「瑞希、ちょっとこれ洗って来てくれる?」 「あ、はーい!!」 久々の、先輩と二人だけの部活。忙しかったけど、まぁ何とかこなせた。ボトルを何本か渡され、籠に入れる。外に通じる扉を開いて、いつもの水道場に向かった。蛇口をひねり、チョロチョロと流れる水をぼんやり見つめる。跳ねる水が、冷たくて気持ちいい。しばらくして、黙々とボトルを洗い始めた。 山元達は、まだ戻らない。ちょっと遅すぎない?なんて思うけど、実際には予定の十分くらいしか遅れてない。なのに気持ちだけは、逸っている。 咲ちゃんは、山元に気持ちを伝えるのかな?そもそも山元は、咲ちゃんの気持ちに気付いてるの?次から次へと浮かぶ、疑問と焦り。私は今、一体何に焦りを覚えてるんだろう。 「柳先輩っ」 「ほぇぇっ、!?」 突然肩を叩かれ、思わずボトルを落とす。慌てて拾って振り返ると、申し訳無さそうに眉を寄せる青竹くん。 「すみません突然。あの、これ追加だそうです」 「ううん、平気平気。分かった、ありがと」 慌てて受け取る。一瞬、私の濡れた手と青竹くんの乾いた手が、触れて。ぴくりと、肩が動く。顔に似合わない大きな手に、ふと山元が重なった。――なんで、山元、が? 「何、考えてるんですか?」 「……え、?……―っ」 肩をとん、とやや強く押され。腰が、手摺にぶつかる。顔を歪め、悲鳴を押し殺した。よろよろと手摺に手をつくと、大きなそれが、重ねられて。 「……柳先輩と今いるのは、俺ですよ?」 目の前には、切なげな顔をした青竹くんが、いた。 「っちょ、何?離れて」 「ねぇ先輩、今誰のこと考えてたの?」 「……誰でもいいでしょ?」 「……」 私の顔を覗きこむように首を傾げるから、その胸を押し返した。いけない、やだ、見透かさないで。分かんないよ。私が好きなのは、青竹先輩で、……ただ、私が。私が山元の側にいたら、咲ちゃんが苦しいんじゃないかって思う。私の存在が、咲ちゃんを苦しめてるのかなって。そんなこと、私が気にしたって仕様が無いんだろうけど。だって私だったら、苦しいから。寂しげな目で山元を追うその姿が、一年前の私に被る。だから山元と距離を置かなきゃって思うのに、私は、山元の心地良さを手放せなくて。 ……ああもう、自分最低だ。好きになれる保障も、確信もないのに、自分の都合の良い道を選ぶ。咲ちゃんの気持ちに見て見ぬふりして、山元の側で平然と笑って。だけどきっと、咲ちゃんに気を使って山元と距離を取るのも、山元に失礼だって心で自分に言い聞かせて。 青竹くんの、真っ直ぐな強い視線に捕まるのが怖かった。先輩と同じ、その綺麗な目に捕まると、きっと自分のこういう汚い気持ちに気付いちゃいそうで嫌だった。情けなくて、涙すら出ない。 私、山元みたいに真っ直ぐ相手を思えないし。青竹くんみたいに、ぶつかってもいけない。咲ちゃんのように、相手の幸せを思って行動も出来ない。私は、どっちつかずで中途半端なことばかりで。どうしたら、良いの?どうしたら、みんな、幸せになれる――? 「先輩は、いつも考えていることから逃げてる。でも、そのままでいいんですか?結局、誰のためにもならないでしょ?」 「っ」 胸をえぐるような言葉に、思わず俯く。だけど青竹くんは、それを止めなかった。 「……ねぇ。もう、人に誰かを重ねたり、自分を誤魔化さないで。誰かのためだなんて、綺麗事言わないで。少し、自分の気持ちに正直になって、」 苦しそうな声に、ゆるゆる顔を上げて、目を合わせた。青竹くんは、泣きそうで。その瞳に映る私も、泣きそうで。 ……私のせいで青竹くんも苦しんでる? ゆっくり、青竹くんの顔が近付く。