25. 〜propose〜


「ね、だから吉倉さん、行こう?慰めてあげる」
 低く落とした声。どこか、甘い。いつもそんな声音で女を落としているのだろう、安易に想像出来る。だけど、私は何も感じなかった。ただ、近寄る気配に、良い気分にならなかっただけで。
 零れる涙を、男の手が掬う。寛人と同じように熱いけれど、気持ち悪く感じる体温。顔を背けると、ぐっと顎を掴まれて、目を合わせることになった。至近距離で光る瞳。その中に燻ぶる欲望に、背筋が震えた。もちろんそれは、喜びじゃない。寒感の類だ。逃げようと身を捩らせる私を強く抱きしめて、額をこつり、とぶつける。
「……美哉ちゃん」
 囁かれた名前に。近付く体温に。ものすごい違和感だけを、私は覚える。視界に映るその顔も見たくなくて、ぎゅ、と目を瞑った。次の瞬間。
「っぐお!?」
 突然、男の叫び声がする。そして肩に回っていた腕が離れた。そのことにほっとしつつ、何が起こったか全く分からない。恐る恐る私が目を開くのと。
「美哉!」
 名前を呼ばれたのは、同時だった。
 肩を強く掴まれ、顔を寄せて。私を真っ直ぐに見詰める、その瞳。真剣な表情。上田くんなんて比べ物にならないくらい端整な顔を、焦りと怒りに歪めて、その頬には汗が滴り落ちる。
 予想もしなかった人物の登場に、私は思わず、言葉を失った。
「どうして、こんなところにいる」
 呆然としたままの私の肩を掴む手に力を込めて、怒りを押し殺した低い声。彼はちらりと下に視線を落とすと、眉間の皺を深くした。
 それにつられるように足元を見ると、茶髪が地面に転がっている。零れそうになった悲鳴を何とか押し殺して、暗い中で目を凝らすと、それは紛れもなく上田くんで。うつ伏せに横になっている。そして小さく唸っている。状況から考えて、上田くんに寛人が何かしたのは間違いないだろう。暴力的な意味合いで。
 良い気味、と思わなくはないけれど、起き上がらない彼に、少し心配になる。頭を打って、気を失ったのかもしれない。それならばここにこのまま寝転がしておくのは危ないだろう。こういうところはあまり治安も良くないだろうし、もしかしたらお財布とか、盗まれてしまうかもしれない。それに暴力を振るったのが寛人だとばれていた場合、今後の活動に影響が出るかもしれない。
「う、上田く――っ!?」
 彼の名前を呼んで、手を伸ばした瞬間。私は後ろの壁に強く押しつけられた。どう考えても、そんなことをした相手は一人しかいなくて。恐る恐る、視線を上げる。
「……るな」
「え……?」
「あんな奴、見るな。美哉の視界に入れるな……っ」
 ぎらぎらと光る瞳、言葉尻は荒く消える。こんな風に怒る寛人を見たことがないから、もう後ろはないのに、思わず後ずさってしまった。
 逃げようとする私を見て寛人は、ゆっくり目を細める。そして私の肩を離すと、今度は手首を握りしめ、早足でその場を立ち去ろうとする。迷いないその足取りに、目を丸くした。
「あ、あの、上田くんはっ」
「放っとけ」
「え!?」
「十分もすりゃ目ぇ覚ます」
 寛人の長い脚で、大股で歩かれると、正直私はきつい。でも今の寛人に、それは言えなかった。ちらりと外灯に照らされて見えた彼の横顔が、すごく怖く感じてしまって。ただその手に導かれるまま、転ばないように小走りで着いていく。
 何処かの駐車場に着いた時には、息も絶え絶えだった。肩を大きく上下させている私に気付いていないのか、気付いていて知らないふりをしているのか。そのまま、奥に止めてあった銀色の車の、後部座席のドアを開ける。そして私は背中を強く押されて、無理矢理乗り込むことになった。
「わ、え、ちょっ」
「……」
 今までの早足のせいか、足元がすごくふらつく。シートに寝転がるように、思い切り倒れ込んだ。その間に寛人は運転席に座りシートベルトをつけて、エンジンを掛けていた。
 ……何、これ。寛人の車?ていうか、どうして今、ここにいるの。
 疑問だらけで、頭がごちゃごちゃしている。だけど私は結局、寛人の押しつぶす様な圧迫感に負けて、口が開けない。車内には音楽も掛かっておらず、重たい沈黙が漂う。よろよろと座り直し、手をきちんと膝の上に重ね合わせた。
 発車すると同時に、結構なスピードで走っている気がする。時々通り抜ける外灯やネオンが、車内を一瞬だけ照らして、チカチカと眩しい。それに目を細めつつも、視線はずっと、寛人の後ろ姿だけ見ていた。

