27. 〜touch〜


 夏が過ぎて、秋になる。
 衣替えが来て、学ランを羽織る。
 走っている時は暑いのに、立ち止まると、不意に吹き抜ける風に身体を竦める。
 そんな風に日々は過ぎて、季節は移り変わる。
 
 それでも、消えないものはどうしたって、消えない。

* * *

 十一月。その日は雨が降っていてグラウンドが使えないため、校内の階段や廊下を使って、ダッシュや走り込みを続けた。けれどボールも使えないので、一時間程度で練習は終了。今日は久しぶりに早く帰れるな、と笑う友達を尻目に、俺は手早く着替えてバッグ片手に立ち上がった。
「んぁ?寛人、どうした?」
「教室に定期忘れたっぽい。先帰ってて」
「マジ?りょーかい」
 部活が始まる前には、着替えている時に定期が行方不明なことに気付いた。面倒だが、取りに行かなければ帰れない。ため息を零して、階段を二段飛ばしで歩いた。
 いつもより早く部活が終わったとは言っても、外は暗い。廊下にも明かりは点いておらず、隙間風に、掻いた汗が冷えてきた。廊下を曲がり、一年生の教室を順番に通り過ぎて行く。五組までやって来て、自分の教室に明かりが点いていることに気付いた。小さく舌打ちをする。
(……女子がいたら、面倒だな)
 一人ならいざ知らず、数人固まっていると面倒だ。ちらちらとこちらを窺われたり、馴れなれしく話しかけられたり。昔から、そういう不自然な態度を取られることが多かった。
 好意を向けられることが不愉快な訳ではない。ただ、その女子の好意の示し方というものが、あまり好きになれないのだ。疲れているのに、どこから調べたのかメールや電話を繰り返されたり、俺が女子と話していたら、付き合ってもいないのに問い詰めてきたり、その女子を影で虐めていたり。もちろんそういったのは一部だと分かっているが、その一部のせいで、どんな相手にも下手に深入りは出来なくなってしまった。最初は良くても、そういう汚い面を見せられるのかもしれないと思うと、それだけで尻ごみしてしまう。
(……と)
 ぼんやりと考えていたが、いつまでもグダグダしていても意味がない。とりあえず、机の中を漁ってさっさと帰ろう。無かったら悲惨だな、と思いながら扉を引く。
 蛍光灯が煌々と輝く室内、外が暗いせいで、窓はまるで鏡のように、室内の様子を映す。
 一瞬、誰もいないのかと思った。だけど、窓際の、一番前の席。そこには、小さな背中を丸めた――吉倉が、いた。
「……っ」
 小さく息を呑む。けれど彼女は身じろぎもせず、じっとしていた。
 ……いや、違う。よく見ると机に腕を乗せ、その上に頭を乗せて、肩を小さく上下させていた。
 物音を立てないように気を付けながら、吉倉の方へ近付いて行く。艶やかな黒髪は下に流れ、項の透き通るような白さを際立たせる。その細さを、髪の間から覗く小さな耳を、じっと眺めた。
 後ろにあったストーブの上に腰を下ろして、眠る彼女を見つめる。その手にはシャーペンが握られており、下には何枚かプリントがある。目を凝らして見てみると、それは前に授業中にやったアンケートだった。もしかしたら、担任に頼まれて作業をしているのかもしれない。上手いこと言って押しつけられたのか、そう思うと小さな苦笑が零れた。
 それにしても、こんな寒い教室で、よくストーブもつけずに作業出来るものだ。セーラー服の上にカーディガンを羽織っているだけで、特に何も掛けている訳じゃない。机の下の、日に当たったことの無さそうな剥き出しの白い脚を見て、不意に眉を寄せた。
 ――こんな、誰でも入って来られるようなところでこんな無防備で、襲われでもしたらどうするんだ。
 この年頃の男なんて、簡単なことですぐに煽られる。それに小さく華奢な吉倉なんて、男の力には絶対に敵わないだろうに。
 他の男がこんな風に寝ている吉倉を観察したり、あまつさえ触れているところを想像するだけで、無性に苛々した。その衝動のまま、起こしてしまおうか、とぼんやり考える。と。
「んんー……」
 小さな声と共に、吉倉が動く。起きたのか、と思い少し身体を強張らせると、吉倉は
しばらくもぞもぞした後、顔を横向きにして、また寝てしまった。だけどその顔は、露わになっていて。
 滑らかな肌、桜色の唇、長い睫毛が陰影を作り出し、顔に影を落とす。
 吉倉は、決して目を引く可愛さや美しさがある訳じゃない。だけど彼女は、決して、可愛くない訳でもないのだ。
 小動物を好む人間は、少なくない。クラス内でも最初はほとんど話題に上らなかったが、一緒に過ごしていくうちにその笑みや一生懸命な姿に惹かれたのか、今では本気で吉倉を狙っている人間もいる。サッカー部でも、ピアノを弾く吉倉は相変わらず噂になっている。
 それを聞く度に、俺は苛立ってしまう。自分でも謎だが、吉倉を抱き締めたいだの、付き合いたいだの言う男共を、後ろから蹴飛ばしたい衝動に駆られる。
 それだけじゃない。その後ろ姿、スカートから覗く膝、カーディガンから少しだけ見える指先、そして、その笑顔。見つめていると、何故か、喉が渇いて来る。触れたいと言う気持ちが、抑えきれなくなる。そんな訳の分からない感情に、ここ数カ月、ずっと振り回されていた。
 ちらりと自分の手を見る。骨張っていて、焼けていて、大きくて。吉倉の持つそれと、ぜんぜん違う。だから、気になるのだろうか。

