8.Sink The Hopes(2)


「瑞希、ちょっとこれ洗って来てくれる?」
「あ、はーい!!」
 久々の、先輩と二人だけの部活。忙しかったけど、まぁ何とかこなせた。ボトルを何本か渡され、籠に入れる。外に通じる扉を開いて、いつもの水道場に向かった。蛇口をひねり、チョロチョロと流れる水をぼんやり見つめる。跳ねる水が、冷たくて気持ちいい。しばらくして、黙々とボトルを洗い始めた。
 山元達は、まだ戻らない。ちょっと遅すぎない?なんて思うけど、実際には予定の十分くらいしか遅れてない。なのに気持ちだけは、逸っている。

 咲ちゃんは、山元に気持ちを伝えるのかな?そもそも山元は、咲ちゃんの気持ちに気付いてるの?次から次へと浮かぶ、疑問と焦り。私は今、一体何に焦りを覚えてるんだろう。
「柳先輩っ」
「ほぇぇっ、!?」

 突然肩を叩かれ、思わずボトルを落とす。慌てて拾って振り返ると、申し訳無さそうに眉を寄せる青竹くん。
「すみません突然。あの、これ追加だそうです」
「ううん、平気平気。分かった、ありがと」

 慌てて受け取る。一瞬、私の濡れた手と青竹くんの乾いた手が、触れて。ぴくりと、肩が動く。顔に似合わない大きな手に、ふと山元が重なった。――なんで、山元、が?
「何、考えてるんですか?」
「……え、?……―っ」

 肩をとん、とやや強く押され。腰が、手摺にぶつかる。顔を歪め、悲鳴を押し殺した。よろよろと手摺に手をつくと、大きなそれが、重ねられて。
「……柳先輩と今いるのは、俺ですよ?」
 目の前には、切なげな顔をした青竹くんが、いた。
「っちょ、何?離れて」
「ねぇ先輩、今誰のこと考えてたの?」
「……誰でもいいでしょ?」
「……」
 
私の顔を覗きこむように首を傾げるから、その胸を押し返した。いけない、やだ、見透かさないで。分かんないよ。私が好きなのは、青竹先輩で、……ただ、私が。私が山元の側にいたら、咲ちゃんが苦しいんじゃないかって思う。私の存在が、咲ちゃんを苦しめてるのかなって。そんなこと、私が気にしたって仕様が無いんだろうけど。だって私だったら、苦しいから。寂しげな目で山元を追うその姿が、一年前の私に被る。だから山元と距離を置かなきゃって思うのに、私は、山元の心地良さを手放せなくて。
 ……ああもう、自分最低だ。好きになれる保障も、確信もないのに、自分の都合の良い道を選ぶ。咲ちゃんの気持ちに見て見ぬふりして、山元の側で平然と笑って。だけどきっと、咲ちゃんに気を使って山元と距離を取るのも、山元に失礼だって心で自分に言い聞かせて。

 青竹くんの、真っ直ぐな強い視線に捕まるのが怖かった。先輩と同じ、その綺麗な目に捕まると、きっと自分のこういう汚い気持ちに気付いちゃいそうで嫌だった。情けなくて、涙すら出ない。
 私、山元みたいに真っ直ぐ相手を思えないし。青竹くんみたいに、ぶつかってもいけない。咲ちゃんのように、相手の幸せを思って行動も出来ない。私は、どっちつかずで中途半端なことばかりで。どうしたら、良いの?どうしたら、みんな、幸せになれる――?

