フタリノシアワセ


―ピチチチチ……

 どこか、遠くで。鳥の鳴き声が聞こえる。それは確かにこの耳に届いているはずなのに、私には別の世界のことのように感じられた。
 今私がいるのは、ごわごわした制服に包まれた腕の中。顔を押し付けている彼の胸元は自身の涙で濡れていて、とても居心地が良いとは言えない。それでも、私は、この場所が好きだ。愛おしいと感じる。ひぐ、と散々涙を零したはずなのにまだしゃくりあげながら、私はうっとりと目を閉じ――。
「……!?」
 ようとして、慌てて目を開けた。勢いで、後ろに仰け反る。その瞬間、背中に回っていた腕はするりと解けて、私と彼の間に再び距離が空いた。
「美哉?」
 訝しげに、私を呼ぶ――洒井くんの声。それだけで嬉しくなってしまうのは自分でもどうしようもないと思うけど、止められないんだもの、仕方ない。再び伸ばされる指に誘惑されそうになりながらも、大きく首を振った。
「あ、あの、あのっ」
「何だ?」
 こくり、と首を傾げる仕草、すごく可愛い……!じゃなくて!
「わ、私、あのっ、教室でゆきが待っててっ」
 すーっかり忘れていたけれど、私は今日、ゆきと帰る約束をしてるのだ。今は時計も携帯も持っていないから時間は分からないけれど、相当時間経ってるはず。洒井くんと一緒にいたい気持ちは勿論あるけれど、ゆきとの方が先約だ。どもりながらも、何とかそう伝えると。
「っ」
 洒井くんが、私の手を掴む。そのまま、するりと指と指の間に彼の指が入り込んで、絡め取られてしまった。実際には、多分振り解けるんだろうけれど。そんなこと、絶対に出来ないし、する訳、ない。
 今更ながら、泣いていた顔は多分かなりひどいはず。慌てて俯くと、彼は残った手で私の顎を掬い、視線を合わせた。その目に灯るのは、乞うような色。
「……行くのか?」
「……!」
 直接、言葉にされなくても、分かる。その手の強さで、瞳で。彼は、全てを語る。
 ずっとずっと好きだった人に、こんな風に触れられて、嫌な訳なくて。ただ真っ赤になって固まる私に、洒井くんはぐっと距離を詰めた。
「もっと。美哉と、一緒にいたい」
「〜〜〜〜あ、う、う、」
「……駄目か?」
 ……駄目かって聞かれたら駄目じゃないっていうか、それは勿論、一緒にいたいですよ、私だって……!
 ここにいる人、本当に洒井くんなんだろうか。こんな縋る子犬みたいな表情して、甘えた声出して。どんな相手でも、こんな洒井くん見せられたら、きっと言うこと聞いてしまうだろう。
 今にも頷いてしまいそうな自分がいる。でも同時に、ゆきと一緒に帰って、色々話してクールダウンしないと、爆発しちゃいそう、と本気で考える自分もいる。
 目を逸らしたくても、彼の瞳はそれを絶対に許さない。じーっと注がれる熱い感情に、もう泣きそう、と思った時。

「美哉ー?何してんのー?」
 ――救世主が現れた。

「ゆ、ゆきっ」
「……」
 ばんっと大きな音を立てて開けられた背後の扉。振り返り、大好きな友人の顔を見る。その時するりと外された顎に回ってた手に、何故かひどく安心してしまった。
「……て、え?何で洒井が……」
 首を傾げながら近寄って来たゆきは、私の顔を見て、窓の外に立つ洒井くんを見て、最後に私達の繋がれた手を見た。
「……」
 そしてその場でぴたりと止まり、ぱくぱくと口の開閉を繰り返す。なかなか珍しい、ゆきの本気で驚いている顔。私自身、まだふわふわ夢の中にいるような感覚だから、その反応には納得。昨日まで何の接点もなかった私と洒井くんの間に何が起こったのか、まずパニックになるはずだ。
「……え、……ええ!?」
 驚愕の表情のゆきを見つめながら、それでも美人は美人なんだな、なんて場違いなことを考えてしまった。
「美哉、っえ、……告白したの!?」
「あ、えと、……はい」
 戸惑いながら、こくりと頷く。洒井くんはと言えば、私とゆきが話していても我関せず、といった風情。だけどその手は自由気ままに動き、気付けば私の両手の指は彼に絡められていた。……嫌じゃないんだけど、うん。
 頬を赤くする私と、無表情の洒井くんと、繋ぐ手と。それをまた何度も見て、そして。
「……そっか。良かったね」
 ――柔らかく、微笑む。
 普段無表情だときつく見えるその顔に、今浮かぶのは、本当に優しい笑顔で。それが私に向けられていることを知り、じわり、涙が浮かんだ。
 こんなに、喜んでくれている。大好きな友達が、私のために、惜しげも無く。こんなに暖かい感情を、与えてくれる。嬉しくて、気付けばぽろぽろ涙を零してしまった。それにゆきは苦笑して、鞄から取り出したタオルで涙を拭ってくれた。
 そして、後ろ手に持っていたものを、横のピアノの椅子の上に置く。それは。
「私の、鞄……?」
「うん。あんた遅いから、迎えに行ってそのまま帰ろうと思っててさ。でも、今日は遠慮したげる」
 言いながら、ふわり、意地悪い笑みに切り替わるその表情。その変化に魅入られていると、ゆきは軽やかに扉へと向かって行って。
「後で打ち上げの時、たっぷり話聞くからね。悔しいけど、今日は洒井に譲るよっ」
「……えっ」
 ――早足で、廊下を駆けていってしまった。

