空約束


 本当は、彼に誘ってほしくて話題を出したのかもしれない。でも、自分では気付いていなかったの。本当に。
『一緒に、行こうか』
 なのに、まるで私の気持ちなんて見透かしたように、優しく尋ねてくれるから。その時はただ嬉しくて嬉しくて、大きな肯定の返事をしたんだけど。

* * *

「で、でも、大丈夫なの……?」
「美哉は心配しなくていい」
 言いながら、私の髪を優しく撫ぜる指先。いつもいつも、この人はどうしてこんな風に触れるんだろう、って疑問に思っちゃうくらい。私の全部溶かそうとしてるんじゃないかな。心ごと包み込んで甘やかす触れ方に、私の頬はまた少し赤くなった。それに寛人は、黙って目を細めた。それだけの仕草は、何故かとても甘くて。
 付き合い出して二か月半。五回目のデート兼初めての外デートは、何と二人でプラネタリウムに行くことになった。

 何となく慣れた気がするような、でも緊張するような、そんな彼からの電話。付き合いだしてから、基本的に毎日掛けてくれる。寛人はそんなに口数が多くないから、大抵私が色々質問して彼が返すだけなんだけど。いつも通り彼の体調を尋ねて、今週あったことなんかを話して。その時ふと、床に落ちていたちらしに目が行った。
『美哉?』
「あ、ごめんなさい。今、プラネタリウムのちらしが部屋にあってね」
 どうしてそれに気が行ったのか、自分でもよく分からない。でも気が付けばそれを見つめていて、寛人の呼び掛けに応えるのが遅れてしまった。
『プラネタリウム?』
「うん。寛人は行ったことある?」
『……いや、ないな』
 私の質問に、彼は少し考え込んだ後ぽつりと答える。
 行ったことないのか。でも、そんなにおかしいことでもないだろうな。私だって小学校のころ、博物館などを巡るという課題が夏休みに出された縁で親に連れて行ってもらったきりだ。特に男子ならば、わざわざお金を払って足を運ぶことは、少ないかもしれない。
「そっか。私もしばらくないんだけどね、寛人の家の近くにあるんだよ、プラネタリウム」
 だけど私は、とても好きだった。今でも覚えている、自分の頭上に広がる一面の星空。四六時中足をばたばたさせ、終わった後しばらく興奮がさめなかった。
 その時やっていたのが何のプログラムかは覚えていないけれど、『普段ついている外灯を消すと、どれ程の星が見れるか』という話を館員さんがしていたのははっきり覚えている。その言葉と同時に館内の電気は一気に消えて、ぶわっと星が天井一杯に広がった。もちろんそれがただの映像だとは分かったけれど、それでも、普段自分が見ている夜空にこんなにたくさんの星があるなんて、と感動した。
 ちらしに描かれているプラネタリウムが、昔自分が行ったところだからかもしれない、こんなに心引きつけられたのは。久しぶりに行きたいな、とぼんやり思っていると。
『……行きたいのか?』
 電話の向こう、静かな声。突然の言葉に、自分の心が読まれたのかと思ってどきっとする。思わず返事をするのを忘れると、私の名前を、寛人は、優しく呼んで。
『美哉が行きたいなら。一緒に行くか』
 ――想像もしていなかった、嬉しいお誘いをしてくれた。

