8. 〜morning〜


 ―チュンチュン
「……んん゛……」
 外で聞こえる鳥の声。普段と同じだけど、今日は何だか、やたら頭に響く気がする。どうしてだろう、こめかみ辺りがひどく痛む。そこからまるで殴りつけられているかのように感じて、頭を抱えて唸った。
(いま、何時?)
 布団の中で頭痛に耐えながら動き回り、何とか顔を出した。カーテンは全開で、そこから差し込む日射しは眩しい。八時くらい、かな。太陽の位置を確認して、目測でそう判断する。多分そう間違ってはいないだろう、と判断し、痛む頭を枕に沈めた。
 もう一時間くらいなら、寝ててもいいだろう。今日は休日な訳だし。一応目覚ましをセットしておこうかな、とヘッドボードに置かれた目覚まし時計に手を伸ばす。
 ―スカッ
 が、空振り。
「……」
 ぶんぶん手を振りまわすものの、何にもぶつからない。おかしい。
 おかしいと言えば、このツルツルしたシーツや上掛け布団の感触も、おかしい。我が家のシーツは夏はパイル地で、上掛け布団はタオルケット。一人暮らしの部屋も、実家も、それは変わらない。なのに、このシーツ、何。まるで保健室かホテルみたいな――。
「……!」
 声にならない悲鳴と共に、身体を起こす。……けれど、頭痛と気持ち悪さでそのまま前のめりに倒れ込んだ。
「……うぅぅぅ」
 呻きながら、周りをゆっくりと見渡した。
 まず、私がいるベッド。やたら広いし、真っ白。ベッドサイドには落ち着いた茶色のテーブルと照明がある。左にはブラウンのカーテンと大きな窓、目の前には横長の鏡に真っ青な私の顔が映っていて、その下にはキャラメルブラウンの細長い机。机の上にも照明が置いてあり、他に見覚えのない黒い旅行用バッグや、充電コンセントと繋がった黒い携帯、あとは、私の髪に結ばれていたはずのシュシュ。机右にあるクローゼットは開かれており、中に、私のワンピースが、ハンガーに掛けられて揺れていた。
「……」
 恐る恐る、自分の姿を見下ろす。
 何だかすうすうするな、とは思っていたけれど、掛け布団が割と厚手だし、寒くはなかったから。気付かなかった、けれど。
 ――今の私は、上下揃いの下着と、灰色のレースキャミソールしか身につけていない。
「……っぃやああああ!」
 理解した瞬間、甲高い悲鳴が喉から迸った。その途端。
 ―ガチャッ、バンッ
「美哉っ!?」
 ドアの開閉音と共に、慌てた低い声。覗いた見覚えのありすぎる顔に、私は目を丸くする。
 端整な顔立ち、焼けた肌、少し茶色い髪は後ろに撫でつけられていたけれど、幾筋か垂れて頬に張り付いている。ぽたぽたとその頬を落ちて行く雫に、お風呂に入っていたんだ、と理解する。
「美哉、どうしたっ?」
 真剣な顔でこちらに歩いて来る、彼。筋肉質な身体に、これがいわゆるイイ身体か、と間抜けにも納得してしまった。
 そう。引き締まった首筋、筋肉のついた腕、広い胸、六つに割れたお腹。おな、か