 残されたのは、間抜けな返事をする私と。
「……る」
「え?」
 ぎゅ、と強く手を握られ、意識がそちらに持って行かれる。呟かれた言葉が聞き取れず、顔をあげると、端整な顔を、少しだけ緩めた洒井くんが、いて。
「これで、まだ、一緒にいられる。な」
 ――私は素直に、今日顔の熱を下げることを諦めた。

* * *

「あ、う、あ、の」
「うん?」
「さ、洒井くんは、っ電車?」
「ああ。美哉は?」
「で、電車ですっ。じゃ、じゃあとりあえず、駅行こうかっ」
「……そんなに、急がなくてもいい」
「〜〜〜〜」
 拗ねた様子の洒井くんに、今日何度目かの悶絶を、心の中で留めておく。そこら辺の壁でも叩いて歩きたいけれど、洒井くんの前で、そんな挙動不審な真似出来るはずがない。そして、物理的にも不可能だ。だからひとまず、俯いて歩き続けた。
 
 あの後、教室の鍵を先生に返しに行き、学校を出た。その間、洒井くんはずっと一緒で。校門から出た瞬間、自然に手を繋がれた。ついさっきまでも繋いでいたけど、改めて考えると、ものすごく照れる。
 洒井くんのことを考えながら、歩いた道。それは一人だったり友達と一緒だったり、その時々で違ったけれど、それでも。彼とこの道を歩けたら、なんて妄想したこと一度もなかった。それは、サッカー部で忙しい洒井くんと帰宅部の私じゃ帰宅時間も登校時間も全く異なるから。一度も彼の姿を見かけることなく、だからこの道を彼が歩いていることを、思い描けなかった。
 でも、今思えば。そんな妄想、しなくて良かった、って思う。だから今、こんなに嬉しさが込み上げてくるって思うのは、……現金かな?

 それに。
 ちらりと視線をあげると、洒井くんはじっとこちらを見ている。そうして目が合うと、私の瞳を覗き込んで、心配そうな色を瞳に宿す。ただ、私のためだけに、その感情を、揺らす。
「〜〜〜」
「美哉?」
 こんな彼、想像出来ないよ、絶対。
 何となく、洒井くんの横に女の子が並んでいるのは想像できても、こんな風に接するところは無理だった。女子の間でも、『きっと洒井くんは彼女にも淡々としてるんだろうねー』って話してたのに。
 実際は、気付けば触れているし、歩幅自然と合わせてくれたり自然だし、さらりと甘い台詞吐いちゃうし。
(……やっぱり、洒井くん、慣れてるよね)
 ちくりと胸が痛むのを、そっと見ないふりをする。
 こんな素敵な人だもん、彼女がいなかったはずがない。在学中、彼女がいるという噂は聞かなかったけれど他校の人だったのかもしれないし、中学校時代かもしれない。仕方のないことなのに、こんな洒井くんを見た人が他にいることが、悲しい。
 だけど同時に、ひどく焦る。私は洒井くんの側にいられるだけであたふたして、緊張して、何も言えなくて。元から接点もないから、何を話していいか分からない。違う。本当は、こんな風に側にいられるのが嬉しくて、洒井くんのこと、たくさん聞きたいのに。知りたいのに。どんな風に話を始めればいいか、分からなくて。戸惑って、悩んでいる内にお互い何の言葉も交わさなくなっていく。
 友達はみんな、彼氏と楽しそうに話してる。元から友達を続けていて、それからお付き合いを始めた子が多いからなのかもしれないけれど、どうやったらあんな風に話せるんだろう。こんなことを悩むのなら、クラスの男の子達を遠ざけず、たくさん話しておけばよかった。そりゃあ好きな人とクラスの人じゃ違うだろう。でも、何となく、そういうことに慣れておけばまだこんなにがちがちにならずに済んだのかもしれない。
 隣に歩く洒井くんは、何も言わない。ふわりと風に揺れる桜の枝が花びらを散らし、横を通り過ぎるバイクの音は少しうるさくて。周りはひどくのどかなのに、私の心だけ、不安定に揺れる。
「……美哉?」
 ぽつりと、頭上から私を呼ぶ声。どうして名前を呼ばれたんだろう、と考えて、自分の足が止まってしまっているのに気付いた。
 もう一度、名前を呼ばれて。意を決して、顔をあげた。そして、視線を交わす。至近距離にあるその瞳は、静かな色を湛えている。じっと私を見つめて、しばらくして、黙って腕を引かれた。

