16. 〜cooking〜


 それから、二週間。
 二日に一度、寛人はやって来る。事前にメールをもらっているとは言え、家に寛人がいると言うのに何だか違和感を感じてしまうのは、仕方ないと言うか。
 夕飯を一緒に食べて、早番の日はその後一緒にテレビを見たりして、遅番の日は真っ直ぐ帰る彼を見送る。話があるから、と初日に家へ来たはずなのに、未だに彼がその話とやらをすることはない。私自身、何の話か全く想像出来ないから、切り出しづらいのもある。
 それ以上に。

「寛人今、実家に住んでるの?」
 夕飯を囲みながら、ふと彼に尋ねると、寛人は素麺を箸に巻き付けながら、私の方を見た。
「今は、ここら辺の短期暮らし用のマンション」
「え?実家じゃないんだ」
 驚いた。前住んでたマンションは引き払ってしまっただろうし、二カ月くらいしか日本にはいないだろうから、実家にいるものだと思った。ただ、寛人の家の方から二日に一回ここに来るのは一時間は掛かるだろうから、大変だろうな、と思ったのだけど。
「兄貴が結婚して、家に住んでるから。今あそこ、空いてる部屋がない」
「あ、そうなんだ。えと、お兄さん、おめでとうございます」
「ああ」
 確か寛人のお兄さんって、四つ上とかだった気がする。となると、別に珍しいことでもないな。
 寛人の家族は会ったこともこれから会うこともないだろうけど、多分、美形一家なんだろう。素麺を啜る姿も何故か様になっている寛人を見ながら、そんなことを考えた。

 寛人は私を出迎える時、「お帰り」と声をかける。そのナチュラルな「お帰り」にも変な感じがする。考えれば、初日からそう言ってた訳だけど、「ただいま」と応えるのもどうなんだろう。一緒に住んでる訳じゃないし。だから素っ気なく、「うん」としか返せない。
 そもそも、私達の今の関係って、何だろう。
 元クラスメイト。元同級生。元恋人。表すとしたら、ただ、それだけの間柄。
 受けとめると決めたのに、私はまだ、そんな入口のところで躓いて、彼との距離を測りかねている。
 約束を守っているのか、あの日以来寛人が私に触れることはない。自分でそう言ったはずなのに、そのことがちくりと胸を刺すこともある。
 寛人は休日も平日と変わらず、夕方以降に顔を出す。その間、何をしているのだろう。何処かに行っているんだろうか。それは何処で、誰の元なのだろう。
 私は、彼のことを何も知らない。だけど聞くことも出来ない。
 最初の頃のような怒りや哀しみは、今は眠っている。代わりに生まれるのは、疑いや混乱、不安。時折、衝動のように襲って来る感情を堪えながら、比較的緩やかな日々をただただ、重ねて行く。