「……美哉?」
 気付けば、目の前まで近付いていた、彼。その身体は今、何の衣服も身にまとっていなくて――。

 私は、その日二回目の悲鳴をあげた。

* * *

「美哉、飯何がいい?」
「……」
 彼――寛人は言葉と一緒に、ルームサービスのメニュー表を渡される。私はそれを受け取らず、無言でそっぽを向いた。しばらく待っていた寛人だけど、何も言わない私にため息を吐いて、内線用の電話機を取る。
「……すみません、ルームサービスをお願いしたいんですが。はい、六○五号室です。サンドイッチとアイスコーヒー、ブラックで」
 低い声で話す彼を、そっと見遣る。
 先程、悲鳴をあげた私に彼は自分の状態に気づいたらしく、気まずげな顔をしながらシャワールームへ戻っていった。五分ほどして現れた時には、Vネックの黒Tシャツにベージュのカーゴパンツを身につけていた。
 私も彼が消えてすぐ、慌ててワンピースとレギンスをクローゼットから奪い、着込んでベッドに座った。戻って来た寛人は私を見て頷き、さっきの質問をして来た。
 ピッタリしたTシャツだから、背中のラインがよく分かる。がっちりした背中に、ふと先程の光景を思い出して顔が熱くなった。
「それと、フレンチトーストとホットティーを一つずつ。そちらはミルクお願いします」
 だけどその言葉に、耳を疑った。
 電話を切り、首を回しながらこちらに来る寛人。私の真横に座る。ギシ、とベッドのスプリングが軋んで、揺れた。触れる、肩と肩。その距離感に、思わず。
 ――横に、ずれた。
「……」
「……」
 人一人分空いた空間に、気まずい沈黙。だけど寛人は、また距離を縮めてきた。それにまた横にずれる私。無言の攻防も、やがて私がヘッドボードに辿りついてしまったことで決着がついた。
「……」
「……」
 ていうか、何でこんな近いの?
 考えてみれば、訳が分からない。ここは何処なのか、何で寛人がいるのか、ぴったりくっついて来るのか。
 だけど話もしたくない、という気持ちもあって、顔を背けたままでいた。
「美哉」
「、」
 ――なのに寛人は、私の名前を呼ぶ。私の大好きな、低くて掠れた、どこか甘い声。その声で呼ばれると、反射的に振り返ってしまいそうになって。ぐ、と膝の上に置いた拳を握りしめ、自分を戒めた。
 目の前には、真っ白に見えて実は細かく模様が書いてある壁。反応しない私に寛人はもう一度ため息を吐いて、次の瞬間。 
「や、っ」
 腰を抱かれ、ベッドに倒される。振り上げた両腕を掴まれ、シーツに押し付けられて。間近に迫る瞳に、目を瞠る。頬を擽る少し濡れた髪に、身体が震えた。
 何、何で?付き合った頃だって、押し倒されたことなんて無かった。どうして今更、こんなことするの?
 ぐ、と腕に力を込めて、逃げようとする。でもそれをいとも簡単に封じて、彼は私の上に四つん這いになった。無表情のまま、じっと私を見つめる。
 こんなの、嫌。
 私の意思を無視して、勝手に触れるなんて。
 かつての恋人に、意に沿わないことをされようとしている。その事実が苦しくて、目を瞑る。じわじわと瞼が熱くなって、涙が零れた。
「、」
 その、涙が。痛いほどの力で、ぐっと拭われた。
 驚いて目を開けると、寛人が眉間に皺を寄せて私を見ている。いつの間にか腕は開放されていて、私の顔の横で肘をついた寛人。ため息と共に、両頬が包まれる。
「……顔、真っ青。気持ち悪いなら、無理してないで横になってろ」
「……え?」
 相変わらず、熱い手の平。それに何となくほっとしていたら、彼は私の上から退いて、立ちあがった。ベッドからはみ出した足を中に仕舞われ、布団を掛けられ、何だか子供になった気分。
 ぽかんと寛人を見上げる私の頭を撫でて、寛人は笑った。――私の、大好きだったあの笑みで。
「ルームサービスも、もう少し時間掛かるらしいし、寝ててもいい」
 来たらちゃんと起こすから、そう言って寛人はもう一度私の目元に触れて、ベッドから離れた。

 ……どうして?
 彼の態度は、まるであの頃と同じ。
 私の名前を呼ぶ声も、触れる手の優しさも、その笑顔も、何もかも。
 まるで全てが夢だったかのようなその態度に、訳が分からなくなる。
 それに。

「……」
 ぎゅ、と胸が苦しくなった気がして、布団を被って深く潜り込んだ。

『私、フレンチトースト大好きなの。紅茶はホットで、ミルクたっぷり』
 付き合っていた頃、ふと食べ物の話になった時、一度だけ言ったことがある。でもそんなの、忘れているはずなのに。
 ――どうせ、偶然に決まってる。そう思うのに、心臓が痛くて、また一粒、涙が零れた。


 

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