21. 〜uneasiness〜


 記憶に残るのは、手の温もり、前髪擽る吐息、そして――唇の柔らかさ。
 何度も何度も、繰り返し脳裏に蘇っては、私の意識の奥深くまで、その存在を知らしめる。何度も忘れようと思うのに、忘れられない。
「……先生」
 何もかもが、寛人で一杯になる。それは今にも、溢れそうなほどで。
「……哉先生」
 怖いくらい、私を埋め尽くしていく。
「美哉先生!」
「ふぇええい!?」
 だけど、その瞬間。寛人の顔は、何故か一瞬で玲子先生に変わった。
「……え?」
「お茶、零してますよ!」
「へ……わ、わわわっ」
 間抜けな声をあげる私に、玲子先生は焦った顔で、私の手元を指差した。そこには、私が飲もうとついさっき蓋を開けたペットボトルのお茶。それは何故か真横にされていて、中身が膝に思いっきり零れていた。慌てて直すものの、すでに三分の一は零れ、服に染み込んでいる。思いっきり匂う緑茶の香りに、大きくため息を吐いた。
「ごめん、やっちゃった」
「私は大丈夫ですけど。着替え、ありますか?」
「うん、更衣室にジャージ置いてあるから。あ、掃除は自分でするから大丈夫だよ」
 雑巾を手にしている玲子先生に手を振って、掃除を止めてもらう。自分でしたことなんだから、後輩にやらせる訳にはいかない。ちょっと心配そうな玲子先生に笑って、早足で着替えて職員室に戻った。
 濡れた場所を確認すると、幸い、私の椅子と床だけだ。それにほっと顔を緩めながら、掃除用ロッカーからバケツと雑巾を取り出して、さっさと拭いた。玲子先生は、先輩一人に掃除させるという状況に居心地が悪そうだけれど、休憩中の彼女を手伝わせるなんてもっての外だ。
 五分もすると終わり、雑巾とバケツを洗って干しておけば完了。会議用テーブルの玲子先生の向かいの席に座り、置いてあった大福にかぶりついた。そんな私を見て、玲子先生は心配そうな顔をしている。
「美哉先生、どうかしましたか?」
「へ?どうか、って?」
「何だか今週に入って割とぼーっとしてますし、顔も赤いですし。……もしかして、風邪とかですか?」
 その言葉に、内心ぎくりとしたものの。何とかにっこり笑って、やり過ごすことにする。
「あー、うん、大丈夫だよ。多分風邪じゃないと思うし」
「そうですか?でも心配ですから、続くようなら病院行ってくださいね」
「うん、ありがとう」
 ――言える訳が無い。
 顔が赤いのも、ぼーっとしてるのも、全部一人の男性のことを考えているからです、なんて。仕事をする人間として失格だし、普通にそんなことを言うのも恥ずかしい。
 とりあえず、今日の仕事はきちんと集中しよう、と改めて決意した。

* * *

 その後はなるたけ仕事に集中するようにしていたので、特にミスは犯さなかった。それにほっとしつつ、家に向かう。だけどその途中にチェックした携帯を見て、また表情が固まった。
「……」
 今日は、火曜日。確かに土曜日から数えて二日目だけど、あんなことの後だから、もしかしたら来ないのかな、って思ったのに。ほとんどいつも通りの時間、いつも通りの内容で、メールは来た。
 思わず、ごくりと唾を呑みこんでしまう。
 何を言われるか、何を言えば良いのか。色々シミュレーションしてみるものの、正解なんて分かりはしない。
 頭の中でごちゃごちゃと私が考え込んでいる内に、電車はゆっくりと発車し、私をすぐに最寄駅である小倉塚へと届けたのだった。