 この気持ちは、ただの興味で。
 一度知れば消えてしまうもの、なのだろうか。

 迷いながら、そっとその髪に触れてみる。さらりとした感触は、やはり自分が持たないもので。
 今度は、柔らかそうなその頬を突いてみる。この間授業中眠ってしまい、先生に叱られて、恥ずかしいのか真っ赤になっていた。その時は、触れたらとても熱いのだろうな、と思っていたけれど。今は、冷えている。柔らかな弾力に、なんとなく指が離せなくなった。
 遠くから眺めるばかりだった吉倉に、今、触れている。だけどおかしなことに、触れても触れても、喉の渇きはひどくなるばかりで。苦しさすら覚えながら、視界に映る吉倉の唇に、目を止めた。
 優しく色づいたそれは、呼吸のためか、小さく開いている。見てしまえば、それ以外のどこも、目に入らなくなって。
(触れたい)
 唇を、撫でてみる。僅かにかさついているものの、滑らかな吸いつくような感触。指先を擽る吐息に、微かに笑ってしまう。そして一度触れたら、その吐息すらも、味わってみたくなって。
「吉倉」
 そっとその名前を呼んでも、彼女は気付かない。本当に、俺以外の男にこんなことされたらどうするつもりなんだ。と、肩を掴んで問い詰めてしまいたい気持ちもある。
 だけど今は、目を覚まさないで。このままで、いて欲しい。
「――美哉」
 小さく落として囁いたのは、吉倉の名前。口に出して初めて、ずっとこの名で彼女を呼びたかったのだ、ということに気付いた。
「美哉」
 自分でも聞いたことのない、甘ったるい声。今俺は、どんな顔をしているのか。想像するだけで、気持ち悪い。だけど止めることなど出来なくて。
 背を屈めて顔を近づければ、顔を掠める彼女の吐息。彼女の全てがまるで砂糖菓子のように感じる。だって、ほら。こんなに甘そうだ――。
「ん、ぅ」
「!」
 ……だけど俺は、その声に我に返った。思いっきり後ずさったせいで、太股をストーブにぶつけたけれど、悲鳴を噛み殺す。そしてバッグを掴み、慌てて教室から駆けだした。訳も分からず完全にパニックになった俺が、廊下を走り抜けようとした時。
「見ーちゃった」
 ……後ろから、悪魔の声が聞こえた。
 暗い廊下を、非常灯の緑色が照らす。その光の筋を誰かの上履きが邪魔していた。一人しか、いないだろうけど。
 のろのろと顔を上げると、薄い体つきの、それでも身長はちゃんとある男の姿。何でこんなところに、と思うがそう言えばこいつは隣のクラスだった。暗闇でもはっきり見える、そのにやにや笑い。俺がため息を零すのを見て、ますます笑う。
「こっち来たら?そっからだと、多分、彼女に見られちゃうんじゃないの?」
「……うるせ」
 けれど実際、扉を閉める時に大きな音を立てた気がするので、このまま立ち尽くしていると起きた吉倉に見られる危険がある。かなり嫌だったが、渋々歩き出したその背中に着いて行った。
 しばらく歩き、生徒会室に辿り着く。ガチャガチャと鍵を開けて俺を促す奴は、この間の選挙で一年生ながら生徒会書記になったのだ、と思い出した。中学の時も生徒会長をやってた奴だから、そう不思議ではないのだけれど。
