18. 〜reason〜


 七月に入り、気温は徐々に上がっていく。まだプールには少し寒いかな?と思う日もたまにあるけれど、おおむね暑い。外で元気に遊ぶ子供たちに感心しつつ、熱中病などにならないように、水分補給や帽子の着用を促す。それだけでもTシャツが汗でぐっしょりになってしまう、そんな季節。
 ――私はとっても、憂鬱です。

「……はぁぁぁ」
 一日の仕事を終えて、机に戻る。手に持った封筒を見て、深くため息を落とす私を見て、書類作業をしていた玲子先生が首を傾げた。
「美哉先生。どうかされたんですか?」
「あー……うん。とりあえず、玲子先生、お疲れ様」
「お疲れ様です」
 彼女が笑う度、後ろで一つにまとめた髪が、ふわりと揺れる。きっと世の男性はこれに触りたくなるんだろうなぁ、なんて思いながら、エプロンを外した。そんな私を見て、玲子先生はあれ、と声をあげる。
「今日、中番でしたっけ?」
「うん。先に帰ります」
「あちゃあ。今日美哉先生も遅番だと思ってたから、終わった後にお店でも誘おうと思ってたんですよ」
「えー、嘘行きたい」
「また今度にしましょう。隣の駅に、結構いい雰囲気のところ見つけたんですよ」
 玲子先生からの折角のお誘い、待ってるよ、と言いたいところだけど、明日私は早番だ。しばらくお酒なんて飲んでないし、玲子先生が勧めるところは基本的にどこも良いところが多い。週末にでも行こうね、と言おうとした時。

「何て言っても、お給料出たんですからね!」
 輝く微笑みの玲子先生に、テンションがまた、がくりと落ちた。

「……そうだねー。あはは……」
「み、美哉先生?」
 手の中の封筒の重みが、今更圧し掛かって来る。暗い笑いを零す私に玲子先生は怯えているので、軽く苦笑して見せた。

 寛人が、この園にやって来た時のこと。
 私は不注意にも子供を門の外に出してしまった。その上、男性と職務中にいちゃついて――実際は違うとしても――、実際には何もなかったけれど、園としての信頼問題に関わることをしてしまったのだ。その時、園長先生にこっぴどく叱られ、減俸を言い渡された。それは当然だと思うし、納得もしている。けれど今月は他にも保護者の方に暴言を吐いてしまったり、荷物の発注ミスをしたり、ミスが続いている。後の二つについては何も言われていないけれど、ここまで来ると減らされても仕方ないんじゃないかな、と思ったり。
 元々、保育士としての給料はそんなに高いものではない。薄給と言っても良い位。もちろん、この仕事にはとてもやりがいを感じているし、後悔したことは一度もない。給料の安さも知っていてこの道に来た訳だし。ただそんな中で減俸になってしまうと、額によっては生活することも困難になってしまう。
(どうか、どうか!)
 自業自得だとは分かっています、反省もしています、もうしません、だからなにとぞ。そんなにお給料が減っておりませんように!
 給与明細を渡した時の園長先生の笑顔を思い浮かべながら、私は思いきって、封筒を開けた。
「……!」
 一瞬、怖くて目を閉じてしまう。最初に最悪な想像をしていけば大丈夫だ、と言うけれど、現実と言うのは想像以上に悲しい結果を連れて来ることもある。
 どうしよう。目を開けるべきか、否か。いやでも。ああ、このまま悩んでも埒があかない。諦めて。
 ば、と目を開く。
 名前の横に書かれている、今月の給与額。それは。
「……あれ?」
「美哉先生?」
 隣で玲子先生が、私の名前を呼んでいる。でも、答えられなかった。目を皿のようにして、薄い一枚の紙を隅々まで見るのに必死だったから。
 元々の給与額から、税などの天引き分を差し引き、残業や休日出勤の手当て分を追加したのが給与額。だけど何度見直しても、その数字は――。
「いつもと、変わらない。……よね」
 どれくらいカットされるのか悩んだ挙句見たけれど、いつもとほぼ変わらない。まぁ、いくらかは減っているけれど、あまり残業しなかった月と同じくらい。つまり、給与のベース額は変わっていない、ということか。
 素直に喜べればいいのだけれど、そこまで単純な脳味噌をしている訳じゃない。とりあえず、園長先生に聞きに行くことにした。
「じゃあ、また明日、玲子先生っ」
「え、あ、はい」
 びっくり顔の玲子先生を置いて、給与明細を片手に走っていく。目指すは隣の部屋、園長室。

