19. 〜date〜


「美哉、明日暇か」
 食事中。突然寛人が真剣な表情でそんなことを言うものだから。
「……はい」
 馬鹿正直に返事をしてしまった。

 ――明けて土曜日。
 給料日の日は結局、起きた寛人に何も言えなかった。いつも通り、ご飯を一緒に食べて。そうしたら寛人が、ご飯中に、今日のことを切りだしたのだ。
 今まで二日おきに会っていたから、翌日に会う、って変な感じ。しかも、だ。
「じゃあ、明日九時に駅前で待ち合わせしよう。結構、遠出になるから」
 ……それって、もしかしてデート?とは、口に出しては聞けなかったけれども。だって、待ち合わせって。遠出って。
 何処行くんだろう。何が必要?ていうか、服どうしよう!?なんて夜中過ぎまで悩んでいたので、今日は大分寝不足だ。
「……もっと早く言ってくれれば良かったのに」
 一人、小声で呟いてみるものの、多分二週間前とかに言われても、それはそれでパニックになっていたと思う。だから今で良かったのかな。
 悩んだ挙句、服はボーダーのキャミソールの上に、フレンチスリーブの白いチュニック。あとはカーキ色の、レースがついた七分丈パンツ。これならアウトドアでも大丈夫なはず。お弁当に水筒、一応レジャーシートも持つ。万が一クーラーが効いたところだと寒いので、タオルなんかも。あとは虫よけスプレーと、帽子は最初から被っていこう。去年買った、ベージュのコサージュ付きキャスケット。日焼け止めを塗って、靴は色々悩んだけれど、バレエパンプスを履いていくことにする。ヒールが無いから歩きやすいし、見た目に可愛いし。サンダルはいざという時に、結構困るから。
 気付くと、待ち合わせ時間まで十五分を切っていた。慌てて家を飛び出し、私は駅へと走った。

