30. 〜someday〜


 まず、あの日、入ってきた女は隣の家の住人だったらしい。俺がプロ入りした時からファンで、どうしても近付きたくて、俺が住んでいる場所を知って最近あそこに引っ越してきたらしく。どうにかして入れないかとノブを引いたら開いて、思わず上がり込み、あげくに寝ている俺に欲情したとか。しかも薬をやってるらしく、私達付き合ってるでしょ?なんて本気で聞いてきた。
 個人的には、ストーカーと言ってもいいと思う。
 俺を見上げる女に、こいつのせいで、という腹立たしさは残った。だけど自分にも責任があると思ったし、何より美哉以外の女に関しては、良くも悪くも余り関心が働かない。
 とりあえず警察に連絡と、知り合いの弁護士に相談した。示談金を受け取り、もう会わないという約束を取り付けさせ、女の家族にその管理を頼んだ。女の問題は、それでひとまず済んだのだけれど。

 ――美哉には、会えないまま。
 一カ月は、走りまわった。絶対に捕まえて話をしよう、と。俺の顔すら見たくないと美哉が言っても、俺はそれを受け入れられないから。責められても、嫌いだと言われても、絶対に美哉を離すことは出来ない。失った信頼や気持ちを取り戻すまで、何でもするつもりだった。
 だけど美哉は、徹底的に俺を避けた。携帯が使えないことは分かっていたから、オフの日は美哉の最寄り駅で一日粘ってみたりしたし、家に帰って連絡網を漁り、自宅に電話を掛けた。
 けれど美哉の姿は最寄り駅では全く見掛けず、家の電話は居留守を使われ。
 学校名をきちんと聞いておけばよかった、家まで送るか何かすれば良かった、と後悔しても後の祭り。諦めきれずサッカー部の連中やクラスの奴に美哉の連絡先を知らないか聞いてみるものの、俺自身近付けなかったのもあって美哉は男子とアドレス交換すらしていない。俺自身、女子のアドレスは美哉以外誰のものも知らない。
 必然的に、美哉との繋がりはそこで切れる。
 手掛かりが何もなくなって、俺は初めて、美哉との関係があまりにも脆いものであったことに気付かされた。

 そして、三カ月。
 当てもなくなり、もう、何もする気が起きなかった。食事も、食べなければ倒れて迷惑を掛けることが分かっているから口にはする。だけどコンビニの総菜やインスタントラーメンは、美哉の料理と違って全然美味くない。半分も食べると腹一杯になってしまい、途中で床に寝転がった。
「……美哉」
 ぽつりと呟き、口内でその音を転がしてみる。名前だけで、いつだって甘い気分になる。だけど次の瞬間には、現実に叩き落とされて。また今日も、逃げるように過去に意識を飛ばす。
 何かに集中している時、こっちを見ない美哉に寂しくなって。髪をつまんで引っ張ると、ちょっと怒ったような声を出す。だけど振り返るその笑顔で、単なる照れ隠しだとすぐに分かった。
 額に口付けると、真っ赤になる頬。今度はそれに口付けて、最後に、柔らかい唇に。至近距離で目を合わせて、困ったように涙目になる。その何もかもが、たまらなく愛おしい。
 キッチンも、床も、テレビも、服も。美哉を感じないものなんて何もない。
 ストーカー女や、美哉について知っているチームメイトや先輩には、家を引っ越すよう何度も言われた。
「もっとひどいストーカー被害にあうことは絶対にある。彼女との思い出から離れたくない気持ちも分かるが、いい加減忘れて、ちゃんとしたセキュリティのところに引っ越せ」
 それは多分、一気に八キロほど痩せてしまった俺を心配しているのだと思う。この頃は寝不足も祟り、試合中の反応も鈍い。サッカーには支障をきたさないつもりだったのに、美哉がいないと俺は本当に何も出来ない。
 消すべきだと理解しているのに、美哉がまたこの場所に来てくれるんじゃないか。淡い期待がどうしても消せない俺は、多分、とても馬鹿なんだと思う。