 ――好き。大好きなの、洒井くん。
 私は一緒にいるだけで、こんなに嬉しくて、幸せで。だからあなたにも、同じ気持ちをあげたいのに。私、何も出来ない。
 今、あなたは、何を考えている?何を話せば、何をすれば、あなたは喜んでくれる――?

 連れて行かれた先は、駅へと行く道から少し外れた小道に在る公園。存在は知っていたけれど、来たことはない。ブランコに鉄棒、ベンチもちゃんとある。今日はまだ小学校が終わっていないから、公園には誰もいないみたいだ。
 二人、手を繋いだままベンチに座る。それでも、やっぱり会話はなくて。何か話そうとするものの、何も思いつかない。どんどん頭が真っ白になって、俯きそうになった時。
「……悪い」
 ……ぽつり、洒井くんがため息まじりに零す。
 突然の謝罪に顔をあげると、彼はバツの悪そうな顔で、私を見ていた。
「本当に、悪い。……つまらないだろ」
「……え?」
 囁かれた言葉は、私が全く想像していなかったもので。何度も瞬きを繰り返すと、洒井くんは少しだけ苦笑する。

「こういうの――初めてだから。正直、どんな話をしていいかも、分からない」

 今。彼は、何と言ったのだろう。
 一回、二回。その瞳が瞬きをするのをじっと眺めている間、私の頭は非常に遅い速度で回転していた。
 はじ、めて?
「………………うそぉ!?」
 思わず叫んでしまい、慌てて口を覆う。だけど、そんなの、嘘でしょう。
「さ、洒井くん、慣れてたじゃないっ」
「どこが?かなり緊張してたけど」
「だって、手を繋いだり名前呼んだりっすごく自然だったし!」
「それは、ずっと前からやりたいことだったから」
 妄想通りに実行してただけだ、と彼は笑う。その後すぐ、気持ち悪かったか、なんて尋ねられるけれど。そんな訳、ないじゃない!今にも嬉しくて飛び上がりそうなのに!
 思わずまた瞳を潤ませると、彼は空いた手の親指で、私の目元をそっと擽る。その優しさが、どうしようもないほど、愛おしくて。

「……あの、ね」
「ああ」
「わ、私も、……ばればれだと思うけど、全部、初めてなの。手を繋いだり、一緒に帰ったり、お付き合い、したり」
 ぽつり、ぽつりと零す。それを洒井くんは、真面目な顔で聞いてくれる。
「だから、さっきからずっと、緊張してて。ほ、ほんとは、一杯話したいこととかっ、聞きたいこととかあって、でも、もう何から話したらいいか全然分からなくってね、」
 焦って、どもりそうになる私の手を、ぎゅっと握ってくれる。
「……でも、一緒にいられるだけで、嬉しい気持ちもあってっ、私ばっかり嬉しくて……、だから、洒井くんも、嬉しくなってほしいのにっ」
 そうして、また。私の中で、彼のことを好きだという気持ちが、音も無く、降り積もっていくのだ。

 全部一気に言って、大きく深呼吸して、それから彼の顔を見上げる。そこにあるものが、決して拒絶ではないと、信じながら。
「、」
 そうして私が、見たものは。
「……ああ」
 ほんのり目元を赤く染めて、やわく微笑む洒井くん、だった。
(………………かわっ……)
 はにかむその表情に、かああっと顔が熱くなる。まるで可憐な少女のような、いや、洒井くんは女の子じゃないんだけど、か、かわいい……!
 ばくばくとまた大きく心臓が鳴って、もう何もかもすっ飛んでしまって。そんな私の両手を、洒井くんも大きな両手で、ぎゅっと包み込む。
「同じだ」
「……ぇ、」
「俺も、同じだ。美哉と話したい気持ちもあるけど、……一緒にいられれば、それだけで、嬉しい」
 その言葉に。気持ちが、とても軽くなった。
「……同じ、だね」
「ああ」
「……そっか」
 だって、それならいいの。洒井くんが、私の存在なんかで本当に嬉しくなってくれるのか分からないけれど。彼がそう言ってくれるのなら、もう、それだけで堪らない。
 他の人とは違うお付き合いかもしれないけれど、それでも構わない。素直にそう思える。
 ついさっきまで冷たかった世界が、暖かく私を包みこんでいく。空の色も、ベンチの赤も、全部全部、鮮やかに映る。彼のただ一言で、こんなにも、幸せになれる。
 きっと、それだけ。私達に必要な形は、ただそれだけなの。