* * *

 それから三十分程経って。日付も変わり、周りの景色も見慣れないものになる。私が住んでいるところより、少し都心に近い住宅街で寛人は車のスピードをゆっくりと落とした。
 そして、何処かの家の前で車を止める。予想外のことに動いて良いのかすら分からなかった私は、寛人がドアを開けてくれるまで、何も出来ず。寛人はそんな私を一瞥すると、また手首を握り、強引に立たせる。思わず悲鳴が出そうになったけれど、深夜の住宅街でそれはまずい。
 何メートルかおきに外灯が輝き、周りを我が飛ぶ。立っているだけでも汗が出そうな、じんわりとコンクリートから熱を感じるのは、夏の夜ならではの空気。車内でクーラーが効いていたからか、ひんやりとした掌。だけど私の手首を掴んでいるから、二人分の熱で、あっという間に汗ばむ。それでも彼の腕は、離れなかった。
 階段を上って門を開けた彼の背中が、急にはっきり見える。玄関先の明かりが灯ったのだ。よくある、人が来るのをセンサーで感知して点くタイプのものだろうか、と思ったけれど、どうやら違うみたいだ。
 何故って。
「……寛人?寛人か」
 小声で寛人の名前が呼ばれながら、ガチャリと玄関のドアが開かれたから。時間帯のせいか、とても小さな声。男性の声だと言うのは分かる。けれどその声は、聞き覚えのあるような……。
「ただいま」
 ――ただいま?寛人、今、ただいま、って言った?
 寛人の大きな背中に隠れて、全然前が見えない。だけど今の声は、どう聞いても寛人の声。ならば今、寛人の前に立つ人は。
「おかえり。つーかお前、遅すぎ……え?」
 玄関に入り、靴を脱ぐために寛人が屈んで。必然的に、視界は開ける。ため息交じりに寛人に文句を言っていた彼は、私と目が合うと、目を丸くした。
 寛人と同じくらいか、少し低い位の背。体つきも彼に比べれば薄く感じるけれど、男性としては十分しっかりしている。ラフなTシャツにジャージ、少し濡れた黒髪。これから眠るところなのか、完全に部屋着。まぁ、こんな時間に来客が来るなんて普通思わない。
 ぱくぱくと口を開閉して、目を真ん丸にして。それでも、その顔は非常に端整だと思った。多分、色んな女性にもてるに違いない。整った顔立ちは、時に冷たい印象を抱かせる。でもこの人は若干目尻が垂れているからか、とても親しみやすく見える。多分、これで微笑んだりしたら恋に落ちる女性は大量にいるんじゃないだろうか。
「美哉、靴脱いで」
「え、あ、はい」
 その顔を穴が開くほどじいっと見ていたら、寛人に声を掛けられた。慌てて素直に返事をし、履いていたスニーカーを脱ぐ。それを見届けると、寛人は私の手を引き、家に上がりこんだ。
「親父もお袋も、リビング?」
「え……あ、ああ」
 呆然としている彼に寛人は声を掛ける。すぐに答えが返って来るものの、視線は絶えず私と寛人を順番に見ている。かなりパニックになっているのが分かるはずなのに、寛人は答える気が全くないみたい。「そうか」とだけ呟くと、足早に玄関から一番近いドアを、大きく開けた。私も引っ張られて、寛人の横に並ばされる。
 木造で、壁も木目が入っていて、とてもあたたかい家。そこにはダイニングテーブルと、奥にソファがあった。そのソファには二人の美男美女が腰かけている。切れ長の瞳に眼鏡を掛けた精悍な顔立ちの男性と、二重で垂れ目の、可愛らしい雰囲気ながらとても美人な女性と。男性の髪に少し白いものが混ざっている感じや皺から言って、多分四十代か五十代だと思う。二人仲良く寄り添う姿を見れば、一目で夫婦だと分かった。それも素敵に年を重ねたなぁ、と素直に思えるくらいの。
 ソファの横に立っているのは、チェックのエプロンにワンピースを着た、これまた美人な女性。すらりとした長身にさらさらのロングヘア、目鼻立ちがはっきりした顔立ち。宝塚の女性みたいな、ストイックかつ中世的な雰囲気が漂うけれど、目尻にある黒子は色っぽい。
 この家に来てから、四人の人間を見たけれど。はっきり言って、美形しかいない。ものすごく居心地が悪い。しかも皆さん、私を見て唖然とした顔をしてるし。でも、それも仕方ないと思う。こんな時間に見知らぬ人がくれば、驚くだろうし。
「っっっつーか待て寛人!おま、その子何!?どっから浚って来たの!?」
「人聞き悪いこと言うな」
 背後から大きな声が聞こえて振り返ると、ドアからさっきの男性が走り込んできた。それに顔を顰める寛人。見た目だけだと寛人の方が年上に見えるけど、多分……ううん、絶対違うはず。
 だって、この人は。
「……ちょっと待て、寛人。こっちにも説明しろ。そのお嬢さんは、誰だ?」
 ソファに座る男性が、固まっていた姿勢を大きく倒して、こちらを見ている。重々しいその声も、やっぱり、そっくり。
「美哉」
 不意にまた、寛人に名前を呼ばれた。のろのろと目を合わせると、彼はソファを示す。この状況を理解しているのは、多分寛人ただ一人なのに、相変わらずものすごくマイペースだ。
「ソファに座ってるのが、俺の親父とお袋。その横にいるのが、兄貴の嫁さんの和伊(かずえ)さんで、今色々喚いてたのが兄貴の忠人(ただひと)」
 淡々とみなさんのプロフィールを紹介していく。紹介された人は頭を下げてくれるので、一応挨拶を返している。
 やっぱり、寛人の家族なんだってことは分かる。お母さんとお兄さんの雰囲気は似てるし、お父さんと寛人もそっくりだし。男性陣三人は全員、声もよく似ている。
 でも、何で私、ここにいるんだろう。何で寛人の家族紹介されてるんだろう。こっちに関しては、本当に、何も予想がつかない。ひたすら混乱して、もう、目が回りそう。
 そして寛人は、ようやく私の手首を解放した。そのかわり何故か、腰を抱かれて。
「こっち、吉倉美哉」
 妙に熱い掌に、その近さに、訳が分からないながらも、離れようとした瞬間。


