24. 〜hopeless〜


「十二回目」
 書類を整理しながら、ふと手を止めて、空を眺める。だけど同じように仕事をしていたはずの玲子先生が漏らした数字に、首を傾げた。
「……さっきから、それ何の数字?」
「分かりませんか?」
 時刻は八時三十分。今日は、私と玲子先生が遅番だ。先程最後の子供をお迎えの保護者の方に引き渡して、今は昼間やり切れなかった書類などを整理している。明日から週末だし、さっさと終わらせて帰りたい。そんな思いで、黙々と作業をしていたのだけれど。
 私の質問に、玲子先生は少々意地の悪い微笑みを見せる。それに内心ますます首を傾げていると、玲子先生は私を指差した。
「美哉先生が、ため息を吐いた数字です」
「……」
 言われた内容を、一瞬脳味噌が理解出来なかった。
「今週ずっと、一人で思い出し笑いしたり赤くなってたり、とにかく機嫌が良かった美哉先生が、今日は何だかため息と赤面を繰り返して百面相なので、ついつい数えちゃいました」
「……なるほど」
 目を逸らし、淡々と受け答えしたつもりだけど。玲子先生はそんな私の強がりなんて、全く問題にしていないに違いない。横目で確認した彼女の頬は、間違いなく緩んでいた。
 そんな玲子先生曰く『百面相』の原因は、一つしかない。――寛人のことだ。

 あの後、時計を見て気付いたら、一時間が経っていた。一時間もキスしてたんだ、という思いと、まだ一時間なんだ、という思いと。ごちゃ混ぜになりながら、とにかくご飯を作らなくちゃ、と思って力の抜けた足腰で頑張った。溶けてしまったアイスを処分して、野菜を切って。その最中も、寛人が何かとちょっかいを出して来る。私もそれを迷惑だとは思えなくて、結局夕飯はとても遅くなってしまった。
 それに今までは向かい合って食事をしていたのに、何故か隣同士で座ることになった。食後は寛人が片付けをしてくれたのだけれど、終わったら後ろから抱きついて来て、何故かソファの上で寛人の膝に座りながら、テレビを見る羽目になる。テレビを見ろと言いながら、本当に集中すると耳を甘噛みされて、腰を擽られて。目が合うとキスされる。帰る時間も、いつもより二時間は遅かった。
 そしてそれから、何故か寛人は毎日家に来るようになった。私も迷惑じゃないと言うか、本音を言えばとても嬉しい。疲れて帰って来ても、寛人の腕に閉じ込められると、疲れが吹き飛ぶ気もするから。
 問題は、寛人だ。これまでも甘さはあったものの、今はそんなの比じゃない。砂糖を一袋一気に呑みこんだ位か、それ以上に。目が、声が、触れ方が、とにかく甘い。胸やけを起こしそうになりながら、でもそれが嬉しくて、全部受け入れてしまう。私も大概、甘いのかもしれない。
 ――だけど昨日、何度かキスした後だった。彼の膝の上で、向かい合わせになるよう座らされた時。寛人が真剣な顔をしていたから、私は首を傾げる。それを見て、すぐに彼も笑顔になったのだけど。
「実は、明日からしばらく来れない」
「え……」
「ファンか何か分からないけど、家を探られてるみたいなんだ。美哉に迷惑を掛けたくないから、しばらく実家に戻る。落ち着くまでは、ここには来れない」
 突然の言葉に、内心、ものすごい衝撃だった。いつの間にか、寛人が側にいるということが当たり前になっていたのかもしれない。
 しばらくって、いつまでなんだろう。その間は、全然会えないのだろうか。
 そんな私の感情は、どうやらだだ漏れだったらしい。
「美哉」
 仕方ないな、といった感じで、名前を呼ばれて。顔を上げたら、頬に一つ、口付けが落ちた。至近距離で微笑む寛人の瞳は、いつも通り、優しくて甘い。
「……毎晩、電話する。もしかしたら、美哉もマークされるかもしれないから、あまり外には出るなよ」
「……うん」
「なるべく、早く片付けるから」
 それから、離れている間の分もキスをしよう、とお互いの熱に溺れた。正直、キスのし過ぎで今朝はちょっと唇が腫れていた。でも、昨夜よりはましだ。最後の方、舌が半分痺れて呂律が回らなかったんだから。