「は、ぁ……っはぁ」
 小倉塚駅に着いたのは、九時二分前。辺りを見ると、時計台の下に、長身の男性が立っているだけで、他には誰もいない。肩幅の広さや、足の長さ、頭部の小ささから考えても、彼が寛人で間違いないと思う。
 しかし、こう改めて見ると、寛人ってものすごくスタイルが良いんだな、ということに気付く。日本人ではありえないレベル。しばらく彼の背中を眺めた後、もう一度、自分の服に視線を落とす。出がけに全身鏡で確認して、ばっちりだ!と思ったはずなのに。何故か、途端に色褪せて感じてしまって。
「美哉?」
「ひやぁぁぁぁっ」
 ……なんて、物思いにふけっていたら突然声を掛けられ、飛びのいてしまった。
 目の前には、不思議そうに首を傾げる美形。深くキャップを被っているけれど、背が高いから、下から見れば良く分かった。
 今日の寛人の格好は、黒の半袖シャツの中にタンクトップ、下はチノパン。足元を確認するとスニーカーだし、今日の格好は間違っていなかったはず。内心ガッツポーズを決めていると、寛人がちょっと眉間に皺を寄せて、私を指差した。
「何?」
「……それ」
 彼の指の先を辿ると、正しくは私ではなくて、私が肩に掛けている、バッグを指差しているらしい。彼の視線に従い、視線を下ろす。
 そこにあるのは、マリン柄の布製ボストンバッグ。色々荷物を詰め込んだせいで、かなり重たい。そしてでかい。
 そっと寛人を窺うと、不機嫌と言うよりは、呆れた顔だった。……そうだね、寛人のバッグの三倍はあるね。
 小さくため息を零すと、寛人は黙って、私の肩からバッグの紐をはずし、そのまま持って歩き出した。慌てて彼を追いかけ、バッグに手を伸ばす。しかし、気配を感じ取ったのか、上手く避けられてしまう。
「ひ、寛人っ。いいよ、それくらい自分で持てるから」
「持つ」
「大丈夫だよ」
 飄々とした彼に言い募るものの、無視してさっさと改札を抜けてしまった。私もそれに倣う。ホームに着いても、バッグを取り返そうとする私に呆れ顔の寛人は、小さくため息を吐いて。
「……いいから。これくらい、任せろ」
 ふ、と目の前に出来た影。それは、伸びてきた寛人の腕で。近付いた距離に、香る、彼の匂い。それはゆっくりと、私の頭に近付いて。
 ――思わず、大きく距離を取ってしまった。
「……」
「……」
 黙りこむ、寛人。視線を逸らす、私。もう一度、腕が伸びてきたけれど。黙って逃げた。横から不満そうな気配を感じるけれど、元の位置には戻れない。居心地が悪くて、指を曲げたり、伸ばしたり、無意味な行動を繰り返す。その内、電車が来たから並んで乗りこんだのだけど。
 クーラーが効いた涼しい車内に、ほっとした。
「……」
 被っているキャスケットを手で押さえて、深く被った。見られたくない。今、顔がすごいことになってる。
 ――あつい。
 全身、発熱してるみたい。あのまま、寛人に触れられていたら、と。想像するだけで、心臓が壊れそうになって。怖くて、思わず逃げてしまった。
 想像だけであれほどならば、実際に触れられたら、どうなってしまうのだろう。
「……美哉」
「へ、っ」
 突然、名前を呼ばれる。ただそれだけなのに、また心臓が、大きく跳ねた。
 慌てて寛人を見上げると、若干眉間に皺は寄っているものの、そんな不機嫌そうな空気は残っていない。ただ、網棚に荷物を乗せて、私を手招きしている。自分がドアのところで立ち止まっていたことに気付いて、慌てて寛人の方へ向かった。
「座れよ」
「あ、う、うん」
 その言葉に、素直に頷いて、座席に座る。いつも仕事に行く時使っている電車なのに、不思議。寛人が一緒だと、完全に非日常になってしまう。
 まだ九時という時間だからか、車内は席がちらほら空いている程度で、意外に込み合っている。だけど今日は土曜日、いつもと違って乗客の層は、通勤よりも、家族連れや友達など、お出かけ雰囲気の人が多い。そんな中、背が高くスタイルも良い寛人は、色んな女の人に見つめられていた。
 そんな中で、寛人と肩が触れ合う程の距離にいることに、居心地の悪さを感じる。それに詰めればまだ人が座れるかもしれない、と思って、隣の若い男性の方に寄ってみる。すると。
「、」
「美哉、そんなに詰めなくていい」
 肩を抱かれ、寛人の方に引き寄せられた。
 詰めなくていいと言いながら、何故かぺったりと張り付いている状態。勢い良くされたものだから、思わず縋りつくような格好になってしまったので、尚更恥ずかしい。まるでバカップルみたいな状態に、一気に顔が熱くなった。
「っ、わ、分かったからっ」
 周りの人の視線も自分達に集まっているような気がして、慌てて寛人の腕を振り解く。意外と簡単に離れたそれにほっとしたけれど、近付いた距離は、そのまま。
「……」
 左半身が、あつい。触れ合う腕に、そう言えば今日走ったんだ、と思いだした。もしかしたら、汗をかいているかもしれない。ていうか、汗臭いとか思われたらどうしよう。そう思って、身体を丸めて、出来るだけ触れないように注意する。だけど肩や太ももに関してはそうも行かなくて、ずっとずっと、その温もりだけ意識していた。寛人も、特に私に話しかけることもなく、二人揺られながら、時間が過ぎて行く。

