21.race(2)


「……はぁ」
「お疲れ、青竹」
「いえ、楽しかったです。先輩こそ、お疲れ様です」
「おう。じゃあ、また後でな」
 
手をひらりと振って、同じ応援団で、着替え終わったらしい部活の先輩に頭を下げる。
 俺も、早くしなきゃ。そう思うんだけれど、脱力感に襲われる身体はなかなか動かなかった。
 外では、女子の玉入れが始まっている。視線を動かせば、すぐに見つけられる、柳先輩の姿。あまりにも早く見つけてしまった自分に、苦笑が漏れてしまった。
 そして、柳先輩のクラスの方を、見れば。そこには、友達と話しながらも視線は彼女を追う、……山元先輩の姿。何だかまた、身体の力が抜けていく気がした。

 
別にもう、分かってる。
 最初から、分かっていた。
 あの人の心が、手に入らない、なんて。
 それでも、欲しくて欲しくて。
 いっそ、傷付けてしまおうかと思ったことは、何度もある。
 だけどそれをいつだって止めるのは、あの無防備な笑顔だった。

 『後で写真撮ろうね』
 その笑顔を見れば、自分の汚れた気持ちが、全部吹き飛ばされた。だからまた、苦しくて、愛おしくて。
 ――だけどもう、今日で終わりにするから。未練がましいこの思いに、ケリをつける。
 不満そうな瞳をしていた山元先輩を思い出して、苦笑する。さっさと承諾してくれれば。もっと、あの人が手段を選ばない人だったら。そうしたら、俺だってもっと柳先輩に対して強気で攻められるのに。
 なのに、あの人の愛し方は。あまりに、慎重で、穏やかで。ああ、柳先輩のこと、好きなのか、って納得してしまう。強引に振り回しながら、甘やかして、優しくして、距離を詰めたかと思えば、一気に離れる。柳先輩が決して怖がらないように、距離を測りながら触れて、見つめて。俺や他の柳先輩を狙っている連中にはあからさまに牽制する癖に、どこまで甘いんだか。
 以前。山元先輩は、俺を羨ましいと言っていた。その気持ちは、どこから来ていたんだろう。柳先輩の、あの事件が関係あることは間違いない。知らなければ、もっと強引に行けたから?それとも、もっと別の理由?
 分からない。けれど山元先輩は、俺が持っていて、先輩が持っていないものがある、と言っている。
「ありえないのにな……」
 
無いものねだりばかり。いつまで経っても、比べてしまう。自分に対し、絶対的に何かが足りないと零す。
 足りないのは、卑屈なのは、俺だ。俺が自分に自信を持てないから、他人の比較に対して牙をむいてしまう。山元先輩ならばきっと、自分に何かが足りなくても、比べて自分を卑下したり、八つ当たりしたりしないだろう。あの人はきっと、違う自分を理解して、納得させる。それだけの力を、持ってる。
 柳先輩が、認めてくれた。俺と兄貴は違うって。
 だったら、それでいいじゃないか。もう、自分を解放して、基準を全て兄貴にしなくたって。
 本当に、それだけで十分だったのに。
 言葉に出来ない気持ちそのままに、更衣室のガラス越しに、柳先輩の笑顔をなぞる。

「――好きです」

 唐突に、ぽつりと自分の口から漏れた、言葉。捨てたと思ったはずの想いに、自分でも驚きながら、口から滝のように流れ出した。
「好き。好きなんです。柳先輩……」
 
こんなに、好きなのに。
 あなたは、どうして。俺は、どうして。
 ――その手を掴めないんだろう。
「……俺を、好きになってよ……」
 
震えた自分の声は、あまりに弱々しく。遠くの、競技終了の笛に、掻き消された。

 時刻は、三時半。とうとう、体育祭も終盤に近付いてきた。ストレッチのため身体を伸ばす俺に、隼人がにやりと笑う。
「なに、恍。ずいぶん気合い入ってるじゃん」
「うるせ」
 下手なこと言うと、妙に勘のいいこいつにはすぐに勘付かれる。仕方ないので、それだけ返すとふうん、と笑ったあいつは俺の肩を軽く叩いた。
「ま、とりあえず頑張れば?」
「おう」
 
言ってないはずなのに、見透かされてる感覚。腹が立つのに、妙に気楽なのは、多分こいつだから。性格は悪いが、馬鹿にするような奴じゃない。だから。
 軽く手を振り、集合の門に集まった。そこで見える、妙に冷たい感じの、――青竹の、横顔。
 意識せず、舌打ちをしてしまう。それが聞こえたはずはないのに。こっちにゆっくりと振り返った青竹は、静かに笑った。真っ直ぐなその視線に、俺は急に息ができなくなる。
 何でだ。意味分かんねぇ。何で、自分からあんな賭出しといて、そんな笑えるんだよ。問いかけたい気持ちは胸の中で燻っているのに、俺はまた、何一つ、口にできなかった。
 ―ぱぁんっ
 