「先輩は、いつも考えていることから逃げてる。でも、そのままでいいんですか?結局、誰のためにもならないでしょ?」
「っ」
 胸をえぐるような言葉に、思わず俯く。だけど青竹くんは、それを止めなかった。
「……ねぇ。もう、人に誰かを重ねたり、自分を誤魔化さないで。誰かのためだなんて、綺麗事言わないで。少し、自分の気持ちに正直になって、」
 苦しそうな声に、ゆるゆる顔を上げて、目を合わせた。青竹くんは、泣きそうで。その瞳に映る私も、泣きそうで。
……私のせいで青竹くんも苦しんでる?
 ゆっくり、青竹くんの顔が近付く。ただ私は、俯いて首を振るだけだった。顎に手がかかり、顔を持ち上げられる。

 駄目なのに。
こんなことしても、ますます、苦しいだけなのに。熱い瞳に見つめられて、涙が一粒、零れた。 それは自分でも、何のための涙かすら、分からなくて。固まって、じっと目の前の近付く顔を、見つめる――。

「……そこまで」
 ふ、っと顔に出来る大きな影。わずかに唇に触れるのは、固くごつごつした、骨張った手。来るはずだった柔らかさとは全く違う感触に、ぼろりと大粒の涙が落ちる。黙って自分の身体を抱き締めると、目の前の手は裏返って甲から平になり、私の前髪をくしゃりと撫でた。
「やま、もと、」
「お前らな。帰ってきて早々、俺をいらつかせるな」
 優しい手とは裏腹に、低く凄んだ声。怖くて身体が震える、けれど。私を見る山元の目。それは確かに、―――傷付いた色。
「……あ、」
 私、今、何してた?慌てて、自分の唇を両手で押さえる。そこには、何も触れていない。だけどさっきまで、もしも山元が来なかったら、触れていた。青竹くんの、唇。彼が近付いた。私も、抵抗しなかった。何も考えられなかったとか、混乱していたとか。そんなの、単なる言い訳でしかない。それを見せつけられた山元は、どんな気分だった?
 心臓が、嫌な音を立てる。どうしよう。傷付けてしまった。この人を。私を、大事にしてくれる人を。
 ぎゅっとTシャツの胸元を掴んで、俯く。けれど、それは彼によって止められた。
「――柳先輩。どうして、俯くんですか?」
「っ」
 青竹くん、に。
「山元先輩が来たから、動揺した?」
「あ、あの、」
「俺は、先輩が嫌がることはしてない。そうですよね?」
 ……それは、確かに嘘ではない。私は青竹くんに無理矢理触られた訳では、ない。だって、無理矢理だったら抵抗していた。それは、傍目からだって分かるはず。でも違うの。抵抗は、しなかった。けれど――。
「嫌がってねぇ、ってなぁ。説得力ねぇよ」
「、」
 目の前の、大きな背中。まるで私を庇うかのように、立っていて。恐る恐る、その顔を見つめる。真っ直ぐな瞳は、ゆるぎなくて。
「泣いてるだろ、柳」
「それは……」
「抵抗しなかったとしても、拒否してない訳じゃない。俺がこなきゃ、多分こいつお前のこと殴ってたぞ」
 私の考えてたのと同じことに、息を呑む。目を見開く私に、ちらりと飛ぶ山元の視線。それは、優しくて。『安心しろ』そう言ってくれてるような気がした。
「お前が何考えてんのか知らねぇけどな、無闇に柳を急かしたり傷付けるようなことしてみろ。絶対、許さない」
 再び青竹くんを見つめる、その瞳。とても強く、斬るような光が灯っている。それに安心する、けれど。
 ……情けなくて、堪らない。守ってくれている。それが分かる。嬉しいのに、だけど甘えられない。こんな状況で甘えれば、私はますます駄目になってしまうだけなのに。
