17. 〜meaning〜


 日曜日。買い物中のお昼過ぎ、携帯が震えた。寛人かな?と思い、すぐに確認する。
「あ……」
 だけどそれは、ゆきからのメールだった。

「お邪魔しまーす」
「いらっしゃいませ」
 ピンポンが鳴り、階段を下りてドアを開ける。そこには明るい笑顔のゆきがいた。だけど胸あたりまであった髪は、ばっさり切られている。それに驚いた。
「髪切ったんだね」
「うん、暑いからさぁ。あ、これお土産。ゼリーだよ」
「嬉しい!早速戴きます」
 さっぱり笑うその顔が、眩しい。髪が短くはなったけれど、似合わないということは全然なくて。そもそも高校時代はずっとショートヘアだったから、懐かしさも起こる。
 白いシャツにオレンジのスカートというシンプルな格好だけど、ゆきのスタイルの良さは十分に伝わる。私じゃ絶対履けないような、ヒールの高いグラディエーターサンダルを脱いで、白い箱の入ったビニールを、私に渡した。
 ゆきは訪ねて来る度に、欠かさずお土産を持ってきてくれる。それがしっかり私の好みにあったものばかりだから、とても嬉しい。今日のゼリーも、きっと美味しいものなんだろう。頬を緩めて、階段を示した時。
 ―ピンポーン
 もう一度、ピンポンが鳴った。
「ん?宅急便?」
「かなぁ。ごめん、ちょっとこれ持っててくれる?」
「はーい」
 手の中のビニールをもう一度ゆきに渡し、玄関のサンダルを突っ掛ける。宅急便なら良いけれど、勧誘とかだったら嫌だなぁ。ああいうの、私断るの下手だし。でも今日はゆきがいるから、頑張らなくちゃ、と思い、ドアを開けた。
「はい、なんですかー」
 ドアを開けると、むわりと外から感じる熱気。そこに立っていたのは、背の高い男性。七分丈のチノパンに、水色のポロシャツ。随分スタイルが良い人だ。ゆきと同じ、スタイルが良いからシンプルな格好でもすごく似合ってて格好いい。肩、首筋、と来てそれからゆっくりと、顔の方へ視線を移すと。
「……へ」
 私は思わず、間抜けな声をあげた。
 相手は私をがっつり見ているので、視線は外れない。何だか居心地が悪くなるくらいに、見られている。視線を外そうと思うのだけど、相手の眼力が強くて、それも無理だ。ドアノブを持つ指が、汗で滑りそうになるくらいの間、見つめ合っていたのだけど。
「――なんで、洒井が、ここにいるの」
 後ろから、ものすごく低いゆきの声が聞こえて、ようやく動くことが出来た。正確には、ゆきが後ろから私の肩を引っ張って、自分の方に寄せたからなんだけど。
 寛人はちらりと私を見た後、ゆきを見て、眉を寄せた。
「……なんで、川崎がいるんだ」
「それはあたしの台詞でしょ!」
 全く同じ台詞を零した寛人に、ゆきが噛みつく。それに寛人がため息を吐くと、ゆきはますます逆上した。
 ……何て言うか。相性最悪、だなぁ。この二人。
 高校時代、ゆきと寛人がそんなに会話しているところを見たことはなかった気がする。私達三人は、一年生の時は同じクラスだったけれど、二年生からは私とゆきは一緒のクラスで、寛人は別のクラスだった。だから仲が悪くなる理由は、ないはず。
 だけど、ゆきだけは私が寛人と付き合いだした時から別れに至るまで、全てを知っている。だから当時すごく怒ってくれたし、それこそ寛人のところに殴りこみに行こうとするレベルだった。そっとしておいてほしい、と私が頼み、事なきを得たけど。今もその時の怒りが、残っているのかもしれない。そう考えると、ちょっと嬉しいけど。
「えーっと、……あのですね。とりあえず一旦、上がりませんか?」
 ぶちぎれているゆきと、それに無表情で対応している寛人に、ひとまず提案してみることにした。

