23. 〜kiss〜


 自覚してしまえば、早かった。元々、好きで仕方なくて付き合い始めた相手なのだ。後にも先にも、私には寛人しかいなかった。
 ただ振り返るだけで、胸がざわめく。名前を呼ばれるだけで、心臓が高鳴る。笑った顔を見た時なんて、そのまま死んでもいい、なんて思える程。
 抑えつけた期間が長すぎたためか、昔より悪化している気がする。どうしようもないくらい、私は今、恋をしている。

『……やっぱり、そうなったのね』
「う、うん。ごめんね」
 土曜日の、午後。電話の向こうで、大きなため息をしているのは、ゆきだ。
 寛人が好きだと気付いてすぐに、まずはゆきに伝えよう、と思った。あんなに心配していた彼女に、こんな結末を告げるのは申し訳ない気もしたけれど。やっぱり、伝えたかったから。
『別に、謝ることじゃないでしょ。最初に言ったけどね。あんたが選んだのなら、きっとそれが、一番正しいわ』
「ゆき……」
 その言葉は、まだ良いのかな、とどこかで迷っている私に喝を入れてくれた。そしてそんな優しい言葉をかけてくれるゆきに、深く感動する。
『でもさ、あいつ、ちょくちょく美哉の家に来てるんでしょ?自覚してから、進展とかないの?』
 だけど、ゆきがそう言った瞬間。心臓が、大きく跳ねた。
「え、あ、あ、あああの」
『何?キスでもした?……それとも、エッ』
「っちが!しょ、しょんなのある訳ないでしょっ!」
 とんでもないことを言おうとするゆきを慌ててぶった切り、見えてないと分かっているのに、かくかくと首を振る。思わず、舌を噛んだ
 そんなこと、ありえない。付き合ってるときだって、したことないのに。今は唇へのキスだってしてないし、寝室に入れたのもこの間が初めてだし。天地がひっくり返っても、ありえない。そう、思うのだけど。
 ぽわん、と同窓会の翌日に見た寛人の裸の上半身(実際はそれどころではなかったけれども)を思い出して、ぼっと顔が熱くなった。
 二十四歳としてあり得ない!と言われることもあるけれど、私はそういうことは、本っ当にノータッチだ。そりゃ知識としてはもちろん知っているけれど、友達の経験談とか、生々しくて聞いてられない。二十歳の頃は周りにどんどん彼氏持ちが増えたので焦ったりもしたけれど、好きでもない人とそういうことしたくもないし、段々と、気にしないでいいかな、と思えるようになった。
 ――寛人は、どうなんだろう。
 普通に考えて、あの頃と同じ、という訳はない。離れていた間に他の人に触れていたとしても、私に責める権利はない。そう思うと、身勝手にも、心がちくりと痛んだ。
『……まぁ、美哉相手にそうそう簡単にはいかないとは思うけど』
 考えごとに耽る私の耳に、ゆきの声が耳に入る。今電話中だったということを慌てて思い出して、電話を握りしめた。
「ご、ごめんっ、今何て言った?」
『うんにゃ、何も。……で?何も無いならさっきのあの妙などもりは何なのよ。お陰で勘繰っちゃったじゃない』
「え、あ、えと。その、あれはね?」
 あっさりとしたゆきの声に、そう言えばどもっちゃったな、ということを思い出す。そしてその時考えたこともまざまざと脳裏に浮かんで、また顔が熱くなった。
「……あ、あの。そのね。大したことじゃ、ないんだけど」
 もじもじと床に『の』の字を書きながら、ぼそぼそと話す。向こうのゆきが苛ついているのを何となく感じていたけれど、なかなか言いづらくて。でも、勢いで口を開いた。
「っあの!寛人が、すっごく格好いいんだけど、どうしたらいいと思う!?」
『……はぁ?』
 結果。ものすごーく呆れた返事が、私に降った。
「馬鹿なこと言ってるの分かるの、でもね、あ、その、寛人はもちろん元々格好いいんだけど、何かもう普通にしてるの見てるだけでも心臓がきゅーってなっちゃって、目が合うと頭真っ白で、最近全然会話も出来ないの!話しかけられるとすごく挙動不審で、寛人も変な目で見てるんだけど、も、もう自分ではどうしたらいいか分かんなくてっ、ていうか寛人いると熱いし、息苦しいし、」
『だーっ!分かった一気に言うな!』
 今までこんな悩み誰にも話せなかったから、一度口にしたら、一気にまくし立ててしまった。ゆきが叫ばなければ、多分、延々と話してしまったと思う。
 叫んだゆきは、大きくため息を吐いた。
『……まさか、あんたから全く同じ内容の相談を二回も受けるとは思わなかったわ……。しかも、付き合い出した頃よりひどくない?』
「それは、自分でも自覚してる……」
 付き合いだして一週間くらい経った頃、ゆきにほぼ同じ内容の悩みをまくし立てた記憶が、ありありと蘇る。だけどもう、仕方ない。馬鹿みたいだけど、本気で困ってるんだもの。
『もうさ、いっそのこと、それ全部洒井にぶちまけてみれば?』
「そ、そんなの、どんな顔して言えばいいの!今まで殴ったり散々拒否したりっ!そもそもこっちから全部切っちゃったのに、何で今更?状態だよ……」
『まぁ、確かにねぇ。でもモーションかけたのはあっちなんだし、そんなに気にしなくていいと思うけど。ていうか、さ。あんた達が別れる原因になったあのことについては、洒井、何も言ってないんでしょ?』
 その言葉に、ぎくりとする。そして膝を抱えて、顔を埋めた。
「……うん。何も聞いてない」