 寛人から誘ってくれた。間違いなくデートな訳で、しかも初めて外で待ち合わせて、一緒に出掛ける訳で。すぐに「行くっ!」と返事をした私だけど、電話を切ってから色々と不安になってきた。
 今まで私達が外でデートをしなかったのは理由がある。お互い割とインドア派だとか、それも一応理由ではあるんだけど。一番は、寛人があまり大勢に顔を見られてはまずいからだ。高校卒業後プロのサッカー選手になった彼は、その端整な容姿もあいまって一躍有名人、新聞やTVでもたまに取り上げられている。二カ月前まで同じ高校に通っていたなんて信じられない。もっと言うなら、そんなすごいひとが、私みたいな平凡な人間の――恋人、なんて。だけど今、繋ぐ手は嘘じゃない。緩く絡められる指から伝わる温もりが嬉しくて、緊張で固まった肩が少しだけほぐれた。
「今日は平日だし、そんなに人もいないだろ」
「そう……だね」
 寛人の言葉に、こっくり頷く。今日、寛人は監督の都合により練習が午前までだったらしいし、私も最後の授業が休講になったため時間が空いたので会うことが出来た。なんて、何気ないことのように考えるけれど、本当はとても嬉しい。五回目のデートと言っても、前四回分は全て三月中のことで、それ以降お互いの時間が合わずまともに顔が見れていなかったのだ。
 久しぶりに見る寛人は相変わらず格好良くて、それに、今日は変装用に眼鏡を掛けている。それがまた似合っていて、鼓動が急激に高鳴った。
 夕暮れ時、二人、ゆっくりと歩く。ちらりと彼の様子を窺うと、少しだけ口角を上げながら首を傾げてくれて。
(……反則だよ)
 今、思いっきり抱き付きたい気持ちになった、なんて。言ったらこの人は、どんな顔をするんだろう。
 ……言えるはず、ないんだけど。

 寛人の言葉通り、プラネタリウムにほとんど人はいなかった。受付の人の話によると、電車で十分程行ったところに、水族館も併設されたプラネタリウムが最近出来たらしく、若いカップルなどはそちらに行ってしまうらしい。休日は家族連れで賑わうけれど、平日の、特に夜はあまり人が入らないそうだ。
 丁度十分後に始まるというプログラムのチケットを購入して、館内に入る。受付での説明通り、人が誰もいない。まるで貸し切りのようで、少し得した気分になる。席は選び放題で、悩みながらもやや後ろの方の席に決めた。
 寛人がプラネタリウムが初めてという言葉は本当らしく、椅子を倒すのに躊躇っていたけれど、一度倒れてしまえば気持ち良さそうな顔をしていた。
「いいな、これ。ゆっくり見れる」
「でしょう?」
 彼の言葉に、何故か私が自慢げに答えてしまう。だけど、いざ自分も椅子を倒す段になって、あり得ない程の羞恥が込み上げてきた。
(……こんなに、近かったっけ?)
 リクライニングを最大まで倒すと、まるで横になっているような体勢になる。その状態で寛人の方を見ると、無性に恥ずかしいのだ。二人寝ころんだような姿勢が、その、何て言うか……。
「美哉?」
「っ」
 唐突に、私の視界を覆う寛人の姿。ギ、と鈍い音と肩に触れる温もりに、私を覗き込むために覆いかぶさっているというのが分かった。だけど分かったところで、どうにも出来ない。真っ直ぐにこちらを見つめてくる寛人の、真剣な眼差し。真っ黒いその瞳に私は吸い込まれて、徐々に、近付いて――。
「……っ」
 一瞬だけ、唇が重なった。一度離れてからもう一度、今度は角度を変えて、時間も長く。久々のキスに、思わず呼吸を止めてしまう。離れた瞬間、真っ赤になって肩で息をする私に、寛人は破顔した。もう一度近付く顔に手で口を覆うと、苦笑される。な、な、な。
「こ、ここ、外っ!」
「……久しぶりだったから」
 そ、それ理由になってない……!悪びれずけろりと言う寛人に、恥ずかしさとパニックで彼を睨みつける。だけど全く堪えなかったらしく、謝罪の言葉と共に目尻に口付けを落とされた。
 だ、だからここ外なんだってば!厳密には外じゃないけど、でも、そんな堂々とキスとかしていい場所じゃなくて、他に誰もいないだろってそれはそうなんだけど、でも……!
 なんて、寛人にたくさん文句を言いたくて、でも実際には何一つ言葉に出来ずただ口をぱくぱくさせる私の耳に、上映開始のブザーが届いた。寛人は小さな笑いと共に身を起こして、自分の椅子にしっかりと座り直した。だけどさり気なく、さっき歩いていた時みたいに、指が繋がれて。
「〜〜〜っ」
 体温が、上がる。
 分かってない。
 寛人は、全然、分かってない。
 彼が当たり前みたいな顔して触れてくる度、私が恥ずかしがりながら怒りながら――結局、嬉しくなって、馬鹿みたいに舞いあがって、もっと寛人のこと、好きになっちゃうこと。
 分かって、ないんだから。