 ―コンコン
 深呼吸と一緒に園長先生の部屋のドアをノックすると、一拍置いて「どうぞ」と柔らかな声が掛けられた。耳をすませても、部屋の中に他の人の声は聞こえなかったし、今は大丈夫だと思う。と言っても、園長先生は私と違って忙しい人だから、手短に話を済ませるつもりだ。
「失礼します」
「あら?美哉先生」
 入室すると、こじんまりとしたデスクに向かい、日誌をチェックしていた園長先生。私を見て、驚いたように目を丸くする。でもすぐににっこり微笑んで、眼鏡を外し、私に対面した。一礼して、園長先生に近付く。そしてそのデスクに、先程受け取った給与明細を乗せる。それを見て、園長先生は首を傾げる。
「これがどうかしたの?」
「あの、私今月、減俸処分になったんですよね」
「そうね。だから減ってるじゃない」
「でも、今月ミスが続いていましたし、もっと減るのが妥当なんじゃないでしょうか」
 真っ直ぐな目で、園長先生に尋ねる。
 減っていないことは嬉しいけれど、気を遣われたのなら、申し訳ないし、情けない。それでなくとも、園長先生はあんなミスをした私に、今月だけ、と条件をつけてくれたのだから。
 明細書と私を何往復か、ぽかんと見ていた園長先生は、しばらくして、苦笑した。
「……美哉先生って、本当に真っ直ぐな人、よねぇ」
「へ、え、あ、ありがとうございます……?」
「今まで、もっと給与を上げてくれ、と文句を言った人はいても、もっと減らすべきだ、と文句を言った人はいなかったわ」
 園長先生の言葉に、どう反応していいか分からず、とりあえずお礼を言ってみる。それに園長先生はくすりと笑い、立ち上がって自分の後ろにあった窓を大きく開いた。気付けば、太陽がもうオレンジに染まっている。この時間帯になると、大分風が涼しい。ふわりと髪を揺らす風が心地良くて、目を細めた。
「そういうあなただから、周りの人も優しくなるし、何より、……洒井さんは一生懸命だったんでしょうね」
「……え?」
 その瞬間。園長先生が漏らした言葉に、最初脳味噌が追いつかなかった。
 だけどじわりと広がる、その意味。どうして。どうして、今ここで、寛人の名前が……?
 呆然とする私を見て、園長先生は、その顔を深い笑みに変えた。
「三日にあげず、洒井さん、この園に来ていたのよ。最初は、あのことがあった翌日に。たくまくんと、その後両親に謝罪したいから、家の住所を教えてくれ、と言って」
 ――嘘。
 私は最初、それしか思わなかった。
「断ったけれどね。個人情報を勝手に開示する訳にはいかないし。そうしたら、丁度たくまくんのお迎えが来たから、お母さんとたくまくんの二人に謝って、出来ればお父さん側にも謝罪したい、って。深く頭を下げていた」
「……」
「たくまくんには、随分嫌がられていたけれどね。ライバルに家なんか来てほしくない!って」
 そんなの、知らない。笑いながら話す園長先生の言葉に、私はただただ呆然としていた。