* * *

「……で、何であいつがここにいるの」
「え、えーっと」
 とりあえず、上に案内すると寛人はいつも通り手洗いを済ませた後、ソファに座った。それを見ながら私はキッチンに入り、ゆきが持ってきてくれたゼリーの箱を開ける。それから、昨日実家から届いた梅シロップを炭酸水で割ったのに氷を入れて、お茶の支度。そんな私を、ゆきは不満そうな顔で見つめながら、小声で尋ねてきた。
 どこから、説明したらいいんだろう。同窓会の翌日から、保育園に来たこと、合鍵、アドレスの交換、それから今日に至るまで。そんなに時間はかからず説明出来ると思うけど、寛人もこの場にいるし、ゆき怒りそうだなぁ。特に翌日の話とか。私としても、ちょっとまだ口に出来る覚悟は出来ていないと言うか。
 何と説明したらいいのか、悩んでいると、横から焼けた腕が伸びてきた。
「あ、ありがとう」
「これだけか」
「うん」
 お皿に乗せたゼリーと飲み物三つずつを、お盆に乗せて運ぶ寛人。夕飯の支度なども最近は積極的に手伝ってくるようになった。その姿はお手伝いをしたがる年頃の子供のようで、何だか非常に微笑ましく感じる。
 その後ろ姿を眺めていたら、横から強い視線を感じた。振り返ると、じーっと私を睨むゆき。それに「後で詳しく話すから」という意を込めた愛想笑いをして、誤魔化す。ゆきはしばらく私を見ていたけれど、やがてため息と一緒に視線を外した。
 テーブルの上には水色と、桃色と、橙色のカップゼリー。それぞれ上にクリームやフルーツが乗っていて、眺めているだけでも、何だか頬が緩む。
「水色のがソーダ味、ピンクのが桃、で、これはオレンジ。美哉は、ソーダが好きだったよね?」
「うん。でも、何でもいいよ。どれも美味しそうだから」
「ううん、これは美哉に買ってきたから。……洒井は予想外だったけど」
 ぽそりと皮肉を言うゆきに苦笑する。言われている本人と言えば、涼しい顔で梅ソーダを飲んでいる。……この無関心と言うか、興味のない態度に自分もいつも振り回されていることを思うと、何だかゆきに同情を寄せてしまう。
「ていうか寛人、来る時連絡してって言ったでしょ?」
「メールならした」
「え、本当?」
 空気を変えようと、寛人に尋ねると、彼は残ったオレンジゼリーにスプーンを入れながら、私に応えた。その返事に今日持っていたバッグの中を漁り、携帯を取り出す。確かに、一時過ぎにメールが届いていた。そういえば、この時間はゆきから連絡が来て、慌てて家に帰って家事を済ませていたんだった。
「ごめんね、私が携帯見てなかったみたい」
「別に、いい」
 謝るといつも通り淡々とした返事で、ちょっとほっとした。その時。
「あーああー、アイスでも食べたいなぁ」
 ――何だか、異常に低い声でゆきがぼやいた。
 ぱちくり、目を丸くする私と、スプーンをひたすら動かす寛人――ゼリーがかなり気に入ったみたいだ――と。しばらく、沈黙が落ちたけれど。
「あー、えっと。ごめんなさい、今、無いんだ。買ってこようか?」
 冷凍庫の中身をぱっと頭で広げて、答えた。確か一昨日、寛人が買ってきてくれたけれど、二人ですぐに食べてしまった。慌てて腰を浮かせるけれど、ゆきは大きく首を振った。
「美哉は行かないで。ぜっっったい、ここにいて」
 ……えぇと。じゃあ、アイスは。
「でも、アイスは食べたい」
 ……つまり、それはアレですか。ゆきさん、寛人に買ってこさせるつもりですか……?
 そっと寛人を見下ろすと、無表情でゼリーを食べ続けている。そして容器が空になると、一息吐いて、飲み物を一気に飲んだ。私とゆきの間の微妙な空気には、間違いなく気付いてない気がする。そのまま、コップの中の氷を回してカラカラ音を立て始めて、もう何て言うか、怖くてゆきの顔が見れない。
 だけどコップの中の氷を全て噛み砕き、飲み込むと、寛人はおもむろに立ち上がった。
「ひろ、」
「夕飯の買い出し、忘れてたから行って来る」
「……ああ、えと。お願いします」
 ゆきの発言を聞いてない感じで、寛人はさっさと出て行く。そっと横を窺うと、完全無視された形のゆきの顔は、正直、美人さんが台無しです、と言いたくなる位には怖かった。
 何も持たず、寛人はリビングをさっさと出て、家を出て行った。玄関の扉が閉まる音が、耳に届いた瞬間。
「っほんとにもおおお!なんなのあの男は!」
 ゆきが、怒鳴った。どんどんとテーブルを叩き、全身で苛立ちを表現している。いやまぁ、うん。気持ちはよく分かるけど。
「ていうか邪魔者はいなくなったんだから!聞かせなさいよ、何で、洒井を忘れるはずがっ、よろしくやっちゃってんの!まさか元サヤ!?」
「え、ち、ちがっ、それはないっ」
「じゃあ何よっ!」
 ゆきの剣幕に怯みながら、元サヤだけはしっかり否定する。それにちくりと心が痛くなったけれど、すぐ飛んできた叫びに、一瞬黙ってしまった。
 声は怒りで溢れているものの、ゆきの目の色は、私への心配で一杯だ、と。一目で分かってしまったから。
 ゆきは興味本位で、こういうのを聞いて来る子じゃない。そして同時に、「何で話してくれなかったの」と私に詰め寄る子でもない。仲が良いからと言って、四六時中一緒にいることや、何でも話すことばかりが友情じゃない。
 ただ、話したくなった時、どうしても辛い時に寄り添えること。それが私とゆきにとっての、友達の形だった。どちらかが違う考えだったら成り立たなかったと思うけど、幸い、ゆきも私も、その適度な距離感を心地良いと感じていた。だからこそ、何年先に再会したとしても、私達はきっと、ずっとお互いの前では自然体でいられるのだと思う。
 そのゆきがこんなに寛人とのことを問い詰めて来るのは、ひとえに、私を心配してくれているのだ。別れてから今まで、恋を遠ざけ、寛人に関する全てのものから逃げていた私を知っているから。
 また寛人に近付くことで、私が傷付くことを、私以上に、彼女は怯えてくれている。
 ともすれば睨んでいるように見えるけれど、その瞳は、優しい。それにしっかりと微笑んだ。
「……うん。じゃあ、話すね」
「うん」
「……ところどころ、言えないこともあるかもしれない。でも、今言えることは精一杯、言うから」
「……本当は、全部言って欲しいんだけどね。それでもいい」
 だから、話して。そう言うゆきに、やっぱり私は彼女のことが好きだと、心から思った。