 生徒会室は簡素なイメージを持っていたが、そうでもない。ポットに茶菓子、ソファまである。遠慮なくそれに腰掛けると、すぐに奴もその向かいに座り、くすくすと笑いを零した。ストーブを切ったばかりなのか、まだ暖かい室内。
「いやー、会議が終わって忘れ物取りに教室戻ったんだけど。洒井が女子襲うなんて、珍しいとこ見たなー」
「黙れ、大塚」
 眼鏡の後ろの瞳を楽しそうに細める。普段は人畜無害を気取って常に笑ってるが、知り合ってみれば非常に腹黒く、人をおちょっくては楽しむような奴だ。
 そんな大塚と俺は中学が一緒で、選択科目が被り話すようになった。まぁ、それなりに仲が良い。こいつは性格は悪いものの空気は読めるし、個人的にからかわれてる感は気に食わないものの、波長が合うので一緒にいて楽なのだ。
 だが、大塚と俺は昔も今も、人前ではあまり話さない。これは大塚の言い出したことで、曰く、「洒井と一緒じゃ目立ちすぎる」んだそうだ。
「洒井は良いんだけど、外野がうるさいから。特に女子なんかお前と友達だと知るとすぐに、アドレス教えろだの協力してだの。そういうのに巻き込まれたくないし。だけど洒井と友達止めるのも勿体ないから、人前ではお互い、距離を置こうよ」
 その言葉には正直反論出来なかったので、素直に頷いた。過去に仲良かった奴も、そういう女子が面倒で友達を辞められてしまった経験もある。あまり思い出したくない過去に思いを馳せてため息を吐くと、大塚はくつくつと笑った。
「結局未遂だったみたいだけど。太股、大丈夫?」
 ……こいつ、どこまで見てたんだ。半眼で睨むと、大塚は肩を竦めた。
「まあまあ、洒井の初恋だ、応援してやるよ。お前だったらそんなん無くても一発だと思うけどな」
 白々しくそんなことを言う大塚にむっとして、口を開く。けれど俺は、途中で止まった。固まった俺に、大塚は首を傾げる。何度か瞬きを繰り返すその目を見ながら、俺は唾を呑みこんだ。
「なぁ」
「何?」
「……初恋って、何の話だ?」
 そんな俺に、大塚は固まる。そして、次の瞬間。
「っあはははははは!」
 腹を抱えて、大爆笑した。珍しくも、がちな笑い。ほとんど見たことがないそれに、自分が笑われていることは分かって拳を握る。それが見えたのか、大塚は震えながら手を俺の前に突き出した。
「ぷっ……はは、っちょ、待て洒井……ははっ」
「笑うな」
「だぁっておま、……ぶっ」
 思い出したのか、また噴き出す大塚。ついには仰け反ってまで笑い続けるその姿に顔を顰めながら、笑いが止まるのをじっと待った。
 それから、五分ほど経って。ようやく笑いの波が収まった奴をじっと睨みつけると、目尻に涙をにじませながら、大塚は口を開いた。
「お前、分かってないの?本気で?」
「何が」
「お前が、あの女の子――吉倉さんを好き、ってことだよ」

 ――好き?
 
 ――――俺が、吉倉を?