「それでも結局、洒井さん、とても美形でしょう?お母さんOKしちゃって、家に連れて行ったのよ。お父さんが帰って来られてからは、何でもサッカーが大好きな人らしくて、とても話が盛り上がったそうよ。お父さんは洒井さんの大ファンだそうで、男性二人、楽しくお酒を呑んだんですって」
「そん、な」
「それから、美哉先生が早番の日には、六時過ぎくらいにふらっと来て、時間外の子の面倒見てたわ。男の子にはサッカーを教えてあげたり、女の子のおままごとに付き合ってあげたり。倉庫の整理とかも積極的にやってくれたのよ。助かるけれど申し訳ないから、謝礼金を出す、って言うのにずっと突っぱねられてしまって」
 そこまで話すと、園長先生は大きく息を吐いた。そして、悪戯っ子みたいな目で、こちらを見る。
「洒井さん、言ってたわ。『大したことじゃないんですけど、出来ることなら、俺じゃなくて美哉の給与につけてあげてください』って」
「っ」
「そう言って、何でも積極的にやってくれた。ただ、美哉先生には言わないで欲しい、って。言えば気にするだろうから、って」
 驚いた表情のまま、頬の筋肉が固まってしまっている気がする。
 想像出来ない。寛人が、おままごととか、謝罪とか。またあの無表情で、面白くもなさそうな顔で、やっていたんだろうか。私が、この家に来ない間、どうせ他の女の人のところにでも行っているんだろうか、って思っている間。
 ずっとあの人は、ここで、私のために?
「だから、あなたのその給与は正当なものよ」
「っでも、だったらこれは寛人のものでっ」
 興奮して、気付いたら寛人のことを名前で呼んでいた。慌てて口を塞ぐも、園長先生は気付いていたようで、笑みを深くする。「そうね」と頷き、窓の外へと視線を向ける。
「もちろん、洒井さんへの謝礼をあなたへの給与に含んだ訳じゃないわ。ただ、あんな一生懸命に美哉先生のために頑張る人の言葉、無碍には出来ないもの」
「……ですが、」
「――洒井さん、美哉先生の話をする時だけは、すごく表情が柔らかくなるのよね」
 反論しようと口を開いた瞬間、園長先生がそっと話し始めた。慌てて口を噤むと、園長先生は椅子に座り、再び私に向き直る。慌てて身体を真っ直ぐに正し、ぴしりと気をつけの姿勢になると、園長先生は苦笑を零した。
「……迎えに来た保護者の方達も、園児も、他の職員の方も、美哉先生の話をしながら、とても楽しそうに笑ってた。あなたは、本当に色々な人に、想われている。いなくても、あなたの話をするだけで笑顔になる人がいる。それは、あなたが色んな人を大切にして来た結果だと思うの。私自身、そんなあなただから、減俸額を最小限にした。あなたなら、そんなことをしなくても、絶対にきちんと反省出来ると思ったから。
 そう思うきっかけを作ったのは洒井さんだけれど、決めたのは、美哉先生がここで働いてきた四年間――短大のころを含めたら、五年になるのね――という時間よ。その間、あなたが積み重ねてきたものよ。だから美哉先生は、胸を張って、それを受け取っていいの」

