15. 〜contact〜


 激動の月曜日から、二日後。遅番で疲れて帰って来たその日。何故か、家の鍵が開いていた。
「……」
 もしかして朝、締め忘れたっけ?と頭を悩ませた後、すぐに思いだして階段を上がる。肩を怒らせ、リビングのドアを思い切り開けようとした瞬間。
 ―ガチャリ
 向こう側からドアが開き、ノブを握っていた私は、自然と前へ倒れ込む。それを軽々と受けとめ、立たせたのは。
「お帰り。遅かったな」
「っっっ遅かったなじゃなーい!」
 当たり前のようにいた、寛人だった。
「何で勝手に入るの、信じられないっ!」
「一時間くらい前まで外で待ってたんだけど、近所に見られそうになって、入った」
「普通に答えないでっ!大体、鍵も勝手に盗んだようなもんなんだから、返してよ!」
 むん、と手をつきだすと、寛人はしばし考えた後、鍵を頭上高く掲げた。
「届いたら」
「〜〜〜」
 ……いつから寛人は、こんな子供みたいな意地悪や言い訳を繰り返すような男になったんだろう。悔しくて腹が立って、睨みつける。でも、彼はその整った顔を崩さない。「っあーもうっ」
 苛々しながら背伸びしても、当然届かない。ジャンプしてみるけれど、もちろん届かない。そもそも、私の身長は153センチだ。それに対し、寛人の身長は、玲子先生に見せられた雑誌によれば186センチ。それにプラスして腕の長さを合わせれば、届くはずがない。だけど悔しくて、思わず対抗してしまった。
 数分後、体力が持たずにフローリングにヘたれこむ私を、寛人は抱えてソファに連れて行ってくれた。そもそもの原因が寛人なのに、どうして「仕方ないなぁ」みたいな顔されてるんだろう、私。
 ソファに座らされ、寛人は私の目の前で膝を吐く。その整った顔を見ながら、ついつい大きなため息を吐いてしまうと、寛人が私の頬に触れた。思わず、息を呑む。
「……美哉、疲れてるのか?」
「……疲れてるよ、そりゃ。帰ってきたら寛人いるし」
 仕事帰りに家に人がいて、それで落ち着く人はいないだろう。投げやりにそう言うと、寛人はぐ、と言葉に詰まって、手を離した。
 離れていく温もりを、手を、何となく目で追いかける。優しい触れ方なんて知らないような、無骨な、骨張ったその手。だけどそれは、時に強引に、時にガラス細工を扱うように、私に触れる。
 ため息と一緒に、寛人は立ち上がる。そして床に置いてあったビニール袋を拾って、私の膝に置いた。
「今日はこれ、渡しに来ただけだから」
「……?」
「悪かったな、迷惑かけて」
 殊勝なその態度に、目を丸くした。
 俯いているけれど、下にいる私にはその表情がはっきり見える。少し気まずそうな顔。少し子供じみた顔に思わず見入っていると、寛人は静かに視線を逸らした。
「じゃあ、帰るな」
「え」
 ぽん、と頭を軽く叩かれて、寛人は背を向ける。部屋の隅に置いてあったバッグを背負い、さっさとリビングを出て行った。
 あまりに早い動きと言うか、今までの強引な態度が嘘みたいにあっさり引くものだから、とにかく驚いてしまう。ぽかんとしている私の耳に階段を下りる音が聞こえて、慌てて立ち上がった。そのせいで、膝から落ちるビニール袋。中から、何かが零れる。
「あ、わ、っと」
 ぱらぱらと落ちたのは。
「……飴玉?」
 水色、黄色、橙色に、薄緑色。丸い小さな玉は、一つ一つ透明なフィルムに包まれ、床に転がり落ちた。まるで色とりどりの星のように、照明に照らされ、きらきらと輝く。美味しそう、と言うよりは、綺麗、と瞬間的に思った。
 全部で三十粒くらいだろうか。ぱっと見ただけでは同じ色はなく、味が想像もつかないような色もある。目の前に広がる彩りの海に、私は目を丸くした。
 プレゼントの、つもりなんだろうか。それならもっと、ケーキとか花とか用意してもいいだろうに、何で、飴?聞いてみたいけれど、寛人はもういない。だから、分からない。
「……」
 少し迷ったけれど、結局、携帯と鍵をポケットに突っ込んで、家を出ることにした。まだ駅には着いてないはず。そう信じて。

* * *

 小走りで五分もすると、路地を歩く彼の背中が見えた。ゆったりとした足取りの寛人のTシャツの裾を、強く引っ張る。
「っ」
「い、たっ」
 はぁ、と大きく息を吐いて、振り返った寛人を見上げる。ここら辺は外灯が少ないから、はっきりとは表情が見えない。でも、驚いた顔をしていることは分かった。珍しい表情に、ちょっと目を細める。
「美哉?」
 低い声。変わらない。裾を掴む私の手を握りしめ、あやすように撫でる。子供扱いにちょっと腹が立ったけれど、そのままにしておいた。汗ばんだその手に、罪悪感もあったし。