「――俺が、結婚したい相手」
 色んな意味で、ありえない言葉が耳に届いた。


「……は、ぁ?」
 沈黙が落ちたリビングで、ぽつりと誰かの呟きが落ちる。誰だろう、と考えて気付く。今の声は、自分の口から漏れたものだと。
 そして一度気付いてしまえば、後はもう、流されるままだった。
「何、考えてるの?」
 自分の声だとは思えない位、冷たい。それだけ苛立っているのは自分でも分かる。腰に回っていた腕を思い切り振り払うけれど、諦めの悪い彼は、尚手を伸ばしてきた。それもはたき落して、距離を取る。
 正面から寛人の眼を見据えても、何考えてるのか、全く分からない。だからこそ、腹が立ってきた。
「何それ。私何も聞かされてないし、そもそも私達、何の関係もないじゃないっ!」
 元恋人。元同級生。その言葉に、どれ程の意味があると言うのだろう。
 正直に言えば、つい数時間前まで。よりを戻したと言うことで、良いんだと思ってた。言葉はなくとも、そうだと信じたかった。
 私は好きでもない人とキスなんてしないし、触れることも許したくない。だから自分を基準にして、寛人もそうなのだと思っていた。
 だけど現実は、どうなの?
「……いい加減に、してよ」
 ぐちゃりと音を立てて潰れていくのは、私の記憶なのか、心なのか。どちらも、寛人で占められている。
 私が生きてきた二十四年、あなたと出会ってからはたった八年。なのにもう、あなたがいなかった日々は思い描けない。それほどまでに、私を独占したあなただからこそ。これ以上、振り回されたら壊れてしまいそうで。
 視界にちらつくのは、寛人。こんなにぼやけているのに、はっきり見てしまう。
 きっと、あなたは何も気付いていないから。こんなに無神経な真似が、出来るんだろうね。
「六年前」
 ぽつりと私が零した言葉に、寛人は肩を震わせる。その反応は、何なのだろう。今更言う、って?そうだね、私がこのことを口にしたのは初めてだから。
 それでも私にこれを言わせたのは、あなただ。
「別の人と、キスしてるの、見せつけられて。……っ私がどれくらい、悲しかったか、知らない癖に!」
 顔を上げて、その瞳を睨む。ぽろぽろと、頬を零れる涙。絶え間なく流れるそれを、強引に拭って、唇を噛み締める。
「ど、どんなに頑張っても、寛人のこと、忘れられなくてっ、テレビも見れなくてっ、寛人に関するもの全部から、意識逸らそうとしたのに駄目でっ!そういう自分にまた苛々して、こんな時間経ってるのに気持ち悪いって悩んで、それがずっと続いたっ」
 何も言わない。私をただ見据える、その瞳。こんな状況だって、寛人は変わらないから、腹立たしい。
「わ、たしから、っ恋、とか、そういうのぜん、ぶっ、うばって、でも、忘れようとしたのにっ!戻って来て、無理矢理キスして職場来て合鍵奪って、!滅茶苦茶に振り回して、……っなのに優しくて……っ」
 嗚咽が混じる。言葉が支離滅裂だ。なのに、止められない。ただ、自分の感情を精一杯に追いかけて、ぶつけるだけ。今まで一度も言えなかったこと、全部。
「そんなんでまた、っ好きになっちゃって!……もうほんと、馬鹿みたい馬鹿みたいっ!寛人は、本気じゃないのにっ、分かってたつもりなのに、っ、」
 上田くんに言われたことが、頭を駆け巡る。ドイツ人女優、仕組まれた同窓会、寛人が今まで付き合ってきた女の、人達。
 全部が本当だとは思わないけれど、全部が嘘だとも思えない。その範囲がどこまでかは、誰にだって分からないから。
「……だから、もう、許してよ……っ。これ以上、そういう冗談言わない、で。ちゃんと、自分の立場、理解、するから。だからもう、離して……っ」

