彼 カク語リキ
三月上旬、今年は春の訪れが非常に早く、桜の蕾はすでに半分ほど綻んでいる。窓の外で揺れるピンク色の花びらを視界の端に捉えながら、テーブルの上にあるグラスを一気に煽った。中身は、未成年なので勿論ソフトドリンク。しかしそれにも関わらず、一部の部員は、まるで酔っぱらっているかのようなテンションで後輩を締めあげていた。
本日正午。俺達の高校の卒業式は終わった。
現在時刻は夜七時過ぎ。三年間一緒にやってきたサッカー部の面々で打ち上げをやるのは毎年恒例のことで決まっていたけれど、今年は珍しく全員参加と相成った。会場が、同級生の部員の家がやってる居酒屋だってのも一つの理由かもしれない。一年の頃から大会の打ち上げと言えばここでやっていたが、毎度安くしてくれるし、料理も美味い。気の良い親父さんとおっとりしたおかみさんと、卒業しても多分サッカー部の連中で集まるならここだな、と感じた。
昼飯はクラスメイトと思い出話を語り合っていたら食べ損ねてしまったので、次々とテーブルに並べられる皿に箸をつける。串に刺さっていない甘辛だれの焼き鳥は非常に美味い。騒ぐ周りを無視して黙々と焼き鳥を食っていると、空いていた隣の席に、今回の幹事の山下が座った。
「持田ーお疲れ!」
「お疲れさん」
陽気な笑顔と共に、グラスを掲げられる。俺のグラスはすでに空だったが、まあいいか、と思いグラスを合わせた。
「やー、今日全員集まってくれたとか、マジで嬉しいなー」
「幹事大変だったろ、ありがとな」
「いやいや、みんな受験とか色々大変だったでしょ?俺は夏明けには決まってたし、店探しとかはやる必要なかったし」
だから気にしないでよ、と笑う山下の笑顔は一年の頃から何も変わらず、俺は頬を緩めた。
うちの部は、先代幹部の指名で次代幹部が決まる。幹部とは、部長一人、副部長二人。ただサッカーが上手いだけでなく、後輩を引っ張る力や、または幹部三人揃った時のバランスで決められる。
俺――持田は、今の三年生の代で、サッカー部部長を務めていた。多分、俺が部長任命された理由は、自分で言うのもあれだが視野が広いからだ。まあ、ポジションがMFなのだから視野が狭ければ論外なのだが。
そして山下は、副部長の一人だ。明るい笑顔と軽いフットワークで面倒事を色々引き受けてくれていた。正直に言えば、山下はサッカーの技能がそこまで上手かった訳ではない。だが、先輩後輩同級生誰とでも仲が良く、こいつのお陰でチーム全体のまとまりは非常に良かった。
そしてもう一人の副部長は――。
「……遅いなぁ」
ぼそり、山下が零す。その言葉に一瞬首を傾げたが、すぐに思い当たった。
「寛人か」
「そう。七時には来れるって言ってたのに、メールも全然ないんだ」
洒井寛人。ポジションはFW。そして、もう一人の副部長。
入部当初からずば抜けて上手く、毎年インターハイに駒を進めているうちのサッカー部だったが、寛人がいなければ優勝は不可能だったと思う。普段は無口でどこか冷めていると言うか、ある意味ぼんやりしているのだが、一度グラウンドに入るとボールに凄まじい執着心を見せる。やや荒削りなプレイは、しかしそのがむしゃらさ故に誰の目をも惹き付けて。思い出すだけで喉が渇くような、そんな感覚にさせられるのは、一高校生ならば寛人のプレイくらいだと思う。
同時に、並はずれて整った顔立ちを持っていた。確かに、男の俺から見ても呻るほどの美形だったが、本人はそれには特に頓着せず、ボールを追って泥に突っ込んだり顔に怪我をすることが何度もあった。そういうところが、純粋なサッカーへの気持ちを窺わせ、俺は好きだったけれど。
昔を思い出し小さく笑う俺とは逆に、やや心配そうに携帯を睨む山下。基本的に携帯をあまり使わない寛人だが、連絡関係はきちんとこなす。そもそも、待ち合わせに遅れることも無かった。そうなると、怒りよりも心配が来る山下の気持ちは分からなくはない。だけどとりあえず、山下の肩を叩いてみる。
「もしかしたら、充電切れてるかもしれないだろ?そんな心配するな」
「……うん」