 そう、何も。接触してきた理由についてすら聞いてないのに、更にその奥――あの日、寛人の部屋にいた女の人について、私は何も尋ねられなかった。傷付くのが怖い、それが三分の一。後は今の日々を壊したくないっていうのと、聞いてしまったら、もう寛人の側にいられないんじゃないか、という不安も。
『最後に決めるのは、美哉だけどさ。ちゃんと直接、聞いてみてもいいんじゃないかな』
「……うん」
 神妙なゆきの声に、小さく頷く。と同時に、ガチャリ、玄関の鍵が開く音がした。この家に、鍵を使って入れる人は、ごく一部。私と、家族と。それから――寛人だけ。
 今日は事前に来ることは聞いていたけれど、その音がするだけで、正直心臓が音を立てた。
「ゆ、ゆき。こっちから掛けたのにごめんなさい、寛人が来たから、また今度、電話するね」
『ん、了解。……ていうかもうさー、告白するの面倒だったらいっそ押し倒して、既成事実でも作っちゃうのもありっちゃありだよね』
「なっ――」
『じゃあねー』
 思いがけないことを言われて、絶叫しようとした私に、ゆきはあくまでも飄々とした態度。ぶちりと電話が切られて、私の耳には通話終了を告げるツー、ツーという音しかしなかった。
 後は、そう。階段を上る音だけ。
 途切れてすぐに、リビングのドアが開く。慌てて立ち上がる私を見て、寛人は首を傾げた。
「い、いらっしゃい」
「ああ。……誰か、来てなかったか?」
「えっと、今、ゆきと電話で話してたから」
「それで、か。声がしたから」
 淡々と告げながら、寛人はサングラスを外し、帽子も外す。それからスーパーのビニール袋を手に、冷蔵庫に色々入れていた。
「スイカ、もう出てたから、買ってきた」
「そ、そうなんだっ。あ、でも入らないかも」
「そうみたいだな。外出しとく」
 ……冷蔵庫を整理している後ろ姿すら、格好良く見えてしまうのは、もう病気かもしれない。低く落ち着いた声も、愛おしくてたまらなくて。胸がきゅうっと締め付けられるような、そんな感覚は深さを増していった。
「アイス買ってきたけど、今食べる?」
「、うんっ」
「じゃあ、俺もそうしよ」
 唐突に尋ねられて、言葉に詰まってしまった。だけど慌てて大きく首を縦に振る。それを見て寛人は、袋からカップアイスを二つ取り出して、スプーンと一緒にテーブルに運んできた。
 寛人は大抵いつも、ソーダかバニラ。あまり数は食べないのだけれど、趣味がはっきりしているなぁと思う。そんな私も、果物系の味だったら何でもいいんだけど。今日はマンゴー味ということで、何だか珍しい気がして驚いた。
「ありがとう」
「ん」
 頭を下げると、短い返事が返って来る。そっと横目にその顔を見ると、ほのかに緩んだ口元。何だかそれが、無性に可愛く見えて。
「〜〜〜っ」
 絶叫したい衝動を、唇を噛み締めて、堪えた。だけどそれは全然、消えてくれなくて。行き場のない熱が、ぐんぐん上昇して、頭に昇る。
 右隣が、熱い。こっそり、寛人を確認しようと、視線だけ動かす。そこには――。
「っ」
「……美哉?」
 背を屈めて、私の顔を見ようとする寛人。妙に近くて、ますます顔が熱くなる。話す度に、吐息すら感じてしまいそうで。どんどん頭が真っ白になって、何もかも、消えてしまいそう。
「どうかしたのか?」
 その大きな手が、私に触れようと、するから。
「ススススイカ!ぬ、温くなる前に食べようよ!」
「……今からか?アイス食べてからにしろよ」
「っい、今食べたくなったから……っ」
 激しくどもりながら、寛人の手を避けるように、立ち上がる。勢い良く立ち上がったは、いいものの。
 私は、直前までずーっと正座していたことを、忘れていた。
 だから直立した時、自分の足が痺れていたことに、初めて、気付く。その瞬間、膝から一気に力が抜けて。
「美哉!」
 倒れる、と思ったらもう遅かった。ぐらりと揺れ、前に崩れ落ちる。テーブルにぶつかる!と思って、慌てて腕を伸ばした。
 ……だけど、私の腕と腰は、横から大きな力で引っ張られて。
「きゃあっ」
「っ……」
 ぐ、と固いものに引き付けられて、それの上に乗っかった状態で、倒れ込む。悲鳴と一緒に思わず目を瞑ったけれど、耳に届く、押し殺したような吐息に、慌てて目を開ける。
 腰をがっしりと抱く腕。私が頬を寄せる、固いもの。それは。
「ひ、ろひ……と」
「……危ないだろ、気を付けろ」
 彼は床に横たわりながら、ソファに左腕をついた状態。その上に、私は跨っていた。至近距離で眉を寄せるその顔に、心臓が大きな音を立てる。そして、庇ってもらった。そのことにも、気付いて。
「ご、ごめんなさっ、怪我してない?」
「俺は、平気だ。美哉は?」
「わ、私は、……寛人が助けてくれたから、平気……」 
 私の言葉に、そうか、とだけ言うと寛人はソファについた腕をバネに、上半身を起こした。腰は抱かれたままだから、私は寛人の膝に、すとんと落ちる。
 手に感じる、寛人の鼓動。温もり。その全てに、引き寄せられる。
「お前、本当になぁ……」
 呆れた顔の寛人が、私の頬を軽く抓る。彼が動く度に、ふわりと香るのは、うちの匂いと、彼自身の匂い。香水とかじゃないと思う。なんだろう。分からないけれど、自分とは違うそれに、否応なく、顔が熱くなった。
 抓られても、何の反応もしない私を訝しく思ったのか、寛人は一旦手を離し、顎に触れる。そのまま、顔を持ち上げられて。
「……っ」
 目が合った時、彼は小さく息を呑んだ。