 ――本当の本当はね、信じたいの。あなたが、私のためにしてくれたこと。私に向かって掛けてくれた言葉を。その微笑みを。なのにどうしても消えない不安が、それを無視してしまう。
 元々寛人のこと、手の届かない世界の人だって、そう思ってた。それでも彼が私を望むなら、とその手を取った。
 だけど、ずっとずっと、私の胸には不安が巣食っていたから。
 再会してからは特に周りの眼が気になった。こんな素敵な人の側にいるのに、私は相応しいんだろうか、って。昔は寛人が好きだから、ってその気持ちだけだったのに。
 昔より更に、距離が広がったからかもしれない。あの頃の私にとっては、どんなに特別な人でも高校の同級生という印象が強かったから。
 今は違う。高校卒業から大分経ってしまったのもあるけれど、今の寛人は、日本中の注目を集めている、スーパースター。ゴシップを書きたてられ、記者が追いかけ、テレビに何度も映り、雑誌で特集が組まれる。そんな人。一歩外に出れば、もう手が届かない場所に行ってしまう。
 だからこれ以上、私は私の心を剥き出しにはしておけない。

 ぐ、と拳を握りしめて俯く。堪え切れない涙が、ぽたぽたと床に落ちて。その数を、ぼんやりと数えていると、不意にそれに影が差した。それは。
「っやぁ!」
 ぐ、と抱き寄せられる。逃げようとしても許してくれない、強い両腕。ぎしぎしと骨が悲鳴を上げる。精一杯押し返しても、離れなかった。
「美哉、聞け」
「やだ、やだぁ!」
 耳元で囁かれるのは、私の名前。それすらも、心を揺らす。だけどそれでも、私はこの人を許容出来ない。
「やめて、やだっ!見せないでっ」
「美哉」
「そんな色、見せないで……!」
 目の前に広がる、真っ赤な色。今日の彼の服装は、赤いポロシャツ。それを見たくなくて、大きく首を振る。頭が痛くなっても、私はそれから逃げようと目を逸らす。
 あの日から、赤を目にするのを、ずっと避けてきた。赤い家具も、赤い服も。見るだけで、自分の中が真っ黒なものに支配されそうで。
 叫びながら顔を伏せる私を、寛人は強く抱きよせる。それに抵抗しようと、思い切り身を捩るけれど、片手でやすやすと抵抗を塞がれて。
「え、寛人お前何してんの!?」
 目を閉じた私の耳に、お兄さんの叫び声が聞こえる。同時に、肌に触れる感触が何か変わって。
 恐る恐る目を開けると、そこに広がるのは、赤じゃない。黒。驚いて視線を落とすと、さっきまで寛人が着ていたポロシャツが床に投げ出されていた。今の彼は、タンクトップ一枚。当然腕が剥き出しになるので、さっきまでよりも熱を感じる。熱い、くらいに。
「……これで、いいか?」
 頭に落ちた呟きに、顔を上げた。蛍光灯をバックに、真剣な目で私の顔を覗き込む。それは本当に、馬鹿みたいに真剣だから。膝から力が抜けて、立っていられなくなる。そのまま倒れ込む私を抱き締めながら、寛人も背を屈めて。そっと私に囁いた。
「全部、話す。六年前のことも、今までのことも、今回のことも。だから美哉も、気に入らないこと、疑問に思ったこと。何でも口に出して、言ってくれ」
 逃げようとは、もう思わない。今まで叫んだせいか、魂が抜けてしまったみたいで。くたりと座りこむ私を、寛人はただ強く、抱き締めた。
「だけど、一つだけ。これだけは、美哉に信じて欲しい」
 そっと声を落として、彼は囁く。それに顔を上げると、寛人は今にも泣き出しそうな優しい顔で、笑っていた。

「――俺は、美哉を愛してる。何があっても、誰と出会っても。それは絶対に、変わらない」

 今まで一度も聞いたことのなかった、愛の言葉を口にしながら。 


 

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