笑顔で言葉を掛けると、山下は少し躊躇ったものの、やがてゆっくりと微笑んだ。その様子に頷いて、もう一度箸を手に取る。そして横にあった箸を山下に差し出すと、嬉しそうに手を伸ばしてきた。
しかし、そこで山下の携帯が鳴り響いた。
「あ、電話」
「寛人からか」
「うん」
着信相手を確認し、何となくほっとした空気が流れる。多分大丈夫だろうと思うのと、確約があるのとではやはり違う。嬉しそうに電話に出る山下の様子を窺いながら、烏龍茶を頼んだ。
「うん、みんな来てる。うん。……了解、大丈夫だよ。うん、じゃあ」
同時に、山下の電話も終わったらしい。電話を切ると、こちらに「あと五分くらいで来るって」と言った。
「そうか。良かったな」
「あー……、うん」
寛人が来れば、全員揃うはずだ。幹事としても一安心だろうと声を掛けたのだが、山下は、浮かない顔だった。どうしたのかと尋ねると、何とも言えない顔で、山下はしばらく黙っていたのだが。
「……今日は、卒業式、だよね」
「ああ」
「……寛人が……すっごく、テンション低かった気が、する」
それはいつものことだろう、と言おうとして口を噤む。山下の人を見る目は大したもので、相手のテンションや体調の違いなど、隠していてもすぐに見抜く。だから山下がこう言うならば、事実寛人は沈んだ様子だったのだろう。
そして俺は、唐突に最初の質問の意味に思い当たった。
「……山下。今日、その……吉倉さんは?」
「……俺も結構教室出入りしてたから、分かんないんだけど。……結構早めにいなくなってた、と思う」
その言葉に、俺は黙って頭を抱えた。同じクラスの山下が言うのならば、多分、間違いはないのだろう。
――吉倉さん。俺は一度も同じクラスになったことはないが、サッカー部で彼女の名前を知らないものはいない。それは、あの寛人を落とした女子、ということで非常に有名だったからだ。
当時、吉倉さんは『空き教室のピアノ少女』とか言うよく分からないあだ名でサッカー部に知られていた。要は空き教室でピアノを弾いていたところを目敏い奴が見つけて、可愛いと騒いでいたのだが。
とある冬の日、部活後のうるさい部室で誰かが吉倉さんの話題を出して盛り上がっていたら、寛人が「吉倉には手出すなよ。俺の方が先に好きになったんだから」なんて呟き――もとい爆弾を投下してきたのだ。
元々、最初に吉倉さんの話題が持ち上がった時からおかしかった。人の名前を覚えない――特に女子のものは――寛人が吉倉さんの名前には反応していたのだから。しかしそれ以降は何の素振りも見せていなかったから、深く気にとめていなかったのに。最初は誰もが冗談かと思ったが、その時の寛人はいつも通りの無表情ながら、かの女子生徒を思い出していたのか、瞳に甘さを滲ませていた。
その後部室内は絶叫と悲鳴の嵐、しばらく止まらず教師陣が踏み入る程の騒ぎになったのだが、今は関係ない。
問題は、それからのことだ。
寛人の容姿や実績から言ってもてることは分かっていたが、寛人はそういった女子に振り返ることは決してなかった。元々女子に興味が薄いのもあるかもしれない。しかし俺が思うに、寛人を好きだと言うそのファンの子達は怖かったから、ではないか。
そのファン達の集まりの中心格は寛人と同じ中学だった女子数名で、わざわざ彼を追いかけて入学してきたらしい。学年でもかなり目立つ子らで、美人だが化粧は濃いし、試合観戦中も金切り声でうるさい。しかも彼女らは寛人に単独で近付く女子は全て敵とみなし、陰でしばしばイジメもしてきたそうだ。
そんな集団に、寛人に好きな子が出来たと知れれば、まず間違いなくイジメの標的となるだろう。まして吉倉さんは、遠目で見た印象からすると大人しそうな子で、決して相手をやり込められそうにない。
寛人はそこらの事情をよく理解した上で、部内で宣言をかましたものの、決して吉倉さんに近付こうとしなかった。「卒業式に告白する。それまで我慢する」と、ただ、彼女のために。
そんないじましい努力をする寛人に心打たれたらしく、サッカー部の連中は吉倉さんに男を近付けないようにしたり、色々情報や写真を横流ししたりと寛人のために動いていたのだが。
(……まさか、寛人。今日、しくじったんじゃ……?)