 ――気付かれて、しまっただろうか?
 だけど同時に、ばれないはずが無い、と思った。
 だって、自分でも分かる。今の私はきっと、とても物欲しげな顔をしている。寛人にこっちを見てほしい、笑顔を見せてほしい、名前を呼んでほしい、……触れてほしい、って。そんな感情がだだ漏れで、隠せるはずがない。
 じっと、彼が私を見つめる。その視線が、すごく恥ずかしくて、それでも逃げられなくて。じんわりと、目が潤んで来る。だけど彼は、私を見つめたまま。
 不意に、顎に触れるのを止めて、今度は耳に触る。輪郭をなぞり、裏側をくすぐり、耳朶を引っ張る。くすぐったいような、何だか変な感覚に、身を竦めて息を漏らす。気付くと、腰を抱く手に込められた力も強くなっていた。
「……そんな顔、するな」
 ぽつりと零しながら、一頻り耳を弄っていた寛人は、私の頬をそっと包んだ。それに促されるまま、上を向く。目の前にある寛人の瞳は、……火傷しそうな位、熱くて。それに焦がされて、背筋がぞくりとした。
「そんな目で、見るな」
 低く落とした甘い声が、私の肌を、擽る。そしてその唇が、顔中に降った。額、こめかみ、頬、鼻の頭。ちゅ、ちゅ、と軽い音をさせて、色んなところに触れる唇。瞼に口付けられて、慌てて目を瞑る。
 暗闇の中で、寛人の小さなため息が、耳に届いた。そして、唇に。吐息が触れる。
「――我慢出来なくなる」
 次の瞬間、唇が、押しつぶされた。他に適切な言葉が、見当たらない。ひんやりした柔らかいものが触れて、それはバニラの味がした。
 キスしてる。
 理解した瞬間、熱が上がった気がする。
「ん、ふ」
 最初は、感触を確かめるように、押しつけるだけ。でも段々、角度を変えて、少しづつ時間も、長くなる。
 息苦しさで、少し声を漏らす。すると唇を離してくれたので、大きく息をするために、口を開いた。それを狙っていたのか、いきなり、舌が滑り込んできて。
「ん、んん、っ……は」
 乱暴さを感じた一か月前とは違って、今はひたすら、甘やかされている気がする。それは六年前の口付けに、良く似た優しさ。慣れない私のペースに合わせるように、ゆっくりと舌を絡め取る。そして、促すように、裏側を刺激された。それにおずおずと、寛人の舌を舐めてみる。小さな笑い声が、唇を振動させた。そして今度は、全て奪いつくすように、激しいものになる。
 私は震える手で、寛人の腕にしがみついた。頬を包んでいた手は、いつしか後頭部に移動していて、時折倒れそうになる私の頭を支える。腰を抱く手は相変わらずだけど、時折、悪戯に、背中をなぞられて。
「っぁ、んぅ」
 変な声が出てしまう。
 身体中に熱が籠って、それは、寛人も同じ。触れ合う場所は、お互い汗ばんでいる。それくらい、夢中になっていた。今触れている存在を、確かめたくて、溶けていたくて。
「……美哉」
 唇が離れた隙に、低い声で名前を呼ばれる。促されるように目を開くと、目の前には、頬を上気させた寛人がいた。ぺろりと唇を舐められて、身体が震える。嬉しそうに目を細めた寛人は、また、唇を寄せた。
 熱い瞳は、熱を上げる。全てをどろどろにする様なそれに、私は全てがとろけてしまう。だからもう、逃げることなんて、しない。出来ない。
 くたりと力の抜けた身体を、ソファに押し付けられて。上から覆いかぶさる寛人の熱を、ただ受けとめた――。 


 

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