「、どうして、山元先輩はそんな悠著に構えてるんですか。それで他の男に取られるかとか、」
「……そりゃ、不安にもなるけどな。急いで手に入れられる訳でもない。だったら俺は、柳の意思を大事にしたい」
 他の男なんて、見せねぇけど、そう言って笑う、山元。その姿が、涙に滲む。どうして、どうして、私なんかの心を守ろうとする。優しくしないで欲しい。ふらつく心が、縋ってしまいそうになるから。青竹先輩が忘れられなくて、苦しくて、今すぐにでも、目の前の背中に抱き付きたくなってしまうから。俯いて目を擦る私の視界には、唇を噛み締める青竹くん。
 ……あ。
「青竹、く」
「山元先輩っ」
 小さくなる後輩の名前を呼ぼうとした私の声に被さる、綺麗な声。振り返れば、咲ちゃんで。
「……あ、悪い渡辺。荷物預けてたな」
「いや、さらっと謝って良しとしないでください!!って瑞希先輩?何で、泣いて、」
 段ボール箱を抱えて息を切らす咲ちゃんは、私の顔を見て不安げに色を変える。やばい。心配させちゃ、いけない。慌てて首を大きく振った。
「あのっ、目に、ゴミが入って」
「……そう、ですか?」
「うん、それだけ。お疲れ様。……あ、山元。あの、荷物中に持って行ってもらっていいかな?青竹くんも」
「ああ」
 私の言葉に頷いた山元は、咲ちゃんの手から軽々と箱を取り上げる。その間に、私は俯いたままの青竹くんに近付いた。
「青竹、くん」
「……何ですか」
「あのね。私、分かってたから。青竹くん、本気でキスする気なんでないこと。だから抵抗しなかった。嫌がりも、しなかった」
 何を狙ったのかは知らないけれど。あの時、彼の瞳からは『男』は感じられなかった。だから私、あの状況でも自分を見失わなかった。本気だったら、きっと考える隙もなく身体が動いていたから。
「青竹くんの言ったこと、ちゃんと考える。私は、ずるいから。……ごめんね」
 俯く彼が、顔を上げる。不安に揺れる瞳が、何だか切なくて、胸が苦しい。例え偽善者だと言われても、自分に好意を持ってくれてる人を傷つけたくなんて、ない。くれた分だけ愛情を返したいし、相手もそれを望んでいる。けれど。
「私は今、青竹くんに応えられる気持ちも、余裕も、ないの」
「……」
「それでも、嬉しく思う。ありがとう」
 何とか微笑んだ。苦しい。人の好意を拒絶するのが、こんなに痛いなんて。
 ――でも、青竹くんは。泣きそうに、小さく、笑った。
「大丈夫、です」
「え?」
「俺は、諦めませんから。柳先輩が振り向いてくれるまで」
 爽やかに笑い、足元にあった荷物を引っ張る。そのまま駆け足で体育館に戻る姿には、何の迷いもなくて。
一瞬、呆然としてしまった。
「……山元と、おんなじパターン……?」
 私、確かにふった気がするんだけど。あれ、伝わってない?頭を抱える私に。
「瑞希先輩。ボトル、これ、洗っちゃえば大丈夫ですか?」
「あ、うんっ」
 大きく振り返る。
穏やかに笑って、横に並ぶ咲ちゃん。柔らかな瞳の彼女を見て、私は小さく息を吸う。
 ――そう。本当に私は、自分の気持ちを整理しなくちゃいけない。彼女のことも含めて、だ。ふと、彼女がどこからいたのか考える。……もしかして、全部見られてたの、かな。
 そうだとしたら。今、彼女はどんな気持ち?
 一気に血の気が退く。どうしよう。そもそも、私がちゃんと青竹くんを拒絶していたら、あんなことにならなかった。好きな人が、別の人のために走る姿なんて見たくないもの。だとしたら、それを見た、咲ちゃんは。怖くなり、気まずい空気に、拳を握って声を絞り出す。