遠くで、競技用のピストルが鳴らされる。
 それを聞いて、走り出した第一走の女子を見た。予想通り、うちの組のが一位だ。それから大分遅れて、青竹のクラスの女子が走っていく。俺はアンカーなので、まだしばらく出番はない。だけど緊張してるのは、自分でも感じた。
 つーか、好きな女のことがあって平然と、なんて出来るか。
 なのに。青竹は、柔らかく微笑んで、柳を見ていた。その目に光る色は、確かにあいつが好きだと、言っているのに。それでもあいつはあの時、まるで諦めたい、とでも言うような口ぶりで賭けを持ち出した。
 声をかけたいが、三列離れた今は無理そうだ。しぶしぶその場に座り込んだ、時。
「っあ……!!」
「っ、」
 
俺の目の前で、第三走と第四走の奴らがバトンパスをミスした。地面に転がったそれを、慌てて四走の奴が拾うが、タイムロスは免れない。予想通り、順位は四位にがた落ちだ。今は、青竹のクラスが一位。インハイに出場した一年がこの後に控えてはいるが、この状況では、……厳しい。
 ふとその時、視線を感じて。振り返ると、青竹が戸惑ったような視線を送ってきた。
 ――だから、何なんだよ。お前には歓迎する事態なはずだろ?『どっちにだって、メリットがある賭け』なら。そんな意味を込めて強い色を視線に交えれば、躊躇ったように目を外された。
 どうしようもない奴だよ、お前は。
 もう、第八走。順位は三位。接戦してはいるが、きついかもしれない。ゆったりと身体を起こし、レーンの上に立った。青竹の組は一位だから、一番内側。
 俯きがちに立つその暗い背中の後ろを、通り過ぎる瞬間。
「……俺を、理由にするんじゃねぇぞ」
「っ」
 
大きく息を呑む気配。だけど俺は、素知らぬ振りで第三レーンに立った。
 後は、知らない。この後こいつがどうするかは、俺の知ったことじゃない。ただ、俺は。

 
目の前に迫ってくる、第九走者のバトンに手を伸ばしながら、軽く走り始め。手のひらにしっかりと叩き付けられた固いそれを握りしめ、全力で足を前に踏み出した。
 
負けたり、しない。
 意味が分からない状況でも、どれだけ気に入らないもんがあっても。
 俺は。

「っ山元ー!!頑張れー!!」

 ――何でか分からないけど。
 お前だけは、すぐに見つけられるから。
 お前の声だけは、簡単に聞き取れるから。
 視界の端に一瞬映る、その必死こいた表情や、真っ直ぐな瞳に後押しされるように。ひたすら、踏み出した。足が痛いくらいに、走って。
 まず、一人目を抜かす。
 最終走者は、他の走者より百m長い。まだ青竹は、十分射程圏内。あいつが足早いのは、十分知ってる。毎日一緒に走ってる訳だし。
 だけどな。油断すんなよ。俺は、柳かかってる時は普段の十倍力出んだよ。
「……はっ」
 苦しい。こんな全力、すっげ久しぶりだ。
 それでも、走った。
 周りの歓声は、遠くに響く。ただ、俺自身の呼吸の音が、妙に耳に激しく届いた。
 徐々に近づく、青竹の背中。
 ゴールはもう、目前。心臓が痛い。苦しい。
 だけど、何でかな。ぜってぇ、駄目だとは思えないんだ。

 全てが、スローモーションになるような。

 真っ白な、世界が、開いて――。




『一位は、C組!!四位から、まさかの逆転優勝です……!!』
「っは……ぁ、はぁ……!!」
「はぁっ、はぁっ」
 ゴール直後、そのまま、転ぶように前へと転げ落ちた。
 一瞬遅れて、青竹も。二人で、熱い息を必死こいて吐き出す。顔も身体も熱いのに、外側からどんどん冷たくなっていって。自分の汗だくの体育着に湿った土がまとわりつく感じは、めちゃくちゃ気持ち悪かった。ふっと、伸ばした指先が、青竹の指に触れる。
「「……」」
 
二人同時に、ばっとお互いの腕を振り払い、身体を起こして睨み合う。青竹の顔は真っ赤で、たすきもハチマキもぐしゃぐしゃだ。だけど多分俺もそんなもんだろう、と思って髪をかき上げた。それを無言で見ていた青竹はしばらく俺を睨んだ後、僅かに苦笑した。そしてもう一度、地面に寝転がる。
「おい」
 