 寛人は、確かに私の家に勝手に入った。それは、悪いことだと思う。でも、よく考えてみたんだ。
 あの部屋、入った時、蒸し暑かった。それは、窓が開いていなかったから。そして寛人のTシャツの背中の部分は、汗で色が変わっていた。
 外に何時間かいたのか、中で最初から待っていたのか、それは分からない。でも寛人はそんなところで嘘をつく人じゃないから、外で待っていたんだと思う。それに、まだ本格的な夏になっていない今、あんなにびっしょり汗を掻くのは、外に三・四時間いないとない。
 その後私の部屋に入っても、家具には一切触れなかったんだと思う。窓くらい開ければ良かっただろうに、それすら触れないで。
 テレビにも出てる有名なサッカー選手が、外で立ち往生して、閉め切った蒸し暑い部屋で、飴を渡すためだけに、私の帰りを待っていた、なんて。
 想像すると、本当に馬鹿げていると思う。
 だけど、同時に。

「……あの、ね」
「ああ」
「何て言うか。突然来られるのは、困る」
「……ああ」
 低い相槌に、ぶっきらぼうな私の声が、夜の住宅街に響く。この辺りは人通りが少ないし、誰にも見られないだろうけど。少し心配になってしまった。それに気付いたのか、寛人が私の手を取り、進行方向と逆へ、促す。
「え、」
「歩きながらでも、いいだろ」
「……うん」
 多分、送ってくれるつもりなんだろう。ありがたいけれど、良いのかな。そんな揺らぎは、繋ぐ手にかき乱されて。そっと離すと、彼の視線が私の頭に突き刺さるのが分かった。でも今は、無視。落ち着いてじゃなきゃ、こんな話出来ない。
「あの、だからね」
「ああ」
「――だから今度から、来るときは、連絡してよ」
「……は?」
 間の抜けたその声に、顔が熱くなる。自分だって、何言ってるんだ、って思わなくはない。
 でも、駄目なんだ。今日一日の寛人の姿を想像すると、私、――すごく、寛人が可愛く思えてしまって。
 いつ帰るかも分からない私を待って、じっとあの部屋で暑さに耐えていた、って。しかも飴を渡すためだけに。私が疲れてるって分かったら、即帰っちゃって。まるで忠犬みたいな行動に、ついついほだされてしまった気がしなくもない。だけどもう、これが寛人の作戦だとしても、見過ごして冷たくなんて出来ない。
 だから本人が合鍵を返す意思が無いなら、もう仕方ない。せめて来てるよ、って連絡をくれれば、帰るにしても心構えをしておけるし、食材を二人分買い込んでおけるんじゃないかな、と思うから。

 私の言葉を聞いた寛人は、大きくため息を吐いた後、頭を抱えていた。そして小さく、「甘すぎる」とぼやく。自分でも自覚はあるから、反論は出来ない。
「……寛人が合鍵返してくれたら問題解決なんだけど」
「その気はない」
「……なら、仕方ないじゃない。連絡くれたら、冷蔵庫とクーラーくらいは勝手に使ってくれて良いから。体調悪くしちゃ、元も子もないでしょ?」
 きっぱりと言い切る寛人に呆れながら、アドレスと電話番号を交換する。
 甘いと言われようと、お人よしと言われようと、危機感がないと言われようと。一度受けとめると決めたら、もう、揺るがない。一応、寛人対策として催涙スプレーくらいはちゃんと買っておくつもりだし。
 そう宣言する私に、寛人は困ったように苦笑して、私の髪を撫でた。その柔らかい手つきと笑顔に、心臓が大きく跳ねる。
「……まぁ、そういうところ、美哉らしいけどな」
「……何、それ」
「そのままだ。……じゃあ、許可も貰えたし、今度から連絡する」
「別に、来いって言ってる訳じゃないからね。合鍵、いつ返してくれてもいいんだからねっ」
 一撫ですると、私を置いてまた道路に戻っていくその背中に叫び、見えなくなってすぐ、部屋に駆け込む。
 ソファに思い切り飛びこみたい気分だったけど我慢して、横たわった。
「……やっぱり、早まったかも」
 自分でも今更色んな後悔とか、まずいんじゃないか、という気持ちはある。でも、もし時間が巻き戻せたとしても、私はきっと、同じ選択をしたんじゃないだろうか。
 ソファの下に転がった星の一つ。水色の飴を拾って、フィルムを破り、口に入れる。ほのかな甘みと、微かな酸味。ソーダ味。今の私の心みたいに、ぱちぱち弾ける。透明なフィルムを見つめて、無意識に頬を緩めていた。 



 

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