「咲ちゃん。あの、」
「謝罪なら、聞きませんよ」
「っ、」

 慌てて横を見れば、ボトルに目を落としながら微笑む彼女。
「例えば私に遠慮して山元先輩に距離を置くとかなら、絶対に駄目です」
「っ……、咲ちゃん、苦しくないの……?」
「……瑞希先輩、やっぱり私の気持ち、気付いてたんですね」
「、」

 咲ちゃんの静かな声音に興奮して、思わず漏らしてしまう。私の言葉に苦笑する咲ちゃんに、慌てて口を抑えるけれど、もう遅い。ただ、彼女の綺麗な指先が水に濡れていくのを、見つめるだけ。そこに、強い風が吹き。舞い散る緑の葉っぱと、一緒に。

「――苦しいですよ」

 胸を締め付けるような、弱々しい声。その声に、指先が震えた。
「苦しい、すごく。先輩は瑞希先輩のことしか考えてないし、仲良いし、毎日そんなの見せつけられて、泣きたいです」
「ごめ、」
「でもね」

 ボトルをぼんやり見つめる彼女の表情は、長い髪に隠されて、見えない。思わず、駄目だと言われた謝罪の言葉が口をついて出る。でも、それを遮るように咲ちゃんは、顔を上げた。その表情は。
「恋愛で、誰かの気持ちを考えて動くんだとしたら、きっとそれは、ひどい偽善です。私が傷付くから、山元先輩と距離を置くだとか。山元先輩が傷付くから、タケを拒否するだとか。そんなことばっかりするのが、本当にひどいことだと思います」
「っ」
 咲ちゃんの言葉に、小さく息を呑む。けれど彼女は、やっぱり微笑んだままで。
「――私、瑞希先輩のことも、本当に好きなんです。だから、二人ともに幸せになって欲しい。瑞希先輩の選んだ道を、見守りたい」
 きっと私じゃ、山元先輩を幸せには出来ないから。そう笑う彼女に、思わず首を振るけれど、ううん、と呟かれた。
「私、きっと瑞希先輩よりも山元先輩への気持ちは強いですよ。でもね。私なんかより、山元先輩の瑞希先輩への気持ちの方が、強いから」
「……っ」
 言われて、改めて思い知らされる。彼がどんなに、私を大事に、真綿にくるむように、大事にしてくれていること。
言葉を失くす私に、咲ちゃんの言葉が、降る。

「私は全部知ってる訳じゃないけど、瑞希先輩は、今好きな人がいるなら、その人を思ってもいいと思います。悩んで、苦しんで、それで出した答えじゃなきゃ、誰もを傷付けるだけですよ」
 
 私はそう思います。そう締めくくって、咲ちゃんは蛇口を締めた。ボロボロ、涙が零れる。ここで泣くなんて、ずるい。
 だけど、私確かに忘れてた。中途半端に誰かを選んでも、また誰かを傷付けるんだ。咲ちゃんのように、いっそ貫いた方が楽なこともあって。他人にズルズル流されっぱなしで、私は何を言ってるんだろう。

「……咲ちゃん」
「なんですか?」
「ありがと」

 真っ赤に腫れた目ながら、にんまり笑ったら苦笑された。ごめんね、甘ったれな上頼りない先輩で。でも私、咲ちゃんの先輩で、良かったよ。恋の一番大事な気持ち、忘れてた。誰を一番好きか、じゃない。順番じゃない。感覚。
 あなたじゃなきゃ駄目っていう、衝動を感じる人。
 それはまだ、私にとっては青竹先輩だから。それだけは、譲れない。いつまでも青竹先輩を追うことは、出来ないだろう。そんな疲れる恋愛は、誰も出来ない。そしてこの先、誰かに恋するかも分からないから。

「とりあえず、……今の一番は恋より部活、なんだ」
「それでいいんじゃないですか?あの二人、多少焦らしてもしつこいですし」
「そう、……だね。忘れられない人がいるのに、他の人考えるなんて出来ないし」





……ずるいかもしれない。
でもきっと、このまま、楽な方に流されてはいけない。
青竹先輩を思うのに疲れて、他の、優しくしてくれる人を選んではいけない。
それが、青竹くんの言う「逃げる」なんだと思う。
それじゃ駄目なんだ。みんなが悩んで答えを出したように、私も悩んで泣いて苦しんで、答えを出さなきゃいけない。
――例え、それで泣く人がいても。
自分の選択は、間違えてないって、胸をはれるように。
そんな恋を、したいから。

みんなのように、私は進みきれない。
先輩との思い出に縋って、ここを離れたくないと、いつも念じる。
先輩のこと、忘れられない理由が、私にはある。
けれどそれもまた、一つの逃げなんだろう。
いつか、青竹先輩を忘れられるくらい、強い炎がこの身に灯るのかな。
その日まで。
私は誰も、中途半端に選んだりしない。
優柔不断な私の、それが最後の決断。

  

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