 短いけれど、あまりに濃密な時間を思い出せば、顔もにやけるし、赤くもなる。でも、しばらく会えないことを思うと、ため息は止まらない。その全てが誰かに見られていたと思うと、もう私は、バツの悪い顔で、赤面するしかない。
 出さないようにしていたつもりだったのに。それはあくまで、つもりだったらしい。と言うか多分、気付いてるのは玲子先生だけじゃないはず。他の先生達にもばれてるに違いない。そう思うと、頭が痛くなった。
「まあ、美哉先生が話したくないなら聞かないですけど。原因は何となく分かりますし」
「……」
「洒井選手と、何かあったんだろうなぁ、位ですけどね」
 寛人相手なのは、確定らしい。間違ってないんだけど。だけどそこまで言い当てられてしまうのは、軽く屈辱だった。なので何となく、反抗してみたくなる。
「何で、ひ……洒井くんのことだって、分かるの?」
 ついつい名前で呼びそうになるのを堪えながら、ちらりと玲子先生を見る。私の言葉に、少し首を曲げながら、玲子先生はにんまりと「分かりますよ」と言った。
「だって美哉先生、元から表情豊かな人でしたけれど、洒井選手のことになると、全然、顔が変わりますから」
「……ぅ」
「同じ怒るでも、切なそうだったり、笑顔でも、悲しさが混じってたり。すごく、複雑な表情してたんですよね。洒井選手の側にいる美哉先生」
 パチン、パチン、と確認が終わった書類をホッチキスで纏めて、玲子先生は今度の保護者会用の資料を作っていく。それは非常に手早く、丁寧で。私もそれに倣うように、手を動かしていく。だけど玲子先生の次の言葉に、つい手を止めてしまった。
「――恋してるんだなぁ、って。一目で分かります」
「……」
「特定の相手にだけ感情の振れ幅が大きかったり、つい感情が爆発しちゃったり、その感情すらもよく分からない、もやもやしたあやふやなものだったり。恋愛って、本当に疲れるものなんですけど。でも美哉先生は、それだけ一生懸命相手を想ってるんだな、って見てるだけでも伝わってきます」
 寛人と私が一緒にいるのを見たのは、多分、玲子先生は一度だけ。なのにその一度で分かってしまうほど、私は分かりやすいらしい。そもそも、あの時はまだ自分の気持ちに気付いていなかった。どころか、抗っていた。なのにばれてしまうって、何と言うか。ちょっと、情けない。気恥かしい。
 私の顔を見て、玲子先生は、ふふ、と頬を緩めた。それはとても可愛らしくて、なのにどこか艶めいていて。自分では絶対に出来ない表情に、思わずドキリとしてしまう。
「私、そういう美哉先生、すごく好きですよ」
「……ありがとう」
 その言葉に。戸惑いつつも言ったお礼は、多分、間違っていなかったと思う。

* * *

 その後三十分掛けて仕事を終えて、夕飯は玲子先生と取った。近くのファミレスで、だったけど、外食なんて久しぶりだったから楽しかった。地元の駅に着いて時計を確認すると、もうすぐ十一時。急いで帰ろう。
 ……だけど、帰っても寛人はいないんだ、と。そう思うと、胸がちくりと痛んだ。
「あー、もう、止め止めっ」
 寂しがってばかりいても、仕方ない。今夜電話をくれるって言ってたし……って、電話?
「……あ」
 思いを巡らせている内に、ふとバッグを探って、携帯を今日は家に忘れていたことに気付いた。これから帰るから別に良いんだけど、もしかしたらもう電話が来ているかもしれない。それでなくとも、夜はあまり出歩かないように、と釘を刺されたばかりなのだから。
 今日は特に遅くなってしまったから、帰りは飲み屋街の方を歩こう。酔っ払いに絡まれる心配はあるけれど、夜道で襲われることはない。酔っ払いなら、振りほどこうと思えば行けるし。そう思い近道を止めて、遠周りでも安全な道を通ることにした。