 ふにゃりと頬を緩めて笑う。気持ち悪いくらい、多分しまりのない顔。ただただ笑い続ける私を、洒井くんはじーっと無言で見ていた。
 最初は気にならなかったんだけど、無表情で見られるものだから、怒ってるんじゃないかと心配になってしまう。まだ緩みそうな頬を堪えて、そっと視線だけ上げて、彼を見つめる。洒井くんは私を見て小さく息を飲むと、その後ますます険しい表情になってしまった。
 そして、一言。
「抱き締めていいか」
「……ふぇ?」
 間抜けな返事をする私に、こくりと頷くと彼は繋いでいた手を解く。突然訪れる冷たさに、思わず寂しくなってしまうけれど。次の瞬間、彼が大きく腕を広げて私ににじり寄ってきた。その様子に、慌てて後ろにずり下がってしまう。そ、そこでそんな捨てられた子犬みたいな顔をしないでください……!
「……嫌なのか」
「い、嫌じゃないけどっ」
「なら、」
 私の言葉に今すぐにでも飛び掛かりそうな洒井くんに大きく首を振り、ベンチから飛び上がる。座ったままの彼とはいつもと逆の身長差が出来て、何だか新鮮だった。
「こ、ここ外だしっ」
「誰もいない」
「つ、付き合ってまだ時間経ってないしっ」
「さっきも抱き締めた」
 それはそうだけど!ていうか何かそんなにさらっと言われるとものすごく恥ずかしい!
 私が顔を真っ赤に染めると、洒井くんは、小さく笑ってくれて。じっと私の目を見た。
「……美哉」
 低く掠れた声で呼ばれる、私の名前。平凡な名前のに、それだけできらきら輝くみたい。洒井くんがくれる、彼の光。
「……どうしても、駄目か?」
 その裏に微かに揺れる緊張感から、目を逸らすことは出来なくて。戸惑い、私は彼から何度も目を逸らす。それでも彼は、私から目を離さない。
 だから、大きく息を吸い込んで。一歩、彼の方に歩み寄った。ゆっくりと差し出される手に手を重ねて、彼の隣に座る。そして、次の瞬間。
「……っ」
 ふわりと、私の上に覆いかぶさる彼。背中に回される腕に力は籠っておらず、ただただ、優しく抱き締められる。それがどうしてか、無性に恥ずかしくて。心臓の音が、どんどん大きくなるのを自分で感じた。
「美哉」
 すぐ近くで聞こえる、彼の声。小さく身を竦めると、おかしそうに笑われる。それが何だかくすぐったくって。
 不思議。さっきまで、彼の言うように、むしろもっと強く縋りついていたのに。今の方が、どきどきが大きい。でも嫌な訳じゃなくて、すごく、落ち着く。包まれている感じが、こんなに心地良いなんて知らなかった。
「美哉」
「うん」
「……名前で、呼んでくれ」
 だからだろう。彼の言葉に、素直に頷けたのは。

「ひろ、ひと」

 目の前にある彼の耳に、そっとその名を呟く。知らないなんて、そんなこと嘘でも言えないもの。校内新聞や名簿を見る度、何度もなぞったその名前。それを口に出来る今を、とても嬉しく思う。そう思いながら、彼の顔を見るために、顔を上げる。
 
 ――私は、彼に名前を呼ばれて、どうしようもなく嬉しくて。
 だから、どうか、あなたも。

「……美哉」

 そんな風に、幸せになってくれればいい。笑って、くれればいい。
 そうしてまた、二人の幸せが、一杯に膨れればいいの。

 

 

 

 


* * *
 でろでろめろめろww
 本当は「お互い初めてだから、他の人なんか気にせずお互いのペースで歩こうね」みたいな話にするはずが、なんか「お互い些細なことでも喜んで幸せになれるなら、それでいいじゃん寛人大好き!」みたいなよく分からん話になってしまいました……。
 しかしここまで大事にされときながらいつか捨てられると思ってた美哉は個人的に超絶鬼畜だと思うんだがどうでしょう←
 


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