「――もしもし、咲?」
『あ、は、隼人先輩?今、大丈夫でしたか?』
「うん、平気。どうしたの?」
 午後九時四十五分。ぼんやりテレビを見ていたら、合宿中のはずの彼女からの、電話。慌ててリビングを飛び出し、廊下を歩きながら電話に出る。用事があったとしても、咲以上に優先するものなんてないんだから、気にしなくていいのに。ふとそう考えてしまった自分に、苦笑した。
 合宿前に話して以来だから、実に五日ぶり。ここしばらく忙しかったのか会えていなかったし、声を聞けるだけで嬉しいような、でも、今すぐ抱き締めたい衝動が、湧き上がった。部屋のドアを開け、電気をつける。本人を目の前には出来ないような、思いっきり頬を緩めただらしない顔のまま、咲に応えた。
 けれど、照れ臭そうな『ええと』という言葉の後が、続かない。もしかして、電波が悪いんだろうか。一旦耳から離して電波を確認しようとした俺の耳に。
『……あの、隼人先輩、……やっぱり胸おっきい方がいいですか……っ!?』
「……はぁ?」
 いきなり飛び込んだのは、思いもしなかった台詞だった。

『あ、あのぅ、……やっぱりなかったことに、』
「え、いやいや、ちょっと待って」
 言い出すまで時間がかかったくせに、撤回するのは妙に早い。唖然として返事が返せなかった俺の耳に、咲の泣きそうな小声が届いて。苦笑まじりに、彼女を止める。ベッドに座り、口を開いた。耳は彼女のどんな言葉も、聞き逃さないようにフルで活動させて。
「とりあえず、質問の答えは置いておくけど。いきなり、どうしたの?」
『……いきなり、ですか』
「そりゃあね。咲が何もないのにそんなこと言い出す訳ないでしょ」
 付き合って三カ月経つのに、キス一つで未だに恥ずかしがって逃げようとする。そんな彼女が自分から、胸の話なんてするとは思えない。大方合宿中に誰かがいらないことを吹きこんだんだろうけど。そう考えると、少しだけ心臓がちりりと痛んだ。俺が側にいられないのに、男バスの部員は一つ屋根の下、っていう状況。今更そんなことを気にしても仕方ないのに、何だかざわめく心中を苦笑で隠して、返事を待った。
『あ、あの……今日ですね、露天風呂に入ってまして』
「うん」
『たまたま、男子風呂に三年の先輩方が入って来たんです。それで話を聞いてたら、山元先輩が、「女は胸があった方がいい」って言ってて』
 静かな向こう側で、咲の小さな声が細々と届く。話の内容は何となく予想通りで、ついつい舌打ちしてしまいそうになった。恍め、余計なことを。咲が恍の言葉を気にしてるってだけでも腹が立つのに、彼女を悩ませるなんて許し難い。
『隼人先輩?』
「あ、うん、何?」
『……あの』
 勢い余ってくだらないことで、電話してごめんなさい。申し訳なさそうに言葉を切った咲に、はっとする。まずい。俺が適当な返事をしたから、呆れたと勘違いされたらしい。慌てて、電話を持ちかえて口を開いた。
「全然、くだらなくないよ。電話かけてくれて、嬉しい」
『でも、』
「どんな内容でも、言って。咲が俺に頼ってくれてるって思えるから」
 実際、付き合いたてのころなら咲は一人で悶々と悩んで絶対に俺に相談なんてしなかっただろう。それが、直接俺に聞いて来るのは良い兆候だ。言葉にして初めて気付いて、じわじわと胸の中で嬉しさが広がる。随分とお手軽な自分に、苦笑してしまった。
 そして、口を開く。
「質問の返事だけどね。今の咲で、俺は十分満足してるよ?」
 いきなりの言葉に、咲は言葉を失っていた。だけど分かる。電話の向こうで真っ赤になってあたふたしている咲が手に取るように分かって、にやにやした。
『で、でも』
 だけど頑固な彼女は、まだ反論しようとしているらしい。実際のところ、咲のスタイルは自慢出来るレベルだろう。俺もそんなに付き合った数が多い訳じゃないけど、今までの彼女の中で一番だと思う。もちろん、容姿だけじゃなくて性格も相性も、なにもかも。
「言葉じゃ信用できないって言うなら」
 くすりと笑うと、電話の向こうは一気に静かになった。俺がこんな笑い方をすると、咲はろくな目に合わない!と訴えていた。だけど、仕方ないじゃないか。泣いても怒っても可愛い、咲が悪い。
「――身体に教えてあげようか?」
『……!!』
 電話の向こう、息を飲む音と、ごとんと重い音。どうやら、携帯を取り落としたらしい。想像するだけで楽しいけれど、やっぱり、目の前で見れないとつまらない。カレンダーをぼうっと見つめていると、ようやく立ち直ったらしい咲の声が届いた。
『な、な、何を……っ!!』
「ん?聞こえなかったなら、もう一回言ってあげようか」
『いいいいいいいですっ!!』
 勢い込んで叫んだ後、はっと息を飲む咲。もうすぐ十時、さすがに大声はまずいんだろう。そして俺も、名残惜しいけれど。
「……じゃあ、そろそろ切ろうか?」
『、え?』
「もう消灯の時間、近いんじゃないの?」
『あ……、はい』
 咲を目の前にすると、どうにも我慢の利かない子供になってしまう。ずっと一緒にいたくて、触れていたくて、口付けていたくて。デートの帰り道、手を離せずに戸惑うのはいつものこと。今も電話を切りたい訳じゃないんだけど、せめてこんな時くらい、物分かりの良い『年上の彼氏』をやってあげたい。今更すぎる思考に苦笑した。
「じゃあ、咲。あと一日だっけ。頑張ってね」
『はい』
「……好きだよ」
『……!!い、いきなり何を言うんですかっ!!』
 呟いた告白は、どこまでも本気。困らせたい訳じゃなかったんだけど、何となく、言いたくなってしまうから。きっとからかわれてると思ったんだろう、小声で怒る咲に苦笑して、別れの言葉を告げようと、口を開く。