ただ私は、俯いて首を振るだけだった。顎に手がかかり、顔を持ち上げられる。 駄目なのに。こんなことしても、ますます、苦しいだけなのに。熱い瞳に見つめられて、涙が一粒、零れた。 それは自分でも、何のための涙かすら、分からなくて。固まって、じっと目の前の近付く顔を、見つめる――。 「……そこまで」 ふ、っと顔に出来る大きな影。わずかに唇に触れるのは、固くごつごつした、骨張った手。来るはずだった柔らかさとは全く違う感触に、ぼろりと大粒の涙が落ちる。黙って自分の身体を抱き締めると、目の前の手は裏返って甲から平になり、私の前髪をくしゃりと撫でた。 「やま、もと、」 「お前らな。帰ってきて早々、俺をいらつかせるな」 優しい手とは裏腹に、低く凄んだ声。怖くて身体が震える、けれど。私を見る山元の目。それは確かに、―――傷付いた色。 「……あ、」 私、今、何してた?慌てて、自分の唇を両手で押さえる。そこには、何も触れていない。だけどさっきまで、もしも山元が来なかったら、触れていた。青竹くんの、唇。彼が近付いた。私も、抵抗しなかった。何も考えられなかったとか、混乱していたとか。そんなの、単なる言い訳でしかない。それを見せつけられた山元は、どんな気分だった? 心臓が、嫌な音を立てる。どうしよう。傷付けてしまった。この人を。私を、大事にしてくれる人を。 ぎゅっとTシャツの胸元を掴んで、俯く。けれど、それは彼によって止められた。 「――柳先輩。どうして、俯くんですか?」 「っ」 青竹くん、に。 「山元先輩が来たから、動揺した?」 「あ、あの、」 「俺は、先輩が嫌がることはしてない。そうですよね?」 ……それは、確かに嘘ではない。私は青竹くんに無理矢理触られた訳では、ない。だって、無理矢理だったら抵抗していた。それは、傍目からだって分かるはず。でも違うの。抵抗は、しなかった。けれど――。 「嫌がってねぇ、ってなぁ。説得力ねぇよ」 「、」 目の前の、大きな背中。まるで私を庇うかのように、立っていて。恐る恐る、その顔を見つめる。真っ直ぐな瞳は、ゆるぎなくて。 「泣いてるだろ、柳」 「それは……」 「抵抗しなかったとしても、拒否してない訳じゃない。俺がこなきゃ、多分こいつお前のこと殴ってたぞ」 私の考えてたのと同じことに、息を呑む。目を見開く私に、ちらりと飛ぶ山元の視線。それは、優しくて。『安心しろ』そう言ってくれてるような気がした。 「お前が何考えてんのか知らねぇけどな、無闇に柳を急かしたり傷付けるようなことしてみろ。絶対、許さない」 再び青竹くんを見つめる、その瞳。とても強く、斬るような光が灯っている。それに安心する、けれど。 ……情けなくて、堪らない。守ってくれている。それが分かる。嬉しいのに、だけど甘えられない。こんな状況で甘えれば、私はますます駄目になってしまうだけなのに。 「、どうして、山元先輩はそんな悠著に構えてるんですか。それで他の男に取られるかとか、」 「……そりゃ、不安にもなるけどな。急いで手に入れられる訳でもない。だったら俺は、柳の意思を大事にしたい」 他の男なんて、見せねぇけど、そう言って笑う、山元。その姿が、涙に滲む。どうして、どうして、私なんかの心を守ろうとする。優しくしないで欲しい。ふらつく心が、縋ってしまいそうになるから。青竹先輩が忘れられなくて、苦しくて、今すぐにでも、目の前の背中に抱き付きたくなってしまうから。俯いて目を擦る私の視界には、唇を噛み締める青竹くん。 ……あ。 