* * *

 そんな生活の中で、ある日、電話があった。――大塚から。
『洒井、大丈夫?こないだの試合見たけど、最低だったね』
「……悪かったな」
 強制的に取らされたオフの日、浅い眠りに浸かっていた俺はぼんやりと返事する。そんな俺にため息を吐いて、大塚は話を続けた。
『吉倉さんの連絡先』
「分かったのか!?」
『いや。川崎に聞いたんだけど、今は男なんて近付けたくない、って言われた。川崎も事情を知ってるんだと思う』
 美哉の名前が出た瞬間身体を起こしたが、返事は素っ気ないものだった。
 川崎は美哉の親友らしく、度々その名前は聞いていた。俺達の付き合いも、知らない訳がないだろう。そして、この間の件も。
 高校時代は、俺も美哉に男が近付かないようにガードを張っていたが、それは裏の話。表でガードを張っていたのは川崎だろう。美哉に面白半分でちょっかい掛けようとする馬鹿がいたら、一喝していた。
 大塚と一緒に生徒会をやっていた川崎は、女子からの信頼も厚い。一声かければ、美哉の連絡先を誰にも教えないようにすることも、多分可能だ。
 本人が、許さない限りは。
「……」
 大塚から川崎経由で美哉の連絡先を教えてもらえれば、と思って一番に連絡したんだが、もう、望みは薄いだろう。
 このまま。離れていくのだろうか。美哉との距離が、ゆっくりと。決定的に、もう触れられない場所まで。それはまるで、奈落の底へ落ちて行くような恐怖を、俺に抱かせた。
『洒井さ。一度、吉倉さんのことを、忘れなよ』
「……は?」
 だから突然、言われた大塚の言葉に、俺は一瞬、何が何だか分からなくて。
『話を聞く限り、現時点で吉倉さんはお前と会う気はない。それは多分、どうやっても変えられない。だからお前はとりあえず、サッカーに集中するんだ。金もらって、仕事でやってるんだから』
「……集中、してる」
『馬鹿なこと言うなよ、体調管理も出来ないで。こないだの試合だって球逃したり敵味方間違えてパス回したりで、すぐにベンチに戻らされただろ。洒井、小学校の時からプロ選手が夢だったんだろ?一時の感情で、それを潰しちゃいけない』
 ―― 一時の感情なんかじゃない。
 本当に一時の感情なら、一番大事だと思うサッカーにまで影響を及ぼさない。自分でどうにか出来るものなら、もうとっくにやっているのに。
『言っとくけど、お前の吉倉さんへの気持ちが一時って言ってる訳じゃない。お前の吉倉さんへの気持ちがほんっとうにうざったくて重たいってことは分かってる。吉倉さんを失った悲しみとか、そういうのが一時の感情って言ってるんだ』
「……それも、一時じゃない」
 つーか、うざったくて重いってなんだ。自覚してるけど。
『一時だろ?お前、吉倉さんを誰にも渡す気ないんだろ?絶対に、離れたくないんだろ?だから、お前が吉倉さんをちゃんと取り戻せたなら、失うのも悲しむのも、長い目で見れば一時になる』
 その途中で忘れれば、どっち道、一時になるけど。
 そう、大塚は茶化すように言う。だけど、一転して。
『しばらくは川崎の怒りも解けないかもしれない。だけど絶対に、いつか緩む時が来る。それは、吉倉さんも同様だ。その時、絶対にお前と吉倉さんを、会わせてやる。何年かかるか分からないけど、お前がそれまで吉倉さんを好きでいられるなら。同じ気持ちの吉倉さんじゃないかもしれないけど、その時はまた、粘り強く口説き落とせばいい』
 ――普段からは考えられない程真剣な、声になる。
 ぼんやりと聞いていた間、大して働かなかった脳味噌がゆっくりと回り始めた。しばらくまともに動かなかったそれは、なかなか大塚の台詞を理解しなかったけれど、徐々に、浸透していく。