 上映が始まって、十分程経っただろうか。今は館内は暗く、光は天井に映しだされた星の映像と、非常口のライトだけ。クラシックの曲も流れて来て、すごく落ち着く。少し眠たい瞼を頑張って開きながら、星座を案内するアナウンスの声に耳を澄ませた。
『それでは、南の空を見てください。この星座が何か、分かりますか?』
 女の人の声に従い、首を逸らして南と書いてある方を見る。そこには、白い線でいくつかの星が結ばれていた。特徴ある形は見覚えあるのだけど、名前は分からない。眉間に皺を寄せて考え込んでいると。
「――オリオン座、だろ」
 不意に、私の耳に、甘い低音が落とされた。
「……っ」
 ぞくり、背筋が震える。首を傾げると、暗い中でも表情が分かる位の至近距離で寛人が私を見ていた。さっきまで、頭二個分は距離が空いてたはずなのに、いつの間にこんな近くに。
 居心地が悪くて距離を取ろうとすると、繋がれたままの手に、ぎゅっと力を込められる。慌てて顔を上げると、彼の瞳には……仄かな寂しさが灯っていて。
「〜〜」
 本当に、ずるい人だと思う。全部分かってやってるんじゃないの?って思うんだけど。それを言えるはずなく、躊躇いながら元の位置に戻り、彼の手を握り返した。
 頭上で、ふ、と笑う気配。悔しいけど、恥ずかしいけど、でも。……寛人が笑ってくれてるならいいよね、なんて。現金だなぁ私。
 ……って。こんなところまで来て、私なんで寛人のことしか考えてないんだか。熱くなる顔をぶんぶん振ることで冷まし、そっと至近距離の彼を見上げる。
「寛人、星座、詳しいの?」
「特別詳しい訳じゃない。親父が天体観測が趣味だっただけだ」
 他に誰もいないのは分かっているけれど、何となく小声になってしまう私。それに合わせて、寛人もひそひそ声で返す。
「え、お父さんが?」
「ああ。俺が高校入る辺りまで、毎年長期休みには、家族連れて山奥のペンションに望遠鏡担いで星見に行ってた」
 彼は何でもないことのように続けたけれど、私は思わず目を輝かせた。
「え、いいな!やっぱり、星一杯なの?山だと星多すぎて眩しい位って本当?」
「……まあ、こっちよりは星の数は多いな。特に冬だと、空気も澄んでるし」
「そうなんだ!」
 思わず上ずる声を、何とか抑える。
 きっと彼は、私が小学生の時興奮して見上げたあの天井を、実際に見たのだろう。夜空一杯の宝石を、幾度も。
 山の方なら、きっと星の光も違った色合いで見えるんだろうな。普段ですら、青白かったり赤かったり、多種多様な煌めきを見せる星。もっと空に近付いてそれを見つめるならば、どんな風なんだろう。想像でしかないけれど、きっとそれは、とても綺麗に違いない。
 頬を紅潮させる私を、寛人はしばらく不思議に眺めていたけれど。
「そんなに気になるなら。行くか」
「……え?」
 ぽつりと、囁く。唐突なその言葉の意味を、最初は理解出来なくて。何度か瞬きを繰り返した後、それはゆっくりと、私の脳に回った。
 ……行く?どこへ?
 そんな疑問が私の顔から透けて見えたんだろう。寛人は、強く私の手を握り締めた。
「星を見に。俺が行ってた、ペンションに」
 二人きりで、そう言って微笑む。
 しばらく、寛人の端整な顔を見つめて呆然としていたんだけど。
「っな……!」
 理解した途端、ぼん、と顔が熱くなった。
 星を見に行くってそれは嬉しいけど、二人きりで、ペンションって……そういう意味、でしょう?
 嫌じゃないの。だけど、キスとか手を繋ぐとか、もっと言えば目が合うだけで心臓が壊れそうになってしまう私が、それ以上のことに耐えられるのか。想像がつかない。寛人は初めてのデートの時、私の準備が出来るまで待つって言ってくれた。それはつまり、寛人の方の準備は出来てる、ってことで。もっと言えば、彼に我慢をさせている現状な訳で。
 あうあう、と何て言ったらいいか分からなくて無意味な言葉を発していると。