汚れるぞ、と、今更な台詞を口にしようとした俺の耳に届く、小さな声。
「賭け」
「あ?」
「山元先輩の、勝ちですよ」
 
良かったですね、と付け加えられた言葉。荒い息のまま、それだけを口にすると、両手で顔を覆って黙り込んだ。俺はそれを見たまま、しばらく黙り込んで――。
「……おら」
「った、え、ちょ山元先輩いたたたた!!」
「うっせぇ。立てよおら」
 
立ち上がり、青竹の手首を強引に掴んで、力任せに引っ張った。当然、無理に引っ張られた青竹の肩の節根は傷むわけで。半泣きで俺に叫ぶ青竹を睨みながら。青竹は渋々身体を起こす。
「何ですか。先輩は、可愛い後輩が失恋の痛みに浸るのも許してくれないんですか」
「誰が可愛い後輩だ」
 
むっとして、肩を回す青竹を見ながらため息を吐く。
 ……こういうとこ見ると、本当にこいつ、青竹先輩に似てないよなぁ。餓鬼くさくて、馬鹿みたいに素直で、一直線。
 気に入らない。気に入らないけど。どこかの馬鹿な女に似てるその気性を、俺が、嫌えるはずがないんだ。
「俺は、承諾してねぇからな」
「は?」
「賭けなんざ、知らねぇよ。俺はお前に勝っただけ、だろ」
 
きょとんとしたその瞳に、わざとらしく笑ってやる。意味が分からない、そう目で言っている馬鹿にも分かるよう、言ってやることにするか。
「俺はな。あいつを賭ける気は、例えどんなメリットがあったってありゃしねぇんだ」
「っ……馬鹿じゃないですか!?」
「あーあー別に馬鹿でも何でもいいよ。俺はな」
 
そこで一旦言葉を切り、想像通り噛み付いてきた青竹の胸倉を掴む。
「惚れた女諦める理由を、他人に求めたり、絶対しねぇし」
「っ」
「つーかな。最後の最後、譲れないくらい好きなら、嘘でもあんな台詞、言うんじゃねぇよ」
 
レースの、最後の最後。ゴール十m手前で抜いた俺に、最後に食らいついてきたのは、こいつだ。つまりは、そん位譲りたくない、ってことだろ。だったら最初から、こんなこと言い出さなきゃいいのに。
 馬鹿はおまえだ。本気で惚れた女なら、賭けで勝とうが負けようが、諦めるなんて無理なのに。何より、本人の意思を無視した賭けなんて、俺は絶対に関わらない。それが柳を守る手段の一つだと、そう信じるから。
 目を瞬かせる青竹に苦笑し、手を離す。どさり、と身体を重たく地面に倒す青竹は、苦笑していた。
「あーもー本当、山元先輩最低です」
「うっせ。つーか俺はお前に確実な負けを見せてぇんだよ。不戦勝なんざごめんだ。
いつまた再燃するのか分かんねぇし」
「そうですよね。……すみませんでした」
「ん」
 
俯いたまま謝罪する青竹に背を向け、俺は背中の土を払う。
 うっわ。これ絶対、泥染みこんでるだろ。持って帰るの嫌だな……。
 大きくため息を吐き出した時。
「山元先輩」
 
黙り込んだはずの青竹に、声をかけられる。
「何だよ?」
 
肩越しに振り返るが、こちらを見ようとはしない。自分の足下をじっと見ながら、青竹は、口を開く。
「……先輩は。絶対に欲しいものがあったとして、絶対に手に入らなかったら、どうしますか?」
 
まるで、試すような。緩やかな問い。
 だけど、そんなの。俺の答えは、ずっと前から決まってる。
「努力する」
「へ、」
「百二十%やりきって、絶対駄目だって百回分かるようになるまで、手に入れようとする」
 
そこまで出来なきゃ、『絶対』欲しいもんは手に入んねぇだろ?
 そう尋ねると、青竹はゆっくりと顔を上げると、……穏やかに笑った。くすくすと笑いを零しながら、立ち上がり、俺の正面に立つ。
「山元先輩。泥だらけですよ」
「お前もだよ」
「確かに」
 
二人とも、汚い。だけど、何だか。別に悪い気は、しなかった。それは多分、こいつの笑い方が、素直なものだったから、だろう。緩やかなそれに、悪い気はしない。




無理は百も承知。
最初から、その視界に入れるなんて考えられなくて。
諦めるべきだと、眠れぬ程悩んだ夜を繰り返す。
それでも、あの日、口に出してしまった日から俺の腹は決まっている。
宣言をしたならば、後はもう、走るだけ。
これはレース。
相手は、――柳だ。
恋愛をレースにするとしたら、俺は最初から負けっぱなし。
ただ、ただ。
俺はあいつを、同じ状況に追い込んでやりたいだけだから。
誰も目に入らない位、俺を思って眠れなくなる位。

遠くに響く競技終了のアナウンスを聞きながら、手を振って走るあいつを見て、ふと、笑みが零れた。


  

inserted by FC2 system