 ――いつか。
 今すぐ美哉に会うことは出来なくとも、いつか、隣に並べるのなら。そして今度こそ、その手を、離さずに済むのなら。

「……けど」
『うん?』
「その間に、美哉が、他に男が出来たら、どうすればいいんだ」
 口にしながら、ぞっとした。
 その可能性は、かなり高い。その時俺は、狂わずにはいられない。俺だけが許されたあの存在を触れられる、他の誰かがいるなんて。
 だけど大塚は、電話越しに苦笑を零した。
『まぁ、その可能性はあるな。だけど当分は、無いだろうなぁ。今は川崎が男近付けられないレベルみたいだし、吉倉さんの性格から考えても、そうそう簡単に心変わりするようには思えないんだよね』
「……お前、美哉の何を知ってるんだ」
『はいはい、変な嫉妬するなよ。だけど、分からない未来を不安に思ったって仕方ない、そうだろう?それにお前は、吉倉さんの中から洒井って存在を消させないための手段を持ってる』
 美哉をよく知っているような大塚の口調に、多少むっとする。それに呆れ、ため息を零す大塚。何だかんだと正論を言われている気がするから、反論も出来ない。
 だけど、手段って何だ?
『洒井には、サッカーがある』
「それが何だよ」
『だから、サッカー真面目にやればいいんだ。それで活躍すれば、メディアに取り上げられるし、雑誌やニュースに出ることもあるかもしれない。お前は元々、顔だけでも話題性は十分だから。そうすれば吉倉さんの目にも絶対留まるから、そうしてお前の名前や活躍で彼女の周りを固めればいい』
「……かた、める」
『そう。もちろん、洒井に対する誤解は解けないままだから、吉倉さんは洒井の名前を聞く度、苦しくなると思う。嫌な気分になると思う。それはお前の知名度が上がる度に、だ。だけど惚れた女をそんな風にする覚悟があるなら、吉倉さんは絶対に、お前の名前を忘れることはない。そして、そんな風に洒井に対する気持ちをひきずる間は、他の男を見る心配もないと思う』
 大塚の言葉に、目を閉じて、大きく息を吸い込んだ。
 サッカーで、有名になる。そうして、彼女に俺の存在を刻みこむ。だけどその代わりに、彼女が苦しい想いをする日々が、続いて行く。
 ならば。
「……美哉に俺のことを忘れさせないためだけに、サッカーを続けるって言うのは、ないな」
『じゃあ、諦めるの?』
「それも、違う」
 俺なりの答えに、大塚は意外そうに声をあげる。だけど決して、これは敗北宣言では、なくて。

「――サッカーは、真剣にやる。俺は、自分が一番まともだと思う自分で、美哉に再会したいから。その結果メディアに取り上げられたら答えるし、それで美哉が俺を忘れないのなら、好都合だ」
 目的が違っても、手段が一緒だと言われるなら、それまでだけど。
 俺は美哉のためにサッカーを続けるのは、余りに失礼だと思う。それは、チームメイトだけじゃない。チームのファンに対しても、今まで一緒にやって来た部活のメンバーに対しても、そして、美哉に対しても。
 付き合ってしばらくして、美哉に俺を好きになったきっかけについて、尋ねたことがある。その時恥ずかしがりながらも、美哉ははっきり答えてくれた。
『サッカーをやってる時の寛人が、一生懸命で、頑張ってるから。その時の、真っ直ぐな瞳が、格好いいって思ったの』
 そんな風に美哉が言ってくれた自分を、捨てることは出来ない。俺は俺の夢を、ちゃんと大事にする。
 それに、美哉にはいつだって笑って欲しいけれど。笑顔にするのは、正直、俺でなければ嫌なのだ。他の人間が美哉を笑わせることは、許したくない。
 だから、今は苦しませても。いつか絶対にこの腕の中で、泣かせた分まで、笑顔を返すから。