 無理矢理キスされたことは、ゆきが怒り狂いそうだから言わないでおいた。だけどそれ以外のことは、出来るだけ正直に言うようにした。
 私の話を聞いてしばらく、ゆきは何も言わなかった。ただ一つ、ぽつりと質問をして来る。
「……洒井に美哉を送って行け、って言ったのは、大塚だったのよね?」
「って、寛人は言ってた」
「……」
 何か考え込んだゆきは、しばらくして大きくため息を吐く。その姿に、呆れられてしまったのか、と不安になった。
「あの、ゆき?」
「何?」
「あ、の。……呆れちゃった?何流されてるんだ、とか、思ってる?」
 そうされても仕方ないけれど、もし、ゆきに幻滅されたら、すごく嫌だな、とは思う。嫌というか、悲しい。そうされてもおかしくないことは分かっているけれど、それでも、ゆきに離れて行って欲しくない。
 そんな気持ちが顔に出ていたのだろうか、ゆきは髪を掻きあげて、苦笑した。その綺麗な顔に見惚れていると、急に彼女の指が伸びてきて、でこピンをされる。
「った、」
「何て顔してんの」
 鈍い痛みに、慌てて額をさする私に、ゆきは楽しそうに目を細めた。そして残った梅ソーダを飲み干す。
「まぁ正直、ちょっと呆れてなくはないけどね。普通、流されてばっかり、っていうことはあまりないから」
「……どういうこと?」
「流されるのには、本人の意思がどこかしら反映されている、ってあたしは思うの。美哉も、洒井を受け入れているからこそ、流されているんじゃないか、って。だからあたしは、あんなに傷付けられておいて、それでも洒井を受け入れることには、ちょっと呆れてる」