「青竹、く」 「山元先輩っ」 小さくなる後輩の名前を呼ぼうとした私の声に被さる、綺麗な声。振り返れば、咲ちゃんで。 「……あ、悪い渡辺。荷物預けてたな」 「いや、さらっと謝って良しとしないでください!!って瑞希先輩?何で、泣いて、」 段ボール箱を抱えて息を切らす咲ちゃんは、私の顔を見て不安げに色を変える。やばい。心配させちゃ、いけない。慌てて首を大きく振った。 「あのっ、目に、ゴミが入って」 「……そう、ですか?」 「うん、それだけ。お疲れ様。……あ、山元。あの、荷物中に持って行ってもらっていいかな?青竹くんも」 「ああ」 私の言葉に頷いた山元は、咲ちゃんの手から軽々と箱を取り上げる。その間に、私は俯いたままの青竹くんに近付いた。 「青竹、くん」 「……何ですか」 「あのね。私、分かってたから。青竹くん、本気でキスする気なんでないこと。だから抵抗しなかった。嫌がりも、しなかった」 何を狙ったのかは知らないけれど。あの時、彼の瞳からは『男』は感じられなかった。だから私、あの状況でも自分を見失わなかった。本気だったら、きっと考える隙もなく身体が動いていたから。 「青竹くんの言ったこと、ちゃんと考える。私は、ずるいから。……ごめんね」 俯く彼が、顔を上げる。不安に揺れる瞳が、何だか切なくて、胸が苦しい。例え偽善者だと言われても、自分に好意を持ってくれてる人を傷つけたくなんて、ない。くれた分だけ愛情を返したいし、相手もそれを望んでいる。けれど。 「私は今、青竹くんに応えられる気持ちも、余裕も、ないの」 「……」 「それでも、嬉しく思う。ありがとう」 何とか微笑んだ。苦しい。人の好意を拒絶するのが、こんなに痛いなんて。 ――でも、青竹くんは。泣きそうに、小さく、笑った。 「大丈夫、です」 「え?」 「俺は、諦めませんから。柳先輩が振り向いてくれるまで」 爽やかに笑い、足元にあった荷物を引っ張る。そのまま駆け足で体育館に戻る姿には、何の迷いもなくて。 一瞬、呆然としてしまった。 「……山元と、おんなじパターン……?」 私、確かにふった気がするんだけど。あれ、伝わってない?頭を抱える私に。 「瑞希先輩。ボトル、これ、洗っちゃえば大丈夫ですか?」 「あ、うんっ」 大きく振り返る。 穏やかに笑って、横に並ぶ咲ちゃん。柔らかな瞳の彼女を見て、私は小さく息を吸う。 ――そう。本当に私は、自分の気持ちを整理しなくちゃいけない。彼女のことも含めて、だ。ふと、彼女がどこからいたのか考える。……もしかして、全部見られてたの、かな。 そうだとしたら。今、彼女はどんな気持ち? 一気に血の気が退く。どうしよう。そもそも、私がちゃんと青竹くんを拒絶していたら、あんなことにならなかった。好きな人が、別の人のために走る姿なんて見たくないもの。だとしたら、それを見た、咲ちゃんは。怖くなり、気まずい空気に、拳を握って声を絞り出す。 「咲ちゃん。あの、」 「謝罪なら、聞きませんよ」 「っ、」 慌てて横を見れば、ボトルに目を落としながら微笑む彼女。 「例えば私に遠慮して山元先輩に距離を置くとかなら、絶対に駄目です」 「っ……、咲ちゃん、苦しくないの……?」 「……瑞希先輩、やっぱり私の気持ち、気付いてたんですね」 「、」 咲ちゃんの静かな声音に興奮して、思わず漏らしてしまう。私の言葉に苦笑する咲ちゃんに、慌てて口を抑えるけれど、もう遅い。ただ、彼女の綺麗な指先が水に濡れていくのを、見つめるだけ。そこに、強い風が吹き。舞い散る緑の葉っぱと、一緒に。 「――苦しいですよ」 胸を締め付けるような、弱々しい声。その声に、指先が震えた。 |