『お前、やっぱりエゴイストだよなぁ』
「今更か?大体、思いついた大塚も大概だろ」
『……ま、同類か』
 せいぜい頑張れよ、と電話をあっさり切った大塚。俺も素直に電話を切って、部屋を見渡した。
 ――いつまた会えるか、分からない。
 一年先か、三年先か、それとももっとか。その間、一人の夜を何度も繰り返し、時にはその声を聞きたいと切望するのだろう。今頃誰かの腕の中じゃないかと、苦しむのだろう。だけどその先に、もう一度出会える日を、求めて。
「……は」
 ほんの一時間まで、死にたくなるような気持だった癖に。希望が見えてきたら途端に頭がはっきりしてきた俺は、本当に現金だと思う。だけどもう、腹は決まった。……まあ、大塚のお陰、ってのが若干納得出来ないけれど。それでも。
「……ありがとな」
 心配をして電話をくれただろう友人に、小さく礼を零した。

 それからまず、引っ越しをした。
 悩んだけれど、今の家の周りには外食出来る場所も少ないし、コンビニ飯が続くと身体に悪い。そしてまたあんな風にストーカーが入ったりすれば、マンション側も困るだろう。そう思い、チームメイトが住んでいるというマンションに越して来た。そいつの奥さんが栄養士だと言うことで、週二回程、食事をごちそうになる。栄養もあるし美味いので、たくさん食べれた。更にトレーニング内容を今までより増やして、体重は何とか元に戻った。
 最初は今までの失敗が重なり、試合にも使ってもらえなかった。だが、徐々に実力を認められ、一年後にはスタメンになった。その年の天皇杯ではチーム優勝、同時に得点王になる。
 それからすぐに、ワールドカップ日本代表に選ばれることができ、メディア露出も増える。子供の頃からの夢だった舞台に立ち、必死に高みを目指して走り続けた。
 終わったら今度は、憧れの選手がいるドイツのチームにスカウトされる。正直これは、かなり迷った。言語の壁もあるし、何より向こうに行けば気軽に帰って来ることは出来なくなる。
 ――だけど俺は、自分に出来る限り、頑張ると決めたから。
 結局チームを移籍、ドイツで新しい生活を始めた。
 スカウトされたものの、もちろん日本でだけずっとやって来た俺と、ヨーロッパで磨かれたチームメイトとのレベルには差があった。最初は体力も追いつかず、きつい日が続いた。言葉も英語ならそこそこ分かるが、ドイツ語をこの年で一から勉強するのは、なかなかしんどい。しかも聞きとるだけでなく、話せなければ意味が無いのだ。それでも暇があればCDを聞き、身ぶり手ぶりでもチームメイトと交流し、とりあえず簡単な絵本などを読んでみる。
 そうこうする内に何とか仲良くなり、試合帰りやオフの日に一緒に酒を飲みに行ったりすることも増えた。……酒は得意じゃないと言っているのに、無理矢理飲まされ、毎回のように潰されるのだけれども。


 そして、あの日から五年半。待ち望んだ日が、やって来た。
「同窓会?」
『ああ。六月にやる予定なんだけど、吉倉さんも参加するって。来れるか?』
 こちらを窺うような大塚に、俺は小さく笑った。
 まぁ、普通に考えて同窓会のために、五年以上前に離れた恋人のために日本に帰るのは、あまりに割に合わない。だけど、俺は。
「行く。ちょうどその頃はこっちはシーズンオフだし、丁度良い。八月まで日本にいることにする」
 何度、どころじゃなかったな。声も顔も、美哉の何も感じ取れない日々。それは、深い孤独へと俺を誘った。時には全てを忘れたいと願ったことも、正直、ある。
 会えない時間は、長かった。それでも俺は、この日のために今いるのだと思う。

 どんな風に、変わったのだろう。
 髪は、顔立ちは、雰囲気は。そして、宣言通り保育士になっているのだろうか。
 その瞳は、今も揺らぐことなく真っ直ぐなのだろうか。
 俺に対して、どんな反応を示すのだろうか。
 分からないことだらけだ。
 ――けれど俺は、今度こそ、美哉の全てを手に入れる。
 もう二度と、離さないために。 



 

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