 職場のある駅を通り過ぎ、大きなショッピングモールがある駅も通り過ぎ。どこまで行くのか、と思っていたところで、乗り換えた。ますます、どこを目指しているのか分からない。とにかく、前を歩く寛人の背中を追いかける。
 だけど、乗り換えた電車を見て。降りた駅を見て。私はようやく、寛人がどこに向かっているのかを、知った。
(……どうして)
 駅から歩いて、二十分。近付く緑の気配は、安らぎと涼しい風をもたらす。間違えるはずがない。いつもとは道が違うけれど、何度も何度も、やって来た場所だから。寛人と二人、歩いた場所だから。
 ――そこは付き合っていた頃、よく一緒に行っていた自然公園だった。
 さわさわと揺れる緑の葉。木漏れ日の中にいる彼の後ろ姿は、あの頃と全く変わらないように思える。けれどもう、違うのだ。どんなに過去に重ねようとしても、私達はあの頃と同じにはなれない。チュニックの裾がふわりと揺れるのを眺めながら、私は寛人の背中を、目で追う。
(どうして、今更ここへやって来たの。ここを、選んだの?)
 入口から強張っていた足が、徐々に速度を落とし、ついには止まってしまった。そんな私に気付かないで先へ進んだ寛人は、小さな広場の中心で足を止める。太陽を真っ直ぐに浴びて、気持ち良さそうに緩んだ横顔。
 それにまた、鼓動がどくりと動いた。
 止めようとしても、止められない。私の意思なんて無視して、音を立てる。視線を外せばいいはずなのに、それも出来なくて。ただ、寛人の動きを、追いかける。息すら止めて、一生懸命に。
 だけど長い時間にも思えた瞬間は、すぐに壊れた。ころころと、寛人の足にぶつかった、サッカーボールのお陰で。
 視線をそちらに落とした寛人が、サッカーボールを拾い上げる。そのまま、とん、と軽く蹴り上げた。膝、胸、足、頭。ぽん、ぽん、と跳ねて、まるで意思を持っているみたい。吸い寄せられるように寛人の身体へと落ちてきて、寛人はそれをまた、宙へ浮かせる。その表情は変わらないけれど、瞳の色が、いつもよりずっとキラキラしていて。出会った時の、あの真っ直ぐで揺るぎない瞳のまま。
 最後にぽん、と大きく跳ねたそれは、静かに軌道を変えて、寛人から離れて行く。あちゃあ、と思ったら。それは、広場に現れた小学二年生くらいの男の子の手の中に、収まった。ぽかんとする彼を無視して、寛人は振り返り、私に向き直った。突然視線が合って、ドキリとする。汗がキラキラと光に反射して、太陽みたいに眩しい。それにまた見惚れていると、寛人がこちらに歩いてきた。
「美――」
 ……だけど、四・五歩歩いたところで。
「すっげぇぇぇぇ!あんた洒井選手だろ!」
「、」
 歓声をあげた少年が、寛人に後ろから抱き付いていた。腰に両腕を回された寛人は、大きく前へつんのめる。だけど何とか踏みとどまって、眉間に皺を寄せ、後ろへ振り返った。そして少年に向かって、口を開く。
「……お前、」
「おい、こっち来いよー!サッカーの洒井選手だぞー!」
 だけどその前に、少年は大声で後ろに向かって叫び。ぞろぞろと、奥から何人かの同年代くらいの少年が歩いてきた。そしてみんな一様に、寛人を見て目を輝かせる。
「うっわ、マジじゃんっ」
「えーうそ、何でーっ」
「やっば、え、やっばー!」
 全員一気に興奮して騒ぎ、寛人の腕やら足やらにしがみつく。目を丸くし、ぐるぐると振り回される寛人に、思わず笑ってしまった。
 でも、やっぱりサッカー少年からすると、本物のサッカー選手って憧れるものだよね。無邪気なその瞳は、見ていてとても可愛い。
「なぁ、ワールドカップの話聞かせてよっ」
「つーかサッカー教えてっ」
 たくさんの瞳が、期待を込めて寛人を見る。困ったように視線を彷徨わせた寛人は、私をじっと見つめた。それに私は、笑って頷いてみせる。
 そのまましばらく私を見ると、彼はため息と一緒に、小学生たちに視線を向けて。
「……何を教えてほしいんだ?」
 低い声で、そう言った。ぶっきらぼうで、ちょっと怖く聞こえるけれど、憧れの人に会った少年たちのパワーはそんなものでは怯まない。一気に笑顔が広がり、寛人の腕を取って、茂みの奥へと引っ張って行った。私もそれを追いかける。
 茂みの奥は、昔と一緒。二十メートル四方くらいの平地が二個続きになっていて、片方はきちんと整備されていて、茶色い大地が滑らかに広がっている。もう片方は、ところどころ草が生えていて、遊具が置かれている。そちらでは何人かの小さい子やお母さんが話していて、寛人に気付くと目を丸くしていた。
「美哉、これ」
「あ、ありがとう」
 それに苦笑していると、寛人が持っていたバッグを渡しに来た。改めて受け取ると、随分重たい。今まで寛人、顔にも態度にも出さなかったけど、随分つらかったんじゃないかな。申し訳なく思い、謝ろうと思ったら小学生の子たちが寛人を迎えに来て、そのまま行ってしまった。
「……さて」
 小さく笑ってそれを見送り、近くの木陰の下にシートを引いた。持ってきたのは、大正解だったみたい。シートを引いた後は、長時間歩いて少し喉も乾いたし、持ってきた麦茶を飲むことにする。保温の水筒なので、氷も溶けず、冷たいまま。熱い肌に一滴、麦茶が零れた。冷たくて、気持ち良い。
 風の音を聞きながら、走り回る彼らを見つめる。この暑い中、太陽の真下で走って、飛んで、身体全体使って。でもみんな、とても楽しそうな顔をしている。サッカーが大好きで仕方ない、っていう顔。一番年上のはずの寛人ですら、全く同じような顔して、一生懸命ボールを追いかけているから。
 六年前と同じ光景に、私の頬は自然と緩んだ。
 


 

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