* * *

「今日、ご飯どうする?何食べたい?」
「……」
 二日ぶりの、夜。ソファに座る寛人の視線を感じながら、私はエプロンを身につけ、彼に声を掛ける。いつもは割と即答するくせに、今日は何だかだんまり。だけどしばらくして、床がきしむ音に訝しく思って振り返ると、寛人が背後にいた。
「っわ」
「……」
「う、後ろ立つ時には声かけてよ。びっくりするじゃない」
 嫌な意味で跳ねあがった心臓を押さえながら、一歩後ろに下がる。私の非難をスルーした寛人は、口を開いた。
「今日は、俺が作る」
「……へ?」
 予想もしなかった台詞に、目を丸くする。
 でもそんな私を押し退けて、冷蔵庫の中身を確認すると色々取り出して、シンクに置いた。余談だけど、寛人は食事の材料費は出してくれている。というか、ランダムで安かったものを色々買ってきては冷蔵庫に入れている。それは別に、ありがたく使っているんだけども。
「え、ひ、寛人料理出来るの!?」
「……人並み以下だけどな」
 その言葉通り、包丁を扱う手はどこかぎこちない。玉ねぎを切りながら目を真っ赤にさせる寛人に、すごくはらはらしたけれど、「あっちに行って、テレビでも見てろ」と目で語られ、仕方なく従う。その後、時々大きな音がしたりしたけれど、怖くて見ることも出来なかった。
 そして、一時間半後。
「……出来た」
「あ、はいっ」
 寛人の声に、慌ててキッチンに向かう。すでに盛りつけを始めている寛人からお皿を受け取り、テーブルに運ぶ。まずハッシュドポテトっぽいものと、それから多分、ポトフ。お箸やスプーンを並べて、向かい合ったら食事開始だ。
「いただきまーす」
 ……とは言え、寛人の料理って、どうなんだろう。食べたことない。どこか真剣な目で見て来る寛人に、微妙な笑みを見せながら、ハッシュドポテトに箸を入れ、口に運ぶ。
「……美味しい」
 結果、普通に美味しかった。
 そして私の言葉に、ちょっと寛人の肩から力が抜けたのに気付いた。
「それは、じゃがいものパンケーキ」
「あ、これハッシュドポテトじゃないんだ」
「似てるかもな」
 じゃがいものほくほくした感じが美味しい。一気に食べて、それからポトフの方に手を伸ばす。こちらも、美味しい。野菜の旨みがぎゅっと凝縮されている気がする。元々こういう煮込み料理は好きなので、嬉しい。一緒に入っていた白いソーセージを齧る。
「……え、何これ、すっごく美味しいっ」
「だろ?」
 ぷつりと噛み切ると、じゅっと広がる肉汁に、びっくりした。中は複雑なハーブの香りがして、とにかくものすごく美味しい。もともと白いソーセージはあんまり噛みごたえがなくて好きじゃないんだけど、これは良い。私の言葉に寛人はちょっと嬉しそうにした。
「これ、チームの奴が一昨日ドイツから贈ってくれた」
「ドイツのソーセージかぁ。美味しいんだよね」
「ああ。こっちのパンケーキも、あっちでチームの連中の奥さんに教わった」
 なるほど。考えてみると、ジャガイモもソーセージもドイツで有名なんだよね。どちらも、派手さはないけど、素朴で温かみのある味だ。私はあっという間に平らげてしまった。
「寛人、ありがとう。すごく美味しかった」
「いや」
 美味しいものを食べると、警戒心が弱まる。私も同じく、緩んだ頬のまま、寛人にはなしかけた。すると寛人は、真剣な顔をして。
「……大丈夫か?」
 唐突に、そう尋ねた。
「……え?」
「……何となく、だけど」
 中途半端に言葉を切り、一瞬下に視線を落とす寛人。だけどすぐに私の方を真っ直ぐに見詰めて、口を開いた。
「美哉、今日何かあったんじゃないのか」
 ――その言葉は、緩んだ私の心に、真っ直ぐ切りこんできた。

 今日は早番だったのに、職場を出られたのは七時を過ぎてからになってしまった。原因は、保護者の方のクレーム対応。その保護者は、何と言うか、他の先生方の間でもあんまり評判の良くない人だ。
 今、小学校などで『モンスターペアレント』という言葉が囁かれている。ただの注意や要望ならともかく、自己中心的な要求を学校側にしてくる親のことだ。
 その保護者がそれに当たるかは分からないけれど、前から問題が多い人だった。「運動会の日は用事があるから日程をずらしてくれ」だとか「子供は野菜を嫌いだから、お昼には出さないでくれ」だとか。保護者会などでも、他の方達の意見を聞かずに、自分の発言を何が何でも押し通そうとする。
 親の姿を見て、子供は育つ。幼少期に親がやった行動を見て、子供はこれはやっていいこと、あれはやっちゃいけないこと、と言う風に学んでいく。もちろん、それは百%じゃない。それでも、親の影響とは、本人達が思っている以上に大きいものだ。今回のような保護者の元にいる子供は、誰に対しても我儘になってしまう可能性がある。子供の我儘は、当然存在する権利の一つだと思う。でも、度を超したものは駄目だ。行き過ぎれば将来、身勝手な人間になってしまう。そして大人になってから注意してくれる人なんて、ほとんどいなくなるから。
 今回は、お迎えの時に声を掛けられた。そして、言われたのだ。
「同じ組にいる子で、母子家庭の子がいるらしいけど、そういう子とうちの子が一緒に遊ばないように、見ていてくれないかしら。そういう家の子って、何だか素行が悪いって言うし……」
 心配そうに言われたその言葉に、頭に血が昇った。
 件のお母さんは、子供が生まれてすぐにご主人を事故で亡くされて、それから一生懸命働かれている。「子供がいるから頑張れる」と笑って、毎日印刷会社で朝から晩まで駆け回っているそうだ。その子供も、真面目で少し甘え下手な、優しい子。
 私自身、気さくに話しかけてもらって、とても好きな二人だから、それを馬鹿にされたのが、どうしても許せなくて。
 ――思わず、反論してしまったのだ。「何が分かるんですか」と。
 当然、その対応を怒られ、最終的に園長先生直々に謝らせてしまう事態となった。
 その保護者が怒って帰った後も、園長先生に怒られた。周りの先生達や保護者の方達も見ていて、私は悪くない、と証言してくれた。それでも、そこで受け流しておけばよかったのだ。それが出来なかったのは、私のミスだ。
「美哉先生のそういうところは、美徳だと思っているし、私も好きだわ。でも、世の中にはどうしても分かり合えない人はいるの。そういう人を一人ずつ相手にしていけば、最終的にあなたが傷付くことになる。ぶつかっていくのが、いつでも正しいことではないのよ」
 最後に園長先生は、そう締めくくってくれた。その言葉に頭を下げ、園を出た。
 本当は、今日、寛人に会いたくなかった。こういう時は、一人部屋に閉じこもって、泣いていたかった。でもそれを言うのも憚られて、結局、何でもないふりをしたんだけど。