 同じ街なのに、何だか随分と風景が違う。家からそう離れていないのに、ここら辺は今からが本番、と言った感じ。わいわいと騒ぎ声がそこら中で響いて、二次会・三次会に向かう人が一杯通り過ぎて行く。みんな金曜日で浮かれているのか、一人歩く私には気を留めない。
 ちょっと自意識過剰だったな、と苦笑しながら真っ直ぐに歩いていく。けれど。
「あっれー?お姉さん一人ー?一緒飲もうよぉ」
 ……なぜ、安心した途端に絡まれるのか。がっしり後ろから手首を掴まれ、酒臭い息が鼻につく。顔を顰めながら、振り返った。
 そこにいたのは、二十代くらいの男女グループ。総勢十名くらい。私の腕を掴んでいるのは、割と上背のある人で、上から赤らんだ顔で私を見ている。明るい茶色の髪に、焼けた肌、緩んだネクタイ。一般的には、割と整ってる部類に入るだろう顔。確かに寛人も茶髪で焼けた肌だけど、それとは違う。何て言うか、……チャラい。
 後ろにいる同じグループの人も、囃し立てるばかりで、止めようとはしない。女の人は、ちょっと嫌そうな目で私を見ているけど。もしかしたら、この人が好きなのかもしれない。
 少しため息を吐きながら、不快です!と言うのを前面に出した顔で、目の前の人に告げる。
「結構です。離してください」
「ええ?そんな連れないこと言わないでさぁ」
「急いでるので」
「いーじゃあん、いーじゃあん!」
 ……駄目だ、話が通じない。酔っ払いというか、これは何となく、この人の元々の性格な気もするけれど。
 仕方ないので、思い切り腕を振り払おうとした、その時。
「……んん?あれぇ?……もしかして、吉倉さん?」
 何故か。酔っ払いチャラ男(認定)は、私の名前を呼んだ。それにびっくりして、身体の力が抜けてしまう。
 その隙に、肩まで抱かれて顔を近づけられた。スーツに染み込んだ煙草と香水の匂いに、軽くむせそうになる。
「ちょー、えぇ、まじぃ?俺めっちゃラッキーじゃーん。吉倉さん、俺覚えてるー?高校一緒だった、上田だよぉー」
「……上田、くん?」
 へらへらしたその笑みと、その名前に。ふと、二年の時のクラスメイトが重なった。
 確かサッカー部だったんだけど、部活をさぼり続けたせいで辞めさせられたらしい。しかも何故か寛人に敵対心を燃やしていて、よく大声で寛人の悪口を言っていた記憶がある。彼曰く、「あいついっつもすかしてるし、真面目ぶってんだよね」だそうだけど。真面目ぶってるんじゃなくて、本当に真面目なだけじゃないのか、と思うんだけど。
 当時、彼はゆき狙いだったらしく、一緒にいる私にも話しかけてきた。昔からその軽いノリが得意じゃなくて、苦笑いで流して来たけど。彼もその周りにいる人も、根は悪くないんだろうけど。会話の八割方が人の悪口と噂話で、一緒にいて楽しいとは決して思えなくて。
 まぁそんな、あんまり良い思い出じゃない上田くんなんだけど。
「なに、吉倉さん、ここら辺で働いてんのー?俺もなんだよ、駅のあっち側だけど」
「はぁ、そうなんだ」
「つーか、まじ吉倉さんだよねぇ?めっちゃ可愛くなったよねー。こないだの同窓会ん時も話しかけたかったけど、川崎とか、女子ずっとガード張ってるし、全然話せなくて、後で超悔しかったー」
 こちらの反応も見ず、べらべらと話す人だ。同窓会の時上田くんがいたかどうかは、正直覚えていない。まぁ確かに、騒がしいテーブルはあった気がするけど。ていうかゆき、他の子もありがとう。
 今度お礼のメールをしておこう、と内心誓う。けれどそれを邪魔するかのように、ぐ、っと肩を抱かれたまま、彼は歩き出した。
「へ、え、ちょ、」
「つー訳でぇ、久々に会ったんだから、ゆっくり話しましょー」
「は!?」
 コンパスが違うから、無理に足を止めようとすると、足がもつれて転んでしまう。ぐいぐいと密着されて、何故だか路地の方に連れ込まれて。上機嫌に鼻歌まで歌いだした彼に、衝撃を受けた。
