わなかったし。
 言葉よりも態度が重要だと言う人もいるし、実際、私は彼の態度で、愛されている、ってそう思えた。だけど本当に態度が重要だと言うのなら、彼の行動は不可解だ。
 寛人はいつだって、私に「好きだ」と言わせたがった。会う度に、電話の度に、「言って」と甘くねだった。それは彼自身、言葉に重きを置いている証拠じゃないんだろうか。
 だから私は、寛人を信じることは出来ない。受け入れることも、出来ない。
 今の寛人が私を追いかけるのは、きっと恋じゃない。それは独占欲で、執着だ。かつて逃げ出した平凡な恋人が、何となく気になっているだけだ。

 それならもう、放っておいてほしいのに。

 寛人がどうであれ、私は。
 向かい合って食事をしたり。
 真剣に心配されたり。
 料理を褒めてもらったり。
 もっと言うなら、ただ、隣に並んでいることでさえ。
 ――心が、跳ねてしまうのだから。

「……馬鹿は、どっちなんだろう、ね」

 ぽつりと零すと同時に、瞳から一粒、雫が溢れた。



 

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