俺は寛人と同じクラスだが、確かあいつ、卒業式が終わった後も何度か告白のため呼び出しを喰らい、大分時間をロスしたはず。後半は俺も他の連中と話していたので、寛人の姿を注視していなかった。吉倉さんがどんな子かはあまり知らないが、寛人が告白するならきっと上手くいくだろう、そう気楽に考えていたし。
俺と山下は、無言で目を合わせて、そしてしばらくして、同時に肩を落とした。そんな俺達の耳に、部員の声が届く。
「つーか寛人遅くねー?」
「思ったー。もしかして吉倉さんに振られて落ち込んでんのかもよー」
だったらざまあみろーと大声で笑う部員達。多分こいつらも、本気で寛人が振られるなんて考えていない。
……しかし、俺と山下はその最悪の事態に思い至ってしまった。
どうする?あれだけ吉倉さんにべた惚れの寛人が、まさか告白すら出来ずその恋を終わらせるなんて。ここで他の部員が寛人にどうだった?なんて聞いたら――。
想像して、色んな意味でぞっとした。なのでひとまず、他の部員にも寛人のテンションについて伝えておこう。と、思い口を開いた瞬間。
―ガラッ
表の障子戸が、開けられて。
「悪い、遅れた」
すでに卒業式終了から大分時間が経っていると言うのに、未だ学ラン姿の寛人が現れた。
「きたきたー!遅ぇよー」
「つーか何で学ランのままなんだよー」
やいやい騒ぎ立てられるのを無視しながら、寛人がこちらに向かって歩いて来る。俺と山下は固まりながら、その動きをじっと見つめていた。そして、空いていた俺らの正面の席に座る。
「山下、連絡もしないでごめんな」
「あ、いや、全然っ!気にしてないからっ!」
頭を下げる寛人に、ものすごい勢いで首を振る山下。傍から見ていると、山下が脅されているようだ。しかし、挙動不審になる気持ちは分からなくもない。
おかみさんが寛人に飲み物の注文を取りに来て(余談だが、おかみさんは美形の寛人が大のお気に入りなので、こいつにだけは、グラスが空くとこまめに注文を聞きに来る)、烏龍茶を頼むと箸を取って次々と食事を取り始めた。打ち上げなどではいつも通りの光景だ。しかし、今日は何故だか緊張して見てしまう。
そこに。
「おーぅい、寛人ー!」
「……何だよ」
部員の中でも一番お調子者と言われている吾妻が、寛人の名を呼びながらその首に腕を回す。面倒そうに相手をする寛人を気にせず、にやにや笑った。
「何だよ、じゃないだろー?お前、何か言うことねーの?」
(……っそれは!)
俺と山下が一番気になっていた事を、吾妻はさらりと聞く。表情が強張る俺らに対して、寛人は無表情のまま。おかみさんが持ってきてくれた烏龍茶を一気に飲み干し、またマイペースに箸を動かす。一向に口を開こうとしない寛人に、奴は質問を重ねる。
「おいおい、忘れたとか言うなよー?今日はお約束の日だろ?」
「……」
「みんな気になってるんだぞー。あんま勿体ぶるなよー」
――今すぐ、誰か、あいつの口を塞げ
そう言いたいものの、どうにも口を挟めない。
周りの連中は、気付けば寛人と吾妻のやり取りを注視している。そして、いつまでも話そうとしない寛人に何かがおかしい、と気付いたようだ。しかし吾妻は何も気付かず、げらげら笑い声をあげた。
そして。
「つーか遅くなったのって、もしかして、吉倉さんとお楽しみしちゃってたのかー?いいなぁ、あの子柔らかそうだし、」
彼女の名前をあげて、ギリギリなネタまで振り始める。その時とうとう、寛人の眉間に皺がはっきり寄った。
「……」
無言で立ち上がった寛人は、座ったまま自分を見上げる吾妻を、凶悪な目で睨みつけ。
「へ、?」
――その長い脚で、吾妻の急所を、蹴り上げた。
「あづぅ!?」
妙な叫び声をあげ、その場に蹲る吾妻。流石に本気の蹴りではなさそうだが、見ている他の部員共も、咄嗟に急所を押さえて顔を顰めている。
しかしそんな周りを気にせず、寛人はまた座りこむと食事を再開した。
「……あ、あの、寛人。吾妻も、悪気はなかったと、思うから」
場を和ませるつもりか、山下が吾妻のフォローに入る。しかし寛人はつまらなさそうにため息を吐き、生春巻きをつまんだ。
「悪気なんて、あってもなくても、関係ない」
すっぱりと言い切る寛人の目には、まだ苛立ちが燻ぶる。その荒れ具合に、俺と山下はそっと視線を交わした。
やっぱり、これは、吉倉さんと。
「――美哉で妄想するなんて、絶対に許さない」
(……ん?)