「ちょっと上田くん!離れていいの!?あの人達は!」
「んん?いいよいいよ、吉倉さんの方が大事ー」
「いや、私は全然構わなくて良いから!」
「照れないでよー」
 駄目だこの人本当に話通じない!
 私の言葉をものすごくポジティブに捉えるのは、ある意味ものすごい才能だと思うけれど、今発揮されても全然嬉しくない。いつの間にか飲み屋街からすっかり離れ、裏路地を歩かされ。離れようとしても、すごくがっちり掴まれてる。多分この人、こういうの慣れてる。
 だけど何とか手を外させようと必死になる私の視界に、ド派手なネオンが飛びこんだ。それに思わず、顔を上げると。
「……!?」
「じゃあ、とりあえずここでゆーっくり話しようか?」
「や、やだ!離して!」
「暴れないでよー」
 外灯が灯っていない道で目立つ、やたらピンクピンクした外装に、ネオンに彩られたホテルの名前、料金一覧が書かれた表。入ったことはないけれど、今時こういうホテルでも、もっと落ち着いた外装はあると思う。ていうか、流石にこれは普通に話す場所ではないよね。
 今の今まで、まぁ元クラスメイトだし、と何処か落ち着いていた気持ちも、一気に吹っ飛んだ。本気でそういう対象に私を見ることなんてありえないだろう、と言う思い込みもあったし。だけど、男性は誰でも良い時ってあるって言うし。もっとちゃんと本気で逃げておけば良かった!と思っても、後の祭り。私の肩を抱いたまま、ぐいぐいその建物に引っ張っていく上田くんの手に、必死で抗う。酒臭い息が首筋に掛かって、鳥肌が立った。
 やだ、やだ、こんなのやだ、絶対やだ。
 ――寛人じゃなきゃ、やだ!
 心の中で、彼の名前を呼ぶ。実際には来てくれないの分かってるけど、それでも、叫ばずにはいられない。
 そしてそれは、あくまで、心の中だったはずなのに。
「……ああ、そう言えば、同窓会ん時、吉倉さん大丈夫だったー?洒井に、何かされなかったぁ?」
 にやにや笑いで、上田くんは寛人の名前を出す。一瞬どうして、と思ったけれど、すぐに思いだした。そうだ、寛人、みんなの前で私を送ってく、って言ったんだよね。だからこんな質問するのか、そう納得した。
 次の言葉を聞くまでは。
「あいつ、やばいよねぇ。吉倉さんわざと酔わせて、お持ち帰りするなんてさぁ」
 ――え?
 唖然とした私に気付いたんだろう、上田くんはひどく楽しそうに、喉で笑う。
「俺、聞いちゃったんだよねー。大塚と洒井が、二人でこっそり話してると・こ・ろ。正しくは、洒井が大塚に頼んでたんだよなぁ。吉倉さん酔わせろ、って」
 上田くんの笑い声とその言葉が、脳へ反響して、そっと染み込む。
 嘘。そんなの、上田くんの嘘。
 彼は寛人のこと嫌いだし、多分、印象を悪くしたくてこんなこと言ってるんだと思う。
 ……でも、同時に。疑問が、私の心を掠めた。
 あの時、どうして大塚くんはあんなに、私にお酒を飲ませたの?寛人が来るまでは、普通だったのに。それにやっぱり、あの状態で寛人に私を頼むのはおかしい。私と寛人の付き合いを大塚くんは知らないはずだし、知っていたとしても、普通に考えて、元恋人に任せようとはしないだろう。それこそ――寛人が仕組んでなくちゃ、あり得ない。
 ならば、寛人がわざわざそんなことをした、理由は?
「洒井、帰国したら日本人でも食いたくなったのかねぇ。あいつ、前からドイツの女優と付き合ってるって有名じゃぁん。今丁度、その人も来日してるらしいしー」
 ――嘘。
 信じない。そんなの、単なるゴシップ。
 でも、でも。寛人が帰国してしばらく経つのに、どうして今更、家を追われたりするの?どうして今更、実家に帰るなんて言うの?
 どうして、今更。私と、距離を置こうとするの?