 ――その言葉に。正直、すごく核心をつかれた気がした。
 確かに、私、本気で寛人が嫌なら、最初みたいに蹴ったり、思い切り暴れたりすれば良かった。なのに私は自分の行動に言い訳をつけて、寛人のことを、本気で拒否はしていない。それは多分、本心では寛人を受け入れつつあるんだろう。
 この間だって、あんなに近くで触れられたのに、私はその手を振り切ろうなんて、考えも及ばなかった。もちろんあれは精神が弱っていたから、とも言えるけれど。そもそも本当に拒否している人間を、そんな時に自分の懐には置いておけない。何とか理由をつけて、離れてもらおうとする。
 あんなに、泣いたのに。あんなに、信じても無駄だと、いつかは離れてしまうだろうと、思っていたのに。
 私はいつの間に、寛人のいられるスペースを広げてしまったのだろう。

 かたり、とテーブルにコップを置く音が、何故か妙に部屋の中に響く。はっとして雪の方を見ると、ひどく真剣なまなざしで、私を見ていた。その視線に、呼吸をすることも、苦しくなる位。
「……本心を言えばね。洒井なんて、やめてほしい。あんなことがあった訳だし、その後六年も美哉を放っておいて、突然こんな風にあんたを振りまわして。それに今はともかく、あいつは八月には、日本から出て行くから。
 元サヤに戻っても、ドイツと日本の遠距離なんてきついし、スポーツ選手であんな美形なんだから、本当か嘘かも分からないようなゴシップもたくさん出ると思う。それにきっと美哉は大丈夫だから、って笑うでしょう。そういうあんたの空元気とか、見たくないの」
「……」
「でも、あんたがどんなに苦しい道でも、そこに行くと決めたのなら、あたしは、止めない。他に良い男なんてたくさんいるし、そっちに行った方がいいと思うけど、それでも洒井が良いなら、応援するよ。あんたが選んだ相手なら、きっとそれが一番、幸せだから」

 ――だから、ねぇ。美哉は、どうしたいの?

 水分を帯びて輝く唇を見つめながら、私はゆっくりと、息をした。
「……私、は」
 微かに震えるコップは、自分の震えから来ていることに、始めて気付いた。真っ直ぐな瞳は、私の真意を見定めようと、光っている。それに対峙する私の瞳は、今頃、どんな色をしているのだろう。瞬きを忘れて、目が乾いていく。それでも、逸らすことは許されない。
「……もう、泣きたくない、よ」
「……」
「でも、――今の生活を、手離したくない」
 泣きそうな声で零れた言葉は、真実だった。
 今の私を構成する、矛盾した想いだった。
「正直、怖いよ。寛人の真意は分からないから。暇つぶしなのか、他の目的があるのか。なのに優しくするし、私の欲しいもの、くれようとする。そういうものに慣れていって、それで寛人が今離れたら、すごく泣くと思うの」
 まだ彼と私の間には、決定的な話し合いの場はない。
 最初は、なんとなく話す雰囲気じゃなかったから。その後は、話しあってしまったら、今の関係が壊れてしまう気がして。私自身が、それを後回しにしている。
「だけど、だけどね。怖いけど、今一緒にいたい、って思うの。私から、一緒にいる時間を消すことは、きっともう、出来ない」
 多分、私はアドレスを交換した時、寛人と一緒にいる、って決めてしまった。まだ腹は決まっていない癖に、自分の気持ちに逃げ道を残している癖に。
 ――彼が側にいてくれる限り。私からは、離れない。
 そんな気持ちが、当たり前のように、私の心の一番奥に、大事にとってある。それはあの頃の後悔の名残でしかないのだとしても。

 ゆきはしばらく私の眼を見た後、静かに笑った。ほんの少し、泣きそうに眉毛を下げて。
「……そっか」
 それだけ、言う。
 ごめんね、とは言えなかった。心配してくれてありがとう、とも。
 いつか別れが来たとして、ゆきはこんな馬鹿な私のことを、叱りながら、心配してくれるのだろう。本気で寛人に、怒ってくれるのだろう。
 それでも、私を見守る決意をしてくれた彼女に、私は何も言えない。
 玄関のドアが開く音に、私は自分自身の腹を決める覚悟もしなければならない、と感じた。



 

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