 聞き覚えのない単語に、俺は顔を顰めた。そんな俺の顔に笑みを深めながら、大塚はゆっくりとソファの肘置きを使って頬杖を突く。
「全然、そんなつもりない、って顔だな。じゃあ何で、お前吉倉さんを襲った訳?」
「それは、」
 答えようとして、途中で止まる。
 何故、と聞かれても。あの時感じたのは衝動のようなもので、特に何も考えていなかったから。
 ただ触れたいと、そう思っただけで。
「……寝てる女子がいたら、そりゃ気になるだろ」
「へぇ?なら洒井は、あそこで寝てたのが吉倉さんじゃなくても、ああいう行動を取るってこと?」
 その質問に、言葉に詰まる。
 もしも、あそこにいたのが吉倉じゃなくでも。あんな風に寝顔を見つめたり、触れたいと思ったり。そんな衝動に駆られたのだろうか。今までだって、一度も他の女子に触れたいと思ったことはないと言うのに。
 だけど何だか素直にそれを大塚に言うのは癪で、唇を噛み締める。
「……そんなの、その場にならないと分からないだろ」
「へぇ、分からない、ねぇ……」
 にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて、俺を眺める。こういう時、俺はまるで自分がすごく子供のように感じてしまうのだ。
「じゃあ、俺が吉倉さん狙ってもいい?」
「……は?」
「あの子、選択一緒なんだけど、前から可愛いと思ってたんだよね。洒井が『寝てる女子がいたから』触っただけなら、別に特別な気持ちなんてないんだろ?それなら、俺が吉倉さん落としにかかっても、文句ないよな?」
 大塚が、吉倉を?俺以上に恋愛感情なんか薄そうな奴がそんなことを言うなんて、とまず衝撃を受けた。
 だけど次に、二人が並ぶ姿を思い浮かべる。
 小動物系の吉倉と、中身はともかく見た目が優しげな大塚は、多分割とお似合いのカップルになる気がする。二人並んで微笑みあって、会話を交わし。そう思うだけで、胸がむかむかした。
 付き合うとなれば、吉倉に大塚が触れることもあるのだろう。あの細い腕を、項を、背中を、抱き締めて。赤く染まった柔らかな頬を撫でて、あの桜色の唇を味わって。
 そしてあの真っ直ぐな瞳が、ただ一人の特別を、映しだす。
 俺じゃない。大塚を――別の男を、吉倉が。

「……!」

 想像だけなのに、その相手を八つ裂きにしてやりたいような衝動を感じた。それを堪えるために、目の前のテーブルに思い切り拳を叩き付ける。鈍い音と共に広がった痛みに、嫌な想像は消えて行くけれど。
 目の前の大塚は、もちろん残ったままだ。何もかも見透かしたようなにやにや笑いが、今ほど気に食わなかったこともないだろう。
「で?答えは出たかね、洒井くん?」
「……うるせ」
 その態度から考えても、さっきの言葉は冗談だったのだろう。それでも、睨みつけることはやめられない。だけど徐々に熱を広げていく耳や頬を見られたくなくて、結局顔を背けた。

 馬鹿みたいだ。何やってんだ。
 何度も何度も呟いた言葉が、また、浮かぶ。
 最初っから答えは出てたのに、こんな風に煽られなくちゃ気付かない俺って何なんだよ、本当に。
 『恋』が分からないなんて、『好き』に気付かないなんて、『特別』を認められないなんて。
 まるで自分が小学生のガキみたいで、胸糞悪い。だけど多分、最近の小学生でも、人に言われる前に自分で気付けるだろう。

(俺は、――吉倉が、好きだ)

 あの瞳に、他の誰も映してほしくない。あの微笑みを、誰にも譲りたくない。あの肩を、引き寄せたい。
 彼女なら多分、どんなに汚い面を見せられても、拒絶されても、俺はきっと手を伸ばしてしまう。大して話をしたこともないのに、そんな確信めいた想いがちらついた。
 こんなに溺れている癖に、訳が分からないとかほざいてた自分がまた馬鹿らしくて、大きなため息と共に頭を抱えた。 


 

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