 真っ直ぐな瞳に映る、心配そうな色合いに、私は思わず、今日の出来事を零してしまった。
 話を聞き終えると、寛人はただ静かに、「そうか」と言って。部屋の中に響くのは、時計の針の音だけ。重たい沈黙に、小さく息を吐きだす。
 不意に、寛人が立ち上がる。そして私の横に回り込むと。
「っ」
 ぐい、と肩を抱かれ、彼の胸に顔を押し付けられた。予想外の反応と、突然の温もりに、戸惑う。逃げようか迷っていると、寛人の手は、私の頭を優しく撫ぜた。あやす様なその手つきからは、全く下心が感じられなくて、私はつい逃げるタイミングを失ってしまう。
「美哉らしいな」
 ぽそり、と至近距離で呟かれた言葉。その吐息が、前髪を擽る。くすぐったくて少し身じろぐと、宥めるように、一瞬強く抱き締められた。
 その力の強さも、体温も。あのホテルの時と一緒なのに、全然、違う。
「大丈夫だ」
「え……?」
 低い声に、顔を上げる。至近距離で揺れるその瞳。それは、ものすごく優しくて。
「お前は、何も、――間違ってなんかいない」
 その言葉に、私の目頭は一気に熱くなった。

 園長先生に怒られた時、正直、どうして、って思った。
 どうして人を馬鹿にした人が庇われて、私が謝らなくちゃいけないんだろう、って。私は間違ったことをしてしまったんだろうか。私の思う正しさって、本当に正しいんだろうか、って。
 もちろん、私の行動は社会人として絶対間違っていた。だけどそれでも、誰かに認めてほしかった。そう思うのは、贅沢だと分かっているけれど。
 みんな、私のせいじゃない、悪くない、と言ってくれたけど。間違いじゃない、正しかった、とは言ってくれなかった。
 今回の件は、私の元々の気性が引き起こしたもの。だから考えている内に段々、私は自分自身が認められていないような気すらしてきてしまって。

「っう、ぇ、ぇ」
「美哉のやったことは、正しい。だから、何も不安になるな。お前はそのままで、いいんだ」
 何度も何度も、耳に落ちる、優しい囁き。それに涙がまた零れて、嗚咽が漏れる。気付けば自分から寛人の胸にしがみついて、彼のTシャツに涙を擦り付ける始末。でも寛人は嫌な顔一つせず、私の背中を、頭を、撫で続けてくれた。
 ――だから、嫌だったんだ。寛人に、会うこと。
 こんな風に優しくされてしまえば。自分のこと、認められてしまえば。彼に縋ってしまうこと、分かっていた。誰でもこうなる訳じゃない。誰よりも頑張っている、夢に向かって一生懸命だった寛人を知っているからこそ、その言葉が私の心に響く。 
 ずるい。ずるいよ。大事なことは何も言わない癖に、気付いて欲しくないことばかり、こじ開けていく。
 いつから気付いてたの?ご飯も、だから作ってくれたの?どうして私の欲しい言葉ばかり、くれるの――?
 甘やかされる感覚は、正直慣れない。だけど不快じゃない。その優しさは、とても心地良い。でも困るんだ。いつか離れてしまう癖に、そんなに簡単に私の心の中に、入られてしまうことは。
 私の心はいつだって、寛人に対しては、何枚のガードを張っても無駄になってしまうほど、無防備なのだから。

 柔らかい抱擁に、鼻を啜りながら、身を預ける。
 まずいだろう、そう囁く自分がいるのに。
 まだこのままで、そう囁く自分もいる。
 もしかしたら、そう葛藤していることが、すでに手遅れなのかもしれないけれど。



 

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