『私だって、……好きですよ』
 ――それは、消えそうに小さな彼女の声に、阻まれてしまったんだけど。

「……」
『っあ、あの、……じゃあ、おやすみなさいっ!!』
 言葉を返せず、固まる俺。電話の向こうで、咲は慌ただしく電話を切ってしまった。あとに残ったのは、ツーツーという、何とも無機質な音。金縛りにでもあったかのような身体を頑張って動かし、電話を切る。そのまま、ベッドの上に倒れ込んだ。
「……なんだ、あれ」
 耳の奥で、心臓がどくどくとうるさい。三月のひんやりした空気の中、真っ赤な自分の顔やら身体やらが、妙に熱くて。
『私だって、……好きですよ』
 ――咲の唇から、「好き」という言葉を聞いたのは、二度目。
 意地っ張りな彼女は、告白の時ですらその言葉を言ってはくれなかった。俺が初めてその言葉を聞いたのは、五日前、この部屋で。俺の名前と一緒に呟かれたその一言に、どうしようもない衝動を覚えて。赤くなった顔を隠すようにキスを繰り返したから、彼女は気付いていない、はず。今回もそうだ。電話越しだったから、幸か不幸か分からないけれど俺の顔には気付いていないだろう。

 咲は全然、分かってない。
 自分がどんなに可愛くて、他の男の目を惹きつけているか。
 俺がどんなに咲が好きで、その笑顔一つで、お手上げになってしまっているのか。

 触れた体温で、重ねた唇で、その瞳で、彼女の気持ちくらい分かってる。だけど言葉にされることは例えようもないくらい、大きなことだと知った。咲が零した好きだと言う言葉が、俺をどんなに幸せにしたか。今にも涙が零れそうな位、嬉しくてたまらなくて。
(早く、会いたい)
 まじりけのない、本気の気持ち。今までも思っていたけれど、一気に濃度を増した。まるで初めて恋を知った中学生のように、余裕のない自分が、たまらなくおかしい。
 ――だけど咲と一緒にいたら、俺はこれからもどんどん余裕がなくなるだろう。必死になって、情けなくなって、それでもそんな自分を嫌いにはなれなくて。柳っちに溺れる恍を笑えはしない。俺も同じように、恋人に夢中になっているんだから。
 ……明日、合宿から何時ごろ帰って来るか聞いてみよう。待っていたら、どんな顔をするかな。喜んでくれるか、照れるか、怒るか。想像するだけで楽しくて、でも実物はきっともっと魅力的な顔を見せつけて、また俺を落とすから。
 どうしようもない幸せに、俺は声を上げて笑った。


  

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