「――シーズンオフの時でも」
 ――寛人は、おかしそうに言葉を続けた。

「……し、シーズン、オフ?」
「ああ。三月辺りなら星も綺麗だろうし、雪も解けてるだろうし。まだ大分先のことだけど」
 そりゃあ、三月ならあと九カ月はあるからね。とは、言えなかった。
 ……何私一人で今すぐだと勘違いしてパニックになっていたんだろう恥ずかしい!内心じたばた悶えていると、繋いでいた手は離れて。そのすぐ後に、私の首の下を彼の腕が通り、肩を抱かれる。頬に当たる固い筋肉に固まっていると、寛人は頬を緩めた。
「……俺としては。その頃までには美哉の準備が出来ていれば、嬉しい」
 気が付けば、始まる前と同じように彼が私の上に覆いかぶさっている。きらきらと光る天井は彼の背景となってしまって、最早私には、すでにぼんやりしたものにしか見えない。寛人が私の視界にいれば、その他の何も、注目することは出来なくなるの。彼はいつだって、何をせずとも、私の世界の真ん中を陣取るから。
「……善処、します」
 掠れた小さな声で呟く私に、寛人はまた笑って。目を伏せて、一つ、口付けを落とした。
 それと丁度同じ頃、館内の照明は一気に消えて。


 その時私が零した一粒の涙に、彼がどうか、気付かなければいい。どうして泣いたのかと聞かれれば、上手く答えられる自信がないから。
 嬉しかったの。本当に。途方も無く。
 ――だけど、悲しかった。本当に。どうしようも無く。

 寛人の約束まで、九カ月。
 それまで私は、側にいられるのだろうか。彼の側で、あといくつ、季節を数えられるのだろうか。微笑みながら、私はいつも、そんなことを考えている。
 
 大丈夫。
 ちゃんと、分かっている。
 この優しい温もりが離れてしまうことを、これは永久に続く時間ではないことを、別れはいつか、来てしまうことを。

 


 ――――それでも。
 どこかで、この約束が本当になればいいと。
 離れる未来なんてなくなってしまえばいいと。
 そんなことを願ってしまう自分から目を逸らし、私は目を開ける。

 彼といられる幸せな現実(いま)を、精一杯抱き締めるために。

 


***

 別れる前の二人のお話でしたー!
 この二人の外初デートがプラネタリウムっていうのは随分前から決めていたネタでした。そして寛人のべた甘キス魔な感じもw
 別れる前なので、美哉の思考が相当ネガティブです。本人的にはある意味ポジティブなんですが。

  蛇足ですが、高校時代美哉は文系で日本史選択、寛人は理系で地学選択だったという設定。地学の先生は天文学大好きでその時星座について勉強し星座大好きになり、授業中に色々生徒にビデオ見せていたとかそんなよく分からない設定までありました。本当は本編に組み込みたかったんですが、無理だったのであとがきで暴露ります←

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