しかし続いた寛人の言葉に、俺達はもう一度視線を交わす。
みや、って。まさか。
「……寛人、あの、確認なんだけど、な。いや、言いたくないのならそれでいいんだが」
恐る恐る口を開くと、寛人は視線で俺を促す。それに唾を飲み込みながら、胸に残る疑問を、吐きだした。
「……お前、今日。吉倉さんに、告白したのか……?」
俺がそれを口にした瞬間、周りは小さくざわめく。矢のような視線を四方八方から感じながらも、目の前から視線を逸らすことは出来ない。空白の時間が、やけに長く感じられた、その時。
「した。付き合うことになった」
――ものすごくあっさりと、寛人は答えた。
「ええええええ」
「まじかよおおおお」
そこら中で上がる叫び声、今までの静寂を切り捨てて、居酒屋中がパニック状態となる。その中心地にいる寛人は、相も変わらずの無表情だったが。
俺の隣にいた山下は、しばらく呆然とした後、強くテーブルを叩いて寛人に詰め寄る。
「だっえ、さっき電話で寛人すごくテンション低かったじゃん!」
「……低かったか?」
「低かったよ!いつもの数倍声が落ちてたもん!」
俺らの心配返せ!という声がその姿から聞こえてくる。寛人の方は山下に言われたことを真剣に考えていたが、しばらくは何も言わず。やがて、何かに気付いたように頷いた。
「多分。美哉と一緒にいられなくなったから」
「……は?」
「ついさっきまで、一緒にいたんだ。なのに美哉が時間確認して、帰らなきゃいけないって言われた」
「そのせいだな」と口にする寛人。……そうか、お前、帰る時間も惜しんでずっと吉倉さんと一緒だったのか。制服のままである理由は分かった。
ていうかお前、それ、吉倉さんが時間確認しなきゃ今日の打ち上げのこと完全に忘れてやがったな……?
怒る権利はこちらにあるはずなのに、寛人の堂々とした態度を見ていると、怒ることも忘れる。しかし、吾妻はそうではなかった。
「な、なんだよぅ……上手く言ったなら、早く言えよ……そしたらあんなこと言わなかったのに……」
顔を真っ赤にして涙を浮かべ、未だ蹲る吾妻。恨めしげなその口調に、思わず苦笑した。まあ調子に乗ったこいつも悪いが、確かに寛人が事実をさっさと言っていれば、吾妻だってあんなに悪ノリしなかっただろう。だが、寛人は。
「誰がお前に最初に言うか」
「何でだよ……」
「どうせ色々質問責めにしてくるだろ」
「べっつにいいじゃん、減るもんじゃないし」
「減る」
唇を尖らせた吾妻を、ばっさり切り捨てた。
「……は?何が」
「強いて言うなら、希少価値が」
「何だよそれ」
「他の奴らが知らない、美哉の可愛いところだ」
「「「……」」」
その言葉は、吾妻だけでなく、俺達の言葉も奪った。
「俺達の間の話なんて、俺達が知っていればいいんだよ。他の奴らになんて、見せてたまるか」
きりりと真面目な顔で言う寛人だが、その発言内容は、至極、下らない。
吉倉さんの話をする時の様子などから、独占欲が強いのは薄々気付いていたが、まさか彼女の話をするのも嫌がる程だとは思っていなかった。
呆れた俺の視界に、寛人の制服が映る。そのうち、第一ボタンと第三ボタンの間――本来ならば第二ボタンがあったであろう場所はぽっかりと空き、糸が出ていて。明日から使わないだろうと分かっていたが、つい指差してしまった。
「寛人。ボタン、外れてるぞ」
「……ああ」
しかしその場所を見下ろした寛人の頬が、――とろけていく。一度も見たことのないその
甘ったるい微笑みは、女子が見たら発狂もんだが、俺らは別の意味で発狂しそうだった。すでにその顔だけで、何となく予想はついていたが。
「いい。これは、――美哉のものだから」
寛人はそう言ってまた、甘く目を細めて。この場にいない彼女を口説くかのように、甘く、その名を囁いた。
天才的なサッカー能力。
貪欲なまでの、ボールへの執着心。
その全てが尊敬に値するものであり、素晴らしいと素直に思う。
こんな奴がチームメイトで良かった、と。本気でそう思っているのだ。
だから、そんな寛人が愛しい彼女と幸せになれて、嬉しい。
嬉しいのは、本当なんだが。
――――勝手にやってろ!
そう叫びたくなるのは、俺の心が狭いから、なのだろうか……。
***
はい、寛人がデロデロのろけるだけの会でした(笑)こんなチームメイトいたら、わたしならキレて蹴飛ばしてしまいそうです。
説明が多くなってしまって中途半端に長いですね……。
暇があれば、卒業式後の空白の時間の二人(寛人×美哉)も書きたいです。
|