 ちかちかと、頭の中で、寛人が笑う。その笑みは、昨日まで私に向けられていたのに。何故かその腕の中には、別の女性がいる。
 顔は、見えない。でも、ブロンドの緩やかに波打つ髪に寛人は優しく指を絡めて、そっと唇を落とす。それに女性は、唇を吊り上げた。

 その、唇は。

 まるで血のような、赤。

「……!」 
 ぐ、と腕を強く掴まれて、我に返る。今までの映像が掻き消えて、今あるのは、きつい香水と煙草の匂い。派手派手しいネオンに、趣味の悪いホテル、にやつくかつての同級生。
 その何もかもが、嫌でたまらない。信憑性も無い。
 なのに。
「大体あいつ、卒業してすぐに一人暮らし始めてさぁ。好みの女、すぐに家連れ込んだらしいよ?でも、興味なくなったらすぐポイ、だって。ほんと、サイテーだよねぇ」
 その言葉が、私の心を、切り刻む。
 寛人の笑顔を、その熱さを、匂いを、手の優しさを、思い出を。何もかも切り刻んで、征服していく。
 ぽとり、涙が零れた。それを見て上田くんは笑みを深め、私の涙を拭う。そして大きくため息を吐いた。
「ありゃあ、やっぱり吉倉さんも、あいつに手ぇ出されちゃったー?吉倉さんみたいに可愛くて純な子まで騙すなんて、ほんっと許せねぇなぁ」
 大げさな言葉に、涙が何故か、止まらない。
 『騙された』なんて。嘘だと、笑い飛ばせれば良いのに。今すぐこの手を振り払って、彼の元に駆けていければ良いのに。
 もし、その先に待っているものが。またあの、赤の記憶だったとしたら。
 寛人が私の側にいる理由が、本当に、彼の言葉通り。日本にいる間だけの、暇つぶしで、つまみ食いなのだとしたら。

 ――馬鹿みたい。
 忘れてなんか、いなかったのに。
 あんなに泣いたことも、あんなに悲しかったことも、彼との距離も。彼の唇も、腕の中も。私だけのものじゃないって、はっきり知らされたのに。
 最初、ちゃんと考えたじゃない。私に構うのは、きっと面白がっているだけだから、って。予防線を張って、それ以上入れないように、傷付かないように、気を付けるつもりだったのに。
 いつの間にか、そんなの忘れて。彼の熱に溺れて、何も見ようとしなかった。
 もしかしたら元々、あの女の人が本命だったのかもしれない。私の方が、二番目だったのかもしれない。
 そして今も、きっと。
 ……私を選んだのは、多分、簡単だったからだ。
 元々自分にすごく惚れていて、騙しやすそうで。振り向かせるのが、きっと簡単だったから。ゆきや玲子先生みたいな美人じゃ、日本にいる間だけじゃ勿体ないしね。

 そんなことを考えて。一人、泣きながら笑いを零した。
 信じたいと思う気持ちは、まだ何処かにあるのに。あっという間に流されて、絶望が目の前を塗りつぶしていく。もう何も、見えなくなる――。
 


 

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