 ぎくしゃくと、だけど早足で、家へ急ぐ。ノブを握ると、それは素直に回って、何故だかほっとしてしまった。玄関を見ると、置いてあるのは、長年使っていそうなスニーカー。いつも見ているのに、今は何故か、それだけで。……顔が熱くなる。
 階段を昇りながら呼吸を整えて、リビングに続くドアの前で、大きく深呼吸をする。そして、ドアに手を掛けた瞬間。
「美哉?」
「……っ」
 向こうから現れた、寛人を見て。一気に言葉が、頭から消えてしまった。
「美哉?」
 ……背中を曲げ、私の顔を覗き込む。その不思議そうな表情にすら、顔が熱くなって。ドッドッドッ、なんて、心臓がもう、ありえない音を立てるくらい。
 だけどその指が私の頬に触れた瞬間、すぐに身体が動いた。
「だだだ大丈夫っ」
「……そうか。おかえり」
 無駄に腕を振りまわして寛人から離れて、壁にへばりつきながらにやにやする私。不審そうに眺めながらも、寛人はいつも通り、そう声を掛けた。そしてすぐに背中を向け、部屋に戻って行く。
(あれ?)
 何だかその対応に、違和感を感じた。違和感と言うか、拍子外れ、って言うか。
 私も、リビングに足を運ぶ。彼はソファに座って本を読んでいた。こちらを見ることもなく、真剣に。別に変なところはない。いつも通り。
 ――だから、変なのに。
 土曜日、あなたは私に触れたでしょう。この部屋に来てから、約束を守っているのか。寛人とあんな風に触れあったのは、三回目。一回目は私の気を逸らすためで、二回目は私を慰めるためで。だけどあの三回目は、全然違う気がした。寛人の瞳も、触れ方も。まるで六年前に戻ったような、そんな触れ方。
 だけど寛人は、何も言ってこない。
「……」
 じっと、その顔を見つめる。寛人は視線に気づいたのか、私を振り返って、首を傾げた。そして本をテーブルに置いて、こちらに歩いて来る。身を竦めつつも、そこから私は離れることはなかった。
「どうかしたのか?」
 目の前に立つ、寛人。彼を見るときは、いつだって首を上にあげなくちゃいけない。それでも頑張って背筋を伸ばして、真っ直ぐその瞳を見ようとするのは。
 彼の瞳に、映りたいからだ。
「……美哉」
 低い声が私の名前を呼ぶ。背筋が、ぞくりと震えた。真剣な顔をした寛人が、その手を私の頬に伸ばす。いつもは熱いと思うのに、今日は何故か、冷たいような気がする。クーラーに当たっていたから、かな。それとも、私の頬の方が、熱いんだろうか。
 寛人は頬に当てた手を、ゆっくりと額に当てる。前髪を掻き上げる手つきに、また、あの唇が触れるんだろうかと思った。だけど逃げようとは、思わない。そんなことすら、考えられない。

「――お前、風邪ひいてるんじゃないのか」
 だけど、寛人のその言葉で。半分閉じていた瞳を、大きく見開いた。

「……はい?」
「顔赤いし、目潤んでるし。なんか熱い気がする」
 しごく真面目な顔で話しかける寛人に、絶句した。何やら首や耳にまで触り始めて、体温を確認してるんだか知らないけれど、それにいちいち身を竦めてしまう。くすぐったいと言うか、何か、変な感じ。
 小さく震える私を見て、寛人は手を離すと、私から距離を取った。
「明日、仕事休んで病院行って来い。子供に移したら大変だろ」
 そう言って、背を向ける寛人に。
 何故か分からないけれど、……切れた。
「っばか!」
 子供じみた叫び声を上げる。それに振り返った寛人は、私の顔を見て、目を丸くした。その理由は多分、私の頬をぼろぼろと流れていく涙のせいだ。なんで泣いてるのか、私にだって分からない。ただ、感情が高ぶって仕方ないから。
「か、ぜなんて、ひいてない、もんっ」
 顔が赤いのも、体温が上がるのも。寛人のせいじゃない。それ以外に、ないじゃない。寛人が触れるから、寛人が側にいるから。
 なのにどうして、知らないふりするの。忘れて、しまうの。土曜日からずっと、私は寛人のことだけ考えて、頭ぐちゃぐちゃになって、もう、他のことなんて何も考えられないのに。
 あなたにとっては、すぐに忘れてしまうようなものだったの?
「っもう、やだっ、寛人といたくないっ、」
 ず、と零れてきた鼻水を啜り、寛人に叫ぶ。
 静かになった空間で、私の嗚咽と、時計の音だけが響く。しばらくして、腕でごしごし目元をこする私の耳に、低い声が届いた。
「……分かった」
 その言葉に顔を上げると、寛人は私に背を向けて荷物と本を取り、さっさとリビングの扉の方へ向かう。すれ違う時に、ちらりと私に視線を向けて。
「無茶するなよ」
 そんな、短い言葉だけ残して。寛人はさっさと、出て行ってしまった――。

 早足で去った、寛人の背中を思い出して。身体が震えて、その場に座り込んでしまった。
 どんなに拒絶したって、側にいたから。当たり前みたいに、許してくれたから。
 私、今、何を言った?ただ自分の思い通りにならないからって、それだけを理由に、心配してくれた寛人に対して、何を言った?
「……っ」
 一昨日感じた優しい空気なんて嘘みたいに、なった。私が壊してしまった。その事実にぞっとした。
『……分かった』
 低い声が、私の頭の中を何度も巡る。じわじわと毒みたいに回って、私の心を、ぎゅっと締めつけた。
 呆れられてしまったのだろうか。
 もう駄目だと、側にいるのも疲れたと、見放されてしまったのだろうか。
「……っ、ふ、ぅ」
 零れた涙が、床に染みを作る。それを見つめながら、私はただ、寛人の後ろ姿を思い出していた。決して私に振り返らないその背中が、もう帰って来ないような気がして。 



 

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