 その、瞬間。
 ぽろりと涙が、零れそうになった。
 
 だけどぐっと堪えて、ただ頭を下げる。
 私は、何を言っていたのだろう。どうして園長先生が私を理解してくれないなんて、そんなことを言えたのだろう。まるで子供の疳癪だった。気に入らないことに腹を立てるばかりで、何も見ようもしていなかった。そんな私に、優しさを与えてもらう資格はない。
 けれどそう言って相手の好意を突っぱねることに、どんな意味があるのだろう。
 相手の心に自分が足る者でないと言うならば、足るだけの人間になればいい。これから、そうなっていけばいい。
 だけど、今はただ。
「ありがとうございます……っ」

* * *

 園を出てすぐに、駅まで走った。とにかく、走らなくちゃ、と、それだけを思った。電車に乗っている間も落ち着けなくて、苛々と貧乏揺すりをして。駅に着いた途端、また走り出した。
「っは、あ……はぁっ」
 携帯は、さっきちゃんと確認した。いつも通りの、素っ気ないメール。きっとまた、家に着いたら、無表情で私を、出迎えるんだろうか。
 汗が噴き出す。息が荒くなり、足がもつれる。それでも何とか転ばないように気をつけた。どうしても足は止めたくなくて。こんな時、ズボンにTシャツという簡易な格好で本当に良かったと思う。だって、走ることが出来るから。スカートにヒールじゃ、絶対に出来ないことだもの。
 祈るように回したドアノブは、素直に回り、ドアは開いた。靴を脱ぐのすら惜しかったけれど、踏みつぶすように、脱ぎ捨てた。並べている暇なんてない。階段を駆け上がり、リビングに続くドアを開けた。
「ひろ……っ」
 荒い息で、彼の名前を呼ぶ。だけど予想に反して、そこに寛人はいなくて。勢いで身体が前に大きく、つんのめった。
「え、っ、……」
 転びそうになるのを、慌てて腕を踏ん張って留まる。そして、辺りをぐるりと見回すと、寛人はちゃんといた。ソファの上に。すやすやと、寝息を立てて。
「……うそぉ」
 ――どうしてこう、タイミングが合わないのか。がっくり、その場に膝をついてしまった。
 それでも何となく諦めがたくて、四つん這いで、寛人の方に近付いてみる。二人掛けのソファなんだけど、寛人が横になるには、狭すぎたみたい。膝から下がソファの外へはみ出ている。頭を腕置き部分に乗せて、お腹の上には本が乗っかっている。それに手が添えられているから、多分、本を読んでいた途中だったんだろう。何かと思って見てみれば、寛人の好きな作家の新作だった。変わらないその趣味に、小さく苦笑を零す。
 眠るその額には、うっすらと汗を掻いている。クーラーを使って良いと言ったのに、妙なところで頑固な人だ。でも、窓から吹き込む風はクーラーでは感じられない気持ちよさがあるから、気持ちは分からなくないけれど。
「……」
 そっと、手を伸ばして、その前髪を掻きわけてみる。額に少し指が触れて、慌てて離れたけれど、起きる様子はない。そこでもう一度、近付いてみることにした。
 穏やかな寝顔。起きている時は、美形だけど硬質な雰囲気が漂う。でも今は、何処かあどけなくて、無防備で。なんとなく、その頬を抓ってみたけれど、別に柔らかくはなかった。引き締まった、男性の頬。
「……なーんだ」
 小声で呟き、すぐに指を離した。そしてそのまま、もう一度。その寝顔を、見つめる。

 園長先生の話を聞いて。寛人に会いたいな、って。それだけを思って、ここまで走って来た。どうして会いたいのかすら、考えなかった。ただ考えるだけで胸が一杯になって、苦しくて。
 何も言わなかった。私に対しての謝罪も、今まで何をしていたのかも、何を、思っているのかも。だから私は寛人は私のこと、何も気に掛けてない、って。そう思っていたのに。
 ――言わないだけで、ずっと、考えていてくれた。私のこと。
 そしてまた、何気ない顔で、彼は私に与える。私でも気付かなかったことですら、掬いあげて、大事にしてくれる。
 二人で傷付いた過去を引きずる私を知っているはずなのに、それを塗り替えるように、優しさで、居心地の良さで、私の日々を囲んでいく。
 その先に待ちうけるものを、あなただって知らないはずは、無いのに。

「……やっぱり、ずるいよ。寛人は」

 ぽつりと、一つ、呟いて。ぽろりと、一粒、涙を零して。
 私は寛人の寝顔を、見つめていた。夕焼けが落ちるまで、ずっと。ずっと。



 

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